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     対馬における易地通信

 1811年、第12次朝鮮通信使が派遣された。11代将軍徳川家斉の就任を祝賀するための使節団であるが、就任から25年も過ぎてからの使行であった。それも将軍のいる江戸ではなく、国境の島・対馬で聘礼(国書伝達式)が行われた異例の使行となった。

  対馬地図
        国境の島 対馬

 通信使の使行が大幅に延期された理由は、「天明の大飢饉」(1782~87)による「下々の困窮、宿駅の衰微」であった。

 しかし、老中松平定信の対馬聘礼(易地通信)の提案には、表むきの天災や凶作による経費削減の他に思想的な理由が隠されていた。

 これまで通信使の使行は、日朝両国の交隣関係の構築という目的をもって行われ、紆余曲折を得ながらも日朝関係の信頼・親善・交流が図られてきたのであった。
 通信使の江戸往還は一般の日本人にとっては一生一代のお祭り騒ぎであっった。しかしこれを眺める知識人の中には通信使のパレードや文化交流を苦々しく思う者もいたのであった。

  旗手
       朝鮮通信使 清道旗隊  

 その一人が、大阪懐徳堂(学問所)の学主・中井竹山であった。竹山は、幕府の実権を握る松平定信が大阪を巡視したとき、朝鮮通信使の「聘礼改革」をするよう提言した。そして、その内容を書物にして定信に献上した。その中で竹山は、

 「神功皇后の三韓征伐以来の朝貢国であった朝鮮と、徳川幕府が杭礼(対等)の礼によって交わることは、古代以来の伝統とは異なる」と言い、「韓人來聘は隣交の礼を欠くべかざるの事でそれを中断させるわけにはいかないなら、対馬易地聘礼にすべきである」
「朝鮮は本来日本への朝貢国であったので、通信使とは坑礼で通交するのではなく、朝廷に通貢せねばならい」(『草茅危言』「朝鮮の事」)と書ている。

 このような中井竹山の言説には、古典や古代史に基いた歪曲された朝鮮観・明らかに「朝鮮蔑視」の思想が見られる。

 また18世紀後半、日本国内に本居宣長ら「記紀神話」(日本書紀・古事記の神話)・神国日本を称える国学者の登場と相まって歪んだ「朝鮮蔑視観」・排他意識が徐々に醸成されていた。
 
 竹山の通信使にたいする考え方・「朝鮮観」の影響を受けた松平定信は、自らの著書の中で、
 「朝鮮通信使によって江戸までの道すがらの盛衰を見られること」
 「日本の腐儒どもみな出て、鶏林(朝鮮)人と唱和して恥さらすこと」
 「通信使の行列が”巡視”や”清道”の旗を掲げて江戸まで行列すること」(『宇下人言』)などと書き、通信使の江戸往来を大へん苦々しく思うようになっていた。

 楽隊
       朝鮮通信使 楽隊

 定信は、天災と凶作による財政難のこの時期に、幕府の威厳を示すためばかりの通信使派遣の要請は必要ないとの思いに至った。そして竹山の提案「易地聘礼」を具体化、幕府の方針として朝鮮側にその受け入れを迫ったのであった。 
 朝鮮側は一方的な聘礼変更の要求に反発し、交渉は難航し長期化した。

 対馬藩を仲介役にした交渉が進まないため、朝鮮国は「易地聘礼」を言い出した日本側の真意を正式に確かめる必要から、幕府側と直接協議を提案した。
 
 1809年、対馬において通信使派遣を協議するため幕府の使者、遠山景晋(金さんの父)と朝鮮国の訳官、玄義旬(ヒョンイジュン)の実務協議が行われた。
 遠山は、日本側の本音を隠し、幕府は経費軽減のための易地聘礼であることを強調した。朝鮮側は経費軽減が真意なら対馬聘礼を拒む理由はないと承諾したのであった。そして日朝間で31項目の「通信使講定節目」が結ばれた。
 その内容は、聘礼、儀典節次、使行準備、礼物などについてであり、今日の観点からは大した問題とは思えない。しかし当時としては国家の体面に関わる重大な問題であったことは確かである。

 1811年3月29日、第12回朝鮮通信使の正使金履喬(キム・リギョ)、副使李勉求(リ・ミョング)はじめ一行328名が、最終目的地である対馬府中(厳原)に到着した。

  厳原港
       現在の対馬厳原港(府中)
 
 ところが、日本側の上使も副使も、まだ府中に到着していなかった。
 上使の小笠原忠͡固(小倉藩主)、副使の脇坂安重(竜野藩主)や儒官の林述斎、古賀精里など全ての日本側関係者が府中に着いたのは5月2日であった。  

 5月13日~26日、府中の宗氏邸宅で両国の使臣たちの相見礼(そうけんれい)、国書伝令式、盛大な饗宴が開かれ、通信使の正式行事を終えた。
 
 6月19日、朝鮮通信使たちが対馬府中に滞在中にもかかわらず、日本側の上使、副使たちは江戸に向け府中を発って行った。
 朝鮮国の使臣たちが朝鮮に向けて府中を発ったのが6月25日である。つまり日本側の使臣たちは、朝鮮国の使臣より遅れて来て、先に帰っていったのである。
 
 日本側の上使、副使らの朝鮮通信使に対する対応は、これまでの接待・もてなしとは違い、実に素っ気ないものであったと伝えられている。

 対馬での聘礼・易地通信の結果、日本、朝鮮ともに経費軽減において大きな効果があった。日本側の経費は38万両で、これまで100万両だったことから半分以下の経費で済んだとされている。
 
 経費は大幅に軽減されたが、対馬に限定された易地通信は、両国間の交隣の象徴であった通信使派遣ともてなし、善隣友好の交流が形骸化したことを意味していた。

  対馬3
       国境の島 対馬の風景

 しかし、幕府の関係者の思惑と関係なく、朝鮮通信使の使行員たちは、地元島民、そして筆談唱和を求めて日本本土からやって来た儒者や芸能人らと活発な文化交流が継続されたと言う。

 つづく

   富士山と夕日と雲27

 8月20日、
 ようやく猛暑の日々から抜け出し、
 すこし過ごしやすくなった、
 西に傾きかけた太陽の画像20枚を
 ストーリー風に編集して見ました。



 しばらくは厳しい残暑が残ります。
 熱中症に気をつけて下さい。 
     第12回朝鮮通信使

  「天明の大飢饉」による延期

 1786年、将軍徳川家治が死亡し、養子の家斉(いえなり)が14歳で11代将軍となった。家斉就任とともに家治時代の田沼意次が老中を追われ、白河藩主の松平定信が老中首座となり、幕政の実権をにぎった。

  家斉
      11代将軍 徳川家斉

 将軍が新たに就任すれば、朝鮮側はこれを祝う通信使を2、3年以内に派遣するのが恒例であった。
 幕府は、新将軍を祝賀する使節を招聘するよう、対馬藩主宗義功(そうよしかつ)に命じた。
 対馬藩は朝鮮側と交渉を開始したが、すぐさま松平定信から「朝鮮通信使の招聘を延期せよ」との命令が伝達された。

 この時期、日本は浅間山噴火による被害と東北地方を中心に凶作がつづき「天明の大飢饉」(1782~87)が襲い深刻な状況にあった。飢民は草根木皮で延命して、各地で百姓一揆が起きた。都会では米価が暴騰し買い占めに抗議する暴動・打ちこわしが続出していた。
 1788年には京都で大火災が発生し、市街地の4分の3が焼けて京都御所・二条城が焼失したという。幕府の財政悪化は深刻であった。 

  2004年
     浅間山噴火  2004年
  
 老中松平定信は幕府の財政を立て直すための緊縮政策・「寛政の改革」を推し進めるとともに対馬藩に対して、
 「大飢饉で、下々が困窮し、宿駅も衰微して、その接待を担当する諸大名も不如意であるから、しばらく通信使の派遣を延期」(『通航一覧』)するよう朝鮮と交渉するよう命じたのであった。

 この頃、対馬藩も朝鮮貿易が衰退し財政難に陥っていた。

 対馬藩主は、通信使の派遣をしばらく待つよう朝鮮国に手紙をかいた。
 「本国は近年、凶作に見舞われ、穀物の実が熟さず、百姓は貧しさのどん底にあえいでいます。大君の新たな政治は、自愛深く、役人はそれに従い、行っていることといえば、もっぱら百姓の救済のみであります。しかしながら、残念なことに今はその甲斐なく、努力の実が結んでいないこの時期に、貴国の大使が厳かにいらっしゃれば、百姓は困難に処するので、、」(『通信使初登録』1789年)

  松平
     老中首座 松平定信

 このような延期の要請に、朝鮮側は新井白石による一方的な「聘礼改革」(参照「朝鮮通信使」37,38)のおしつけによって強いられた苦い経験から日本側の本意を疑ったのであるが、今回ばかりは隣国の事情を理解し延期を承知したのであった。
 これまで、11回の通信使派遣の交隣において、恒例と礼を主要な徳目としてきた朝鮮は、時期の決定は幕府と対馬の事情を受け入れ一度たりともおろそかにしなかった。

 ところが、朝鮮が通信使派遣の延期を受け入れた直後、松平定信は次回の通信使聘礼(国書伝達式)は江戸ではなく、対馬で行うことを決定して、対馬に朝鮮と交渉するよう命じた。
 松平定信は、凶作のため通信使のもてなしは難義であるが、みだりに延期することもできず、対馬で聘礼(易地聘礼)=「易地通信」を行うように提議したのであった。

 1791年、対馬は使者を朝鮮に送り倭館に滞在しながら交渉にあたらせた。朝鮮側は、聘礼の延期からさらに「易地聘礼」へと変えた日本側の真意を疑い反発して交渉すら応じなかった。

  海峡
      朝鮮-対馬ー日本
 
 1793年、松平定信が失脚したが、「易地聘礼」は幕府、対馬双方ともに「経費節約」・益になるというので、朝鮮との交渉を粘り強くつづけた。
 
 朝鮮朝廷の財政事情も苦しい状況にあった。そのため朝鮮側も「易地通信」は通信使派遣費用を削減できるメリットを感じていた。
 
 幕府ー対馬ー朝鮮の3者の間で、書契の交換や使者が海を往還して「易地通信」をめぐり、20年以上の長い
交渉がつづけられた。
 つづく

       夏の夕陽

    夏の夕陽


  燃えるような夕陽の画像12枚をストリート風に編集して見ました。
 ご覧ください。

 

  熱中症に気をつけてください。
     大阪庶民の人情


 竜宮城みたいな門がまえのお寺・竹林寺が大阪西区松島公園の横にある。

  竹林寺2
       竹林寺 大阪西区

 この寺は、江戸時代に朝鮮通信使が大阪で船を乗りかえ、淀川を京へのぼる中継地の宿舎として利用されていた。

  竹林寺境内の奥に朝鮮通信使の小童・金漢重(キムハンジュン)の墓がひっそりと立っている。
 どうして、朝鮮通信使小童の墓が竹林寺にあるのだろうか?

 *小童は、日本の小姓にあたる。毎回の20人程が通信使三使(正使・副使・従事官)や堂上官、製述官らに従った。未婚の男子が一般的であったが既婚者もいたようである。沿道で踊りを披露したこともあり通信使一行の中でも人気が高かった。髪を三つ編みにして長くたらしていたので、絵師が女性と間違えられるような絵を描いた。

      小
        朝鮮通信使小童の姿

  P6174851.jpg
        馬にのる小童の姿

 1764年2月、11次朝鮮通信使の小童・金漢重は、厳寒の瀬戸内海を航海中、暴風雨にあい重病となり大阪に着くやいなや床に伏した。天満の漢方医や医師の平山文微が、通信使船にかけつけ竹林寺に移し、手厚い看病を施した。
 しかし回復せず、金漢重は故郷の妻や二人の子どもを恋しがるために、彼の子どもと同じ年恰好の地元の子ども二人を金漢重の側に座らせ看病を手伝わせたという。

 二人の子供をみて微笑む金漢重の様子に、「子を思う心の内おしはかられ、いと哀れなり」(宝暦物語)と人々は深く同情したという。

 金漢重は死期の近ずいたことを悟り、辞世の句を残した。

   今春倭国客 去年韓人中
   浮世何定処 可帰古地春
         金漢重 行年22齢書
  
 医者の懸命な施しも、地元住民の祈りもむなしく金漢重は異国の地で帰らぬ人となった。故郷の妻や子供たちはいつまでも父の帰りを待ち焦がれたであろう。

 竹林寺の住職は非常に哀れに思い、彼のために念仏を百万回唱えたという。その住職が建立した墓碑に金漢重の辞世の漢詩とともに追悼の和歌が刻まれている。

    P7304864.jpg
         金漢重の墓
   
    日の本に 消えにし露の玉ぞとは
       知らで新羅の 人や待つらむ

 朝鮮通信使の小童の病死から250年以上経過したが、今も尚、金漢重の墓に献花とお世話を続ける人々がいるという。

    金漢重
     現在の金漢重の墓   

 時代が変わり、竹林寺付近も近代的な都会に大変革した。しかし、時代が変わり社会が変化しても、人を思いやる人情は変わりなく庶民の中に生きつづけるのであろう。
 つづく