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      不幸な事件起る

 1764年4月7日、江戸からの帰り大阪に到着した2日目の夜、北御堂の宿舎で11次通信使の都訓導(将校)崔大宗(チェデジョン)が殺害される事件が発生した。
 
 この国際的大事件をめぐって大阪の街は上を下への大騒ぎとなった。事件は各地に伝えられ、東町奉行所は殺人事件として調査をはじめた。

  正使1
       通信使 正使の行列図
 
 崔大宗が殺害されたその夜から、対馬の通訳鈴木伝蔵が行方不明であることが判明した。大阪より諸藩へ人相書きが手配され、4月18日に逃亡先の摂津の池田で捕まった。

 幕府は、このたびの殺害事件が両国の交隣関係にあたえる影響を重視し、急きょ目付けを派遣して事件の真相究明と事件処理にあたらせた。
 
 鈴木伝蔵は、「崔大宗が紛失した鏡を鈴木が盗んだと疑い、馬の鞭で殴られたので、怒りを抑えきれず刺殺した」と陳述した。
 幕府は、犯人が殴られたというのは、崔大宗が死んだ以上、立証することができない一方的な弁解だとして一蹴した。

 通信使の書紀金仁謙(キムインギョン)は、「たかが鏡一つで殺人事件まで起こしたと思えない、人参の密取引が原因」ではないか記録している。

  宗家
      通信使随行 対馬藩主行列図

 当時、使節員と対馬との間で人参などの闇取引が横行していたようである。真相は不明のままである・

 4月29日、幕府は調査を終え、犯人に対して「切腹するのが妥当であるが、逃げた罪」で死刑を言い渡した。
 5月2日、鈴木の処刑は道頓堀西にて執行された。現場には、幕府目付け、大阪城代、対馬藩と通信使の三使ら使行員54名が立ち合ったという。

  道頓堀
        現在の大阪道頓堀

 事件の背景には、18世紀後半対馬の倭館貿易の不振と、通信使随行の財政負担が重くのしかかり、使節側の横柄な態度と言葉の不通などが重なり、相互不信が極端な結果を招いたように思われる。

 この事件の他に、通信使の小童金漢重(キムハンジュン)が病死し、船員の李光河(リクアンハ)の自殺事件があった。
 5月6日、一か月の大阪滞留をよぎなくされたが、通信使一行は大阪を出航・帰国の途についた。 

 大阪の町人は、この事件の話題がつきず、3年後、「朝鮮人殺し」が脚本化され、並木正三作「世話料理鱸包丁」(せわりょうりすずきのほうちょう)として、1767年、大阪角座の芝居で上演されたという。
 
 それから200年後の1968年、東京の国立劇場で「韓人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)・俗称「唐人殺し」が上演された。

 筆者は、「通信使殺人事件」のことも、それを題材にした「唐人殺し」の芝居が上演がされたことなど、はじめて知る話である。

   海峡
     江戸時代 日朝交流の歴史があった
 
 朝鮮通信使の歴史は、日朝両国の平和と善隣友好の絆と、お互いの文化を理解するのに大きな役割をはたした。しかし日朝の長い交流過程で、お互いの理解不足や不幸な事件があったこともまた事実である。 
 つづく

 
    峠の茶屋・「望湖堂」

 朝鮮通信使一行が、京都の淀で船から降り、江戸まで陸路を往還する道程で、彼らの旅情を癒してくれる場所として、彦根近くの摺針(すりはり)峠の茶屋があった、
 
 峠の茶屋は「望湖堂」と呼ばれ、琵琶湖が一望できるところにあった。

  摺針峠
    琵琶湖を一望する摺針峠の位置
 
 使節たちの使行日記・記録には、鞆の浦(広島県福山市)、清見寺(静岡県清水市)と摺針峠(滋賀県彦根市)の三か所を名勝地として、その景勝を詠いあげた詩文が多数記されている。
 
 11次朝鮮通信使の正使・趙オムは『海搓日記』に、
 「日東(日本)の名勝について、すでにたびたび記したが、もし第一をいうなら鞆の浦と清見寺とが雄を争うだろう。望湖楼(堂)もまた、その次になるだろう」と記した。
 
 *摺針の地名は、空海(弘法大師)の若き修業時代の伝説から名付けられたという。

  歌川広重
     摺針峠 歌川広重画 江戸時代
 
 通信使たちは江戸への往還では、必ず峠の茶屋で休憩した。訪れる度ごとに使節員たちは、琵琶湖の遠望を詩文にしたためていたようである。

 趙オム一行は、江戸への往路のときは雨の中、「望湖堂」からの眺望はできず、復路再び立ち寄ったのであった。

 「今度登って見て、三使が一致して称賛した。久しく座って気持ちがのびのびし、日が暮れるのを知らなかった」といい、琵琶湖の景色を次のように描写した。

 「前は琵琶湖を臨み、湖の長さと広さは百余里、皆眼中に入る。湖水の光は澄みわたって、山色は秀麗、夕日が傾きかけると漁舟が帰ってくる。左側の麓の砂浜が平らかに水辺まで至り、その一帯の煙樹は数十里にわたって横たわる。ほとんど白鷺州がニ水を、まん中から分けたごときである。湖中に小島があって名を竹生といい、方形の池の中に隠れた一輪の蓮花のようだ。洞庭湖に君山ありというが、果たして是の如きかは知らない」

  びわこ
        夕映え 琵琶湖
 
 江戸において、かしこまった儀式や雑多な応対に追われ、「国書交換」の重要な任務を無事終えての帰り道、通信使一行が琵琶湖の美しい景観をながめ、やっと一息ついた様子が窺がえる。
 
 そのとき茶屋の主人が訪れたので、
「それぞれ七言絶句を一首ずつ作り、文士たちをしてこれを唱和させた。主人が筆跡を得ようと表装した屏風をすすめたので、拙筆のことを忘れて書き、これを与えた。灯火をさげて下山し、彦根の館所に至った」
 
 峠の「望湖堂」には、趙オムら使節だけでなく、訪れるたびに残した先行の使節たちの書画が数多く存在していた。

 明治時代にはいって、摺針峠を通る道が幹線道路からはずされ、朝鮮通信使そのものが無視されるようになったため、峠の茶屋・「望湖堂」は人々から注目されなくなっていた。

   金啓升
      「望湖堂」の扁額 金啓升書

 最近になって、10次朝鮮通信使 三使の詩文をはじめ、幾多の書画が倉に眠っていることが確認されていた。

 筆者は、正使・趙オムが詠った七言絶句の詩をはじめ、「望湖堂」に存在した通信使たちの書画を掲載した書物はないかと調べたが、なんと驚いたことに、1991年11月、失火により「望湖堂」は倉もろとも全焼したという。

  茶屋
      峠の茶屋、「望湖堂」の跡

 江戸時代の日朝交流の貴重な文化財・通信使が残した全ての書画が焼失したことが解った。
 
 惜しんでも惜しみきれない、残念なことである。
 つづく

     「徐福伝説」について

 今から2200年前、古代中国七国(秦、趙、魏、楚、韓、斉、燕)の統一を果たしたのは、秦(BC221~BC202)の始皇帝であった。

  古代7国
       古代中国の七国勢力図

 徐福(斉人)は、「東方の三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の霊薬を求めに行きたい」と始皇帝に申し出た。

 許しを得、始皇帝の命により徐福は、「三千人の童女童男(若い男女)と百工(技術者)を従えて、五穀の種を持って東方の絶海の彼方に船出(BC210年)した。ある島にたどり着いた徐福は、その地で「平原広沢」を得て王になって戻らなかった」と、司馬遷が『史記』(BC91年頃)に記した。

 この記録にもとずいて「徐福伝説」が生まれた。

      中国徐福が
           徐福 画

 ※三神山とは、「蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のこと、蓬莱山は東の海に聳える山、「方丈」は神仙が住む東方の絶海の中央にある島、瀛州は日本のことを指すらしい。

 朝鮮では昔から、 徐福は日本のどこかに住み着いたものとイメージされ、日本を「倭」と呼ぶ一方で「扶桑国」(神木が生える国)、「日東国」(中国から東方海上にある国)と呼んでいたようである。

 朝鮮の人々は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争(1592~92)を「倭乱」(ウエラン)と呼び、この戦争後、日本にたいする敵愾心から故意に「倭国」、「倭人」、「倭奴」などの呼び方をするようになった。

  しかし、朝鮮の士大夫(知識人・両班官僚)たちは、日本を「倭国」と言いながらも、日が昇り「扶桑」という神木が生えている国であるとして、「徐福伝説」、「扶桑国」の国としてのイメージは残していたようである。

 日本を往還した朝鮮通信使たちは、詩の世界にはいると日本の美しい景観を神仙が住む「扶桑」と詠い、ねんごろに桃源郷や神仙境を連想させ美化したのであった。

 9次通信使の製述官・申唯翰(シンユハン)は、自身の日記・『海遊録』で、日本を「蛮夷」と呼びながらも、対馬に着くやその景観を「神仙境」と絶賛し、うらやましがったのである。

 11次朝鮮通信使の正使・趙曮(チョウ・オム)は、対馬に上陸したのち帰国の途につくまで、日本をあるがままに見て、良いものは良いと認め、何事も客観的に評価しようとした。日本の発達した制度や技術は習うべきであるとし、それを朝鮮に取り入れようと努力したの人であった。

  三保の
     三保の松原から見る富士山

 趙オムは、三島で富士山を眺めながら、「徐福伝説」について、

「徐福が日本に来たというのも信じがたいのに、仙薬をこの島国の三つの山で掘り出したというのは、これまた信じがたい」

 「不老草という霊薬は三神山から掘り出す人参のことであるが、三神山は日本にはなく、霊薬が日本で生産されているはずもないのに、徐福が日本に来る訳がない」と伝説は虚構にすぎないと指摘したのであった。

 彼は、また朝鮮内の伝わる、霊薬である人参を求めて朝鮮に上陸したとする「徐福伝説」について、

 「三神山は済州の漢拏山(ハルラサン)、南原の智異山(チリサン)、高城の金剛山(クムガンサン)と称するが、これもまた必ずしも信じられない」と否定したのであった。

 趙オムは、富士山が見える三島を通過しながら、漢詩を詠じた。その一部を紹介する、

  箱根の雲なく龍は海に移り

  富士山は雪に埋もれ鶴は虚空を飛ぶ

  愚かなるかな秦の始皇帝、徒に薬を求め

  常軌を逸している斉国の人、

  空しく秘訣を信ずる

   (箱澤無雲龍徒海)

   (富山封雪鶴乗虚)

   (愚哉秦帝徒求薬)

   (妄矣斉人謾信書) (趙曮『海搓日記』)

 中国においても長い間、徐福は伝説上の人物とされていたが、最近になって、江蘇省において徐福が住んでいた徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、徐福は実在した人物だとされるようになった。驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住み、代々先祖から徐福について語り継がれてきたという。保存されていた系図には「徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかった」ことが書かれているという。そして1982年、徐阜村には徐福の石碑が建てられた。

 徐福が実在した人物であるとしても、今となっては徐福が何処に上陸し、何処に住み着いたか、その地名を特定することは殆ど不可能である。

  徐福の墓
      徐福の墓 和歌山県新宮市

 しかし、古代の世界のなかで、3000人もの多くの人を引き連れて、絶海の彼方に消えていった徐福は、神秘に包まれ謎が多いだけに「徐福伝説」はこれからも語り継がれていくだろう。

 日本各地に「徐福伝説」が存在する、
 鹿児島県屋久島・種子島、佐賀市金立神社、宮崎県日南海岸徐福岩、三重県熊野市徐福宮、和歌山県新宮市徐福の墓・阿須賀神社、京都府与謝郡伊根町新井崎神社、愛知県熱田神宮境内蓬莱山、秋田県男鹿郡赤神神社など、数十か所に及ぶ。

  日南徐福岩
   徐福岩のある日南海岸 宮崎県
   
つづく
   サツマイモ=孝行イモ=コグマ

 15世紀、メキシコあたりの中南米でサツマイモが発見され、その存在がヨーロッパに伝わり、やがてヨーロッパ人の東南アジア進出により中国(清)に伝播した。
 17世紀初、中国福建省から琉球(現在の沖縄)にサツマイモが持ち込まれたとされている。「唐イモ」、「甘藷」(かんしょ)と呼ばれていた。

 その後、サツマイモは薩摩(さつま・現在の鹿児島県)に上陸・栽培されるようになった。薩摩藩は、貴重な食糧資源として栽培を自領にとどめるため、種イモの藩外持ち出しを禁止したのであったが、栽培が簡単なことから、徐々に周辺地域に「サツマイモ」の呼称で普及していった。

 そして、八代将軍吉宗(1715~45)のころに、蘭学者・青木昆陽によって小石川薬園(現在の小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市幕張)で試作された後、日本全国に広められたとされている。

 1723年、対馬上県町の農家の次男・原田三郎右衛門は、少年時代に対馬府中で藩儒・陶山訥庵(すやまとつあん)の教えを聞いて感銘を受け、海を渡り薩摩藩に侵入、苦労して種イモを持ち帰った(一説では薩摩藩に頼み込んで苗を分けてもらった)とされている。

  対馬1
       朝鮮半島ー対馬ー日本

 荒れ地や、痩せた土地でも育つサツマイモは、山が多く耕地の少ない対馬島民の食糧事情を大きく改善させた。まさに、サツマイモは対馬の救世主的存在となり、「農民に孝行するイモ(芋)」という意味でいつしか「コウコウイモ」(孝行イモ)と呼ばれるようになったという。

10次通信使(1748年)一行が、日本を往還した頃にはサツマイモは対馬全域に伝播していたことから、使臣たちはイモを見るなり聞くなり、あるいは直接食べる機会もあったはずであるが、サツマイモの種を持ち帰り、食糧源にする考えに至らなかったようである。

  サツ畑
        サツマイモ畑 鹿児島県

 1764年、11次朝鮮通信使の正使・趙曮(チョウ・オム)は、正使に任命される以前、慶尚道観察使や東莱府使など地方長官を務めた頃にサツマイモに関する情報を把握していたようである。おそらく対馬の関係者が多数居留する釜山の倭館内で、実際にサツマイモを食べた経験があったと推測される。

  なぜなら、彼は釜山にもっとも近い対馬の佐須浦に到着するや否や、種イモを2~3斗(30~45㎏)求めてとりあえず釜山に送り、帰路にも追加分を船積みし、栽培法や食べ方まで詳しく調べて帰国したのである。食べた経験があるからこその果敢な行動であったと思われる。

 当時としては、サツマイモは米や雑穀に代わる食糧として、甘くて食べやすい、腹持ちもいい食べ物として趙曮は感動したのではなかろうか?

 *対馬では、「孝行イモ」を砕いて水にさらして天日干しして発酵させて粉にし、「せんだんご」、「せんちまき」、「せんそば」などを作る。現在は郷土料理とし定着し土産物になっている。

  孝行麺
      孝行麺 対馬の郷土料理

 サツマイモの朝鮮半島上陸は、凶作と飢饉、食糧難に苦しむ民衆を救うことになり、対馬島民と同様、食糧事情を画期的に改善する契機となった。

 趙曮が持ち帰ったサツマイモはその後、朝鮮半島南部の陸地や島に普及し、朝鮮半島北部の寒冷地に適したジャガイモと並ぶ、貴重な救荒作物となった。

  対馬佐須
     対馬の風景 鳥帽子岳展望台より

 朝鮮では、対馬で「コウコウイモ」(孝行イモ)と呼ばれた言葉をそのまま使っていたが、いつしかその発音がなまって「コグマ」(イモ)と呼ばれるようになり、現在に至ったようである。

 12回の朝鮮通信使による日本往還・交流の中で、日本から朝鮮に持ち帰ったサツマイモが、民生に役立つ具体的な物としては唯一のものであった。

 日本では青木昆陽が「サツマイモ」を、対馬では原田三郎右衛門が「孝行イモ」を、朝鮮では趙曮が「コグマ」を普及させた功労者として、 それぞれの歴史にその名が刻まれた。

   つづく