FC2ブログ
    第11次朝鮮通信使往還
        通信使の準備不足

 1760年、九代将軍徳川家重が病弱のため退任、大御所となった(翌年死去)。長男家治(23)が十代将軍に就任した。

  家治
      10代将軍 徳川家治画
 
 幕府は家重将軍末期、自然災害に加え幕府の政治に反抗する者も現われて国内状況が不安定であった。国内体制を安定化させるために幕府の権威を高める必要であった。そのため朝鮮通信使の招請が急がれた。

 幕府は、対馬藩に命令して朝鮮に新将軍祝賀の通信使派遣を要請した。
 
 朝鮮では凶作と飢饉に瀕した民がソウルに押し寄せ、各地では民乱が起きいた。朝廷では西人派が分裂、老論派と少論派が激しく対立・党争により内政が乱れていた。

 しかし、日本への使節派遣は恒例の行事であるとして、国家財政上の負担は大変であったが、21代朝鮮王英祖(1694年-1776年・在位52年)は、11回目の通信使派遣を決断した。

   21英祖
      21代朝鮮王 英祖

 
 派遣が決まると朝廷は、まず通信使一行を統率する3使(正使・副使・従事官)の人選をする。朝廷は、国の威信を代表する正使の選抜任命に最も気を使った。

 朝鮮朝廷は、11次通信使の正使に吏曹参議(内務省次官級)の徐命応(ソ・ミョンウン)を任命したが、まもなくして徐命応は党派争い、権力争いに関与した罪を問われて咸鏡道の鐘城に配流された。

 朝廷は、次に鄭尚淳(チョン・サンジュン)を正使に任命したのであるが、鄭尚淳は老いた母がいることを理由に就任を拒絶した。
 
 朝廷では、いったん王命を拝受したものが巧みにその命をさけるのを見逃しては、他の者に示しがつかないとして鄭尚淳を慶尚道の金海に配流した。

 朝廷は、三人目の正使に趙曮(チョウ・オム)を任命した。ところがすでに従事官に任命されていた洪楽人(ホン・ラギン)が、正使の趙曮と仲が良くない(党争)ということで、出発直前になって金相翊(キム・サンイク)に交替させた。
 
 そのため、その他の通信使一行の人選も大幅に遅れることになり、11次通信使の全ての人員が定まったのは、出発日の二十日前であったという。

  景福宮
     朝鮮王宮 景福宮 ソウル
 
 このような人材選抜の遅れの背景には、朝廷内の官僚・両班たちの中に清国への「燕行使」(北京)に行けば、見聞を広め、帰国後の出世昇級が見込まれ、お土産を買って帰れるが、「通信使」の場合は、海を渡る危険と思いがけない難義、使節員の統率、国書の交換、幕府への礼物など、多事多難な長旅であると認識されていた。

 とくに、9次通信使(1711年)の「国書事件」(参照朝鮮通信使48)では、国の威信を損なったとして三使が帰国後に処罰された事件があり、使行員として日本に行くことは危険極まりないことで、なんとか使行員から逃れようとする空気があったようである。
 
 このような状況のなかで正使に抜擢された趙曮は、釜山にある倭館を統括する慶尚道観察使や対日本外交の窓口であった東莱府使を務めた経験があり、「日本通」の人物であった。人選は遅れたが、趙曮の正使抜擢は適切な人事であったようである。

  東莱城跡
      東莱府城跡 釜山市
 
 趙曮は、出発を控えた準備期間の間に、日本での小競り合いや争いを防ぎ国家の体面を保つために、これまでの使行録を参考にしながら「禁制条」、「約束条」など「役文」をハングルで作り、使臣や使行員たちに布告した。

 布告された「役文」の内容は、
1、まず役職者の指導体制を明確にすること、
1、宿舎の器物を棄損しないこと、
2、火の用心・礼儀・饗宴に関して弊害をなくすこと、
3、日本人と対面した場合、かの人たちを絶対に軽蔑したり嘲笑することなく、忠臣と誠心で接待し、日本人と呼んで汝などとみだりに呼ばぬこと、
4、密貿易・密通・国家の秘密漏えい・礼儀などに関する規制、違反者に厳しい罰をあたえる。
 
 また趙曮は、使行員内部の規律で、使行中の厳粛さと上下の秩序、長幼の序、相互扶助、秩序と礼儀を強調した。
 
 しかし、正使、従事官の任命の遅れから、正使自からが使節員を人選できず、使節団一行を掌握することできなかった。
 また、正使が出した布告も使行員の末端まで届かず、準備不足のまま1764年8月、あわただしくソウルを出発したのであった。 
  
  東軒忠堂
      東莱府東軒忠堂歴史館 

 第11次の朝鮮通信使の日本往還の過程で、それまでの使行に比べて事故、事件などのトラブルが多かった。(主な事故、事件については次回以降に掲載)

 その原因は、このような準備不足が影響したのではないかと思われる。
 つづく



     通信使の馬射戯演技

 江戸城中で「馬上才」公演が行われてから数日後、上野において、今一つの朝鮮伝統武芸である「馬射戯」(まさひ)=流鏑馬(やぶさめ)の騎射が催された。

  上野1
        上野公園 動物園前
 
 流鏑馬とは、疾走する馬上から的に矢を射る、伝統的な騎射の技術・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったと思われる。

 日本では、神事として各地神社の神職や氏子または保存会などに受け継がれ、儀式や祭典として催されることが多い。

 同じ「流鏑馬」でも、馬上弓術をスポーツとして規格化したものを「馬射戯」競技として実施されている。
 
 朝鮮半島における「馬射戯」のルーツは古い、半島の北部から中国東北地方にまたがって存立した古代国家・高句麗の古墳壁画(ユネスコの世界遺産に登録)に描かれた「馬射戯図」(徳興里古墳408年)が最古のものとされている。

   流鏑馬
     「馬射戯図」 高句麗壁画古墳

 高句麗滅亡から凡そ一千年後、朝鮮王朝(李朝)時代でも「馬射戯」は武芸として盛んに行われ、王族や両班たちが見物したことが記録されている。

 10次朝鮮通信使一行に騎馬・弓の上手い8人が加わっていた。

 上野て行われた「馬射戯」は、騎馬で走りながら、わら人形に矢を当てるもので、持ち矢は一人5本だったが、8人のうち5人は、5本すべてを当て、あとの3人もそれぞれ3本当てたという。

 このとき行われた「馬射戯」について絵図や資料ないかと、調べたが見つからなかった。

 韓国に本部を置く世界騎射連盟・WoMAU-UNESCOと日本騎射協会は、「馬射戲図」を現代の騎射競技として復活させるべく協議した結果、正式に「馬射戲 MASAHI」と命名し、新ルールを定めたという。

 筆者は、3年前の2016年の秋、埼玉県日高市巾着田で行われた「馬射戯」競技を見学したことがある。(参照・筆者ブログ「高麗の里77」)

 日高市は、大和朝廷によって高句麗からの渡来し、関東地方に定住していた高麗人(高句麗人)を集めて設置した「高麗郡」(『続日本記』716年)に由来する地域で、現在は高麗王若光を祀る「高麗神社」や「高麗の里」としてよく知られている。巾着田は、高麗人が入植して最初に開拓したところで、今も古と変わらぬ風景を残している。

 その巾着田で「馬射戯」競技が行われ、日本人騎手をはじめ、韓国とアジア諸国から数名の騎手が参加して催された。

 韓国からやってきた女性騎手に注目が集まった、女性騎手の騎射する姿を動画でご覧ください。


 
 江戸時代、上野で「馬射戯」が催されたから凡そ300年後、朝鮮半島から騎手がやってきて、「高麗の里」・巾着田で、再び「馬射戯」競技が行われたのである。

 筆者は、高句麗の壁画に描かれた「馬射戯図」のような騎射競技が、1600年の時空を超えて日本の地・「高麗の里」で再現されたことに、なんとも言えない感慨を覚えたのであった。つづく

  巾着の春
       高麗の里 巾着田の春

 
    江戸城中の「馬上才」公演


 第10次朝鮮通信使一行が江戸入りして、くり広げられた華麗なパレード(唐人行列)は、江戸庶民を魅了し強烈な印象を与えた。

 一方、江戸城中では将軍をはじめ幕閣、老臣、諸大名たちが、通信使一行の江戸往来を楽しみにしたのは、なんといっても朝鮮の伝統武芸・「馬上才」(参照「朝鮮通信使19」)の観覧であった。

 江戸城1
        江戸城中図

 江戸城中における「馬上才」の公演は、三代将軍・徳川家光時代から恒例の行事となっていた。

 朝鮮通信使の幕府への「国書伝達」は、最も重要な公式行事である。その行事を円満に挙行するため、日・朝双方と対馬藩は事前に協議を重ねて意見の違いを調節した。そして当日の「国書伝達」は江戸城大広間で儀式として厳かに行われたのである。
 
 「国書伝達」の儀式が終わると、城中の武士たちの関心事は、毎回人気を博している「馬上才」の公演にあつまる。

 「馬上才」とはどのようなものか、先に記事・「朝鮮通信使19」でその歴史と何枚かの絵図・「韓人戯馬図」を紹介したが、今回は同じ絵図を使って映像風に編集してみた。


     クリックしてご覧ください。 

 二人の騎手が、馬上に立ったり、逆立ちしたり、走る馬上で横臥したり、馬上から地上の物を拾ったり、二頭の馬を1人の騎手がまたがって走ったりして、8種目の曲芸・妙技を演じている。

 こ゚の公演に、将軍・家重はもちろん世子の家治(11歳)、そして二日前に行われた「国書伝達式」に欠席した大御所・吉宗も姿をみせ、父・子・孫の将軍家三代がそろって見物したというから、「馬上才」の人気は大変なものであった。

 馬上才を見物する将軍、幕閣・大名ら武士たちの感嘆の声がもれ聞こえてくるようである。
  つづく
    朝鮮通信使の江戸入場

 1748年5月、第10次朝鮮通信使一行は、神奈川を経て多摩川(六郷川)を渡り品川で休憩後、出迎えの幕府役人に先導されて江戸に入場した。

 使節の正使・副使・従事官三使をはじめ堂上官、製述官、訳官、書記、医員、画員、写字官、馬上才等は、盛装、威儀をただし、輿上、馬上、随行員、護衛兵など長い行列をつくり、楽隊が高々と朝鮮楽を奏でながら江戸市中を堂々と行進した。

 それはまさに、豪華絢爛な大行列・一大パレード(唐人行列)であった。

  P4064312.jpg
      行列の先頭を行く清道旗隊

 この行列を、ひと目見ようと江戸市中は庶民と周辺の農民であふれかえり、沿道の両側は老若男女で立錐の余地なく埋めつくされた。

 この頃、江戸の人口は100万人を突破して、京都、大阪の3倍になっていた。大阪、京都、名古屋を見てきた使節一行もあまりの人の多さに驚いたという。

 江戸の庶民は、諸大名の華やかな参勤交代の行列も、オランダの商館長、琉球人の行列もさほど驚かなくなっていた。

  見学5
       つめかけた江戸の民衆

 そのようなときに、日本が唯一、国交を保っていた朝鮮国の親善使節の来日は、異国の文化に接する絶好の機会となり彼らの好奇心を高ぶらせた。

 通信使一行の江戸来訪を前にして通信使関連書物や絵画などが売れていた。それは江戸の人々が、既に朝鮮の文化に強い関心をもっていたことを物語っていた。
 
  音楽隊
       朝鮮楽を奏でる楽隊

 昭和初期の朝鮮史研究者・中村栄孝は、
 「いまの祇園祭りを思わせる華やかさ一色につつまれ・・武家屋敷は大門をひらいて金屏風をたてて、どんすや紫絹の幕をはり、番人は麻のかみしもをつけて礼装した。また町中も金屏風や縮緬、御所染の幕で念入りに飾られ、一行の通る道すじの家々は軒を切りそろえ、商人は仕事を休んで歓迎に加わるという盛大さ」(『日本と朝鮮』)であったという。

  朝鮮通信使一行と案内の対馬藩士・護衛官・荷役人・馬夫ら約5000人の行列が、約5時間かけて通過するあいだ、、沿道は歓声、感激、興奮につつまれた。まさに江戸時代最大の国際的親善のイベントであった。

  江戸入場
    「朝鮮人来朝図」(神戸市立博物館所蔵)
 
 幕府にとっては、朝鮮通信使の歓待は将軍一代の盛儀、幕府の権威を高める外交儀礼にすぎなかった。
 しかし江戸の民衆にとっては幕府の思惑とは違い、通信使行列を直接目撃して、隣国朝鮮に対して親近感を深めた。民衆は異文化に触れて素直に喜び、憧れ、感動したのであった。

  見物人
      通信使行列を見学する民衆

 朝鮮通信使一行の行列が、江戸庶民に与えた印象は強烈で、興奮はしばらく冷めやらなかった。見物の手引きとなる使節の登城行列絵本や1枚絵図などの刊行物が見物人の生涯の記念にと飛ぶように売れたという。

 その頃から神田明神(神田神社)の際礼や山王祭(永田町日枝神社)の祭礼には、朝鮮通信使行列(唐人行列)を真似た練り物や異国風服装の人物が新しく登場して、現在までも受け継がれているという。

 また、朝鮮通信使行列を描いた「朝鮮人来朝図」(神戸市立博物館)をはじめ、屏風、絵画、版画、絵馬など多数各地に残している。

 日本橋通りの呉服問屋・白木屋(現東横百貨店)は、店先に席を設け、通信使を見学する客に料理や酒をふるまって店の宣伝に使ったという。町人のしたたかさを知る挿話も残した。

 通信使一行がパレードを終えて、宿泊所である浅草東本願寺に着くと、門前で越前長岡藩主、豊前竹田藩主、大目付、寺社奉行らが多くの家臣を従えて、彼らを丁重に出迎えた。

 使節員一行は、ようやく長旅(ソウル出発から6ヵ月)の終わりとイベントの緊張感から解放されて、ホっと一息ついたと思われる。
 つづく

    江戸における警戒と警備

 1748年5月、10次朝鮮通信使が川御座船で淀川をさかのぼり京都へ向かう頃、江戸市中にお触れが出されていた。

「通り道はきれいにせよ。よけいな物は道路に置くな」
「牛車や大八車は、道路が荒れるので、通ってはいけない」
「火事を出さないようにせよ」など、

  多摩川
     「六郷渡舟」(多摩川)歌川広重画

 通信使一行が、江戸に近ずくと、お触れはさらに厳しくなった。
「火をおろそかに扱う者は捕えよ」
「火を焚く商売は、夕方6時で終了せよ」
「大きな火を焚く風呂屋などは、使節団到着当日は休業せよ」等々
 
 そして、通信使一行が江戸に到着すると、風呂屋の焚口には町内の者を立ち会わせ、もし怠って出火した場合は町内に罪が及ぶ連座制をしいて、互いに注意をうながした。

 幕府が朝鮮通信使を迎えて、これほど火事に対する警戒をするのには理由があった。
 7次使節団が宿泊していた馬喰町の本誓寺が、1682年の火事で焼失した。それも使節団が江戸を出立した3ヵ月後に起きた火災のためである。

 この頃、江戸では大小の火災が頻繁に起き、「江戸の華」と呼ばれまで火事が多く、2,3年に一度は大火があった。幕府・奉行は火事をもっとも警戒し恐れた。

  火消し
     火消しの出動 江戸時代

 万が一にも火事により、招聘した通信使に被害が及ぶことにでもなれば一大事である。朝鮮国との交隣関係の破綻はもちろん、幕府の威信が地に落ちるからである。

 幕府は本誓寺焼失後、通信使一行の客館を浅草本願寺に移し、不時の火災に備えて、築地本願寺や谷中の感応寺など使節の避難先を定めた。

 また幕府は、見物に際しては高声を発したり指を指したり、高笑いすることを禁じた。使節一行を見物する男性は酒を飲まないように、女性は華美な服装にならないように禁じたのであった。

 一方で幕府は、通信使一行の警備に対しても厳重な注意をはらった。

 名奉行とされた南町奉行の大岡越前守忠相を最高責任者とする警備体制を整えた。

     大岡忠相
        大岡越前守忠相

 そして、使節団が通る沿道に1万石以上の藩邸がある場合は、ろれぞれ護衛の家士を出させた。
 
 通信使一行が通過する、品川ー芝浦ー浜松町ー京橋ー室町ー本町ー浅草ー黒町ー諏訪町ー浅草本願寺までの各沿線区間の警備責任者が決められた。因みに芝浦ー浜松間は百人組・溝口式部直道が警備担当を任された。

  あんない
      通信使一行の先導護衛武士
 
 使節の江戸滞在は20~30日間、その間の浅草本願寺の出入り口、浅草橋門と芝口門、使節員の外出時の警備もそれぞれ別の警備担当者が決められた。

 こうして幕府・奉行は、朝鮮通信使一行の大江戸入場を迎えるあたって、火事の警戒とともに厳重な警備体制を敷いたのであった。

  警備2
      日朝双方で正使輿を護衛

 その間、厳しい町触れを守らなければならない町人にとっては息の詰まる日々であったと推測される。
 
 しかし、いよいよ通信使一行が江戸に入場すると、華麗な大パレード「唐人行列」をひと目見ようと沿道は人々でうめつくされ、江戸市中は興奮につつまれた。
    つづく