FC2ブログ
    通信使・川御座船に乗る

 朝鮮通信使一行は、大阪に上陸してから数日後、難波から川御座船に乗り換えて、淀川をさかのぼり京都に向かう。朝鮮から乗ってきた船6隻は、底が深いため浅瀬の川では航行できないからである。

  天地丸
     徳川将軍家の御座船 天地丸   

 淀川は、京都と琵琶湖から流れる桂川、宇治川、木津川が大阪北部の山崎付近で合流して大阪湾に流れる近畿最大の河川である。
 江戸時代、淀川を利用して大阪ー京都伏見間を「過書船」と呼ばれる30石船(28人乗り、船頭4人)が航行していた。
 
 朝鮮通信使が乗船する川御座船は、30石船よりはるかに大きく、しかも二階建ての屋形を設けていた。そのため、2倍近くの時間がかかったという。所要時間は、登り一日または一晩、下りは半日ないし半夜であったという。

 もともと川御座船は、四国の大名が参勤交代用に造営したもので、金銀箔がちりばめられ、色とりどりの幔幕で飾られた豪華船であった。地方の大名が国元から瀬戸内海を渡り淀川を上り下りするのに利用していた。
 その絢爛豪華さに使節団一行も目を奪われたという。

 難波橋から伏見の淀までおよそ32キロ、しゅんせつ船を先頭に曳船と両岸から千五百人の綱引き人夫が船団を引かせての航行である。
 
 通信使一行が乗る川御座船7隻に随伴する大小の船合わせて140隻が淀川をさかのぼるのである。船上で使節の楽員たちが立ち上がって陽気にチャンゴ(長鼓)や銅鑼を打ち鳴らし華やかな演奏をした。それはまさに絢爛豪華な船団の大パレードであった。
 
  淀川
      川御座船が航行した淀川地図

 これをひと目見ようと、守口、枚方、淀に至る川土手には立錐の余地すらないほど町人、農民ら群衆が押し寄せ、まるでお祭り騒ぎであったという。
 
 淀川の堤にひなだん式の桟敷を造り、席料を取ったり、弁当を売って銭もうけする商人も現れたという。
 
 また、この日に備えて頼母子講を作り、郊外から見物に来た農民もいた。
 
 河内の美具久留御霊神社には、通信使が乗る川御座船の絵馬が奉納された。この神社は、和爾宮(わにのみや)とよばれ、この地方を開拓した百済からの渡来人、王族一族の祖神を祀ったとされている。
 
 幕府は、隣国の客人を手厚くもてなすことによって、その威勢を天下に示そうとしたのであったが、民衆は厳しい規制にもかかわらず、通信使という異国人に興味津々、彼らがもたらす異文化を驚き楽しんだのであった。

  淀4
      江戸時代の淀船着き場の風景

 通信使一行は、臨時に設けられた淀の船着き桟橋・「唐人雁木」に上陸した。ここで一行は仮泊したり、しばし休憩をとった後、陸路をひたすら江戸に向かって旅をする。帰路も同様ここで船に乗る。淀はまさに陸路と水路の交差点(水陸歴程)の地であった。

    唐人碑
       通信使が上陸した地点
 
 現在の淀周辺の川筋は、様変わりして当時の風景は何も残っていない。通信使が上陸した船着き場は、陸の内部・京都市伏見区淀納所町に「唐人雁木旧跡」(とうじんがんぎきゅうし)と書かれた石碑が立つ場所である。

 朝鮮人をなぜ「唐人」と呼んだのか?
 江戸時代の日本人は、唐人は唐時代の中国人だけでなく、外国人を一般的に唐人と呼んでいた。朝鮮人も外国人とみなして「唐人」と呼んでいたのである。
 つづく


    大阪におけるエピソード


 1748年、10次朝鮮通信使一行が大阪に上陸すると、一人の朝鮮人が久太郎町の薫物屋(線香屋)四朗兵衛を探し訪ねたいと願いでた。
役人が通訳を連れて、その朝鮮人を四朗兵衛の店へ案内した。近所の町人が集まり黒山の人だかりになったという。

  歓迎4
    通信使一行を歓迎する大阪庶民

 朝鮮人は、「薫物屋四朗兵衛殿と申すのはこなたにございますか」と問うと、店の主人が「その通り」だと答えた。
 いぶかった朝鮮人は、「さては四朗兵衛殿は亡くなられたのか」と問うと、店の主人は「はい死去いたしました」と答えたのであった。
 朝鮮人は「とすると貴方は長吉殿と申す人ではありませんか」、
 店の主人は「そのとおり」と返答し、しばしこのような問答がつづいた。
  
 そこで初めて朝鮮人は、店に訪れてくるまでの不思議な経緯を話し始めた。
 「私儀、先年この御家に相勤めていました。紀州有田郡瀬名村の者で、お父上様の代に奉公致しましたところ、集金の銭、四貫文がままならず(売掛金がこげついた)、京都へ出稼ぎにゆきましたがうまくゆかず、長崎へ下る人を知り、一緒に下りましたが、ここでも難義しておりましたところ、対馬へ行った方が暮らしよいという人があり、対馬へ渡って6年間暮らして、朝鮮に渡る「通り切手」(渡航証明書)をもらって朝鮮に渡り、ある家の婿になりました。婿入り先が小役人の家だったので、このたび日本派遣の人員に加えられました。大阪にまいりましたら、昔の主人の家に立ち寄り右の事情を話したく思い、また紀州の様子や風間を承りたくて参りました。
 私が日本にいました時は、朝鮮人参の値段は一両につき300匁(約1㎏)であったように覚えていますが、今でもそうでしょか」と聞いた。

 店の主人・長吉が「左様です」と答えると、懐から朝鮮人参3本と小皿10枚を取り出し
 「これは、はるばる心がけて持参したものです。お受けとりください」というので長吉もこれを受けとり、
 「現在は知行(給料)をとっておられますか。暮らしの方はいかがですか」と尋ねた。
 朝鮮人は「6間(約12m)の間口、奥行き7間の住まいで、それ相応に暮らしております」と返事した。

  歓迎2
      通信使を見学する男衆
 
 長吉は銭二貫文をさしだしたところ、堅く断わり、
「もし、この銭を朝鮮にもって帰れば、15、6年は楽々と暮らせるでしょう。しかし百文だけいただきましょう」と申すので五百文を渡したところ「かたじけない、しかし隠してもち帰ることも難しいので百文だけ貰い妻にも日本には金銀が沢山あることを話します」(林復斎編『通航一覧』1853年)といって帰った。

 長吉がその朝鮮人参を薬種屋に持ってゆき見てもらったところ、銭1貫7百文になったという。

 江戸時代の相場では銭1貫7百文は米4斗(60キロ)分の値段であったから、朝鮮人参はかなり高価であったことがわかる。
 *金1両=銀60匁=銭4貫文=4千文

  歓迎1
      通信使を見学する女性

 この物語は、店の金が集金できないため、朝鮮まで逃げた紀州有田出身の元日本人が、自責の念にかられて、わざわざ通信使に混じって訪ねてきた物語であるが、江戸時代の大阪商人の様子や、当時のいろいろな情景を想像させるエピソードではないだろうか。、 つづく

 
    第10次朝鮮通信使往還
    
      副使船の火災事故
 
 18世紀半ば、東アジアの国際関係は安定を保っていた。

 1745年、八代将軍徳川吉宗が61歳で引退し、家重が35歳で九代将軍に就任した。吉宗は還暦が過ぎても健康であった。しかし、在位30年に及びこれ以上長引けば、子の家重が日の目を見ることができないと考え引退したようである。

 ところが、家重は言葉がはっきりせず、酒色におぼれ、暗愚であったと言われる。吉宗が6年間後見し、側近の田沼意次、大岡忠光が幕政の実権をにぎり15年間、家重を支えた。

   家重2
       九代将軍  徳川家重

 幕府は、対馬藩主・宗義如(よしゆき)に対し、朝鮮国に家重の就任祝賀の通信使派遣を要請するよう命じた。

 朝鮮王朝は、21代英祖の治世(在位1724~76)、英祖は名君として評判が高く、内政の建て直しに努力した。しかし、経済の復興がままならず、そこに全国的に疫病が流行り多くの死者をだしていた。 

    英祖
       21代朝鮮王 英祖
 
 朝廷にとって今回の派遣は、経済的な負担が厳しかったが、英祖が「交隣の道は前例をもって重きとなす」として通信使派遣が決定された。

 1748年2月、第10次朝鮮通信使一行477人、対馬の鰐浦に入港した。数日後の深夜、副使船で火災が起き焼失した。3人死亡、10数名が火傷を負う重大事故となった。副使一行の日常品はもちろん、礼物(礼単)の人参72斤(1斤=600グラム)、木綿20疋(1疋=9m)を焼失してしまった。

  鰐浦漁港
     副使船の火災があった鰐浦漁港
 
 危険な海を無事に渡り到着したことを祝い、対馬藩が酒肴を差し入れした。乗組員たちは久しぶりに緊張感を解いて酒に酔い、ローソクの火の用心を怠り、藁(わら)に燃え広がったのが原因だったという。
 正使が使行の統率を怠り、下位の者が上位の命令に従わなかったようである。
 
 この事件は、朝鮮朝廷に届けられ、焼死した3人の遺体は釜山に送り返された。報告をうけ朝廷が困ったのは、将軍や老中に贈る礼物・朝鮮人参の調達であった。国中の人参をかき集められ、届けられたのは国書伝達式直前であったという。
 
 副使たちは、着衣まで対馬藩から借りる状態となり、船は廃船となった。やむなく荷物船を副使船として使い、荷物船は対馬藩の船を代用することにした。一か月後、鰐浦を出港しようやく府中に到着した。

 対馬で恒例となっていた「馬上才」が行われた。それを遠くで観覧する雨森芳洲(対馬藩真文役・80歳)の姿があった。白い頬ひげを生やしたその姿を画工・李聖麟が素早く肖像画に描き上げた。

   馬上11
       馬上才曲技の一場面
 
 通信使一行が、江戸に向かって府中を出港したのはソウル出発から4か月が経過していた。
 今回は、通信使随行に対馬藩主・宗義如をはじめ1500余人の男衆と、大小100余隻の船が出航し、島全体がもぬけの殻の状態になったという。

 通信使一行の江戸往還道中における事故・事件は、幕府から案内役・護衛を全て任されている対馬藩が、その責任を負わねばならない。火災事故の直後のことであり、対馬藩はより慎重であった。

 そのため、立ち寄る港で出航日をめぐって、天候を気にして安全第一と慎重な対馬藩と、早く任務を終え故郷に帰りたい使節側との間で船を出す、出さないと論争を繰り返された。

 そして3月17日、府中を出港した通信使の船は壱岐ー相ノ島ー上関ー下蒲刈ー鞆の浦ー牛窓ー室津と長い船旅を経て、ようやく4月20日大阪についた。
つづく
     朝鮮のソンビと「科挙」

  ルート
   朝鮮通信使ソウルー江戸往還ルート

  朝鮮王朝(李朝)時代(1392年~1910年)、書を読む人を「士」(ソンビ)といい、政治に従事する人を士大夫(サデブ)と呼んだ。

 日本における「士」は武士=サムライのことであるが、朝鮮での「士」=ソンビは、現在の知識人・インテリと呼ばれる人たちのことである。

 朝鮮王朝時代のソンビは、庶民から尊敬された。

 江戸時代の日本は、士農工商の四民で構成され、「士」=武士が支配する社会であった。

 朝鮮もやはり科挙に合格したソンビ・両班(文班・武班)が支配する社会あった。

 両国ともに「士」が支配する社会であるが、一方は武家政治、また一方は文治政治という本質的な違いがあった。

 朝鮮通信使の製述官・申維翰は、日本の士農工商について
 「国に四民あり、曰く兵農工商がそれである。商は富むといえども、税法がはなはだ重く、工はその技が巧みであるが、製品が廉価である。農はもっとも苦しいが、年間の租税のほかに他の徭役はない」と述べ、日本には兵があって「士」・ソンビは存在しないとした。

  サムライ
        町中を歩く武士の姿

 朝鮮のソンビは、官職があろうがなかろうが関係なく書を読む人であるが、彼らが官職を得るためには、官吏登用の「科挙」に合格しなければならない。合格後は両班官僚となる.

  ところが日本には科挙制度がないために、「士」・ソンビである儒者たちは、幕府や各藩に儒官として召しかかえられて「兵」=サムライの地位を得るか、医者になる以外に進路は閉ざされいた。

 維翰は、「四民の他にも、別に儒学、僧徒、医学がある。しかし、国俗として、医はすなわちその功があるゆえに上となし、僧徒がこれに次ぎ、儒は末である。いわゆる儒者は、学ぶに詩文をなすが、科挙試による仕進の路がない。ゆえに、ようやく声誉をえたところで、各藩の記室にとどまる」と述べ、儒者が低い地位におかれていることを嘆いた。

 そして、「君臣たるもの、黄口の幼児といえども嬰然としてその位にあり、その心は安楽に馴れ、汲々として事変をただ怖れる。どんな計りごとをめぐらしえようか」(申維翰『海遊録』)と世襲制の弊害を痛烈に批判したのであった。

 維翰のこうした批判は、表面的な現象を自国・朝鮮の科挙制度や朱子学文化と対比させた批判であった。
 
 維翰にかぎらず朝鮮のソンビたちは、自国文化の優位を誇るが、朝鮮における科挙制度や朱子学の閉鎖性や弊害を顧みることができなかった。

  両班
       囲碁をするソンビ・両班
 
 朝鮮における儒教・朱子学について簡単に述べておく、
 13世紀、儒教の一学派である朱子学が朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家統治理念として用いられた。朱子学が学問(官学)とし、官吏登用試験・科挙で唯一採用された。礼教と道徳政治を目ざしたのであった。
 ソンビたちにとって朱子学を学ぶことが朝鮮社会を生きる上での絶対的な条件となっていた。
 
 それまでの国教であった仏教が排され、朱子学以外の学問はすべて異端とされた。朝鮮王朝の後半は朱子学は創造性を失い形骸化していた。
 
 朱子学に凝りかまった朝鮮のソンビたちの価値観では、表面的な現象を観察できても、社会の深層を洞察することはできない。
 
 科挙の合格者であり、朱子学のエリートであった維翰も、やはり日本の社会を素直に見る能力を欠き、日本の良さを受容する度量を失っていた。

  日本は、人材を登用する科挙制度がなかったがために、朱子学にこだわらず、有用な学問・思想をとり入れる寛容な社会であった。

 江戸時代の朱子学は形だけが官学であったが、他の学問を抑圧したり、弾圧することはなかった。キリシタン禁制のほかは、学問や思想は自由であった。
 そのことが、その後、日本がアジアの中でどの国よりもいち早く、近代化の道を歩むことができた一要因であったと論じられている。

  復元船
        朝鮮通信使復元船
 
 第9次朝鮮通信使の製述官・申維翰が書き残した『海遊録』は、貴重な日本見聞録であるが、今一つ迫力がなく、物足りなさを感じるのはそのためでろうか。  つづく
 
    大阪における「朝鮮書籍」の出版


 朝鮮通信使が、江戸往来する各宿場では、使節員が泊まる使館に詩・画・書・筆談唱和を求める人々が訪れた。とくに大阪では、どこよりも多くの人々が使館に押しかけたのであった。

  DSC_5044.jpg
        朝鮮通信使行列図

 申維翰は、「大阪は、文を求める者が諸地方に倍してはげしく、あるときは鶏鳴のときに至っても寝られず、まさに食事を中断するというありさまである。その応対のかくの如く、なお、対馬人が阻止したため入りえない者があると聞く」と書き、押しかける人の多さに彼も悲鳴をあげたようである。

 維翰はまた、大阪の出版物の盛んなことにおどろいている、

 「大阪の書籍の盛んなこと、じつに壮観である。わが国の諸賢の文集のうち、日本人の尊称するところは、『退渓集』(朝鮮儒学の大家・李滉〈退渓テゲ〉1501-1570)に如くにない。すなわち、家でこれを踊し、戸でこれを講ずる。諸生たちとの筆談でも、その項目は、必ず『退渓集』中の語をもって第一義となす」とし、

  李退渓
        李退渓 韓国紙幣

 彼らの質問は「陶山書院の地は朝鮮の何郡に属するか」、「先生の後孫はいま幾人あり、何官をなすか」、「先生は生前、何を嗜好されたか」などなど、「記し尽くすことができないほど多かった」と述べている。

 『退渓集』は、江戸時代の朱子学者にとって座右の書になっていた。李退渓が生前に読書や講学した「陶山書院」は、今も慶尚北道安東に存在している。

  陶山書院
     陶山書院 韓国慶尚道安東郡

 申維翰が、もっとも驚いたのは日本人には見てほしくない「朝鮮書」のほとんどが、すでに刊行されていることであった。

 維翰は、「もっとも心を痛めたことは、金誠一の『海搓録』、柳成龍の『懲毖録』、姜坑の『看羊録』などの書には、両国の機密が多載されているのに、今そのすべてが大阪で刊行されていることである。これ、賊を探りながら賊に告げるのと、何が異なろうか。国家の紀綱が厳ならず、館訳(釜山倭館の通訳)の私的取引がかくの如くである。人をして心寒からしむものがある」と、

 その「3つの書」は、いずれも豊臣秀吉の朝鮮侵略にかかわる書籍で、内容は日本に知られたくない朝鮮側の内情や、把握していた日本側の内情などが書かれている。

 内容もさることながら「倭賊」、「倭酋」、「倭奴」など激しいことばがなげつけられていることから、朝鮮侵略に対する朝鮮人の怒り、憎しみが反映されている本である。

 このような本がどうして日本で出版されたのか、維翰は倭館の人たちの私的取引で入手したものと推測しているが、朝鮮にたいする情報活動の一端を示すものであろう。

  大阪1
      大阪堂島蔵屋敷 江戸時代

 しかし、この時期の大阪は、「天下の台所」といわれ、米の取引をはじめ商業が発達して、経済的ゆとりによって書物への需要が高かった。そのため情報活動のための「朝鮮書」の刊行ではなく、商いのための出版であった。

  大阪2
    米俵の荷降ろし風景 現中の島付近 

 維翰の嘆きをよそに、江戸時代の日本は、すでに出版業がりっぱな企業として成立し書籍が流通していたのである。

 朱子学の専門家であった維翰は、商業活動の一環として本が出版されることまでは観察することが出来なかったようである。

  つづく