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 申維翰が見た日本人の清潔・好奇心・秩序


  行列1
         朝鮮通信使行列 正使

   第9回朝鮮通信使の製述官・ 申維翰(シン・ユハン)が 書き残した 『海遊録』は、「日本道中日記」および、それをベースとした風土・風俗などについて整理した「日本聞見雑録」から構成されている。

 江戸時代の日朝間の文化的差異に関する考察・批評が記され 、随所に漢詩や風刺などが書かれている。

 維翰の日本観察は多岐にわたり、その観察力は鋭く、当時の日本・日本人を知るうえで興味深い内容となっている。

 その中から2,3の話題をとり上げてみる。

  日本人の清潔・衛生観について、
  「夏の暑いとき、ハエがはなはだ稀である。これはすなわち、室内を清潔にして汚さず、魚肉の腐敗したものはただちに土に埋め、厠間の悪臭を放つものはただちに田畔に移すからである」と述べている。、

 トイレや浴室について、
 「厠は雪隠(せっちん)という。雪隠の傍らには必ず浴室があり、浴室の中には大桶を置いて貯水する。その傍らには一床あり、床上には数尺の白布を置く、その俗は、用便ののち必ず先浴する。ゆえに桶あり、床あり、巾がある。男女交合の室にまた、この具を設ける」と維翰は、このように日本人の清潔好き、衛生観念の高さを称賛した。

 それでは、朝鮮の衛生状況、自国人の清潔度はどうだったのだろうか?
 維翰は、それには触れなかった。

  風呂屋2
        江戸時代の風呂屋

 また、日本人の好奇心について、

 日本では国俗として「書画を喜ぶ」と指摘しながら、
 「いわゆる文士は、あるいは千里の道を遠しとせず、来たりて使館に待つ。詩を求めて得ざれば、半行の筆談といえども珍しく感じてやまない。おもうに、文字の貴さをしりながら平素朝鮮を仰ぎ慕うのであろう。ゆえに、大官および貴人たちは、我が国人の筆語を得て他人に誇るための資としている」と書いている。

 そして、日本人の秩序について、

 「路をはさんで見物する者は、ことごとく正路の外に座し、小なる者は前に居り、やや大なるものは第2列をなし、またその大なる者はその後ろにあり、次々と隊をなし、静粛にして騒ぐ者がない。数千里を見たところで、1人として妄動して路を犯す者がない」と

 維翰は、日本人民衆の秩序正しい姿に感銘しながら、「これは礼教があってかくの如くに治まったものでなく、将軍と各州の藩主の政が兵制から出ており、大小の民衆が見て習ったもの、一に軍法の如きものである」と述べている。

  通信使楽隊
       朝鮮通信使行列 楽隊
 
 それでは、「礼教の国」とされた朝鮮国(李朝)の民衆の秩序感覚は如何なるものであったか、維翰は何も述べていないので知る由もない。

 しかし、通信使・製述官の申維翰が朝鮮では見られない、日本・日本人の肯定的な一面を率直に観察し、評価したことは確かである。

つづく

 
    申維翰の徳川吉宗評価  
 
  キャプチャ
        朝鮮通信使江戸入り
 
  第9次朝鮮通信使の製述官申維翰は、将軍・徳川吉宗について、次のように書いた、
 
 「吉宗は、人となりが精悍にして俊哲、今年35歳である。気性が魁傑にして、かつ局量あり、武を好んで文を喜ばず、倹約を尊び、華美を斥ける。また交隣の道についても、誠意を貴ぶこと、用向きがすめば徒らに滞留させず歓んで帰国させるべきだと言っている。行政においても純朴を先とし、窮民をいたわり、未納の租税を減らし、死罪にあたる者には鼻を削ぐことで死をのがれしめている。国民のなかで彼をほめない者はない、云々」 

  徳川吉宗
          徳川吉宗

 毒舌家の維翰にしては、異例の吉宗評価である。
 維翰は、将軍吉宗に会う前に、こうした予備知識を、対馬から江戸への道中、雨森芳洲から得ていた。

 こうした知識をもって、1719年10月、江戸城大広間の伝命(聘礼)の場で吉宗を見たのである。そのときの印象を
 「おおよそのところ、精悍で、首は細く、顔は細長く、色は黄色味を帯びて白い、豊かな顔つきとはいえない」と記し、
 
 「粗末な木綿衣は平素は良いにしても政庁に座して隣国の使臣と聘礼の行事をさすときもなぜ同じ服装であるのか、これは奇異を好むもので、これでは悪い習俗を正すことはできない」とチクリと批判もしている。

  大広間
         江戸城大広間

 家臣が「野に獣を追うて田畑を蹂躙し、害が農民に及ぶ。かつ微行して独り出は、不慮の事故をおもんばかる」
 すると吉宗喜んで曰く、「汝の言は誠に理あり。しかし、人君が安逸すればすなわち怠り、怠ればすなわち酒色におぼれ、必ず厭くなきにいたる。この猟なるものは、よく民とともに疾駆して、自らの筋力を労する。酒色をたしなむよりは、いささか勝るのではないか、人もし余を愛して戴ければ、日夜外に在りといえども彼らが吾を害することはない。ただし今後は猟道を整え、農場を犯すことなからしむべし。よって吉宗は、金絹を賜い、もって忠言した家臣を褒めた」(『海遊録』)と書き、維翰は吉宗に対し好印象をもった。 

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      吉宗も見学した馬上才 

 帰国後の朝鮮朝廷への報告でも維翰は、吉宗は倹約の奨励、錬武の習性、民衆におよぶ恩愛、また猟に出て村落に止宿する開放性などをあげ、その治世は見るべきものがあると激賞したのであった。
  
 維翰の報告は、それまでの通信使になかった異例の将軍評価であったため、朝鮮朝廷も吉宗への高い評価を定めたのであった。
 
 その後、吉宗が儒教よりは天文学や本草学などの実証と実用の学問を好み、西洋の科学書の輸入を認め、西洋医術・蘭学を奨励した。

  入城
     通信使一行江戸城に入る
 
 このような吉宗の施策を儒学・朱子学の才たけた維翰が認識して帰国したならば、果たして吉宗を上記のように肯定的に評価しただろうか?
        対馬での 別離

 1720年2月、第9次朝鮮通信使一行は江戸往還を終え対馬に戻った。 道中、苦楽を共にし親交深い雨森芳洲と申維翰の二人、ついに別れの日がやってきた。

  通信使船
      通信使船団 狩野探信画
 
 維翰は『海遊録』の中で、その時の様子を次のように書いている。

 雨森芳洲が船窓にきて相見し、あらためて別れの意をのべた。
 
 余は、筆話の間に、たまたま一聯を書して曰く、
「今夜、心づくしに見送ってくれるあなたに、この世ではもう二度と会えますまい」(今夕有情來送我 此生無計更逢君)

 雨森はこれを見て、声をころして泣きながら曰く、
 「吾、今老いたり、あえてふたたび世間事にあずかることもなく、対馬の土となる日を待ばかりである。なお何を望もうか。ただ願わくは、諸侯は国に帰って朝廷で栄達の道を全うせられてほしい」
 流暢な朝鮮語で語り、涙で頬を濡らした。
 
 余曰く、「もとより君の鉄心石腸たるをしる。今何ぞ女児の態をなす」

 先の通信使のとき、あれほど親しく交わった李東郭(8次通信使製述官)は、すでにこの世の人ではなかった。通信使との出会いは、人生一度きりの交わりであったのである。 

 雨森曰く、「前回の信使の諸侯も相愛の深さは今日の如くであった。名残り惜しい心をどうしょうもなかったが、 しかし、 今回の別離のように涙はなかった。十年このかた、精神と髭髪がすでに老醜となる。古人のいうところの暮境に情弱しとは、けだしかくの如きをいうのであろう」

  厳原港
       現在の対馬厳原港

 こうして二人は対馬の府中厳原の港で別れ、維翰は朝鮮に帰っていった。
 
 芳洲から朝廷で栄達されんことをと見送られた維翰であったが、国を代表する製述官に選ばれるほどの抜群の文才を持ちながら、昇進することなく官位は低いままに終わった。

 朝鮮朝(李朝)の支配階級は両班であった。維翰は、両班出身であったが 庶子であった。朝廷では 嫡庶の差別は厳しく、庶子がたとえ科挙に合格しても官職につくことは難しい時代であった。
 
 申維翰が歴史にその名を残したのは、朝鮮通信使の製述官として、対馬の真文役・雨森芳洲と日本往来を共にし、紀行文『海遊録』を書き残したからである。

  2ぷさん
       現在の釜山港

 一方、 維翰に涙ながらに「今 老いたり、対島の土となる日を待つばかりである」と語った 芳洲は、その後36年を生き長らえた。
 芳洲は、晩年に不朽の名著『交隣提醒』をはじめ幾多の著作を残した。

 二人が残した著作は、江戸中期の日本の事情や日朝関係を知るうえで、なくてはならない文献とされている。つづく
    大阪における芳洲と維翰

  1719年11月、第9次朝鮮通信使一行は帰路の大阪に着いた。雨森芳洲と申維翰の二人は、京都におけると同様、秀吉について議論する機会があった。

  船団1
      朝鮮通信使護送船団

 維翰「秀吉はわが国の通天の仇である。わが国の臣民たる者、誰かその肉を切り刻みて食わんと思わぬ者がいようか。秀吉は既にして貴国の故君である。君もまた、その悪を語るを憚るものであるのか」
 
 芳洲は敢然として、「 然らず、かれ(秀吉)は豺虺(山犬、まむし)の性(さが)が天人の厄運(わざわい)に応じて生まれてきた者だ。故にその屠殺の惨は貴国のみならず、日本人で一族ことごとく誅殺せられて、その宗族を断たれた者、計り知れない」

 維翰「しかし、秀吉も日本においてなにがしかの功徳があったのではないか」

 芳洲は「少しの功徳もない」と断固と否定し、「余のごとき者も、高祖、曽祖以前は、世に雨森守といって官をもって姓をなしたものだ。しかし彼らも打ち平げられ、一、二の子孫が死をおそれて民間人になって幸いに余卵を保ち得た。その人を念うごとに実に恨みに胸の痛む思いがする」
  「織田信長の軍勢と浅井・朝倉の激戦のなかで秀吉が行った皆殺し作戦によって、浅井の一族雨森芳洲の先祖はことごとく殺された」ことを明らかにし、「朝鮮各地で展開された地獄図は、まさにその延長線上におこなわれた」(申維翰『海遊録』)と秀吉の蛮行を厳しく批判した。

      東洋文
        申維翰著 姜在彦訳

 こうして芳洲は、 自身の出自を告白すると共に、はじめて秀吉に対する恨みを 維翰の前に 吐露したのであった。

 芳洲と維翰の 会話は、秀吉の朝鮮侵略戦争(文禄・慶長の役)における蛮行・ 「屠殺の惨」に対する 認識を共有すると共に、お互いの 立場を尊重しつつも、二人は国境を越えて交友 の度を深めた。

 二人はまた、うちとけた冗談も言いあい、くつろいだ会話もしていた。

 男娼について、申維翰が「貴国の俗は奇怪きわまる。男女の情欲は、ほんらい天地から生々の理であり、四海に共通する。世間にどうしてひとり陽だけあって陰なく、しかして相感じ相悦びうることがあろうか」
 
 芳洲は笑いながら「学士はまだその楽しみ知らざるのみ」と答えた。
 
 「芳洲ほどの人物ですら、こんなことを言っている」と維翰は驚いたりしている。

       芳洲
          雨森芳洲          

 通信使の 対馬から江戸までの往復6か月の道中、芳洲と維翰の二人は、お互いの立場から論争することがしばしばあったが、困難な船旅を共にし、助け合いながら互いの職務を果たし無事対馬に戻った。

 二人の別れの日が近づいていた。 
            つづく