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2019.03.27
朝鮮通信使42
京都における芳洲と維翰

朝鮮通信使行列図
対馬藩主は、 朝鮮通信使一行の 江戸から帰り道、 大津で京都の大仏殿(方広寺)へ立ち寄るよう将軍の意向を伝えた。
使節側は、大仏寺が 秀吉の願堂であることを理由に拒否した。
対馬藩は京都所司代と協議して、「大仏寺は源氏(徳川氏)の世に建設されたもので、秀吉の子孫は関係がない。また、京都の大仏寺に立ち寄るのは何も今回がはじめてではないし、前回の使行よりの例としたことです」と説得した。

方広寺(大仏寺) 京都市
しかし応じようとしないことに腹をたてた雨森芳洲は,『日本年代記』を資料として示しながら,
「わが主君が隣好をおもって国史に著して徳川の寺だと明らかにしているのに、これを信じないのは我を卑しみ我を弱らせるものであり、ただ死あるのみ」とはげしく申維翰ら使節につめ寄った。
いつもおだやかな芳洲が、人が変わったような怒り方であったいう。
対馬藩の真文役として、任務を無事に果たさんと真剣な芳洲は、幕府側と使節側の板挟みの立場に立たされ、いつになくはげしい論客に変身させたのであった。
これの対し、維翰はおちついた態度で冷静に芳洲を見ていた。
若いが気骨があり、毒舌家の維翰は、このときの芳洲の様子を「朝鮮語と日本語を雑用しながら、獅子のごとく吼え、針鼠のごとく奪い、牙を奪い、まなじりを裂き、その状はいまにも剣を抜かんばかりである」と書いている。(申維翰『海遊記』)
誰が書いたかわからない『日本年代記』をとりあげて、いかに弁明しても大仏寺は豊臣秀吉の発願によって1586年このかた、京都東山阿弥陀が峰の山麗に造営されたものである。
1595年から千僧供養がはじまり、毎月行われたが1596年の地震で中断し、その翌年、信濃善光寺の如来像が秀吉への夢告にもとずいて大仏寺に迎えられたのであった。
秀吉なきあと、秀頼によって大仏の造立計画が立てられたが、火の不始末から大仏は溶解し、大仏殿も炎上した。
こうして大仏再建は中断したが、徳川家康のすすめで再建計画がふたたび軌道にのり、1611年仏殿が姿を現した。願主は豊臣秀頼であった。
再建事業が終わりを告げたそのおり、「方広寺梵鐘事件」がおこり、1614年に予定されていた大仏開眼供養は家康の命令で中止された。

現在も残る「梵鐘事件」の鐘
その後、再度の地震で倒壊し、大仏殿がふたたび復興されたのは1667年であった。たしかに復興は徳川家のもとに行われたが、その由来はまぎれもなく、豊臣家の発願による造立と再建であった。
維翰はそのような大仏寺の造立・再建のいきさつを知っていた。そのうえで芳洲に向かって、
「君は読書人に非ざるか。何ぞ怒って、理におそれることかくのごときか」と問いかけた。
この言葉に、 芳洲は 秀吉の朝鮮侵略を批判する理性をとり戻した。
そしてお互いの立場を尊重して正使と副使が招宴に儀礼的に参加し、 通信使一行の方広寺立ち寄りは中止された。耳塚は囲いをして見えなくしたという。

「耳塚」秀吉の侵略戦争で犠牲朝鮮人の耳鼻を埋葬
芳洲は後に、「仏のめぐみは仏像の大小によるもではありませんのに、有用の財を費やして無意味な大仏を作らせたことは又、朝鮮人を馬鹿にいたしますところで、耳塚というのも、豊臣家が名義の立たぬ戦を起こし、両国の無数の人民を殺害されたという事ですから、耳塚訪問は、その暴悪ぶりを、再び言い出すことに他ならず、いずれも自慢の種にはなりません。かえって我国の学問のなさ、無知を露呈するだけでございます」(雨森芳洲『交隣提醒』)
芳洲は、日本人が見えにくいものを、「朝鮮人が外からみてよく指摘してくれる」ことも記している。
雨森芳洲は、相手国に対し先入観を入れず、お互いの議論を闘わせ、双方が納得する合理的な結論を得るという、今日の国際理解の原則を、300年前、すでにそれを説き「誠信」外交を実行していたのである。
つづく

朝鮮通信使行列図
対馬藩主は、 朝鮮通信使一行の 江戸から帰り道、 大津で京都の大仏殿(方広寺)へ立ち寄るよう将軍の意向を伝えた。
使節側は、大仏寺が 秀吉の願堂であることを理由に拒否した。
対馬藩は京都所司代と協議して、「大仏寺は源氏(徳川氏)の世に建設されたもので、秀吉の子孫は関係がない。また、京都の大仏寺に立ち寄るのは何も今回がはじめてではないし、前回の使行よりの例としたことです」と説得した。

方広寺(大仏寺) 京都市
しかし応じようとしないことに腹をたてた雨森芳洲は,『日本年代記』を資料として示しながら,
「わが主君が隣好をおもって国史に著して徳川の寺だと明らかにしているのに、これを信じないのは我を卑しみ我を弱らせるものであり、ただ死あるのみ」とはげしく申維翰ら使節につめ寄った。
いつもおだやかな芳洲が、人が変わったような怒り方であったいう。
対馬藩の真文役として、任務を無事に果たさんと真剣な芳洲は、幕府側と使節側の板挟みの立場に立たされ、いつになくはげしい論客に変身させたのであった。
これの対し、維翰はおちついた態度で冷静に芳洲を見ていた。
若いが気骨があり、毒舌家の維翰は、このときの芳洲の様子を「朝鮮語と日本語を雑用しながら、獅子のごとく吼え、針鼠のごとく奪い、牙を奪い、まなじりを裂き、その状はいまにも剣を抜かんばかりである」と書いている。(申維翰『海遊記』)
誰が書いたかわからない『日本年代記』をとりあげて、いかに弁明しても大仏寺は豊臣秀吉の発願によって1586年このかた、京都東山阿弥陀が峰の山麗に造営されたものである。
1595年から千僧供養がはじまり、毎月行われたが1596年の地震で中断し、その翌年、信濃善光寺の如来像が秀吉への夢告にもとずいて大仏寺に迎えられたのであった。
秀吉なきあと、秀頼によって大仏の造立計画が立てられたが、火の不始末から大仏は溶解し、大仏殿も炎上した。
こうして大仏再建は中断したが、徳川家康のすすめで再建計画がふたたび軌道にのり、1611年仏殿が姿を現した。願主は豊臣秀頼であった。
再建事業が終わりを告げたそのおり、「方広寺梵鐘事件」がおこり、1614年に予定されていた大仏開眼供養は家康の命令で中止された。

現在も残る「梵鐘事件」の鐘
その後、再度の地震で倒壊し、大仏殿がふたたび復興されたのは1667年であった。たしかに復興は徳川家のもとに行われたが、その由来はまぎれもなく、豊臣家の発願による造立と再建であった。
維翰はそのような大仏寺の造立・再建のいきさつを知っていた。そのうえで芳洲に向かって、
「君は読書人に非ざるか。何ぞ怒って、理におそれることかくのごときか」と問いかけた。
この言葉に、 芳洲は 秀吉の朝鮮侵略を批判する理性をとり戻した。
そしてお互いの立場を尊重して正使と副使が招宴に儀礼的に参加し、 通信使一行の方広寺立ち寄りは中止された。耳塚は囲いをして見えなくしたという。

「耳塚」秀吉の侵略戦争で犠牲朝鮮人の耳鼻を埋葬
芳洲は後に、「仏のめぐみは仏像の大小によるもではありませんのに、有用の財を費やして無意味な大仏を作らせたことは又、朝鮮人を馬鹿にいたしますところで、耳塚というのも、豊臣家が名義の立たぬ戦を起こし、両国の無数の人民を殺害されたという事ですから、耳塚訪問は、その暴悪ぶりを、再び言い出すことに他ならず、いずれも自慢の種にはなりません。かえって我国の学問のなさ、無知を露呈するだけでございます」(雨森芳洲『交隣提醒』)
芳洲は、日本人が見えにくいものを、「朝鮮人が外からみてよく指摘してくれる」ことも記している。
雨森芳洲は、相手国に対し先入観を入れず、お互いの議論を闘わせ、双方が納得する合理的な結論を得るという、今日の国際理解の原則を、300年前、すでにそれを説き「誠信」外交を実行していたのである。
つづく
2019.03.21
朝鮮通信使41
雨森芳洲と申維翰の協調と論争
対馬藩の真文役(通信使接待役)雨森芳洲と9次朝鮮通信使の製述官申維翰(シンユハン)は、対馬から江戸往還の長い道中、互いに助け合いながら行動を共にした。

朝鮮通信使往還道
申維翰の主な役目は、各地で唱和を求めて来る文人たの対応である。次から次へと押し寄せてくる文人たちと漢詩を唱和し、書の揮毫をし、詩文集の序を書いてやり、また筆談に応じてやることであった。
雨森芳洲の役目は、 各所で使節員との 接触を希望する人たちを取り次ぎ、通訳をしてやることであった。
希望者たちはあらゆるコネを利用して、維翰らに接触しょうとする。そのたびに芳洲は 維翰らに気を使いながら、辞を低くして依頼するのであった。
維翰は、そのような芳洲の気苦労を理解し同情した。
そして芳洲自身も、維翰らとたびたび詩の唱和をしたり、さまざまな話題について話し合った。しかし認識のズレが表面化し、激しい論争になることもあった。

芳洲の故郷 芳洲庵 長浜市
帰路の大阪に到着したおり、芳洲が維翰に向って、
「かねてから聞きたいと思ったことがあるが、日本と朝鮮は海を隔てた隣国であり、互いに信義を通じ合い、崇敬しあっている。ところが貴国の文集を見ると、日本に及ぶところは必ず倭賊、倭酋などと称し、言うに忍びないものがある、これをどう思うか」と迫った。
維翰「それは容易に理解できるが、日本こそ事実をよく知らないようだ。君が見た朝鮮の文集とは誰の著作かわからないが、それはすべて壬申の乱(秀吉の朝鮮侵略)以後に刊行されたものであろう。秀吉はわが国の通天の敵であるためわが国の臣民であるなら、その肉を切り刻んだ食らうことすらいとわない心情だ。それほど深い恨みが文章になるのは当然のことであろう。しかし今日に至っては、互いに和睦をおさめているのであるから、あえて宿怨を再発させる必要はない」
芳洲「それはそうだが、いまでも朝鮮の人は、わが国の人間を必ず倭人と呼んでいる。これは望ましくない」
維翰「貴国に倭の名があるのは、すでに古代からである。どうしてそれが気になるのか」
芳洲「唐史に倭とあるのを改め、今は国号を日本としている。したがって今後は日本人と呼んでほしい」
維翰「貴国の人はわれわれを唐人と言い、わが国の人間の筆帖を唐人筆跡だと言っている。これはなぜか」
芳洲「国令では使節を客人と言い、あるいは朝鮮人と言っている。しかし日本では古くから、貴国の文物を中華と同等に見なしている。したがって貴国の人を唐人と言い、慕っているのである」
このような論争が果てしなくつづくこともあったという。

維翰の故郷 伽耶博物館 高霊 慶尚道
長い江戸往還道中、芳洲と維翰のお互いの気心が通じ合う仲となり、二人の間には国境を越えた友情が育まれていた。
二人はお互いの立場を尊重しつつ、何事においても建前だけでなく、腹を割って率直に意見を述べ合える間がらになっていた。
だからこその「言うべきは言い」、「正すべきは正す」日朝の代表的な見識者の論争ができたのあろう 。
つづく
対馬藩の真文役(通信使接待役)雨森芳洲と9次朝鮮通信使の製述官申維翰(シンユハン)は、対馬から江戸往還の長い道中、互いに助け合いながら行動を共にした。

朝鮮通信使往還道
申維翰の主な役目は、各地で唱和を求めて来る文人たの対応である。次から次へと押し寄せてくる文人たちと漢詩を唱和し、書の揮毫をし、詩文集の序を書いてやり、また筆談に応じてやることであった。
雨森芳洲の役目は、 各所で使節員との 接触を希望する人たちを取り次ぎ、通訳をしてやることであった。
希望者たちはあらゆるコネを利用して、維翰らに接触しょうとする。そのたびに芳洲は 維翰らに気を使いながら、辞を低くして依頼するのであった。
維翰は、そのような芳洲の気苦労を理解し同情した。
そして芳洲自身も、維翰らとたびたび詩の唱和をしたり、さまざまな話題について話し合った。しかし認識のズレが表面化し、激しい論争になることもあった。

芳洲の故郷 芳洲庵 長浜市
帰路の大阪に到着したおり、芳洲が維翰に向って、
「かねてから聞きたいと思ったことがあるが、日本と朝鮮は海を隔てた隣国であり、互いに信義を通じ合い、崇敬しあっている。ところが貴国の文集を見ると、日本に及ぶところは必ず倭賊、倭酋などと称し、言うに忍びないものがある、これをどう思うか」と迫った。
維翰「それは容易に理解できるが、日本こそ事実をよく知らないようだ。君が見た朝鮮の文集とは誰の著作かわからないが、それはすべて壬申の乱(秀吉の朝鮮侵略)以後に刊行されたものであろう。秀吉はわが国の通天の敵であるためわが国の臣民であるなら、その肉を切り刻んだ食らうことすらいとわない心情だ。それほど深い恨みが文章になるのは当然のことであろう。しかし今日に至っては、互いに和睦をおさめているのであるから、あえて宿怨を再発させる必要はない」
芳洲「それはそうだが、いまでも朝鮮の人は、わが国の人間を必ず倭人と呼んでいる。これは望ましくない」
維翰「貴国に倭の名があるのは、すでに古代からである。どうしてそれが気になるのか」
芳洲「唐史に倭とあるのを改め、今は国号を日本としている。したがって今後は日本人と呼んでほしい」
維翰「貴国の人はわれわれを唐人と言い、わが国の人間の筆帖を唐人筆跡だと言っている。これはなぜか」
芳洲「国令では使節を客人と言い、あるいは朝鮮人と言っている。しかし日本では古くから、貴国の文物を中華と同等に見なしている。したがって貴国の人を唐人と言い、慕っているのである」
このような論争が果てしなくつづくこともあったという。

維翰の故郷 伽耶博物館 高霊 慶尚道
長い江戸往還道中、芳洲と維翰のお互いの気心が通じ合う仲となり、二人の間には国境を越えた友情が育まれていた。
二人はお互いの立場を尊重しつつ、何事においても建前だけでなく、腹を割って率直に意見を述べ合える間がらになっていた。
だからこその「言うべきは言い」、「正すべきは正す」日朝の代表的な見識者の論争ができたのあろう 。
つづく
2019.03.15
玉川上水駅周辺の風景56
富士山と夕日と雲19
一週間のペースで、「 朝鮮通信使」の 記事を
更新をするつもりで奮闘しているが、
なかなか思うように記事作成が進まず、
アッという間に一週間がすぎてしまった。
やむをえず、
ブログサイト「東大和どっとネット」に、
載せた「玉川上水駅周辺の風景」の中から
「富士山と夕日と雲19」を発信します。
次回は必ず、朝鮮通信使41を掲載します。
よろしく、
一週間のペースで、「 朝鮮通信使」の 記事を
更新をするつもりで奮闘しているが、
なかなか思うように記事作成が進まず、
アッという間に一週間がすぎてしまった。
やむをえず、
ブログサイト「東大和どっとネット」に、
載せた「玉川上水駅周辺の風景」の中から
「富士山と夕日と雲19」を発信します。
次回は必ず、朝鮮通信使41を掲載します。
よろしく、
2019.03.08
朝鮮通信使40
雨森芳洲と申維翰の言い争い
第9次朝鮮通信使が対馬府中に到着して三日後、藩主・宗義誠の招待による交歓会が開かれた。

対馬藩主宗家居館跡
申維翰は、訳官や文士、画家らとともに藩主邸に赴いた。対馬の文士たちと恒例の宴会であった。
食事が終わるころ、「太守(藩主)がおいでになった」と叫び声があった。
すると、皆いっせいにたち上がろうとした。
そのとき申維翰が「諸君、安座せよ」と大声で言った。
それを聞いた雨森芳洲が、「何を言うか」と反発し、維翰と芳洲の言い合いがはじまった。
維翰にすれば、前回の使節団が新井白石の儀礼改革により面子を傷つけられた失敗を踏まえ、その轍を踏まないよう気負っていた。
「自分が島主の前にすすみ出て拝むのは、がまんできない」
といった。
すると芳洲が「それが慣例だ」と言い返した。
それに対し維翰は、「この島は朝鮮の一洲県にすぎない、我々をあなどるものだ」と言い、
芳洲は怒り、「旧例を一朝にして廃止するのは、我々をあなどるものだ」と大声で言い返した。

対馬淺田城 高麗門
しかし、これ以上の言い争いは、お互いのためにならないと判断した芳洲は、島主が宴会場に顔を出さないようにしたので、その場はおさまった。
芳洲の機転により、大きなトラブルになることなく無事に宴会を終えた。維翰らは宿舎の西山寺に帰った。
この言い争いは、朝鮮語でやり合ったと思われるが、確かめられなかった。
芳洲は外交官として、大人の対応をしたこだけは確かである。

朝鮮式山城 金田城跡
数日後、対馬藩の先導役で 通信使一行は対馬府中を出港した。その状況を維翰は次のように書いた。
「帆を上げたとき、初めて東の山に陽がのぼった。
島主、長老をはじめ、奉行、裁判にそれぞれ船があり、随行者は千人をもって数え、大小の船をもって数え、あたかも一島が空になったような感じだ」(申維翰『海遊録』)

日朝国境の島・対馬
雨森芳洲も、対馬藩真文役として通信使一行に同行していた。
つづく
第9次朝鮮通信使が対馬府中に到着して三日後、藩主・宗義誠の招待による交歓会が開かれた。

対馬藩主宗家居館跡
申維翰は、訳官や文士、画家らとともに藩主邸に赴いた。対馬の文士たちと恒例の宴会であった。
食事が終わるころ、「太守(藩主)がおいでになった」と叫び声があった。
すると、皆いっせいにたち上がろうとした。
そのとき申維翰が「諸君、安座せよ」と大声で言った。
それを聞いた雨森芳洲が、「何を言うか」と反発し、維翰と芳洲の言い合いがはじまった。
維翰にすれば、前回の使節団が新井白石の儀礼改革により面子を傷つけられた失敗を踏まえ、その轍を踏まないよう気負っていた。
「自分が島主の前にすすみ出て拝むのは、がまんできない」
といった。
すると芳洲が「それが慣例だ」と言い返した。
それに対し維翰は、「この島は朝鮮の一洲県にすぎない、我々をあなどるものだ」と言い、
芳洲は怒り、「旧例を一朝にして廃止するのは、我々をあなどるものだ」と大声で言い返した。

対馬淺田城 高麗門
しかし、これ以上の言い争いは、お互いのためにならないと判断した芳洲は、島主が宴会場に顔を出さないようにしたので、その場はおさまった。
芳洲の機転により、大きなトラブルになることなく無事に宴会を終えた。維翰らは宿舎の西山寺に帰った。
この言い争いは、朝鮮語でやり合ったと思われるが、確かめられなかった。
芳洲は外交官として、大人の対応をしたこだけは確かである。

朝鮮式山城 金田城跡
数日後、対馬藩の先導役で 通信使一行は対馬府中を出港した。その状況を維翰は次のように書いた。
「帆を上げたとき、初めて東の山に陽がのぼった。
島主、長老をはじめ、奉行、裁判にそれぞれ船があり、随行者は千人をもって数え、大小の船をもって数え、あたかも一島が空になったような感じだ」(申維翰『海遊録』)

日朝国境の島・対馬
雨森芳洲も、対馬藩真文役として通信使一行に同行していた。
つづく
2019.03.01
朝鮮通信使39
第9次朝鮮通信使往還
雨森芳洲と申維翰の出会い
1712年、将軍家宣が50歳で死去し、わずか4歳の家継が7代将軍となった。ところが、それから4年後、家継がわずか8歳で亡くなり、徳川宗家の血統が絶えた。
その後、御三家のうち紀伊藩の徳川吉宗が江戸城に迎えられ、八代将軍となった。

八代将軍 徳川吉宗
吉宗は、ただちに新井白石をはじめ、彼を支えたきた幕閣を全て解任した。ただ、白石に批判的だった老中の土屋正直だけ留任させた。
吉宗は、対馬藩主・宗義方(よしみち)を江戸に呼び、前回の新井白石の儀礼改革(聘礼変更)をすべて撤回して、元の儀礼(7次通信使1682年)に戻す決断を伝えた。そして、2年後の秋に朝鮮国の祝賀使節派遣を要請するよう命じた。
朝鮮国では、1711年の家宣将軍就任を祝賀する通信使が、一方的な白石の儀礼変更によって受けた侮辱に対し、責任を三使に問い処罰したものの、小中華の朝鮮にとって体面を傷つけられた禍根が残っていた。
そのような朝鮮国に、対馬から幕府が新井白石の追放と儀礼を旧例にもどしたことを伝えるとともに、 吉宗将軍の就任祝賀の通信使派遣の要請をした。
朝鮮朝廷は、自尊心を蘇らせ 日本に対し不信をもちつつも 通信使派遣に応じた。

対馬府中 厳原港
1719年6月、第9次朝鮮通信使一行475名は、釜山を発ち対馬府中に着いた。厳原港外で新しく藩主となった宗義誠、以亭庵僧らの出迎えをうけた。
この使節団に,三使に次いでナンバー4の製述官・申維翰(シン・ユハン)が就いていた。
維翰は、科挙に合格し官職に就いたが、中央政治の乱れに嫌気して帰郷,老母につくしながら詩書画を友として平穏にくらしていた。しかし、都で官職に就いている間に彼の文才が噂になって製述官に推薦されたのであった。
製述官は、文書の起草や、日本の文人との対応・交流にあたる重要な任務を担っていた。
申維翰を待ちうけていたのは雨森芳洲であった。彼は 対馬藩の真文役として通信使一行に随行して、 各藩の文人や学者たちを製述官との交歓をとり結ぶ役割を担っていた。

雨森芳洲
芳洲は、通信使の客館である西山寺を訪ねた。申維翰は
「夕刻、雨森芳洲が余の館に来たり、面会を求めた。余は3書記とともに立って会向かい、親愛と敬愛をこめてあいさつして座った。余はもともとその人が能く漢語に通じ、詩文を解し、日本国においてぬきんでた人物たるを聞いていた」(『海遊録』)と記している。
芳洲は「前回(1711年)に来られました信使のみなさまとは深く交際をさせていただきました」と語り、前回使節の安否など尋ねた。
維翰は、それに答えながら「詩人としての芳洲さんのお名前はよく知られていますが、どれくらいたくさんの詩作をされ著述されましたか」と聞いた。
「いえ、とんでもございません。あなた様のお言葉にお答えできるほどのものではございません」と芳洲は謙虚に答え、酒果をすすめ、言葉をつづけた。
「日本人は文章をまなんでいるといっても貴国とは大いにちがいまして、一生懸命にはげんでおりますもののなかなか困難でございます。あなた様はこれから江戸に行かれますが、沿路で引接する多くの詩文は、おそらく拙劣な作品が多いと思います。しかし、彼らとしては、千辛万苦やっと得ることのできた詩です。どうか唾棄されることなく、寛容にして、はげまして下さればありがたいです」
芳洲は、日本の文人たちが押しかけ来て、それに対応しなければならない製述官の苦労をよく知っていた。
芳洲52歳、維翰39歳、13も年下の維翰にやさしく諭し、前もって理解を求めたのであった。
二人は、お互いに両国の立場を堅持しつつ、時には激論を交わし衝突することもあったが、江戸往還の道中では和やかな付き合いをつづけたという。
つづく
雨森芳洲と申維翰の出会い
1712年、将軍家宣が50歳で死去し、わずか4歳の家継が7代将軍となった。ところが、それから4年後、家継がわずか8歳で亡くなり、徳川宗家の血統が絶えた。
その後、御三家のうち紀伊藩の徳川吉宗が江戸城に迎えられ、八代将軍となった。

八代将軍 徳川吉宗
吉宗は、ただちに新井白石をはじめ、彼を支えたきた幕閣を全て解任した。ただ、白石に批判的だった老中の土屋正直だけ留任させた。
吉宗は、対馬藩主・宗義方(よしみち)を江戸に呼び、前回の新井白石の儀礼改革(聘礼変更)をすべて撤回して、元の儀礼(7次通信使1682年)に戻す決断を伝えた。そして、2年後の秋に朝鮮国の祝賀使節派遣を要請するよう命じた。
朝鮮国では、1711年の家宣将軍就任を祝賀する通信使が、一方的な白石の儀礼変更によって受けた侮辱に対し、責任を三使に問い処罰したものの、小中華の朝鮮にとって体面を傷つけられた禍根が残っていた。
そのような朝鮮国に、対馬から幕府が新井白石の追放と儀礼を旧例にもどしたことを伝えるとともに、 吉宗将軍の就任祝賀の通信使派遣の要請をした。
朝鮮朝廷は、自尊心を蘇らせ 日本に対し不信をもちつつも 通信使派遣に応じた。

対馬府中 厳原港
1719年6月、第9次朝鮮通信使一行475名は、釜山を発ち対馬府中に着いた。厳原港外で新しく藩主となった宗義誠、以亭庵僧らの出迎えをうけた。
この使節団に,三使に次いでナンバー4の製述官・申維翰(シン・ユハン)が就いていた。
維翰は、科挙に合格し官職に就いたが、中央政治の乱れに嫌気して帰郷,老母につくしながら詩書画を友として平穏にくらしていた。しかし、都で官職に就いている間に彼の文才が噂になって製述官に推薦されたのであった。
製述官は、文書の起草や、日本の文人との対応・交流にあたる重要な任務を担っていた。
申維翰を待ちうけていたのは雨森芳洲であった。彼は 対馬藩の真文役として通信使一行に随行して、 各藩の文人や学者たちを製述官との交歓をとり結ぶ役割を担っていた。

雨森芳洲
芳洲は、通信使の客館である西山寺を訪ねた。申維翰は
「夕刻、雨森芳洲が余の館に来たり、面会を求めた。余は3書記とともに立って会向かい、親愛と敬愛をこめてあいさつして座った。余はもともとその人が能く漢語に通じ、詩文を解し、日本国においてぬきんでた人物たるを聞いていた」(『海遊録』)と記している。
芳洲は「前回(1711年)に来られました信使のみなさまとは深く交際をさせていただきました」と語り、前回使節の安否など尋ねた。
維翰は、それに答えながら「詩人としての芳洲さんのお名前はよく知られていますが、どれくらいたくさんの詩作をされ著述されましたか」と聞いた。
「いえ、とんでもございません。あなた様のお言葉にお答えできるほどのものではございません」と芳洲は謙虚に答え、酒果をすすめ、言葉をつづけた。
「日本人は文章をまなんでいるといっても貴国とは大いにちがいまして、一生懸命にはげんでおりますもののなかなか困難でございます。あなた様はこれから江戸に行かれますが、沿路で引接する多くの詩文は、おそらく拙劣な作品が多いと思います。しかし、彼らとしては、千辛万苦やっと得ることのできた詩です。どうか唾棄されることなく、寛容にして、はげまして下さればありがたいです」
芳洲は、日本の文人たちが押しかけ来て、それに対応しなければならない製述官の苦労をよく知っていた。
芳洲52歳、維翰39歳、13も年下の維翰にやさしく諭し、前もって理解を求めたのであった。
二人は、お互いに両国の立場を堅持しつつ、時には激論を交わし衝突することもあったが、江戸往還の道中では和やかな付き合いをつづけたという。
つづく
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