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   朝鮮通信使・苦難の旅つづく

 1711年11月、江戸城において第8次朝鮮通信使の国書伝達式と饗宴が開かれた。

  国書運搬
        朝鮮王の国書を運ぶ輿

 この宴席で、通信使正使が御三家の不参加や儀礼の改変に不満を述べ、旧例にもどして欲しいと要求したが、新井白石の巧みな論理にかわされ、饗宴は和やかな雰囲気で終わった。

 その後、舞楽や馬上才の演技、儀礼など全ての行事が無事 終わり、通信使は朝鮮国王の国書に対する家宣 将軍の返書・国書を受けとり帰国の途に着くだけとなった。

 しかし、その返書が届いたときから幕府側と使節側の間で トラブルが起こり、険悪な雰囲気へと暗転した。

 将軍の国書の中に、朝鮮の中宗(7代前の王、在位1506~1544)の諱(いみな・死者の生前の名)である「懌」(えき)の字があったからである。

 朝鮮では、一般の人でも亡くなった人の名前を使うことを「犯字」といって忌避されている。

 中宗の幼名が李懌であった 。使臣たちにとって、王の「諱」を使った国書を持ち帰ると「犯諱 (はんき)」の罪に問われることになる。
 
 そのため、三使は「臣は死んでも、この書を持って一歩も門外に出ることはできない」と国書の書き変えを要求したのであった。

 幕府側は、朝鮮の国書には「光」の字が入っている、これは家宣の祖父に当たる家光将軍の「諱」を犯しているから、先に朝鮮側の国書を改めるよう反論したのであった。

 日本では父親や祖父あるいは先祖の名前を使っても、何ら問題になるものではなかった。

 家光が祖父家康の一字をもらうとか、綱吉が家綱の一字をもらうことによって将軍の権威を高めたのであり、諸大名のうち将軍の一字をいただくのは、無上の光栄なのである。

 「諱」の問題は、明らかに両国の習慣・文化の違いであったが、日本側が「光」の字を「諱」と持ちだ出しのはこじつけであった。

 日本側の国書を作成したのは新井白石であり、「光」の一字を「諱」としてもち出したのも白石であった。

 幕府側が、たった一字・「懌」の字を直せば解決できることであった。

 老中、対馬藩主をはじめ関係者は、朝鮮側の要求を受け入れ円満な解決を望んだ。

 馬上10
        馬上才 馬上立技
 
 白石は、朝鮮での「犯諱」の法がきびしいことを知らなかったのか、自分の非を認めたくなかったのか、朝鮮とは「対等な外交関係を確立」すべきとして、あくまでも、まず朝鮮側から国書の書き変えを要求をしたのであった。
 
 譜代の老中・土井政直は「平地に波乱を起こす者」として白石を「殺害」するかまえであったという。

 雨森芳洲は「わが国にはかって、「犯字」の法がなかった。いま朝鮮にかぎってこの挙に出るのは、じつに恥ずべきことである。三使が改めるを請うのは事理である。わが国が難しく考えすぎて、不当に「光」の字を改めることを要請するのは、「蛮」の称を逃れない」と白石に激しく抗議し、国書の書き変えを求めた。

    新井白石
           新井白石画像

 白石は「自分の国の慣習を楯に、すでに渡された国書を書き直せというのは、あまりにも自分本位の無礼な話ではないか」と朝鮮側の要求を断固拒否し、一字をめぐって揉めに揉めた。

 朝鮮の事情をよく知る芳洲は「先方がそれで納得することはありますまい。このまま返書を持ち帰れば国法によってきびしく罰せられることは火を見るより明らかですぞ、この問題は後をひきますぞ」と白石に迫った。

芳洲は、「この男、彼の国の者のような口をききおる」と言われながらも、 無理難題を持ちかけた白石の冷酷な姿勢に憤慨し朝鮮の使臣たちに同情をよせたのであった。

 白石は、「すべて将軍の命令であるからどうにもならない」と最後まで妥協しなかった。
 
 そして、幕府側がもち出した提案は、「懌」の字を改めた日本側の国書と、「光」の字を改めた朝鮮側の国書を交換するというものであった。

 しかし、朝鮮側が国書を改めるには、いったん本国に送り返して国王の意向をうかがわねばならない。

  正使
       通信使正使と国書

 朝鮮側は、激しく反発して論争がくり返されたが、白石のかたくなな姿勢にどうにもならない。結局日本側の国書を書き改め、朝鮮側の国書も本国に送り返して書き改めて、対馬で交換するという異例の決着となった。

 使節員たちは、いつまでも滞在するわけにもいかず、苦渋の選択をせざるを得なかったのである。

 冬の季節になって、ようやく通信使一行が江戸を離れ帰国の途についた。往路も苦難の旅であったが、帰路もまた重い 足取りの旅 になった。

 季節も寒いが、「国書問題」による心の寒さがより厳しいものにしたであろう。
 
 翌年の1712年2月、朝鮮側は「光」を「克」に、日本が側は「懌」を「戢」(かん)に改めた国書の交換が対馬において行われた。

 7次の通信使まで、両国の協議と努力によって良き慣例が積み重ねられ、両国間に特別な問題はなかった。

 したがって、8次朝鮮通信使の日本往還は、家宣の将軍就任の祝賀使節として両国の善隣友好を確認し、盛大な文化交流の旅になるはずであった。
 
 ところが、白石の儀式の改革や書式の形式にとらわれた強引な「改革」のため、トラブルがつづき後味の悪い旅になってしまった。

 通信使一行が、8ヵ月ぶりに帰国し、釜山に到着してみると、ただちに国書交換のトラブルの責任を問われて、三使と上通事らは「辱国の罪」(官位のはく奪、門外放逐)によって慶尚道左水営(水軍の根拠地)に拘束された。

 通信使の帰国後、幕府内では白石の強引な改革と使節団とのたびたびのトラブルに対する非難の声がたかまった。

 白石は、「『犯諱』の一件がこじれたのは、かの国の国情を理解せず、自分が無用な肩ひじを張ったのが不祥事を招いた」と後悔したという。
 そして、辞表を出したが 将軍家宣に慰留された上に、朝鮮通信使迎接の功績を称えられたという。

 これまで通信使往還の総経費が百万両かかっていたが70万両ですんだことが、 白石の改革によるせめてもの成果と言えるだろう。

    芳洲像
       雨森芳洲画像 芳洲庵

 雨森芳洲は、8次朝鮮通信使の往還時の苦い経験から晩年に、後の世に残る名文書を書き残した。

 「誠心の交わりという事は、人々がいうほどには多くのばあい文字の意味を理解していないようである。誠心というのは実意(まことの心)の事で、お互いに欺かず、争わず真実をもって交わることを誠心というのである」
                 つづく
   新井白石と朝鮮通信使節との交歓

 1711年10月、第8次朝鮮通信使は江戸に到着し、浅草の宿舎・東本願寺にはいった。  
 
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       朝鮮通信使行列図1

  通信使を待ちわびていた儒者、文士らが筆談唱和を求めて次々に宿館を訪れた。

 大学頭・林復斎が編纂した「通行一覧」によれば、「かの使者來聘ごとに、必ず筆談唱和があり、天和(1682年)、正徳(1711年)の頃よりして、その事やや盛んなり」と書いている。

 木下順庵門下の7名が使館を訪れ、使臣たちと和やかに筆談唱和した。その内容は『7家唱和集』10巻に収められている。
 
 また、萩生徂徠の門人たちが使館を訪れ筆談し、『門搓騎賞』3巻を残した。

 そして、白石が独りで酒をもって使館を訪れ、終日三使(正使・副使・従事官)と筆談した。その記録が『江関筆談』である。その最初と最後の挨拶の部分を紹介する。

  まず、正使がつぎのように切り出した、
正使=筆の端にはおのずから舌があって話が通じるのに、どうして通訳を煩わす必要があろうか。
白石=謹んで雅量に従いたい。
白石は正使にたずねた、
白石=どうして煙草を吸わないのか。
正使=平生これをたしなまないからだ。
白石=古人は酒がはいる酒腸がないといったが、どうして公には煙腸がないのか。
正使=心の腸はおのずから錦であるのに、どうして煙草の煙で汚すことができようか。
一同はどっと笑った。

 その後、海外知識、中華文明の問題、日朝外交の問題、儀礼、文物の問題など話題にして筆談がつづいた。

 白石は、三使(正使、副使、従事官)を相手に質疑応答し、 知識の豊かさと儒学者としての才能を誇示したのであった。

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       朝鮮通信使行列図2

白石=今日の談笑と対話は、金石(楽器の鐘と笛)の互奏といえども、これにおよばないだろう。
正使=今日公とともに語ったことは、10年間の読書にも勝 る。どうして吟詩することがあろうか。
白石=私には10年の語も恨めしく、晩年の読書にも勝るといいたい。
白石=今日の会は、真に千載の一つの奇事である。老いたる小生はいつこの世を去るかわからない。諸侯は帰国の後東を望みながら、お互いに思い出していただければ幸いである。

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       朝鮮通信使行列図3

 白石と三使の交歓風景からは、その後に幕府と通信使の間で国書に書かれた「一字」をめぐって激しい対立が起き、通信使を窮地に陥れる事件に発展することは想像すらできなかった。

 いかなるトラブルが起きたのであろうか?次回に詳しく記したい。
                              つづく
   第8次朝鮮通信使往還
     通信使苦難の旅
 
  1711年8月、 国書の書き換え問題で、出鼻をくじかれた第8次朝鮮通信使一行は、 ソウルを発ってから3ヵ月が過ぎてようやく 対馬府中(厳原)に上陸した。

  通信使の船

 その後、江戸までの道中、先導する対馬藩と通信使のあいだで、新井白石の儀礼の変更をめぐって論争がつづいた。
 
 幕府からの儀礼変更の指示を受けた 対馬藩は、その具体的な内容を通信使に 伝えるだけでなく、通信使三使(正使・副使・従事官)がそれを実行するように説得せねばならない。
 
 従来は、通信使が客舎に輿(こし)に乗ったまま入り、将軍の使者・慰問使が客舎を訪問した場合も、3使が送迎する儀式はなかった。

 ところがこのたびは、使臣が客舎にはいるときは輿から降りなければならない。
 また将軍の使者が客舎訪問した場合は、階下に降りて送迎しなければならない。
 そればかりでなく、宴礼に座る席次が、使臣は島主と向かい合って、慰問使は使臣より上座に座るというのである。
 
 それは使臣たちにとって通信使の格下げを意味し、朝鮮の「国体」を傷つけるものであるため 断じて受け入れがたいと激しく反発し論争がつづいていたのであった。
 
  一方的に強要する 対馬の対応に 使節員たちは、激怒した。
 「今般の使行のすべての手続きは変わることなく前回(1682年)の例に準ずることをすでに決定しており、今中途で変更はありえないことである。これはまさに江戸の使者と決定することなので、汝たちは無駄口をたたく必要はない」と釘を差していた。

  瀬戸内海
       通信使の瀬戸内海航路
 
 こうして瀬戸内海航海中からの論争は、大阪上陸後に持ち越された。
  大阪では、通信使の下官、水夫など139人が残留することになる。彼らは6隻の朝鮮使船のなかですごすことになり、自由に上陸することは許されなかった。
 通信使一行の客舎は大阪西本願寺であった。

    西本願寺
      江戸時代の西本願寺画

 通信使訳官(通訳)と対馬奉行との間で儀礼の変更をめぐって厳しい交渉がつづき、通信使三使に 島主や長老も出向いて説得にあたったが埒があかなかった。その心労のため対馬藩主は病床に臥した。
 
 対馬の江戸家老・平田直右衛門は、刀を抜きちらつかせながら、幕府の方針を受け入れるよう迫った。三使は肝を冷やし、 受け入れざるを得なくなった。

  使臣は、「このことは、きわめて聞き入れ難いが、従うことにした。島主が救いを求めて懇願の悶迫の情を想い、われわれも応じざるをえない。ただこれから先また何らかの従い難い要請があるかも知れなが、決して許すことはない」と強弁した。
 
 使臣たちの受け入れを聞き、病床にあった対馬藩主は、強いて起きあがり感謝のことばを述べた。
 「私はいま救われました。三使の恩徳は死んでも忘れがたい。今後は他盧がないことを保障したい」(副使任守幹著『東搓日記』)
 
 このあと、 大阪城主・土岐頼殷が幕府の慰問使として宿舎にやってきた。使臣たちはやむえず、しぶしぶ、階段を降りて 土岐を 出迎えた。使臣たちの屈辱感と無念の思いはいかほどであっただろうか?
 
 対馬藩は、幕府の指示通りに事がはこびほっとしのであるが、新井白石と朝鮮通信使との挟間にあって、気苦労はその後もつづいた。

  通信行列1
     朝鮮通信使行列 正使輿
 
 一方の通信使の方では脅迫に屈し、「国体」を冒涜されたという責任から逃れることができなくなり、旅の足取りはいっそう重くなったと思われる。
          つづく