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2019.01.26
朝鮮通信使35
雨森芳洲と 新井白石の対立
雨森芳洲と 新井白石の二人の関係は、儒学の大家・木下順庵の同門であったことからはじまる。

木下順庵像
二人は、朝鮮通信使の接待礼遇の改革をめぐって対立するようになる。その経過を簡単に記してみる。
1709年、将軍・徳川綱吉が世を去り、後継者として甲府藩主・綱豊(綱吉の兄の子)が家宣と改名して、六代将軍に就任した。
徳川家宣が、まず行ったのは悪評の高い「生類憐みの令」を廃止し、人心の一新をはかったことである。
家宣の政治を支えたのは、木下順庵の推薦により甲府藩の侍講を務めた新井白石 (1657~1725) である。

新井白石像
一介の儒学者にすぎなかった白石が、将軍の侍講として幕府の実権を掌握する地位にまで出世したのであった。 (参照・朝鮮通信使32)
白石は、六代将軍・徳川家宣、七代将軍・徳川家継(4才)の時代(7年間)、幕政改革にとりくみ、 「正徳の治」と呼ばれる一時代をもたらした。
幕府は、対馬藩を通じて家宣就任を祝賀する通信使を派遣するよう 朝鮮国に 要請した。
このとき白石は、 朝鮮通信使の接待礼遇の改革・「聘礼改変」を立案していた。
その内容の主なものは、次の4つであった。
1、将軍の称号を「大君」から「日本国王」と復号する。
2、沿路での饗宴は5か所に限る。(赤間、大阪、京都、 名古屋、駿府)
3、将軍の慰問使が訪問したとき、使臣は階段を降りて迎える。(これまでは部屋で待つ)
4、御三家は国書伝令式、饗宴に隣席しない。
白石は、この改革で「和平・簡素・対等」を期すると言いながら、実際には幕府の権威を高め ることに比重をおき 、通信使にたいする礼遇の格下げを意図したものであった。
これを知った、対馬藩の外交担当の雨森芳洲は、白石に手紙をおくり抗議した。

雨森芳洲像
「通信使に対する豪華なもてなしを改変する案には同意するが、 先例をいきなり破って簡素化するのは非礼すぎる。 日本は朝鮮国とちがって中国の冊封下にない。また、これまで日本国王と称したこともない。それに、「日本国王」の称号は、天皇の尊号を犯すもので不敬ではないか」という内容のものであった。
芳洲は、白石よりはるかに朝鮮のことをよく知り、朝鮮との交隣外交の第一線で活動していた専門家である。
条理を尽くした芳洲の声に、 幕府の権力者となった白石には聞く耳をもた なかった。
白石は「対馬の国にいるなまくら学者にわかるはずもなく、ああだこうだなど言う」(白石自伝『折たく柴の木』)というはげしい言葉を投げ返したのであった。
もともと二人は、順庵の門下の同輩として、きわめて近い関係にあった。白石は年齢的には芳洲より11才うえの先輩であった。それ以上に、白石は幕府の威を借りて傲慢になっていた。
この頃の白石は、 自らが主張することに、誰が何を言って反対しても臆することなく押し通し、最後には「上様の御意」で反対意見を封じていた。
芳洲は、将軍の側近であるといえども、傲慢な白石に対し「詭弁を弄する暴戻(ぼうるい)の儒」(『 俗儒三種』) と痛烈な批判をあびせた。
その後も芳洲と白石は深刻な論争をくり広げ、 互いに譲らず 対立は最後まで解消されなかったと伝えられている。
通信使に関する交渉は対馬藩を通じて行われる。対馬では、白石の改革を朝鮮側に伝えなければならない。
1711年、 六代将軍・徳川家宣の就任を祝う、 第八次朝鮮通信使一行は 、 白石の「改革」を知らないまま、ソウルを出発し、釜山で対馬に渡る風を待っていた。

釜山にあった倭館の風景
そのときになって対馬から使者がやってきて、国書の宛名を「日本国大君」から「日本国王」に変更・復号してほしいと、通告してきたのであった。
「日本国大君」の名称は、「柳川事件」(参照、朝鮮通信使)の教訓から幕府側から提案され、朝鮮側が受け入れたものであった。そして、朝鮮通信使 5次(1645年)、6次(1655年)、7次(1682年)使行において 「大君」の名称で 国書の交換が行われ恒例となっていた。
通信使らは、国書の書き換えの一方的な通告に激怒し、朝廷に通知した。
朝鮮王・粛宗は、「大君の称号を使ってもう77年も経っているにもかかわらず、思いがけず復号とは、重大なことで頑なにしりぞけねばならないので、議政府(行政の最高機関)に回して審議せよ」と命じた。
王命にしたがって、朝鮮朝廷内で激論がたたかわされた。日本との交隣関係を維持する立場から、もともと「日本国王」名を求めたこともあり、「彼らの操りに引きずり回されてるというが、国書でも改まるべきであれば改める方がよい」との意見が出て、王がこの意見に賛成し国書が書き改められることとなった。

現在の釜山港の風景
こうして国書問題は解決をみたが、対馬藩は白石の「聘礼改革」の具体的な内容を朝鮮側に伝えていなかった。
そのため、八次朝鮮通信使の 日本往還 は、前後12回のなかで最も苦難を強いられる旅になった。
つづく
雨森芳洲と 新井白石の二人の関係は、儒学の大家・木下順庵の同門であったことからはじまる。

木下順庵像
二人は、朝鮮通信使の接待礼遇の改革をめぐって対立するようになる。その経過を簡単に記してみる。
1709年、将軍・徳川綱吉が世を去り、後継者として甲府藩主・綱豊(綱吉の兄の子)が家宣と改名して、六代将軍に就任した。
徳川家宣が、まず行ったのは悪評の高い「生類憐みの令」を廃止し、人心の一新をはかったことである。
家宣の政治を支えたのは、木下順庵の推薦により甲府藩の侍講を務めた新井白石 (1657~1725) である。

新井白石像
一介の儒学者にすぎなかった白石が、将軍の侍講として幕府の実権を掌握する地位にまで出世したのであった。 (参照・朝鮮通信使32)
白石は、六代将軍・徳川家宣、七代将軍・徳川家継(4才)の時代(7年間)、幕政改革にとりくみ、 「正徳の治」と呼ばれる一時代をもたらした。
幕府は、対馬藩を通じて家宣就任を祝賀する通信使を派遣するよう 朝鮮国に 要請した。
このとき白石は、 朝鮮通信使の接待礼遇の改革・「聘礼改変」を立案していた。
その内容の主なものは、次の4つであった。
1、将軍の称号を「大君」から「日本国王」と復号する。
2、沿路での饗宴は5か所に限る。(赤間、大阪、京都、 名古屋、駿府)
3、将軍の慰問使が訪問したとき、使臣は階段を降りて迎える。(これまでは部屋で待つ)
4、御三家は国書伝令式、饗宴に隣席しない。
白石は、この改革で「和平・簡素・対等」を期すると言いながら、実際には幕府の権威を高め ることに比重をおき 、通信使にたいする礼遇の格下げを意図したものであった。
これを知った、対馬藩の外交担当の雨森芳洲は、白石に手紙をおくり抗議した。

雨森芳洲像
「通信使に対する豪華なもてなしを改変する案には同意するが、 先例をいきなり破って簡素化するのは非礼すぎる。 日本は朝鮮国とちがって中国の冊封下にない。また、これまで日本国王と称したこともない。それに、「日本国王」の称号は、天皇の尊号を犯すもので不敬ではないか」という内容のものであった。
芳洲は、白石よりはるかに朝鮮のことをよく知り、朝鮮との交隣外交の第一線で活動していた専門家である。
条理を尽くした芳洲の声に、 幕府の権力者となった白石には聞く耳をもた なかった。
白石は「対馬の国にいるなまくら学者にわかるはずもなく、ああだこうだなど言う」(白石自伝『折たく柴の木』)というはげしい言葉を投げ返したのであった。
もともと二人は、順庵の門下の同輩として、きわめて近い関係にあった。白石は年齢的には芳洲より11才うえの先輩であった。それ以上に、白石は幕府の威を借りて傲慢になっていた。
この頃の白石は、 自らが主張することに、誰が何を言って反対しても臆することなく押し通し、最後には「上様の御意」で反対意見を封じていた。
芳洲は、将軍の側近であるといえども、傲慢な白石に対し「詭弁を弄する暴戻(ぼうるい)の儒」(『 俗儒三種』) と痛烈な批判をあびせた。
その後も芳洲と白石は深刻な論争をくり広げ、 互いに譲らず 対立は最後まで解消されなかったと伝えられている。
通信使に関する交渉は対馬藩を通じて行われる。対馬では、白石の改革を朝鮮側に伝えなければならない。
1711年、 六代将軍・徳川家宣の就任を祝う、 第八次朝鮮通信使一行は 、 白石の「改革」を知らないまま、ソウルを出発し、釜山で対馬に渡る風を待っていた。

釜山にあった倭館の風景
そのときになって対馬から使者がやってきて、国書の宛名を「日本国大君」から「日本国王」に変更・復号してほしいと、通告してきたのであった。
「日本国大君」の名称は、「柳川事件」(参照、朝鮮通信使)の教訓から幕府側から提案され、朝鮮側が受け入れたものであった。そして、朝鮮通信使 5次(1645年)、6次(1655年)、7次(1682年)使行において 「大君」の名称で 国書の交換が行われ恒例となっていた。
通信使らは、国書の書き換えの一方的な通告に激怒し、朝廷に通知した。
朝鮮王・粛宗は、「大君の称号を使ってもう77年も経っているにもかかわらず、思いがけず復号とは、重大なことで頑なにしりぞけねばならないので、議政府(行政の最高機関)に回して審議せよ」と命じた。
王命にしたがって、朝鮮朝廷内で激論がたたかわされた。日本との交隣関係を維持する立場から、もともと「日本国王」名を求めたこともあり、「彼らの操りに引きずり回されてるというが、国書でも改まるべきであれば改める方がよい」との意見が出て、王がこの意見に賛成し国書が書き改められることとなった。

現在の釜山港の風景
こうして国書問題は解決をみたが、対馬藩は白石の「聘礼改革」の具体的な内容を朝鮮側に伝えていなかった。
そのため、八次朝鮮通信使の 日本往還 は、前後12回のなかで最も苦難を強いられる旅になった。
つづく
2019.01.19
朝鮮通信使34
雨森芳洲の国際感覚
雨森芳洲(1668~1755)は、 江戸時代中期の日本を代表する儒学者であり、対馬藩の外交官として「誠心外交」を貫き、日朝の 善隣友好のために献身した国際人でもあった。

雨森芳洲 画
芳州が晩年、対馬藩主・宗義倫(よしつぐ)に提出した著作・ 『交隣提醒』(こうりんていせい) から、彼の外交における基本的な考え方と国際感覚について記してみる。(参照・朝鮮通信使9)
芳洲は、1668年、現滋賀県長浜市高月町雨森町の医者の子として生まれた。

雨森芳洲庵 長浜市高月町
1679年、12歳の頃から京都で医学を学び、18歳のとき江戸に出て儒学者・木下順庵門下に入った。
同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、「文は芳洲、詩は白石」と称されるほど文章が秀逸していた。師の順庵は、芳洲を「後進の領主」と称賛したという。
当時、朝鮮貿易で潤沢な財力をもつ 対馬藩は、優秀な人材を求めた 。木下順庵の推挙により芳洲は、22歳で対馬藩の真文役(朝鮮外交の文章作成、通信使接待役)となった。2年後、長崎で漢文能力向上のため中国語を学び対馬に赴任した。
芳洲は、藩の文教をつ司るかたわら、藩主の御用人を務め、朝鮮外交の先頭にたって活躍した。
1702年、36歳のとき初めて朝鮮の釜山へ渡り、倭館に滞在しながらハングル(朝鮮語)を学んだ。
当時は、朝鮮の儒学者・文人たちは、漢字・漢文を重要視し、ハングルは「下等」な文字と考えていた。しかし、芳洲は「ことばを知らず如何に善隣ぞや」と進んでハングル学習にとりくみ、朝鮮語で自由自在に会話するようになったという。

雨森芳洲庵 展示室内
芳洲は、朝鮮側の日本語辞典「倭語類解」の編纂に協力するとともに、日本人として初めて日朝会話集など16冊の朝鮮語入門書『交隣須知』(こうりんすち)を 著した。
芳洲は、外国の言語、文化を学ぶことについて、
「異なった文化は本質的に平等で、民族間に文化上の優劣はなく、それぞれの民族にとってかけがえのないものであると考える。そして外交にあたっては、国や民族によって風儀や嗜好も異なるので、こちらの尺度だけで相手を測ってはならず、相手の風儀がこちらとちがっているからといって、それを低く見てはいけない。相手の国の歴史、風土、考え方、風習、人情や作法などをよく理解し、お互いに尊重しあって、おつきあいすべきだ」と述べている。
外国との交流で必要なことは、いかに緊密な信頼関係を築くかにあるが、芳洲はそれに加えて「異国文化への理解と尊重も重要である」と主張した。
芳洲が説いた「相手をよく知り、互いの違いを認め合う」ということは、今日の「異文化理解」「多文化共生」時代に相通じるものであろう。
そしてまた芳洲は、国際関係においては平等互恵を宗とし、外交の基本は「誠心」(誠意と信義)にあるとし、
「誠心の交わりということ、人々がいうが、その多くは字義をはっきり理解していません。誠心というのは、まことの心ということであって、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠心である」と 「誠心の交わり」を熱く説いた。
芳洲は、このような考えに基づいて、 8次、9次朝鮮通信使に対馬藩真文役として随行し、 江戸往来の過程で使節員と意見を交換し、日朝間にあるわだかまりを払しょくするため忍耐強く努力し、 「誠心の交わり」を実践したのであった。
芳洲は、単に対朝鮮外交だけでなく、強大国である中国との関係についても対等、平等な外交姿勢を明らかにしている。
「国と国にははじめから優劣は存在しない、中国だからといって、すべてが優れ、他の国のすべてが劣っているわけではない。国に尊卑があるとすれば、そこに住む人、一人一人の人間の器量や、風俗の善し悪しに拠るべきである。たんに中国に生まれからと誇りにすることはまちがっているし、たとえ夷荻と呼ばれる後進国(日本)に生まれたとしても、なんらそのことを恥じる必要はない」と述べている。

雨森芳洲顕彰碑 対馬厳原
今から300年も前に、 国と国の国家関係に大小、上下、優劣はなく、対等・平等であると 明快に 主張した芳洲の国際感覚に感動させられる。
芳洲の「誠心の交わり」の外交思想は、国際化した現代社会においても指針となり得る先進的な国際感覚ではなかろうか。
彼は多くの朝鮮文人と交流し、雨森東(ウ・サンドン)という朝鮮名で親しまれたという。
倭館で交流を深めた 朝鮮人 ・玄徳閏(ヒョン・トクュン)、玄錦谷(ヒョン・クムコク)らと生涯の友人であったと伝えられている。

雨森芳洲の墓 対馬長寿院
1984年、芳洲の生家跡( 長浜市高月町)に設立された「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」の案内板に、
「芳洲は、88歳という高齢で対馬で天寿を全うしたが、その生涯は、日朝友好の架け橋を渡した先駆者として光り輝いている」と 書いてあった。
つづく
雨森芳洲(1668~1755)は、 江戸時代中期の日本を代表する儒学者であり、対馬藩の外交官として「誠心外交」を貫き、日朝の 善隣友好のために献身した国際人でもあった。

雨森芳洲 画
芳州が晩年、対馬藩主・宗義倫(よしつぐ)に提出した著作・ 『交隣提醒』(こうりんていせい) から、彼の外交における基本的な考え方と国際感覚について記してみる。(参照・朝鮮通信使9)
芳洲は、1668年、現滋賀県長浜市高月町雨森町の医者の子として生まれた。

雨森芳洲庵 長浜市高月町
1679年、12歳の頃から京都で医学を学び、18歳のとき江戸に出て儒学者・木下順庵門下に入った。
同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、「文は芳洲、詩は白石」と称されるほど文章が秀逸していた。師の順庵は、芳洲を「後進の領主」と称賛したという。
当時、朝鮮貿易で潤沢な財力をもつ 対馬藩は、優秀な人材を求めた 。木下順庵の推挙により芳洲は、22歳で対馬藩の真文役(朝鮮外交の文章作成、通信使接待役)となった。2年後、長崎で漢文能力向上のため中国語を学び対馬に赴任した。
芳洲は、藩の文教をつ司るかたわら、藩主の御用人を務め、朝鮮外交の先頭にたって活躍した。
1702年、36歳のとき初めて朝鮮の釜山へ渡り、倭館に滞在しながらハングル(朝鮮語)を学んだ。
当時は、朝鮮の儒学者・文人たちは、漢字・漢文を重要視し、ハングルは「下等」な文字と考えていた。しかし、芳洲は「ことばを知らず如何に善隣ぞや」と進んでハングル学習にとりくみ、朝鮮語で自由自在に会話するようになったという。

雨森芳洲庵 展示室内
芳洲は、朝鮮側の日本語辞典「倭語類解」の編纂に協力するとともに、日本人として初めて日朝会話集など16冊の朝鮮語入門書『交隣須知』(こうりんすち)を 著した。
芳洲は、外国の言語、文化を学ぶことについて、
「異なった文化は本質的に平等で、民族間に文化上の優劣はなく、それぞれの民族にとってかけがえのないものであると考える。そして外交にあたっては、国や民族によって風儀や嗜好も異なるので、こちらの尺度だけで相手を測ってはならず、相手の風儀がこちらとちがっているからといって、それを低く見てはいけない。相手の国の歴史、風土、考え方、風習、人情や作法などをよく理解し、お互いに尊重しあって、おつきあいすべきだ」と述べている。
外国との交流で必要なことは、いかに緊密な信頼関係を築くかにあるが、芳洲はそれに加えて「異国文化への理解と尊重も重要である」と主張した。
芳洲が説いた「相手をよく知り、互いの違いを認め合う」ということは、今日の「異文化理解」「多文化共生」時代に相通じるものであろう。
そしてまた芳洲は、国際関係においては平等互恵を宗とし、外交の基本は「誠心」(誠意と信義)にあるとし、
「誠心の交わりということ、人々がいうが、その多くは字義をはっきり理解していません。誠心というのは、まことの心ということであって、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠心である」と 「誠心の交わり」を熱く説いた。
芳洲は、このような考えに基づいて、 8次、9次朝鮮通信使に対馬藩真文役として随行し、 江戸往来の過程で使節員と意見を交換し、日朝間にあるわだかまりを払しょくするため忍耐強く努力し、 「誠心の交わり」を実践したのであった。
芳洲は、単に対朝鮮外交だけでなく、強大国である中国との関係についても対等、平等な外交姿勢を明らかにしている。
「国と国にははじめから優劣は存在しない、中国だからといって、すべてが優れ、他の国のすべてが劣っているわけではない。国に尊卑があるとすれば、そこに住む人、一人一人の人間の器量や、風俗の善し悪しに拠るべきである。たんに中国に生まれからと誇りにすることはまちがっているし、たとえ夷荻と呼ばれる後進国(日本)に生まれたとしても、なんらそのことを恥じる必要はない」と述べている。

雨森芳洲顕彰碑 対馬厳原
今から300年も前に、 国と国の国家関係に大小、上下、優劣はなく、対等・平等であると 明快に 主張した芳洲の国際感覚に感動させられる。
芳洲の「誠心の交わり」の外交思想は、国際化した現代社会においても指針となり得る先進的な国際感覚ではなかろうか。
彼は多くの朝鮮文人と交流し、雨森東(ウ・サンドン)という朝鮮名で親しまれたという。
倭館で交流を深めた 朝鮮人 ・玄徳閏(ヒョン・トクュン)、玄錦谷(ヒョン・クムコク)らと生涯の友人であったと伝えられている。

雨森芳洲の墓 対馬長寿院
1984年、芳洲の生家跡( 長浜市高月町)に設立された「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」の案内板に、
「芳洲は、88歳という高齢で対馬で天寿を全うしたが、その生涯は、日朝友好の架け橋を渡した先駆者として光り輝いている」と 書いてあった。
つづく
2019.01.13
玉川上水駅周辺の風景55
富士山と夕日と雲18
新年、2019年に入って、
寒さが、ますます厳しくなっているが、
晴天がつづき、天候には恵まれた
毎日のように、
「富士山と夕日と雲」を撮りつづけた、
正月から10日間の画像の中から、
気に入った10枚を選び、
ストーリー風に編集して見ました。
ご覧ください。
バックミュージックにロシア民謡を入れてみたが、
画像とマッチしているのか?
読者の反応が気になるところです、
新年、2019年に入って、
寒さが、ますます厳しくなっているが、
晴天がつづき、天候には恵まれた
毎日のように、
「富士山と夕日と雲」を撮りつづけた、
正月から10日間の画像の中から、
気に入った10枚を選び、
ストーリー風に編集して見ました。
ご覧ください。
バックミュージックにロシア民謡を入れてみたが、
画像とマッチしているのか?
読者の反応が気になるところです、
2019.01.06
朝鮮通信使33
洪寓載が見た日本の風景
洪寓載(ホン・ウジェ)は、7次朝鮮通信使(1682年)の従事官に随行した堂上訳官・ 日本語 通訳 (倭語 訳官 )である。
朝鮮 通信使のリーダーたち、正使、副使、従事官の 三使が 、自らの任務を無事に果たすためには、随行補佐役である堂上訳官の通訳能力と外交力が必要不可欠であった。

朝鮮通信使図 大英博物館蔵
通信使三使は毎回交替するが、交隣外交の持続性を実務的に支えたのは訳官たちであった。
堂上訳官は、単なる通訳だけではなく、外交官として行事、儀礼、外交上の諸問題の調整・交渉の実務を行った。 今の外務次官級の役割が課せられていたと思われる。
日本の儒者や文士との三使の筆談唱和は、通訳を介して行われ、三使が出る必要のない人々に対しては、製述官(文才のある学士)や堂上官通訳が対応したものと思われる。
当時の朝鮮国(李朝)では、堂上訳 官も官吏登用の国家試験・科挙に合格しなければならなかった。
洪寓載が通信使の日本語通訳として来日したとき、堂上官の正三品の位階であったこと、従事官付きの首席通訳であったことから、彼の日本語能力は相当なものであったと思われる。
また、彼は歴代訳官を務めた 南陽洪氏家門の出身であった。
祖父の洪汝雨は、5次(1643年)、6次(1655年) 通信使の使行 に随行し、伯父の洪喜男もまた4次(1634年)、5次、6次の使行に随行した通訳であった。
7次朝鮮通信使が、琵琶湖畔の朝鮮人街道(滋賀県野洲・近江八幡・彦根)を通過するとき、祖父や伯父を接待したことのある近江州の戸塚左大夫(78歳)が、 洪寓載の許を訪れた。

洪寓載は、朝鮮から持参した土産を戸塚に贈り、帰路には戸塚から日本の土産を貰ったという。いかなる土産物の受け渡しがあったのか?そして如何なる会話が交わされたのか?定かではない。

朝鮮人街道 滋賀県野洲付近
しかし、お互いに 懐かしい人と 久しぶりに会ったかのような親近感に包まれたと思われる。
洪寓載は、ソウル出発から江戸往還の 使行日記・『東 槎 録』を書き残した。
それまでの使行録は、風物詩や使臣の活躍を称賛するような記録が多かったが、洪寓載の『東 槎 録』は実務的な記録が多い。それだけに先入観を挟まず、 日本の風景を見たままを書き綴った。
洪寓載の 『東 槎 録』 の中から、大阪、京都、江戸の三都について書いた部分をとり上げて見る。
大阪では、
「出迎えるごとく高さが揃った各家の軒が続いて一里にもなっており、すべての物が繁華であり人の目をかすませた。地は広く人は多く城楼と海関は険しく堅固で一国第一の名勝地と言うべきである」と書き、
京都では、
「本国寺(6条堀川、現西本願寺とその周辺)で旅装を解いた。寺舎は素晴らしく広大で、1万人も収容できるほどで、仏殿も華麗で木閣が翡翠色であった。五層の楼台から京都を見下ろすと、沃野が千里を及んでおり、幽邃(ゆうすい)な景色がさまざまであった」と書いた。
江戸に到着すると、
「村の家等が相当に多く、すべて物が繁華であり、左右の店屋に品物等が山のように積まれていて、長い商店街には暖簾をたらして雲のような絹織物が照り映えていた。夕方に江戸二里半に至り、使臣は本誓寺に居所を定めた」と書き綴った。

朝鮮通信使江戸入場図
いずれも、 三都のありのままの風景を描き、品物の豊富さと その繁栄ぶりに感嘆し ている。
豊臣秀吉侵略軍(1592~1598)に 国土が 蹂躙され荒廃してから80年余が経過し、ある程度の回復は見たが、朝鮮はまだまだ人不足、品物不足、経済的苦難がつづいていた。
洪寓載の 『東 槎 録』は、日本の繁盛ぶりを 素直に書いているが、暗に、 当時の朝鮮の状況を 物語っているように思えてならない。
洪寓載の『東 槎 録』 は、先行の通信使の記録をよく勉強し、日本語の専門家として 日本を客観的に観察し、親近感を抱きながら誠意をもって日本人と接した外交記録となっている。
洪寓載が評価されるのは、外交において相手方を尊重することを強調しながら、これまでの外交の反省すべき点を 具体的に示 し、交隣外交に臨む朝鮮の姿勢を正したことである。

朝鮮通信使楽隊と荷役夫
洪寓載の 『東 槎 録』は、17世紀末・江戸時代初期の日朝関係や日本の風物、経済・社会状況を知る上で、貴重な資料となっている。
洪寓載(ホン・ウジェ)は、7次朝鮮通信使(1682年)の従事官に随行した堂上訳官・ 日本語 通訳 (倭語 訳官 )である。
朝鮮 通信使のリーダーたち、正使、副使、従事官の 三使が 、自らの任務を無事に果たすためには、随行補佐役である堂上訳官の通訳能力と外交力が必要不可欠であった。

朝鮮通信使図 大英博物館蔵
通信使三使は毎回交替するが、交隣外交の持続性を実務的に支えたのは訳官たちであった。
堂上訳官は、単なる通訳だけではなく、外交官として行事、儀礼、外交上の諸問題の調整・交渉の実務を行った。 今の外務次官級の役割が課せられていたと思われる。
日本の儒者や文士との三使の筆談唱和は、通訳を介して行われ、三使が出る必要のない人々に対しては、製述官(文才のある学士)や堂上官通訳が対応したものと思われる。
当時の朝鮮国(李朝)では、堂上訳 官も官吏登用の国家試験・科挙に合格しなければならなかった。
洪寓載が通信使の日本語通訳として来日したとき、堂上官の正三品の位階であったこと、従事官付きの首席通訳であったことから、彼の日本語能力は相当なものであったと思われる。
また、彼は歴代訳官を務めた 南陽洪氏家門の出身であった。
祖父の洪汝雨は、5次(1643年)、6次(1655年) 通信使の使行 に随行し、伯父の洪喜男もまた4次(1634年)、5次、6次の使行に随行した通訳であった。
7次朝鮮通信使が、琵琶湖畔の朝鮮人街道(滋賀県野洲・近江八幡・彦根)を通過するとき、祖父や伯父を接待したことのある近江州の戸塚左大夫(78歳)が、 洪寓載の許を訪れた。

洪寓載は、朝鮮から持参した土産を戸塚に贈り、帰路には戸塚から日本の土産を貰ったという。いかなる土産物の受け渡しがあったのか?そして如何なる会話が交わされたのか?定かではない。

朝鮮人街道 滋賀県野洲付近
しかし、お互いに 懐かしい人と 久しぶりに会ったかのような親近感に包まれたと思われる。
洪寓載は、ソウル出発から江戸往還の 使行日記・『東 槎 録』を書き残した。
それまでの使行録は、風物詩や使臣の活躍を称賛するような記録が多かったが、洪寓載の『東 槎 録』は実務的な記録が多い。それだけに先入観を挟まず、 日本の風景を見たままを書き綴った。
洪寓載の 『東 槎 録』 の中から、大阪、京都、江戸の三都について書いた部分をとり上げて見る。
大阪では、
「出迎えるごとく高さが揃った各家の軒が続いて一里にもなっており、すべての物が繁華であり人の目をかすませた。地は広く人は多く城楼と海関は険しく堅固で一国第一の名勝地と言うべきである」と書き、
京都では、
「本国寺(6条堀川、現西本願寺とその周辺)で旅装を解いた。寺舎は素晴らしく広大で、1万人も収容できるほどで、仏殿も華麗で木閣が翡翠色であった。五層の楼台から京都を見下ろすと、沃野が千里を及んでおり、幽邃(ゆうすい)な景色がさまざまであった」と書いた。
江戸に到着すると、
「村の家等が相当に多く、すべて物が繁華であり、左右の店屋に品物等が山のように積まれていて、長い商店街には暖簾をたらして雲のような絹織物が照り映えていた。夕方に江戸二里半に至り、使臣は本誓寺に居所を定めた」と書き綴った。

朝鮮通信使江戸入場図
いずれも、 三都のありのままの風景を描き、品物の豊富さと その繁栄ぶりに感嘆し ている。
豊臣秀吉侵略軍(1592~1598)に 国土が 蹂躙され荒廃してから80年余が経過し、ある程度の回復は見たが、朝鮮はまだまだ人不足、品物不足、経済的苦難がつづいていた。
洪寓載の 『東 槎 録』は、日本の繁盛ぶりを 素直に書いているが、暗に、 当時の朝鮮の状況を 物語っているように思えてならない。
洪寓載の『東 槎 録』 は、先行の通信使の記録をよく勉強し、日本語の専門家として 日本を客観的に観察し、親近感を抱きながら誠意をもって日本人と接した外交記録となっている。
洪寓載が評価されるのは、外交において相手方を尊重することを強調しながら、これまでの外交の反省すべき点を 具体的に示 し、交隣外交に臨む朝鮮の姿勢を正したことである。

朝鮮通信使楽隊と荷役夫
洪寓載の 『東 槎 録』は、17世紀末・江戸時代初期の日朝関係や日本の風物、経済・社会状況を知る上で、貴重な資料となっている。
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