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       李真栄・梅渓父子

 1655年、江戸城において4代将軍・徳川家綱の襲職を祝う第6次朝鮮通信使の国書伝令式が行われた後、水戸の徳川光圀ら御三家が主催する饗宴が開かれた。
 
 この席に、紀伊藩主・徳川頼宣が若い侍講・李梅渓(ばいけい)を連れてきた。

  和歌山2
      李真栄・梅渓が仕えた和歌山城

 梅渓は、朝鮮通信使三使に向って、父・李真栄の略歴を述べながら「故国のことや祖先のことが知りたい調べてほしい」と涙ながらに切々と訴えた。その時の様子を従事官・南龍翼(ナムリョンイク)が記録『扶桑録』に残した。
 
 梅渓の父・李真栄は、秀吉軍の朝鮮侵略(1592)の際、朝鮮義兵として戦い、捕られ捕虜になり、1593年15歳のとき日本に連行されてきた。
  
 李真栄は、連行されてから5年間を大阪の農家で働かされ、その後紀州の商人・西右衛門に売られた。 そこで偶然に出会った朝鮮人の西誉のすすめで海善寺に入り仏教を修学するが、朝鮮で学んだ儒学との隔たりが大きく、1605年、再び大阪にもどり儒学の塾を開いたと言う。
 
1614年、大阪冬の陣の戦乱を避けて再び和歌山へもどり、海善寺近隣の久保町で私塾を開いた。1617年、日本人女性と結婚して梅渓が誕生した。 
 
 1619年、徳川頼宣が紀州に入国して藩政に人材を求め、李真栄を30石で侍講として召し抱えた。真栄は、「李」の姓を名乗りつづけ、儒学者として藩士の教育に献身し、1633年63才で他界した。

  海善寺
        海善寺 和歌山市
 
 真栄の生存中、4次の朝鮮通信使が日本を往来して、連行された朝鮮人を帰国させる刷還事業が幕府の協力のもとに行われた。とくに1624年の4次朝鮮通信使往来のとき、真栄は徳川頼宣の紀州藩の侍講であったことから、帰国の機会があったと思われるが、なぜか真栄は名乗り出なかったようである。
 
 李真栄は、息子の梅渓に幼い頃から17歳になるまで儒学を教えたが、朝鮮から連行されてきた経緯や故郷、祖先ことを伝えず逝ったのであった。

 朝鮮通信使は、梅渓の頼みを聞き帰国後、李真栄ついて調査をし、その結果は次の7次朝鮮通信使(1682年)によって伝えられた。真栄の祖先は李公済、故郷は慶尚南道霊山であった。この年に梅渓は亡くなった。

 李梅渓は、17才で真栄の家督を相続したのち、藩の儒官・永田善斎に弟子入りし儒者となった。また京都で儒学を修業し、藩主頼宣の子・光貞にも学問を教えたと言う。

  墓と碑
    李真栄・梅渓の墓   父子顕彰碑

 1660年の頃に、頼宣に命じられ藩訓「父母状」を作成した。「父母状」とは、農民に向けた教訓状で、1)父母に孝行のこと、2)法度を守ること、3)へりくだり、おごらざること、4)面々の家職を勤め、正業を本とすること、などの内容が書かれている。

 1670年に紀州藩内に布告された「父母状」は、その後の紀州藩の教育理念といわれ、江戸時代における紀州藩の民衆生活の規範とされた。
 
 梅渓は、徳川家の「年譜」の編纂にも携わり、30年がかりで「徳川創業記」10巻を完成して幕府に献上した。その功績により知行300石に加増された。
 後に、葛城山麓の梅原村(和歌山市梅原)を与えられ、この地名から梅渓と称したという。

 李梅渓は、日本の儒学の8賢人の一人に数えられまで名声を博した。

 また、熊野へ行き王子社や古跡の調査をしたり、友ヶ島の額や和歌浦碑文を書いたり、書画にも堪能だったようである。1682年、66才の生涯を終えた。

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          李梅渓書

 梅渓は日本人と結婚し、子供はなく清軒を養子にした。その後李真栄の子孫は、13代目の李あやが1984年に亡くなるまで連錦と「李」いう姓を名乗り誇り高く生き続けたという。

 和歌山市の海善寺に李真栄・梅渓父子の墓がある。
 梅渓の父母状碑が、海善寺と岡公園に建てられている。
 
李真栄・梅渓父子の顕彰碑が、1992年郷里の韓国霊山の公園に、1998年和歌山城の西側に建立された。
 
  李梅渓
       李真栄・梅渓父子顕彰碑

 筆者の李真栄・梅渓父子についての知識は、朝鮮通信使の勉強をする過程でたまたま知り得たものである。

 秀吉軍に連行された数万人の朝鮮人が故国に帰ることができず日本に残された。(参照・朝鮮通信使11)その中に、わずかであるが歴史に足跡を残した人たちがいた。ひきつづきその人たちをとり上げ記してみたい。
             つづく
   「玉川上水駅周辺の風景」100回

 昨年(2017年)、
 東大和どっとネットの会員となり、
 「玉川上水駅周辺の風景」の投稿をはじて
 100回目の記事更新となった。
 100回の区切りとして「富士山」を特集した。
 各地から富士山画像はネットから拝借したもの、
 玉川上水駅前からの3枚は、自ら撮ったもである。
 富士山の美しい姿を
 堪能できればとストーリー風に編集してみました。
 ご覧ください。

  

 現地に行かずに美しい富士山を見られるのは、
 ネットならではの素晴らしさではなかろうか?
     第6次朝鮮通信使
   
     朝鮮通信使の編成

 1655年、朝鮮朝廷は、4代将軍・家綱の襲職を祝う第6次朝鮮通信使を派遣した。485人からなる大使節団で日光参詣も行われた。
 
 今回は、どのように朝鮮通信使は編成されたのか、その構成員について少し詳しく述べてみたい。

 朝鮮朝廷は、日本に朝鮮通信使を派遣するにあたって、外交使節の役目と文化使節の役目を同時に果たせる、優れた人物を選抜するのに毎回苦心したようである。

   旗手
          先頭を行く旗手隊

 使節員に選ばれれば帰国後に昇進の機会はあったが、明・清国へ派遣される外交使節団・燕行使より低くみられたため、使節員になって行くことを拒否する風潮があった。朝鮮国内には秀吉軍の侵略・惨劇のイメージが濃く残り、そのうえ荒海を渡る命懸けの旅だったため、最初の頃の使節団編成は難航したようである。

 朝鮮通信使一行が無事に日本往還を果たし、その回数を重ねるごとに、日本の事情が少しずつ分かるようになり、それに相応して約500人近い人材を選び朝鮮通信使を編成するようになった。
 
 どのような人材で編成されたのか、第6次朝鮮通信使を例に上げてみる。
 
 朝鮮朝廷が、もっとも気を使ったのはリーダー・正使の選抜で、正三品以上の堂上官の礼曹参議(外務次官クラス)から選んだ。のちに領議政(首相)に登用されるほどの人物があてられた。経験豊富な高級官僚、人望があり、風采も重視されたという。

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            正使

 正使の補佐役・副使は正三品堂下官から選ばれ、毎日のできごとを記録する従事官は五、六品弘文館校理官から選ばれた。正使、副使、従事官は三使と呼ばれ科挙の試験に合格した文官である。それぞれ親族を専属ボディーガードとして同伴させた。

   副使
            副使

 その次に、重要な役割を果たすことになる訳官、日本語(倭語)通訳ができる上々官三名と漢文で筆談ができる製述官1名が選抜された。 
 これらの人選は、門地に関わらず文才のある実力者が選ばれ、製述官は文才の学士で文章の起草、筆談が堪能な人物であった。
 
 その他に、良医(三使の医師)、医員(三使以外の医師)、軍官(護衛官)、
 書記(三使・製述官の補佐)、写字官(書道家)、画員(絵描き)、典学(楽士)、吹手(ラッパ吹き)、馬上才(馬上曲芸師)、

   楽隊
            楽隊
 
 刀尺(料理人)、旗手(旗もち)、船将(船長)、沙工(船頭)、水夫(船こぎ)、 小童(通訳補佐・事務処理)、双子(三使の身辺世話)、小通事(日本語を学ぶ学生)等々、50余の職種に及んだ。
 「一芸を以って国に名のある者ことごとく従えて行く」と言われるほど全国から選りすぐった者たちで編成された。
 まさに、一国の行政システムを凝縮して移動するような多彩な編成であった。

 朝鮮通信使一行は、対馬藩士800人が先導し、前後の警護を命じられた大名の軍勢(藩士)と休憩・昼食宿泊の接待役、さらに駕籠・輿・馬など世話する者などさまざまな随伴者など総勢3千人の大行列となった。

   護衛藩士
          護衛藩士

 異国文化に触れる初めての機会であり、朝鮮通信使が通過する沿道は行列を見物する人々であふれ、熱狂的な歓迎であったことがうかがい知れる。

 これだけの大規模な使節団を送る朝鮮側も、それを受け入れ接待する日本側も、その財政負担は莫大なものであった。実際にどれだけの費用がかかったのか、具体的に調べて次の機会に記したい。

 ただ莫大な費用の大部分は日・朝双方の民衆に転嫁されたことだけははっきりしている。

 6次朝鮮通信使の日光参詣は三回目であったが、以後、使節団の日光東照宮への参詣は行われなかった。背景に財政問題があったとされている。
    つづく
2018.10.12 朝鮮通信使25
     林羅山と朝鮮通信使

 林羅山(1583~1657)は、京都に生まれ、13歳のとき臨済宗の建仁寺に入って儒学と仏教を学んだ.

  建仁寺2
         建仁寺 京都

 2年後、僧になるのを嫌って家に帰り、もっぱら儒学に没頭し仏教を排撃したといわれている。

 羅山は、22歳の時、吉田与一(角倉了以の子)の紹介で、藤原惺窩(せいか)に入門し、惺窩の推薦で徳川幕府の儒官に登用された。

 師の藤原惺窩が、日本儒学の先駆をつとめながら生涯を市井の学者にとどまったのに対し、羅山は、生涯を儒官として幕府に仕えた。

 羅山は、家康・秀忠・家光・家綱の4代将軍の侍講を勤め、江戸時代の儒学文化の基礎を築いた。
 
 1630年、上野に孔子廟を建てて孔子を祀り儒学に力を注いだ。孔子廟は、後に神田の昌平坂に移されて幕府直轄の昌平坂学問所・湯島聖堂(お茶の水付近)となった。

  お茶の水
       昌平坂学問所 明治時代絵図

 羅山の弟子たちは各藩に登用され儒官として活躍した。
 
 また羅山は、幕府の外交文書を司り、当初から対朝鮮外交に深くかかわり、来日した通信使使節たちと筆談唱和した。

 彼は、1607年の第1次から1655年の6次朝鮮通信使往還までの
長い間、日本側の外交官、儒学者として、日本にやってきた通信使の正使・副使・述事官3使らを応接、筆談した唯一の人であった。
 
 羅山が、通信使節らとどのような筆談をしたのか、来日した使節が記録した「使行録」から探ってみる。

 最初の頃、林羅山は朝鮮通信使の正使、副使、叙述官、訳官(通訳)らと直接面接できる立場を利用して、朝鮮の儒学・朱子学について虚心に学ぼうとしたようである。

     林羅山1
           林羅山
 
 林羅山は、秀吉の 朝鮮侵略戦争後、徳川幕府との外交交渉のため初めて朝鮮からやってきた僧・松雲大師の客館を訪れ筆談した。松雲大師は、儒教を学ぶ学徒としての羅山の漢学の優秀さを認めたという。

 羅山は、3次の通信使往来までは、儒官として使節たちから儒学を学ぶ姿勢を堅持していたが、柳川調興側に味方して敗北した柳川一件を契機に、外交官としての立場から、通信使一行に対して厳しく当たるようにようになった。

 使節側は、羅山を「外交文書を司る僧侶」程度に軽くあしらっていたようであるが、柳川一件以後は、彼を幕府内の対朝鮮批判者の代表格とみなすようになっていた。
 当時の朝鮮国の文人や学者らは、日本にたいして武力では劣るが、学問・文化の面で絶対的な優越感をもっていた。

 そのため、使節たちの先入観と偏見によって羅山に対する評価は厳しいものがあった。

 しかし、若き日から朝鮮使節に関心を抱き儒学に没頭してきた羅山としては、同じ儒学を崇める朝鮮の使節には人間的な親しみ感じていた。

 羅山は、江戸本誓寺に滞在する4次使節団の副使・金世濂(キムセリョム)を訪ね筆談をかわした。
 
 金世濂は、「この日道春(羅山)が至り、経史のなかから難解なところ60余条を引き出して質問してきた。文辞が燦然として観るべきものがあり」と述べ、羅山の儒教談義には禅仏教の色彩多く残っていることを指摘した。
 
 林羅山は、「使臣の言はわたくしにとって薬石の効がある。わが国の学問は禅から出たから、このような患があるゆえんである。孔子の学問に帰一するためには何を修めるべきか。」と答え、彼の学問・儒学に対する真摯な姿勢は、柳川一件後も変わっていなかった。

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      正使            副使

 羅山が、朝鮮の儒教界で展開されていた「性理学論争」や朱子学の諸問題の内容も十分に理解していることを知った金世濂は、彼の儒学を禅仏教の要素があるにせよ高い水準のものであると認め評価するようになった。
 
 帰国後、復命の席で、正使の任統は、林羅山を「文理がなっていないし、詩は最も好みません」と答えたが、

 副使の金世濂は、「日本では林羅山の文章が最もできがよかった・・彼らを軽蔑すべきではありません」〈金世簾著『海搓録』)と答えたという。

  聖堂
      昌平坂学問所・湯島聖堂 
 
 国交を開き、安定化するためには、相互の先入観や偏見を克服しなければならない。お互いの先入観や偏見を克服するためには、やはり人と人の深い交流が大切であることを教えているようである。
    富士山と夕日と雲10

 10月8日、体育の日、
 このところ激しい気温の上下に体調が整わず、
 「朝鮮通信使」の記事が進まない。
 ブログ記事の間隔を長く開けられないので、
 東大和どっとネットに掲載した
 「富士山と夕日と雲10」とどけます。
 ご覧ください。

 

 これからも、朝鮮通信使の記事をつづけます。
 よろしく。
       第5次朝鮮通信使往還 
    日光東照宮における朝鮮式祭祀

 17世紀中葉、清を中心とする新たな東アジアの国際秩序の変化に対応するため、朝鮮は、南辺の日本との交隣関係の維持・強化する必要に迫られていた。

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     18世紀 東アジア(清・朝鮮・日本)
 
 1637年, 日本では島原の乱を契機に、この一揆の原因を誘発したとして、ポルトガル貿易船の来航を禁じ、1641年にはオランダ商館を長崎の出島に移し、貿易とともにキリスト教を統制した。いわゆる「鎖国」であった。
 
 3代将軍・家光は、徳川幕府の権威を高め、体制をより強固にするため、外交使節団・朝鮮通信使を招待し利用する必要があった。

 このような時代背景の下に第5次朝鮮通信使の往還があった。

 1643年、朝鮮は、前例がない将軍の世継ぎ誕生(家綱)を祝うとの名目で、正使、副使、述事官の三使をはじめ477人の大規模な通信使を日本に派遣した。
 
 使節団は盛夏の7月、江戸城で国書伝礼式を終え、日光東照宮に向かった。
  4次使節団の際は、「日光遊覧」をかたくなに拒否したが、幕府の強い要請と対馬藩主・宗義成の必死の懇願により、やむを得ず寒い冬の日光東照宮を訪れたのであった。

 5回目の使節団は、4次の使節団とはまったく違い、日光東照宮参拝に積極的であった。
 そればかりでなく、使節団は、朝鮮国王の親筆の祭文、銅鏡、香炉、燭台、仏具など祭祀に用いる備具を準備して、朝鮮式の祭祀・祭事(チェーサ)まで行ったのである。
  
 唐門拝殿
      東照宮 唐門と拝殿
 
  祭祀は、拝殿と唐門の間に設けられた仮拝殿で行われ、神酒(みき)と高盛(たかもり)朝鮮菓子20種類が正式な礼法で供えられた。朝鮮菓子は一足先に日光入りした朝鮮職人により作られていた。

 祭事1
   祭祀に供える食べ物 (現代風)
 
 正使の尹順之ら三使が着座すると、雅楽の奏楽が始まった。正使たちが焼香、拝礼し読祝官が国王の祭文を高らかに朝鮮語で読み上げた。
 
 祭文と供物の絹や幣帛(へいはく)は、朝鮮では祭礼後焼くか埋められるが、家光たっての希望で、祭文は封をして江戸に持ち帰り、幣帛は東照宮の宝物として残された。

 三代将軍・家光は、将軍就任中に3度の朝鮮通信使を招待し、2度の日光招待を実現させた。彼はその間、柳川一件を裁きその後遺症を克服して、朝鮮通信使を招待して善隣友好の関係を前進させたが、1652年、47才の若さで江戸城で逝去した。

  1655年、第6次朝鮮通信使は、家光を祀る大猷院霊廟前で朝鮮式祭祀を行った。そのときの朝鮮国王親筆の祭文が残されている。

 その内容は、「家光は家康の法度をよく守り孝道の思いが厚い。朝鮮国とは代々にわたって親睦を深めてきた」というもの。

 陽明門鐘
    東照宮 陽明門前の朝鮮鐘 

 日朝両国の利害関係は、お互いの望むことを実行してすることによって信頼を深め、善隣友好関係を築いていった。

 朝鮮国王の親筆の祭文は、「通信の国」朝鮮との善隣友好の歴史を物語る歴史的文化財として今に伝わっている。

 祭事2
    墓の前で行われる祭事の一場面 

 韓国では、一般家庭でお盆、正月、秋夕に先祖を祀る行事として祭祀・祭事が今も行われている。