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     梅雨空が面白い

 6月30日、早、今年の前半が終わった。
 昨日、気象庁は梅雨明けを発表した、
 あまりにも早い梅雨明けにとまどっている。
 というのは、今年の梅雨空の画像を集めて
 フォトストーリーを作ろうと計画していた。
 やむをえず、何年か前から撮ってきた、
 面白い梅雨空の画像を何枚か集めて
 ストーリーを作って見た、
 ご覧ください。

 

 猛暑がやってくる時期、
 梅雨空が懐かしく思えたら、
2018.06.24 朝鮮通信使14
      藤原惺窩と姜沆

 霊光
    姜沆の故郷 韓国全羅南道霊光 

 沈寿官と李参平は、日本に定着をよぎなくされたが、それぞれ薩摩焼、有田焼の生みの親・陶祖として名を残した。

 儒学者・姜沆(カンハン1567-1618)もまた、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の際、日本に連行されてきた朝鮮人の一人であった。
 
 したし彼は、陶工の沈寿官、李参平と違って、3年間拘留された後、日本の友人や善良な人々に助けられ故国への帰国を無事果たしている。

 わずか3年ばかりで帰国した姜沆が、どうして日本の歴史に名を刻むことになったのだろうか?
 
 姜沆は、科挙(国家試験)に合格して、朝鮮朝(李朝)の戸曹(大蔵省)の官僚となり、秀吉軍の第二次侵略戦争当時、全羅北道南原城を死守する兵士への食糧輸送に従事していた。

 南原城が陥落すると、姜沆はただちに故郷の全羅南道霊光に戻り義兵を起ち挙げ、李舜臣の水軍に合流しようとしたが、1597年9月、藤堂高虎軍に囚われ日本に連行された(姜沆31才)。

 大洲城
    姜沆が拘留された大洲城 愛媛県

 姜沆は、高虎の本城である伊予大洲に抑留されたが、その後、身分が高い人であるらしいということで京都伏見に移送された。

 そこで姜沆は、京都の豪商・角倉了以(本姓吉田・朱印貿易、桂川の開削や高瀬川開削など治水事業家・文化人)の弟で医者の吉田意安と知り合い、さらに相国寺の学僧・藤原惺窩(1561~1619)と偶然に出逢い親交がはじまった。
 
 惺窩(せいか)と姜沆の二人は、お互いに尊敬しあい、肝胆あい照らす仲となり、民族の垣根を超えた人間的な交遊であった。
 
 二人が交流した時期は、日本思想史の大転換期の時期でもあった。 
  
 惺窩は、姜沆との交流を通して、儒学とくに朱子学に対する認識をいっそう深めた。

 もともと禅僧であった惺窩が、姜沆の朝鮮朱子学の影響を受けて仏僧から朱子学者への転向・廃仏帰儒、「一種の哲学的”改宗”をもたらした」(『思想史研究』朴 都暎)とされている。
  
 藤原惺窩は、「日本じゃなくて、中国か朝鮮に生まれたかった!」と言うまでに中国・朝鮮を理想の国として憧れをもつようになった。

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    藤原惺窩         姜沆

 姜沆は、惺窩から依頼された儒教の経典・四書五経の筆写を指導し、それを新しい学説として一般化するため、日本語に読み下せるように訓点をほどこした。
 
 経典の訳注を分かりやすくしたことは、それまで権威者らによる閉鎖的な学問伝授を打破して、儒教を民衆に開放する契機となった。
 
 儒教経典が容易く読まれるようになると、その後の藩校や寺子屋の普及にともない、日本人の儒教道徳が養われていった。そして寺子屋は、ヨーロッパの宣教師から「礼儀の学校」と評されるようになった。
 
 姜沆が日本に連れて来られてから3年後の、1600年春、家康の命により帰国が許された。

 惺窩の弟子・吉田素庵(角倉了以の長男)や播州竜野城主・赤松広道の支援によって、50人乗りの船に、ベテランの船頭をつけてもらい対馬を軽由して朝鮮に帰国を果たした。

 記録にはないが、造船の資金調達や船頭の手配など、吉田素庵の父・角倉了以の援助があったものと思われる。

 藤原惺窩は、姜沆の帰国の際、「文の先進国、朝鮮の学者、文人と知り合いになり、使節の帰還に同行して、その国に留学したいとまで思ったのに、その国と自分の国は今戦争を始めようとしている」と言い、まだ戦争状態にあった日朝関係を嘆いたという。
 
 姜沆の帰国後、藤原惺窩は五山僧の間では、教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。

 惺窩の門下から、林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の四天王と称された藤門生が輩出した。

 1600年、入洛した家康に招かれた惺窩は、二条城において、家康の側近学僧・西笑承脱と激しい儒仏論争を繰り広げた。

  二条城
     儒仏論争が行われた二条城 京都 
 
 その結果、家康は惺窩に軍配をあげ、国家を治める学問として朱子学を採用する裁断をくだしたのであった。

 惺窩は、徳川家康に儒学を講じ、また家康から仕官を要請されたが辞退し、門弟の林羅山を推挙した。
 
 こうして、藤原惺窩がはじめた儒教・朱子学は、林羅山によって受けつがれ徳川幕府体制の思想的規範となった。
 
 惺窩は多くの大名や公家、僧侶と親交をもっていたが、生涯誰にも仕えず、晩年は京都洛北の市原に隠棲して自然を楽しむ生活を送ったという。

 後に、日本の儒学の祖と言われれるようになる藤原惺窩は、1619年、59歳で生涯を終えた。

 ところで、帰国した姜沆は、その後どうなったのだろうか?
 
 姜沆は、帰国するとすぐさま漢城(ソウル)に上り、宣祖王に日本の情勢を報告した。
 
 王から官職に復帰するよう薦められたが、「自分は罪人である」として辞退して帰郷した。

 故郷の霊光では、姜沆の文才を慕って門人・学者が集まり、多くの儒者を輩出した。
 1618年、52歳でその生涯を終えた。

 姜沆は、日本抑留記『看羊録・朝鮮儒者の日本抑留記』(朴鐘鳴訳注・東洋文庫)をはじめ多くの著作を残した。

 『看羊録』(かんようろく)には、日本で見聞したことや、日本の内情、国土の特徴など記している。

 その中に、惺窩について「妙寿院の僧、舜首座(しゅんしゅそ=藤原惺窩)なる者がいる。彼は、大変聡明で古文をよく解し、書についても通じていないものがない。性格も強くきびしく、倭では受け容(い)け入られる所がない、、、」と書いている。

  藤原惺か
     藤原惺窩像 兵庫県三木市

 藤原惺窩と姜沆、二人の交遊は僅か1年半にすぎなかったが、二人の学問と文化の交流、国境をこえた人間的交流は、歴史上に深く刻まれている。
    神秘的な光景2

 神秘的な自然現象は、
 言葉では説明がつかないことが多い、
 前回の音楽入りのフォトストーリー
 「神秘的な光景」が好評だったので、
 また、作って見た。ご覧ください。 



 今後も、他の記事の合間に取り入れていきたい。
     有田焼と李参平
 
   天狗谷窯跡
    李参平が始めた有田焼高麗谷窯跡 
 
 世界一の陶磁器生産量を誇り、数々の名器を生んだ有田焼、
 有田焼は、佐賀県有田町周辺の地域で焼かれる陶磁器の総称である。
 1,5キロ離れた伊万里港から国内外に出荷されたことから「伊万里焼」とも呼ばれる。
 有田焼は、透き通るような白い磁肌と華やかな精緻な絵付けを特徴とする。

 有田焼(伊万里焼)の生みの親・陶祖は李参平(り さんぺい)である。

 李 参平は、豊臣秀吉軍の朝鮮侵略戦争(1592~1598)の際、佐賀藩主・鍋島直茂に拉致連行されてきた多くの朝鮮人陶工の一人であった。

 言語や習慣の異なる朝鮮人陶工の処遇に頭を悩ませた鍋島は、重臣多久安順に預けた。
 
 多久によって李参平は、金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)と名を付けられたらしい。
 
 金ヶ江家に伝わる古文書に李氏と記載があったことなどから、明治になって地元の蘭学者谷口藍田が「李参平」と名づけたと言う。

 朝鮮忠清道金江(現・韓国忠清南道公州市反浦面)出身であること、
 1655年に死亡したことが確認されているが、生年月日や姓名は不詳である。

 李参平が、城下はずれの「高麗谷」で焼いた陶器を見た多久は、そのみごとさに感嘆し、李参平らにある程度の自由を与え,
より良い陶磁器を造るよう命じた。
 
 李参平は、良土をもとめて領内を歩きまわり、各地に散在していた同胞から情報を得ながら、ついに有田の泉山で良質な大量の磁器原料(陶石)を発見したのであった。

 1616年、李参平は高麗谷にいた同胞121人を連れて、泉山近くの天狗谷に窯をつくり、祖国で焼いたのとまったく同じ染付の磁器を焼きあげた。

 泉山
    有田泉山 天狗谷陶石採掘場

 日本では、初めての白磁で焼き上げた陶磁器の誕生・有田焼の起こりである。
 
 純白透明な器に美しく焼きついた青色絵の磁器は、それまで不透明な陶器しか知らなかった日本人の間に、たいへんな反響があったと思われる。

 天狗谷の窯跡から、鉢、壺,瓶、椀、皿などの小形のものが多く発見されている。絵模様は松竹、柳やぶどう、つる草、唐模様などで、碗や皿には野草や蝶、トンボなどが描いたもの、どれも朝鮮(李朝)の味合いそのものである。

  有田焼2
           有田焼
 
 佐賀藩鍋島はこれに目をつけ、各地に散在する朝鮮人陶工を有田に集め、独占的な大量生産体制を整えた。

 天狗谷でつくられた有田焼は佐賀藩に莫大な利潤をもたらした。

  17後半国立
           有田焼
 
 佐賀藩は、磁器生産技法が他藩にもれることをおそれ、販売市場を有田から離れた伊万里に限定した。

 そして、朝鮮人陶工たちが泉山・「高麗部落」から出入りすることを禁止して、軟禁状態で陶磁器生産に専念させた。

 また、他藩からの日本人に対しては、有田への出入りをかたく禁じた。見つかればただちに打ち首にしたという。
 
 鍋島は藩吏をおくり監視を強化したが、従事する日本人陶工が増えると、他藩からおくり込まれた陶工侵入者を防ぐことが出来なかった。

 江戸後期には、李参平の始めた磁器製法は、次第に瀬戸磁器をはじめ九谷磁器、会津磁器、京都清水焼などに伝わり、各地で有田焼によく似た陶磁器がつくられるようになった。

 陶磁器が大量に生産されると、貴族や武士上層階級だけでなく、一般庶民にまでゆきわたるようになった。

 木器や漆器の食器にかわり衛生的な陶器が使用は、日本人の生活様式に大きな変革をもたらした。

 磁器鳥居
    李参平を祀る陶山神社 磁器の鳥居

 李参平をはじめ朝鮮陶工たちが起こした磁器生産・有田焼は、海外にも知れわたり、日本の陶磁器産業繁栄の土台となった。
 
 ところで、日朝間の国交回復により朝鮮通信使・刷還使が往来して、使節らが幕府を通して、連行されたきた朝鮮人にたいする帰還・帰国の呼びかけは、有田の陶工たちに届いたのだろうか?
 
  第3次朝鮮通信使の通訳官が、はじめて佐賀藩内の「高麗部落」を訪れて、焼き物に従事する朝鮮人陶工に、帰国を呼びかけたことが記録されている。

 「1636年、第三回朝鮮通信使・刷還使の通訳官・康遇聖(カンウソン)は、帰国の途中、佐賀の唐津に行き、諭示文(帰国を呼びかける文)をもって同胞に帰国を呼びかけたが、申し出る者はなく、唐津の高麗村で焼き物に励んでいるのをみて空しくひきあげた」(『朝鮮通信使往来』辛基秀)
  
 そして、、「すでに侵略戦争から40年近くも経て、生活の基盤もできあがり、やむを得ないことであった」と説明されている。

 これは、陶工たちが「帰国に応じなかった」という結果からの説明であり、支配者側の理屈にすぎない。

 なぜなら、軟禁状態にあった朝鮮人陶工たちの「故郷に帰りたい」という、彼らの胸の内の声を見逃しているからである。
  
  一般的に考えると、人々の故郷に対する思い、望郷の念は、幾十年経過しようが変わるものではない。

 まして、突然、侵略者に拉致され、家族や縁者、同郷の人たちと引き裂かれて、異国の山中に隔離されている人たちである。歳をとるにしたがって「望郷の念」は募るばかりであったと思われる。

 考古学者の李進熙はかつて、有馬焼を開いた古窯跡、朝鮮人陶工が居住した唐人町の「高麗部落」、「朝鮮墳」、「高麗神祠」など、有田、伊万里一帯をくまなく見て回り、中山清次郎、中里敬市ら朝鮮人古老から、1930年代前半(昭和初期)頃まで、毎年旧暦の3月15日と10月15日に朝鮮式の祭りを行い、シルトク(朝鮮餅)を食べ、ヒウララク(風楽舞・豊年願う舞)を楽しんだことを聞きとっている。
 そして、代をついで長い間、朝鮮の生活様式・風習・伝統が守られ、受け継がれていたことを取材している。(『朝鮮文化と日本』1966年)

 それではなぜ、呼びかけに応じなかったのだろうか?

 通信使の通訳官一人が現れて、朝鮮人陶工たちに呼びかけたわけではない。
 
 同伴している対馬藩士、現場に道案内して来た佐賀藩士が見守っている。

 軟禁状態に置かれて、外からの情報が一切遮断されていた状況下、

 突然に現れた通信使が、「帰国」を呼びかけたのあるから、陶工たちはその真意を疑ったと思われる。

 そればかりではない、佐賀藩士・監視役が四方から目を光らせている状況のもとで、「帰りたい」と申し出ることは、殆ど不可能なことであったと思われる。

 佐賀藩としては、幕府からの「帰国を希望する者は帰還させよ」の通達があり、その通達にしたがって対馬藩士と通信使がやってきたため、やむなく朝鮮人陶工が働く現場に案内したもと思われる。

 通訳官の呼びかけに、朝鮮人陶工たちは、ただ黙々と働くことで答えた。

 そこには、「帰りたい」と申し出るに出られない苦悶の心情が隠されれていたのではなかろうか?

   李参平碑
     陶祖 李参平碑 1917年建立

 時間をかけて説得するとか、1人1人個別的に意思を確認するような状況、時代ではなかった。

 通信使訳官・康遇聖が持参した諭示文が、唐津の高徳寺と佐賀県立博物館に保存されているという。
 
 有田焼・伊万里焼の陶祖・李参平は長らく忘れ去られていたが、1959年に天狗谷窯付近で戒名を刻んだ墓石が上半分を欠いた形で発見された。

 現在は墓石は白川墓地に移され、「李参平の墓」として有田町「指定史跡」になっている。

 有田の龍泉寺の過去帳には、明暦元年8月11日(1655年9月10日)没、戒名・月窓浄心居士と記されている。

 有田の総鎮守とされる陶山神社は、応神天皇・「藩祖」鍋島直茂とともに「陶祖」李参平を祭神としている。

 1917年には、有田焼創業300年を記念し、陶山神社に「陶祖李参平碑」が建立された。

 昨年・2017年、有田焼創業400年祭が盛大に開かれた。
 
 毎年、5月4日に李参平の偉業を称える「陶祖祭」が行われている。

  有田周辺
       有田周辺観光マップ

 その前後の連休中、恒例の「陶器市」が開かれ、全国から100万人以上の観光客が訪れるという。
           つづく
    ビスカリア

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 今、東大和南公園のボランティア花壇で
 特別に目だつ綺麗な花は
 ピスカリアとスカシユリの花である。
 ビスカリアは、花いろが多く、


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 赤・白・青・紫色などの濃淡混合で、
 次から次へと咲く花もちののよい草花
 花言葉は熱心

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 スカシユリは、花が上向き咲きで、
 花びらにすき間があることからこの名がついた。
 黄色やオレンジ色は
 梅雨時の花壇を華やかに彩ってくれる。
 花言葉は偽り


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 その他に、いろいろな花が秩序良く植えられている、
 震災変電所のある平和広場と


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 両脇のボランティア花壇は市民の憩いの場所、
 梅雨時の晴れ間に訪れてと、
       薩摩焼と沈寿官

    中丸花瓶
      中丸花瓶 日置市〈ふるさと納税〉

 薩摩藩(現鹿児島県)内で生産される焼き物・陶磁器の全てを総称して薩摩焼と言う。
 
 江戸時代、薩摩には堅野系釜場、苗代川系釜場、龍門司系釜場、元立院系釜場、平佐系釜場など40か所近い陶窯があった。藩直営の窯もあった。
 
 全ての窯は、薩摩藩主・島津義弘が朝鮮から連行してきた陶工によって開窯されたものである。
 
  薩摩焼は、その特徴から古薩摩、黒薩摩、白薩摩に分けられ、壺や甕、花瓶、土瓶、徳利、茶器、茶碗、皿など多種多様な焼き物がつくられた、

     白薩摩湯呑
        白薩摩 湯呑

 初期の薩摩焼は、藩内の流通に限られたが、幕府に献上されたことから、次第にその名が全国的に広がっていった。

 薩摩焼が、江戸初期から今日まで、継続的に発展したのは、優れた陶芸技術を体得した朝鮮人陶工のたえまぬ努力によるもである。
  
 そしてまた、彼らを保護奨励した藩の政策が薩摩焼発展の要因になったと思われる。
 
 藩主の島津家は、朝鮮人技術者たちを手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらす事を許すとともに、その姓を日本名にすることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮の民族性を維持する様に統治した。

  陶苑
     苗代川民陶館 鹿児島県日置市 

 薩摩焼を世界的なブランド名を高めた沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、朝鮮朝(李朝)四代世宗王時代から朝廷に仕えた名門であった。

 1598年(慶長3年)、島津義弘が撤退のとき南原城付近で多数の朝鮮人を拉致連行してきた。その中に、沈家初代・沈当吉がいた。

 沈寿官の名を一躍有名にしたのは、幕末期に成長した天才 ・12代沈寿官であった。

 彼は、幕末期の藩営焼物工場の工長となり、薩摩藩財政改革の中で薩摩焼の振興に多大なる貢献を果たした。

 薩摩藩が、明治維新を成し遂げる主勢力と成り得たのは、薩摩焼収入による豊かな財政力にあったと言われている。

 1873年(明治6年)、沈寿官は日本を代表してオーストリアのウィーン万博に六フィート(約180cm)の大花瓶一対を含む幾多の作品群を発表し、絶賛を浴びた。以来、「SATHUMA」は日本陶器の代名詞になり、欧米で芸術品として高い評価をうけた。
 
 彼の透し彫り(すかしぼり)、浮き彫りの技術で農商務卿 西郷従道より功労賞を受けた。また、産業発展の功労者として緑綬褒賞を賜った。

 1893年、アメリカ合衆国シカゴ・コロンブス万博において、銅賞を獲得した。
 その後、パリ万博にて銅賞。ハノイ東洋諸国博覧会において金賞、セントルイス万博にても銀賞を受賞し、国際的に陶芸家・沈寿官の名を轟かせた。
 
 薩摩焼の総帥としての沈寿官は、海外の嗜好に決して迎合せず、日本人の美意識を貫き、最後まで自らを『平民』と称し続けた硬骨の人であった。

  12代  13代
   12代沈寿官は   13代沈寿官
 

 1906年(明治39年)、12代が世を去り、長男の正彦が父の名を襲名し13代沈寿官を名乗った。

 1910年、朝鮮が日本帝国主義の植民地になると、朝鮮人陶工を始祖にもつ薩摩焼陶工たちにとって最も厳しい時代となった。
 
 激しい偏見と差別の中で生き抜くために、祖先から受け継いだ姓を捨て、日本名に変える者、日本人と結婚して同化する者も現われた。朝鮮語は使わなくなり、風習も次第に忘れ去られていった。

 13代沈寿官は、厳しい状況下でも朝鮮民族の誇りを守りつづけ、1922年(大正11年)から1962年(昭和37年)まで、苗代川陶器組合長として薩摩陶業の発展に尽くした。
 
 初代・沈当官が連行されて来てから、330年後の1930年頃、13代沈寿官が、韓国を訪問し里帰りをはたした。
 郷里の青松では、沈氏の縁者が多数集まり歓迎したという。

 苗代川の窯元を訪れた李進熙(リ・ジンヒ)は、13代沈寿官を取材して次のように書いている。

 「70をこえた老人であった。沈老人は不自由な体を無理におこし”家宝”をとり出して自分の体内に朝鮮民族の血が流れていることを誇らしげに語ってくれた。沈寿官氏は慶尚北道青松の沈氏の後衛であるが、30年ほど前、おとずれ、かって故国へかえるのぞみを果たせず、異国の地で死んだ沈当官の願いを三百数十年ぶりにかなえてあげたことが何よりの心のなぐさめであるといっていた」(『朝鮮文化と日本』1966年)

 歴史ドラマを見ているような話であるが事実である。

 1963年(昭和38年)、13代沈寿官は産業発展の功により県民表彰を受賞した。
 
 13代もまた、朝鮮民族の誇り高く、そして誠実に父祖の業と伝来の作品群を守り抜いた。
 
 1964年、13代沈寿官が亡くなり、長男 恵吉が14代沈寿官を襲名した。

 襲名間もない頃、14代沈寿官を訪ねた金達寿は、初対面であったが意気投合したことを、小説『苗代川』に描いている。

 ”帰るといった客を引きとめたことがないという沈寿官さんは、暗くなってきた外を気にしている私たちを何度も引きとめて酒をすすめた・・・
 夜が深まるのも忘れて酒を酌み交わし、会話も尽きない、朝鮮の歌をうたい、宿を心配する金達寿に、泊まったらいい。せっかくきたんだ、この家に泊まって行ってくれ!」と”

 植民地時代に渡日した金達寿は在日30数年、一方の沈寿官は強制的に連行されて来てから、360年の歴史をもつ沈家の後裔、

 作家と陶芸家、同じ朝鮮民族の二人、共感、共鳴するするものがあったのだろう、別れがたい二人の姿が目に浮かぶようである。

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     14代沈寿官        金達寿

 1970年、14代沈寿官は、大阪で開かれた万国博覧会に白薩摩浮彫大花瓶を出品し、好評を博した。

 1989年(平成元年)には明仁天皇より、日本人初の大韓民国名誉総領事就任を承認された。

 また、1998年に行われた国際的イベント『薩摩焼400年祭』の成功により、金大中大統領より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受章した。

     記念切手
       ”薩摩焼400年祭”  記念切手

 14代沈寿官もまた、薩摩焼の名を再び全国へ認知させた功績は実に多大なものがあった。

 1999年(平成11年)、14代沈寿官存命中に、長男一輝が15代沈寿官を襲名した。
 
 襲名から10年後、15代沈寿官の記者会見があった。

  ――第15代を襲名してから10年、何を見出しましたか。
 襲名したときは、これで逃げられないなと思った(笑)。最初の数年はイケイケドンドンとでもいうか、恐さを知らなかったが、その後は壁を感じ、内面をみがく時期だったと思う。
 文明の利器など何もなかった時代の先人達の優れた手仕事に出会い、そこから熟慮と哲学を学んだ。先人達の残した遺品、作品を見直す中で、400年も前に玄界灘の波濤を越え、見知らぬ国で陶芸の技を糧に第2の人生に挑んだ初代達の悲しみを偲んだ。言われの無い偏見の中で耐えながら、真っ直ぐに父祖の業を守ってきた人々の重みを感じた。

 ――沈家の歴史の重みを感じたことで、仕事に変化が生じましたか。
 未知なる「未来」に挑む事は、通り過ぎた未知なる「過去」に挑むのと同じであることに気づいた。先代達の作品は過去の作品であっても、自分には新しい未知な作品だ。その作品づくりを理解するだけでも、一生を費やす作業といえる。過去にあったが今は失われた技術や原料もある。それらに対する考察も必要だ。
 沈家の伝統は、私を縛るものではなく、いまや、私にとってかけがえのない宝となっている。
 
――今後の活動について教えてください。
 具体的には、歴代沈寿官の作品や遺品を展示した美術館の拡張、秋に出す新しいブランドの準備、原料調達ルートの開拓などがある。沈家を継ぐということは、地域の歴史を継ぐことでもあるから、町おこしにも貢献しないといけない。様々なアイデアを出しチャレンジしていきたいと考えている。今の「私の仕事」は、私の仕事であると同時に、父を含めた歴代の工人達、そして工房の仲間、すなわち「私達の仕事」であることを忘れずに、現代(いま)の時代に挑んでいきたい。

    15代沈
          15代沈寿官

 15代沈寿官は、現在活躍中である。
 
 次の機会に改めて記事にしたい。
                     つづく