| Home |
2018.05.26
富士山と夕日と雲71
神秘的な光景
ブログを始めて6年になる、
その間、「富士山と夕日と雲」の
写真を撮り続けてきた。
初期の頃、撮った画像の中に、
二度と見られない「神秘的な光景」があった。
既に、公開した画像もあるが、 7枚をストーリー風に作成して掲載しました。
ご覧ください。
音楽が入って良かったと言ってくれる
仲間がいたので、続けて掲載してゆきたい。
ブログを始めて6年になる、
その間、「富士山と夕日と雲」の
写真を撮り続けてきた。
初期の頃、撮った画像の中に、
二度と見られない「神秘的な光景」があった。
既に、公開した画像もあるが、 7枚をストーリー風に作成して掲載しました。
ご覧ください。
音楽が入って良かったと言ってくれる
仲間がいたので、続けて掲載してゆきたい。
2018.05.20
朝鮮通信使11
さらわれて来た朝鮮人

対馬北端鰐浦 朝鮮通信使最初の上陸地
豊臣秀吉による朝鮮侵略戦争(1592~98)の過程で、出兵した諸大名がさらってきた朝鮮人の数は、研究者によって違いはあるが、凡そ5万~7万人と推定されている。
万単位の民が強制的に連行されてきたとは驚きである。
諸大名は、とくに撤退時に通過する村々の老若男女、子供まて手当たりしだいさらってきたと言われている。
そのため、この侵略戦争を「人さらい戦争」、「やきもの戦争」とも言われた。
なぜ、人さらいまでして日本に連れてくる必要があったのたのだろうか?

耳塚 朝鮮人の鼻・耳を埋めた塚 京都市
その理由の一つは、奴隷として売りとばすためであった。
諸大名の将兵の中に商人がまじり、彼らは「拉致してきた多勢の人々を長崎県大村に集め、ポルトガルの奴隷商と鉄砲や絹と交易した」と目撃した宣教師が記している。〈シュタイン『切支丹大名記』)
九州臼杵城主太田飛騨守の従軍僧・安養寺の慶念は、商人が「奥陣よりあとつきあるき、男女老若買取りて、縄で首をくくり集めた」と人買いの様子・惨状を書き残した。
二つ目の理由は、労働力不足を補うためであった。
2度の侵略戦争に秀吉軍・約30万の兵士が動員されたが、犠牲者はその半分と推定されていることから、各藩の男子労働人口の低下は著しいものであったと思われる。
諸大名は、自領内の耕作農民の人手不足を穴うめするために朝鮮人を拉致してきた。
三つ目の理由は、陶工を連れてくるためであった。
千利休(せんのりきゅう)が、豊臣秀吉の茶の湯の師であったことはよく知られている。秀吉に限らず、戦国時代頃から茶道をたしなむ武将が増え、侘びの心を美意識として定着させた。
その美意識を表すのに適した茶器として高麗茶碗が好まれた。高麗茶碗、朝鮮(李朝)陶磁器は貴重な茶道具として需要が高まっていた。まさにこの時期に朝鮮侵略が起こった。諸大名は、競うように朝鮮人陶工(沙器匠)をさらってきたのであった。
大名の中には、焼きもの生産地の陶工たちを、村ごと全員拉致連行して、自分たちの領内に抱き、生産に当たらせた。
有名な有田焼、薩摩焼、高取焼、上野焼、萩焼などは、拉致されてきた朝鮮人陶工たちによって始まった陶芸産地である。
その他に、活字工、紙工、石工、大工、織物工、鍛冶工、厨子(料理人)、侍者、侍女、薬屋、茶坊主、儒学者、等々が拉致されて来た。
日本に連行された人々のなかで、どれ位の人が帰還できたのだろうか?
その数は、凡そ6300人~7500人と推定されている。
連行された数からすると、わずか約十分の一が帰還したことになる。
帰還の方法は、
1、自力で帰還をはたした者、
2、対馬藩宗氏が仲介して送還された者、
3、朝鮮通信使(回答兼刷還使)が来日した際に一緒に帰還した者。
何れの方法にしろ、帰る意思があって、善意の人々に恵まれた者は故郷に帰れたのであろう。
それでは、日本に残った数万の朝鮮人は、その後、どうなったのだろうか?
その殆んどは、2代、3代と世代が変わりながら、日本人の中に同化融和したと思われる。
ところが、少数であるが、陶工など集団で連行されてきた朝鮮人は、藩の保護政策のもとで集団部落を形成して、言葉や衣服・風習・民族的誇りを守りぬこうとした人々もあった。
薩摩藩主・島津義弘が朝鮮慶尚道から、陶工をはじめ500余名を連行してきたと記録されている。
そのうち、22姓、84人が、現在の鹿児島県串木野と市來神之野川に住み、焼き物や畑を切りひらいて生計を立てたが、徒党を組んだ付近の住民の略奪があとをたたず、やむなく人里離れた苗代川に移住を余儀なくされた。

吹上浜 鹿児島県苗代川丘陵から望む
こうして、苗代川の人々の悲しい苦難の歴史が始まった。
しかし、彼らは民族的誇りを持ちつづけ、しぶとく生きぬいたと考えられる。
彼らは海の見える山に宗廟(現玉木神社)を建て先祖(檀君)を祀った。
朴、沈、金、申、鄭、李、など朝鮮名をなのり、風習を守り、必ず朝鮮どうし結婚し、子供には朝鮮文字や習慣を教えたという。
この地で、朴平意(パク・ピョンイ)が苗代川焼・薩摩焼を誕生させた。
その後、沈家・沈寿官が加わり、薩摩焼は藩内全域に窯がつくられ、日本、世界へとブランド力を高めていった。

薩摩焼窯元 沈寿官家
司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の主人公は、14代・沈寿官がモデルである。
現在、15代目沈家当主・沈寿官が活躍しているという。
また、苗代川(現日置市東市来町美山)には10数件の窯元があり、沈家の他に金氏、朴氏、李氏、鄭氏の標札がかかっているという。
彼らは、昭和初期(1920年代)ごろまで、日本人との縁談はなかったと伝えられている。
また、九州各地に拉致連行されてきた朝鮮人の痕跡が残っているという。

有田焼・伊万里焼元祖 李参平碑
連行されてきた朝鮮人の中から、陶工の沈寿官(シム・スグアン)、李参平(リ・サンピョン)、儒学者の姜抗(カン・ハン)ら数人が、歴史にその名を刻んでいる。
次回は、その人たちについて記したい。
つづく

対馬北端鰐浦 朝鮮通信使最初の上陸地
豊臣秀吉による朝鮮侵略戦争(1592~98)の過程で、出兵した諸大名がさらってきた朝鮮人の数は、研究者によって違いはあるが、凡そ5万~7万人と推定されている。
万単位の民が強制的に連行されてきたとは驚きである。
諸大名は、とくに撤退時に通過する村々の老若男女、子供まて手当たりしだいさらってきたと言われている。
そのため、この侵略戦争を「人さらい戦争」、「やきもの戦争」とも言われた。
なぜ、人さらいまでして日本に連れてくる必要があったのたのだろうか?

耳塚 朝鮮人の鼻・耳を埋めた塚 京都市
その理由の一つは、奴隷として売りとばすためであった。
諸大名の将兵の中に商人がまじり、彼らは「拉致してきた多勢の人々を長崎県大村に集め、ポルトガルの奴隷商と鉄砲や絹と交易した」と目撃した宣教師が記している。〈シュタイン『切支丹大名記』)
九州臼杵城主太田飛騨守の従軍僧・安養寺の慶念は、商人が「奥陣よりあとつきあるき、男女老若買取りて、縄で首をくくり集めた」と人買いの様子・惨状を書き残した。
二つ目の理由は、労働力不足を補うためであった。
2度の侵略戦争に秀吉軍・約30万の兵士が動員されたが、犠牲者はその半分と推定されていることから、各藩の男子労働人口の低下は著しいものであったと思われる。
諸大名は、自領内の耕作農民の人手不足を穴うめするために朝鮮人を拉致してきた。
三つ目の理由は、陶工を連れてくるためであった。
千利休(せんのりきゅう)が、豊臣秀吉の茶の湯の師であったことはよく知られている。秀吉に限らず、戦国時代頃から茶道をたしなむ武将が増え、侘びの心を美意識として定着させた。
その美意識を表すのに適した茶器として高麗茶碗が好まれた。高麗茶碗、朝鮮(李朝)陶磁器は貴重な茶道具として需要が高まっていた。まさにこの時期に朝鮮侵略が起こった。諸大名は、競うように朝鮮人陶工(沙器匠)をさらってきたのであった。
大名の中には、焼きもの生産地の陶工たちを、村ごと全員拉致連行して、自分たちの領内に抱き、生産に当たらせた。
有名な有田焼、薩摩焼、高取焼、上野焼、萩焼などは、拉致されてきた朝鮮人陶工たちによって始まった陶芸産地である。
その他に、活字工、紙工、石工、大工、織物工、鍛冶工、厨子(料理人)、侍者、侍女、薬屋、茶坊主、儒学者、等々が拉致されて来た。
日本に連行された人々のなかで、どれ位の人が帰還できたのだろうか?
その数は、凡そ6300人~7500人と推定されている。
連行された数からすると、わずか約十分の一が帰還したことになる。
帰還の方法は、
1、自力で帰還をはたした者、
2、対馬藩宗氏が仲介して送還された者、
3、朝鮮通信使(回答兼刷還使)が来日した際に一緒に帰還した者。
何れの方法にしろ、帰る意思があって、善意の人々に恵まれた者は故郷に帰れたのであろう。
それでは、日本に残った数万の朝鮮人は、その後、どうなったのだろうか?
その殆んどは、2代、3代と世代が変わりながら、日本人の中に同化融和したと思われる。
ところが、少数であるが、陶工など集団で連行されてきた朝鮮人は、藩の保護政策のもとで集団部落を形成して、言葉や衣服・風習・民族的誇りを守りぬこうとした人々もあった。
薩摩藩主・島津義弘が朝鮮慶尚道から、陶工をはじめ500余名を連行してきたと記録されている。
そのうち、22姓、84人が、現在の鹿児島県串木野と市來神之野川に住み、焼き物や畑を切りひらいて生計を立てたが、徒党を組んだ付近の住民の略奪があとをたたず、やむなく人里離れた苗代川に移住を余儀なくされた。

吹上浜 鹿児島県苗代川丘陵から望む
こうして、苗代川の人々の悲しい苦難の歴史が始まった。
しかし、彼らは民族的誇りを持ちつづけ、しぶとく生きぬいたと考えられる。
彼らは海の見える山に宗廟(現玉木神社)を建て先祖(檀君)を祀った。
朴、沈、金、申、鄭、李、など朝鮮名をなのり、風習を守り、必ず朝鮮どうし結婚し、子供には朝鮮文字や習慣を教えたという。
この地で、朴平意(パク・ピョンイ)が苗代川焼・薩摩焼を誕生させた。
その後、沈家・沈寿官が加わり、薩摩焼は藩内全域に窯がつくられ、日本、世界へとブランド力を高めていった。

薩摩焼窯元 沈寿官家
司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の主人公は、14代・沈寿官がモデルである。
現在、15代目沈家当主・沈寿官が活躍しているという。
また、苗代川(現日置市東市来町美山)には10数件の窯元があり、沈家の他に金氏、朴氏、李氏、鄭氏の標札がかかっているという。
彼らは、昭和初期(1920年代)ごろまで、日本人との縁談はなかったと伝えられている。
また、九州各地に拉致連行されてきた朝鮮人の痕跡が残っているという。

有田焼・伊万里焼元祖 李参平碑
連行されてきた朝鮮人の中から、陶工の沈寿官(シム・スグアン)、李参平(リ・サンピョン)、儒学者の姜抗(カン・ハン)ら数人が、歴史にその名を刻んでいる。
次回は、その人たちについて記したい。
つづく
2018.05.15
富士山と夕日と雲70
富士山八景
夕日が沈む頃、
筆者はベランダから見える富士山の撮影を
日課のようにしている。
そして、「富士山と夕日と雲」の記事を
定期的に掲載している。
ところが最近は、富士山が現われないので、
記事のネタが枯渇状態にある。
そこで、いままで撮った富士山の画像に中から
8枚を使ってフォトストーリー作って見た。
ご覧ください。
いかがでしたか?
好評であれば、また作って見たい。
夕日が沈む頃、
筆者はベランダから見える富士山の撮影を
日課のようにしている。
そして、「富士山と夕日と雲」の記事を
定期的に掲載している。
ところが最近は、富士山が現われないので、
記事のネタが枯渇状態にある。
そこで、いままで撮った富士山の画像に中から
8枚を使ってフォトストーリー作って見た。
ご覧ください。
いかがでしたか?
好評であれば、また作って見たい。
2018.05.09
朝鮮通信使10
第2回 朝鮮通信往還
1615年、徳川軍の攻撃よって大阪城が落城し、豊臣秀頼と母・淀君が自害して豊臣家は滅亡した。
徳川家は名実ともに天下統一を果たした。
この年、日朝間の国交回復・朝鮮通信使往還・貿易再開に生涯をかけて尽力した対馬藩主・宗義智が死亡し、息子・義成が12歳で藩主となった。同時に、家老であった柳川調信の孫・調興(しげおき)が13歳で義成の重臣となった。

宗家菩提寺 万松院 宗義成建立
翌年、徳川家康が亡くなったが、幕府は天下統一を祝賀する使節の派遣を対馬藩を通して朝鮮王朝に要請した。
幕府の国書は、「日本国源秀忠」であったが、このときもまた,
対馬藩は偽造した国書・「日本国王源秀忠」を朝鮮側にわたした。
この年、女真族のヌルハチが明から独立し「後金国」を建て、その脅威が朝鮮北部に迫っていた。
朝鮮側は、「日本国王」の要請に応える形式をとりつつ、徳川家が豊臣家を滅ぼし朝鮮国の仇を討ってくれたことに感謝すると共に、日本に連行された多くのを同胞を帰国(刷還)させるために、2回目の朝鮮通信使・「回答兼刷還使」派遣を決定した。
2回目の朝鮮通信使の従事官・李景稷(リ・キョンジク)は、日本往還記録・『扶桑録』に書き残した。
1617年7月、正使、副使、従事官の三使はじめ、総数428名の使節団一行は釜山を発ち、対馬の府中に着いた。
翌日、使節団は、会談に現われた藩主の宗義成と重臣の柳川調興の姿を見て驚いた。
従事官・李景稷は、
「義成は年が14、調興は年が15、ともに口ばしの黄色い小児であった。調興は言語と動作が怜悧で、狡くて、敏捷、義成は愚かで、ぼんやりしていた。島の人たちも、調興がすぐれており、かって江戸で秀忠の寵愛を受けたという。島内のすべての事、および使節一行の接待のことを主管していた」
と、あまりにも若い藩主と重臣の登場に驚いたのであった。
柳川調興は江戸で生まれ、小さいときから家康、秀忠に気に入られ、小姓をつとめていたことがあった。後に、この二人は対立し、お家騒動・「柳川事件」として幕府の裁きを受けることになる。(詳細は後述する)

徳川秀忠 徳川家記念館所蔵
8月、京都に着いた使節団は大徳寺に宿泊し、伏見城で來聘行事・国書伝令式が行われた。
新将軍・徳川秀忠は、大阪冬・夏の陣で陣頭指揮をとり、京都伏見城に留まっていた。
2回目の朝鮮通信使の国書伝令式が京都で行われたのは、全国の大名を呼びよせ、朝廷の目の前で徳川幕府の威信と権力を天下に見せつけるためであった。

伏見城 京都市伏見区
李景稷は、
「六十六州の諸将が皆、兵を率いて来会した。使臣の一行がたまたまその時に当たり、威勢を誇る一助になったと秀忠は喜んだ」と記した。
朝鮮通信使の訪日を利用して、家康亡き後も新将軍のもとに、徳川幕府は盤石であることを国内外に誇示するものであった。
伏見城は、徳川家康と松雲大師の会談が開かれ、日朝間の国交回復の端緒を開いたゆかりの場所であった。(参照・朝鮮通信使2)
一方、使節団の主目的である、さらわれてきた朝鮮人(被虜人)の送還(刷還)事業はますます難しくなっていた。
使節団は、対馬に着いたときから、日本にさらわれてきた同胞の送還を強く求めた。
対馬藩としては、心をつくして努力するが、「年月が経っているので、なかなか難しい」と実情を説明したが、
使節団は、
「人の情というものは、故国を懐かしがるものである。以前、刷還したり、あるいは逃げ帰って人は皆、妻を娶った男、嫁入りした女であった。わが国の民が帰国を喜ばない道理があろうか」と述べ、多くの人々が送還されるものと楽観していた。

京都大徳寺 朝鮮通信使の宿泊所
しかし、幕府、対馬藩のはたらきかけや、努力にかかわず被虜人・朝鮮人は集まらず、送還作業ははかどらなかった、
その最大の理由は、朝鮮人をさらってきた支配者たちが、彼らを帰らせない、名乗らせないことにあった。
その他に、
やっと食えるようになり定住をきめた者、
日本人と結婚して家族をもち安定した者、
朝鮮語が使えず日本の習俗に同化した者、
帰りたいが育ててくれた主人に対する恩義を裏切れない者、
帰国後の処罰を恐れる者、
帰るか、留まるか・迷っている者、等々
送還に応じない理由は様々であった。
20数年の歳月の経過による現実であった。
李景稷は、
「捕虜になった全開金〈チョン・ケグム〉がやってきて、身の上話を語ったが、十二,三歳で捕虜になり、朝鮮語は一語も通じず、もはや一人の日本人であった。
故郷に帰るように、と言いきかせると、
日本の主人が江戸から帰るのを待って話をしてからでなくては帰れません。と言うので、
お前の父母とどちらの恩が重いのか、と聞いたが、
生活が安定している者は、帰国の意思がまったくなかった。
帰国を望む者は、雇われて苦労している者に限られていた」と述べている。
幕府は、送還問題については、帰国の意思のある者は妨げないように各大名に通達したが、連絡や船の配備、食糧など一切の実務を対馬藩に任せたのであった。
対馬藩としては極力、力をつくしたが、諸大名は城下に伝達しないか、伝達したとしても形式的に行うなど、藩の対応はおおむね消極的であった。
こうして、釜山出航から三か月後の10月、第2回朝鮮通信使は、321人の同胞を連れて帰国した。(1回目1432人、3回目は146人だった)

朝鮮通信使が往還した現在の淀川
長い年月の経過は、家族の待つ故郷への距離は遠くなり、望郷の念は薄れ、諦めへと変わっていったのだろう。
それにしても、秀吉軍の諸大名たちは、一体どれくらいの朝鮮人を拉致連行(捕虜)して来たのだろうか?
なぜ、朝鮮人をさらってくる必要があったか?
どのような人々が連れて来られたのか?等々、
次の機会に記してみたい。
つづく
1615年、徳川軍の攻撃よって大阪城が落城し、豊臣秀頼と母・淀君が自害して豊臣家は滅亡した。
徳川家は名実ともに天下統一を果たした。
この年、日朝間の国交回復・朝鮮通信使往還・貿易再開に生涯をかけて尽力した対馬藩主・宗義智が死亡し、息子・義成が12歳で藩主となった。同時に、家老であった柳川調信の孫・調興(しげおき)が13歳で義成の重臣となった。

宗家菩提寺 万松院 宗義成建立
翌年、徳川家康が亡くなったが、幕府は天下統一を祝賀する使節の派遣を対馬藩を通して朝鮮王朝に要請した。
幕府の国書は、「日本国源秀忠」であったが、このときもまた,
対馬藩は偽造した国書・「日本国王源秀忠」を朝鮮側にわたした。
この年、女真族のヌルハチが明から独立し「後金国」を建て、その脅威が朝鮮北部に迫っていた。
朝鮮側は、「日本国王」の要請に応える形式をとりつつ、徳川家が豊臣家を滅ぼし朝鮮国の仇を討ってくれたことに感謝すると共に、日本に連行された多くのを同胞を帰国(刷還)させるために、2回目の朝鮮通信使・「回答兼刷還使」派遣を決定した。
2回目の朝鮮通信使の従事官・李景稷(リ・キョンジク)は、日本往還記録・『扶桑録』に書き残した。
1617年7月、正使、副使、従事官の三使はじめ、総数428名の使節団一行は釜山を発ち、対馬の府中に着いた。
翌日、使節団は、会談に現われた藩主の宗義成と重臣の柳川調興の姿を見て驚いた。
従事官・李景稷は、
「義成は年が14、調興は年が15、ともに口ばしの黄色い小児であった。調興は言語と動作が怜悧で、狡くて、敏捷、義成は愚かで、ぼんやりしていた。島の人たちも、調興がすぐれており、かって江戸で秀忠の寵愛を受けたという。島内のすべての事、および使節一行の接待のことを主管していた」
と、あまりにも若い藩主と重臣の登場に驚いたのであった。
柳川調興は江戸で生まれ、小さいときから家康、秀忠に気に入られ、小姓をつとめていたことがあった。後に、この二人は対立し、お家騒動・「柳川事件」として幕府の裁きを受けることになる。(詳細は後述する)

徳川秀忠 徳川家記念館所蔵
8月、京都に着いた使節団は大徳寺に宿泊し、伏見城で來聘行事・国書伝令式が行われた。
新将軍・徳川秀忠は、大阪冬・夏の陣で陣頭指揮をとり、京都伏見城に留まっていた。
2回目の朝鮮通信使の国書伝令式が京都で行われたのは、全国の大名を呼びよせ、朝廷の目の前で徳川幕府の威信と権力を天下に見せつけるためであった。

伏見城 京都市伏見区
李景稷は、
「六十六州の諸将が皆、兵を率いて来会した。使臣の一行がたまたまその時に当たり、威勢を誇る一助になったと秀忠は喜んだ」と記した。
朝鮮通信使の訪日を利用して、家康亡き後も新将軍のもとに、徳川幕府は盤石であることを国内外に誇示するものであった。
伏見城は、徳川家康と松雲大師の会談が開かれ、日朝間の国交回復の端緒を開いたゆかりの場所であった。(参照・朝鮮通信使2)
一方、使節団の主目的である、さらわれてきた朝鮮人(被虜人)の送還(刷還)事業はますます難しくなっていた。
使節団は、対馬に着いたときから、日本にさらわれてきた同胞の送還を強く求めた。
対馬藩としては、心をつくして努力するが、「年月が経っているので、なかなか難しい」と実情を説明したが、
使節団は、
「人の情というものは、故国を懐かしがるものである。以前、刷還したり、あるいは逃げ帰って人は皆、妻を娶った男、嫁入りした女であった。わが国の民が帰国を喜ばない道理があろうか」と述べ、多くの人々が送還されるものと楽観していた。

京都大徳寺 朝鮮通信使の宿泊所
しかし、幕府、対馬藩のはたらきかけや、努力にかかわず被虜人・朝鮮人は集まらず、送還作業ははかどらなかった、
その最大の理由は、朝鮮人をさらってきた支配者たちが、彼らを帰らせない、名乗らせないことにあった。
その他に、
やっと食えるようになり定住をきめた者、
日本人と結婚して家族をもち安定した者、
朝鮮語が使えず日本の習俗に同化した者、
帰りたいが育ててくれた主人に対する恩義を裏切れない者、
帰国後の処罰を恐れる者、
帰るか、留まるか・迷っている者、等々
送還に応じない理由は様々であった。
20数年の歳月の経過による現実であった。
李景稷は、
「捕虜になった全開金〈チョン・ケグム〉がやってきて、身の上話を語ったが、十二,三歳で捕虜になり、朝鮮語は一語も通じず、もはや一人の日本人であった。
故郷に帰るように、と言いきかせると、
日本の主人が江戸から帰るのを待って話をしてからでなくては帰れません。と言うので、
お前の父母とどちらの恩が重いのか、と聞いたが、
生活が安定している者は、帰国の意思がまったくなかった。
帰国を望む者は、雇われて苦労している者に限られていた」と述べている。
幕府は、送還問題については、帰国の意思のある者は妨げないように各大名に通達したが、連絡や船の配備、食糧など一切の実務を対馬藩に任せたのであった。
対馬藩としては極力、力をつくしたが、諸大名は城下に伝達しないか、伝達したとしても形式的に行うなど、藩の対応はおおむね消極的であった。
こうして、釜山出航から三か月後の10月、第2回朝鮮通信使は、321人の同胞を連れて帰国した。(1回目1432人、3回目は146人だった)

朝鮮通信使が往還した現在の淀川
長い年月の経過は、家族の待つ故郷への距離は遠くなり、望郷の念は薄れ、諦めへと変わっていったのだろう。
それにしても、秀吉軍の諸大名たちは、一体どれくらいの朝鮮人を拉致連行(捕虜)して来たのだろうか?
なぜ、朝鮮人をさらってくる必要があったか?
どのような人々が連れて来られたのか?等々、
次の機会に記してみたい。
つづく
2018.05.05
玉川上水駅周辺の風景52
子供の日

今年の冬が暖かったためか、
春の花が早く咲き出した。
さくらは例年より、一週間早く満開となり、、
その後のチューリップ、つつじ等、
すべての春の花が1週間から10日も早く咲いた。
5月5日、子供の日の今日。
東大和南公園に行ってみると、
いつもなら、5月中旬頃、見ごろを迎える、

ボランティア花壇のバラが
満開に近い状態であった。
バラだけでなく、他の花も美しく咲き誇り、
上空を泳ぐ鯉のぼりと共に
筆者の目を楽しませてくれた。

晴天のこの日、
家族連れも多く、よちよち歩く幼児、
元気に遊びまわる子供、
グランドを走る中・高生たち、

公園内はにぎやかであった。
筆者はのんびりと散歩を楽しんだ、

なんとなく、
元気をもらったような子供の日であっだ。

今年の冬が暖かったためか、
春の花が早く咲き出した。
さくらは例年より、一週間早く満開となり、、
その後のチューリップ、つつじ等、
すべての春の花が1週間から10日も早く咲いた。
5月5日、子供の日の今日。
東大和南公園に行ってみると、
いつもなら、5月中旬頃、見ごろを迎える、

ボランティア花壇のバラが
満開に近い状態であった。
バラだけでなく、他の花も美しく咲き誇り、
上空を泳ぐ鯉のぼりと共に
筆者の目を楽しませてくれた。

晴天のこの日、
家族連れも多く、よちよち歩く幼児、
元気に遊びまわる子供、
グランドを走る中・高生たち、

公園内はにぎやかであった。
筆者はのんびりと散歩を楽しんだ、

なんとなく、
元気をもらったような子供の日であっだ。
2018.05.01
玉川上水駅周辺の風景51
鯉のぼり

東大和南公園
震災変電所前の平和広場に
鯉のぼりが登場した、
4匹の鯉が大空高く泳ぐ姿は
この広場で、はじめて見る光景である、

これまで、玉川上水駅周辺では
鯉のぼりを見かけることはなかった、
それだけに珍しく、懐かしい気持ちになり、
つい、口ずさんだ唱歌
やねよりたかい こいのぼり
大きいまごいは おとうさん
小さいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
また、次の鯉のぼりの歌も思い出した、
いらかの波と雲の波
かさなる波の中空を
橘かおる朝かぜに
高く泳ぐや鯉のぼり
今年は、大型連休だと言われているが、
後期高齢者には、
大型であろうが、小型であろうが、
毎日が連休中である、

子供のころ、
連休を待つわくわくした気持ちは
いつから消えたのか、少しも残っていない、
ただ、今年の連休は、
鯉のぼりが泳ぐ姿を眺める
新しい楽しみができた、
風向きや、強風、そよ風などで、
鯉のぼりのいろいろな泳ぐ姿が面白い、

5月5日、子どもの日
世界のすべての子供たちの、
健やかな成長を願う
これからも、ずーとずーと
平和な世の中であって欲しい願う

震災変電所前、平和広場の鯉のぼり
天気が良ければ毎日のように、
ボランティア花壇の花の鑑賞をかねて、
鯉のぼりを眺めに
訪れようと思っている。
| Home |