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2018.03.27
玉川上水駅周辺の風景48
花見シーズン到来

今年は、例年より一週間早い桜の開花、
東大和南公園の平和広場に行って見ると
すでに満開の桜もあり、七分咲き、五分咲き、
まだ芽が出たばかり桜もある。
この公園の桜は、何といっても、

震災変電所裏に咲く2本の大木の桜である、
この桜は、南公園のシンボル的な桜であるあが、
市内だけでなく、
周辺の地域では見られない立派な桜だ。
「平和さくら」とか特別な名前をつけても、
と思われるのだが?

この桜が満開の頃、花見シーズンの絶頂期である。
「寒の戻り」以来、好天に恵まれ、
花見シーズン到来とばかり
それぞれのグループが、宴会を開き、

平和広場は連日にぎやかである。

今年は、例年より一週間早い桜の開花、
東大和南公園の平和広場に行って見ると
すでに満開の桜もあり、七分咲き、五分咲き、
まだ芽が出たばかり桜もある。
この公園の桜は、何といっても、

震災変電所裏に咲く2本の大木の桜である、
この桜は、南公園のシンボル的な桜であるあが、
市内だけでなく、
周辺の地域では見られない立派な桜だ。
「平和さくら」とか特別な名前をつけても、
と思われるのだが?

この桜が満開の頃、花見シーズンの絶頂期である。
「寒の戻り」以来、好天に恵まれ、
花見シーズン到来とばかり
それぞれのグループが、宴会を開き、

平和広場は連日にぎやかである。
2018.03.21
玉川上水駅周辺の風景47
寒の戻り

陽気な気分で、
東大和南公園に咲き出した花を撮影して歩いたのは、
2,3日前であった。
寒い日もあるだろうが、
冬の寒さには戻らないと思っていたが、
まさか、その二日後の
春分の日
突然の寒波に襲われ、雪まで降りだした。
歳のせいもあるが、体にこたえる寒さである、
ニュースでは、寒の戻りだと伝えているが、
これほど厳しい寒さは経験したことがない。

ネットで調べてみると、
寒の戻りとは、暖かくなった晩春の頃、
一時的ながら異常に寒くなる現象のこと。
類義語に花冷えや余寒、春寒があるが、
前者は一般に桜の花が咲く頃の寒さを示し、
後者は寒が明けた立春以降の寒さを示すという。

窓を明け撮影する気力もなく、ストーブの横で
天気の回復を待つのみ、
寒波が来る前の日、東大和南公園で撮った、
花の写真を何枚か掲載した。

寒の戻りも時間の問題。
花見シーズンは間近かに迫っていることは確かだ

陽気な気分で、
東大和南公園に咲き出した花を撮影して歩いたのは、
2,3日前であった。
寒い日もあるだろうが、
冬の寒さには戻らないと思っていたが、
まさか、その二日後の
春分の日
突然の寒波に襲われ、雪まで降りだした。
歳のせいもあるが、体にこたえる寒さである、
ニュースでは、寒の戻りだと伝えているが、
これほど厳しい寒さは経験したことがない。

ネットで調べてみると、
寒の戻りとは、暖かくなった晩春の頃、
一時的ながら異常に寒くなる現象のこと。
類義語に花冷えや余寒、春寒があるが、
前者は一般に桜の花が咲く頃の寒さを示し、
後者は寒が明けた立春以降の寒さを示すという。

窓を明け撮影する気力もなく、ストーブの横で
天気の回復を待つのみ、
寒波が来る前の日、東大和南公園で撮った、
花の写真を何枚か掲載した。

寒の戻りも時間の問題。
花見シーズンは間近かに迫っていることは確かだ
2018.03.16
朝鮮通信使6
祖国を救った義兵隊
1392年、朝鮮王朝〔李朝)が成立してから200年が経過し、敵対する外勢もなく泰平のうちに王の世襲が行われ、14代宣祖王〔1568~1608)の時代となった。
1592年、秀吉軍は突如として朝鮮に上陸し、たちまちにしてソウル(京城)、ピョンヤン(平壌)を落し、一時期、朝鮮半島全域を占領した。
宣祖王は、中国との国境・鴨緑江の畔義洲まで逃亡したが、かろうじて国内にとどまり明に援兵を求めた。まさに朝鮮国 滅亡の危機に瀕していた。

秀吉軍の前線基地 名護屋城
それにしても、
なぜ、このような状況に陥ったのか?
なぜ、秀吉軍の侵略が予見できなかったのか?
秀吉の無謀な要求を突きつけられた通信使たちは、 帰国後、秀吉軍が襲ってくる危険を報告しなかったのか?
なぜ、秀吉軍の上陸をやすやすと許したのか?
なぜ、緒戦において敗退を重ね、国土を蹂躙されたのか?
国防軍の装備、戦闘力はどうなっていたか?
朝鮮王朝は、いったい何をしていたのか?
筆者は、このような疑問を漠然と持っていたのであるが、今回、朝鮮通信使の勉強をはじめて、ようやくその疑問が少し解けてきた。
朝鮮王朝は、儒教・朱子学を国家統治の理念とする中央集権国家であった。
王を頂点とする両班〔文班・武班〉官僚集団が国を支配統治していた。
文武両道であるべき 官僚両班体制であったが、儒教的序列主義は文人が優位で、武人を卑しみ軍事は軽んじる風潮があった。
朝鮮朝成立時は、倭寇の頻繁な侵略・略奪を防ぐため軍事力を強化したが、200年の泰平は、腐敗と退廃を生み、両班たちは栄華に慣れ、権力の座と反対派の動きに目をうばわれるだけで、国の危機意識は極限までに低下していた。
秀吉が、大陸侵略の前線基地となる名護屋城(佐賀県)を築き、戦乱で鍛えられた武将・大名たちを集め着々と出兵準備を急いでいた頃、
朝鮮朝廷内は、儒教を信奉する士林派官僚集団が東人・西人の2派に分かれて権力争い〈党争〉に明け暮れていた。
日本に派遣された正使・黄允吉は西人派、副使・金誠一は東人派に属していた。
1591年、帰国複命の席上で正使・黄允吉は「秀吉は恐ろしい人物であり、必ず朝鮮に兵を出すだろう」と警告したのに対し、
副使の金誠一は、「それは人心を動揺させる説であり、そういう兆候はない。秀吉は恐れるに値しない」と正反対の意見・「楽観論」 を主張した。
通信使の派遣時は西人派が実権を握っていたが、帰国したときには東人派が優勢であったため、副使金誠一の「楽観論」 が採用されたのであった。
士林派内の権力争いは、国の存亡に関わる問題までも「政争の具」にすぎなかった。
朝鮮王朝は、宗義智の「明征服の道を借りる」という弁明も拒絶していながら、侵略軍来襲に対して警戒心もなく、何ら防衛対策を構じなったのである。
少なくとも正使が警告しているのであるから、その意見が採用されなかったとしても、国の存亡・危機にかかわる重大事である。緊急事態に備えるべきであったが、無防備状態のまま侵略軍の奇襲攻撃を受けたのであった。
秀吉軍15万8千の兵が不意打ちに 攻め寄せてきたとき、朝鮮軍2万であった。弓矢中心の装備で戦闘力は空洞化していた。
南海岸から上陸した侵略軍は、鉄砲隊を先頭に厳しい抵抗を受けることなく「無人の境に入るが如く」(雨宮芳洲)侵攻しつづけたのであった。
「一世紀にわたり戦乱の中で鍛えぬかれた秀吉軍の組織的な戦法と鉄砲隊の威力の前に、200年の泰平になれてしまった朝鮮軍は鉄砲の銃声におどろき、日本刀の切れ味に恐れをなして敗走をつづけた」〔『日朝交流史』李進熙・姜在彦著)
侵略軍を阻止・撃退に役割をはたしたのは明(中国)からの援軍と官軍の立て直しであったが、より大きな力となったのは、郷土を守るために起ち上がったソンビ(儒生)・下級官吏・農民・僧侶など民衆であった。

僧兵を指揮する西山大師 絵
彼らは、各地で大小の義兵隊を組織しゲリラ戦を展開した。
海上における李舜臣が率いる水軍の活躍と、陸上における義兵隊のゲリラ戦により補給路を断たれた秀吉軍は窮地にたたされ、撤退を重ね朝鮮南岸まで追いつめられたのであった。

義兵隊の活動図
義兵隊の中から多くの英雄が誕生した。
一人一人の英雄たちの活躍ぶりを描くべきであるが、記事が長くなるので、歴史教科書に載る英雄の名を挙げておきたい。
水軍の指揮者李舜臣、全国の僧侶に決起を呼びかけ先頭にたった西山大師と弟子の松雲大師、慶尚道の郭再祐、全羅道の高敬命、忠清道の趙憲・咸鏡道鄭文宇等である。
朝鮮王朝の両班支配者たちの退廃、国防意識の欠如は、国を滅亡の危機にまで陥れた。
その祖国を民衆・義兵隊が救った と言えるのではなかろうか。

海戦の名将 李舜臣像 ソウル
韓国の高校歴史教科書は、「官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。
わが民族は身分の貴賤や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が作用して倭軍〈日本軍〉を撃退できる力となった」と記している。

海戦で活躍した亀甲船
豊臣秀吉の野望かから始まった7年間の朝鮮侵略戦争(1592~1598)は、秀吉の死で終わった。勝利者のない戦争であった。
侵略された朝鮮の地に、数え切れない犠牲者、廃墟、荒廃、怨念、悲劇だけが残された。
日朝間に癒しがたい傷あとを残した戦争でもあった。
1392年、朝鮮王朝〔李朝)が成立してから200年が経過し、敵対する外勢もなく泰平のうちに王の世襲が行われ、14代宣祖王〔1568~1608)の時代となった。
1592年、秀吉軍は突如として朝鮮に上陸し、たちまちにしてソウル(京城)、ピョンヤン(平壌)を落し、一時期、朝鮮半島全域を占領した。
宣祖王は、中国との国境・鴨緑江の畔義洲まで逃亡したが、かろうじて国内にとどまり明に援兵を求めた。まさに朝鮮国 滅亡の危機に瀕していた。

秀吉軍の前線基地 名護屋城
それにしても、
なぜ、このような状況に陥ったのか?
なぜ、秀吉軍の侵略が予見できなかったのか?
秀吉の無謀な要求を突きつけられた通信使たちは、 帰国後、秀吉軍が襲ってくる危険を報告しなかったのか?
なぜ、秀吉軍の上陸をやすやすと許したのか?
なぜ、緒戦において敗退を重ね、国土を蹂躙されたのか?
国防軍の装備、戦闘力はどうなっていたか?
朝鮮王朝は、いったい何をしていたのか?
筆者は、このような疑問を漠然と持っていたのであるが、今回、朝鮮通信使の勉強をはじめて、ようやくその疑問が少し解けてきた。
朝鮮王朝は、儒教・朱子学を国家統治の理念とする中央集権国家であった。
王を頂点とする両班〔文班・武班〉官僚集団が国を支配統治していた。
文武両道であるべき 官僚両班体制であったが、儒教的序列主義は文人が優位で、武人を卑しみ軍事は軽んじる風潮があった。
朝鮮朝成立時は、倭寇の頻繁な侵略・略奪を防ぐため軍事力を強化したが、200年の泰平は、腐敗と退廃を生み、両班たちは栄華に慣れ、権力の座と反対派の動きに目をうばわれるだけで、国の危機意識は極限までに低下していた。
秀吉が、大陸侵略の前線基地となる名護屋城(佐賀県)を築き、戦乱で鍛えられた武将・大名たちを集め着々と出兵準備を急いでいた頃、
朝鮮朝廷内は、儒教を信奉する士林派官僚集団が東人・西人の2派に分かれて権力争い〈党争〉に明け暮れていた。
日本に派遣された正使・黄允吉は西人派、副使・金誠一は東人派に属していた。
1591年、帰国複命の席上で正使・黄允吉は「秀吉は恐ろしい人物であり、必ず朝鮮に兵を出すだろう」と警告したのに対し、
副使の金誠一は、「それは人心を動揺させる説であり、そういう兆候はない。秀吉は恐れるに値しない」と正反対の意見・「楽観論」 を主張した。
通信使の派遣時は西人派が実権を握っていたが、帰国したときには東人派が優勢であったため、副使金誠一の「楽観論」 が採用されたのであった。
士林派内の権力争いは、国の存亡に関わる問題までも「政争の具」にすぎなかった。
朝鮮王朝は、宗義智の「明征服の道を借りる」という弁明も拒絶していながら、侵略軍来襲に対して警戒心もなく、何ら防衛対策を構じなったのである。
少なくとも正使が警告しているのであるから、その意見が採用されなかったとしても、国の存亡・危機にかかわる重大事である。緊急事態に備えるべきであったが、無防備状態のまま侵略軍の奇襲攻撃を受けたのであった。
秀吉軍15万8千の兵が不意打ちに 攻め寄せてきたとき、朝鮮軍2万であった。弓矢中心の装備で戦闘力は空洞化していた。
南海岸から上陸した侵略軍は、鉄砲隊を先頭に厳しい抵抗を受けることなく「無人の境に入るが如く」(雨宮芳洲)侵攻しつづけたのであった。
「一世紀にわたり戦乱の中で鍛えぬかれた秀吉軍の組織的な戦法と鉄砲隊の威力の前に、200年の泰平になれてしまった朝鮮軍は鉄砲の銃声におどろき、日本刀の切れ味に恐れをなして敗走をつづけた」〔『日朝交流史』李進熙・姜在彦著)
侵略軍を阻止・撃退に役割をはたしたのは明(中国)からの援軍と官軍の立て直しであったが、より大きな力となったのは、郷土を守るために起ち上がったソンビ(儒生)・下級官吏・農民・僧侶など民衆であった。

僧兵を指揮する西山大師 絵
彼らは、各地で大小の義兵隊を組織しゲリラ戦を展開した。
海上における李舜臣が率いる水軍の活躍と、陸上における義兵隊のゲリラ戦により補給路を断たれた秀吉軍は窮地にたたされ、撤退を重ね朝鮮南岸まで追いつめられたのであった。

義兵隊の活動図
義兵隊の中から多くの英雄が誕生した。
一人一人の英雄たちの活躍ぶりを描くべきであるが、記事が長くなるので、歴史教科書に載る英雄の名を挙げておきたい。
水軍の指揮者李舜臣、全国の僧侶に決起を呼びかけ先頭にたった西山大師と弟子の松雲大師、慶尚道の郭再祐、全羅道の高敬命、忠清道の趙憲・咸鏡道鄭文宇等である。
朝鮮王朝の両班支配者たちの退廃、国防意識の欠如は、国を滅亡の危機にまで陥れた。
その祖国を民衆・義兵隊が救った と言えるのではなかろうか。

海戦の名将 李舜臣像 ソウル
韓国の高校歴史教科書は、「官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。
わが民族は身分の貴賤や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が作用して倭軍〈日本軍〉を撃退できる力となった」と記している。

海戦で活躍した亀甲船
豊臣秀吉の野望かから始まった7年間の朝鮮侵略戦争(1592~1598)は、秀吉の死で終わった。勝利者のない戦争であった。
侵略された朝鮮の地に、数え切れない犠牲者、廃墟、荒廃、怨念、悲劇だけが残された。
日朝間に癒しがたい傷あとを残した戦争でもあった。
2018.03.10
朝鮮通信使5
豊臣秀吉と宗義智
豊臣秀吉は、戦国時代を勝ち抜き天下人となり、日本の最高権力者として君臨した人物である。

豊臣秀吉
一方の宗義智は、秀吉の臣下・対馬藩主として、小さな島 の生き残りに奔走した人物にすぎない。
あえて、二人を並べた理由は、秀吉が明〈中国〉征服の野望を実現するため朝鮮侵略戦争を強行したのに対し、
宗義智は朝鮮との信頼関係を維持し、戦争を回避するるために交渉したことである。
明征服の野望に燃える秀吉に対し、抵抗はもちろん誰ひとり 反対の声を上げられなかった当時の状況下で、偽りの国王使を仕立て何とか朝鮮との友好関係を維持しょうと奔走した宗義智についてスポットを当てて見た。

宗義智
1587年、九州最大の島津を降伏させたことにより、ほぼ全国統一を果した秀吉は、 対馬藩主宗義調(よししげ)・義智(よしとし)父子に対して、対馬一国を安堵(所領保障)する一方、朝鮮王朝に対して自らのもとに服属・入朝(上洛拝礼 )するよう交渉を命じた。
秀吉は、朝鮮が異民族の国であるという認識がなく、朝鮮国王を国内の戦国大名と同列に見ていたようである。これが秀吉の誤算・野望破綻の始まりであった。
秀吉の命令を受けた宗父子は仰天・狼狽した。命令をそのまま朝鮮に伝えることはできなかった。
朝鮮から200石を得て、貿易を盛んに行い 密接な関係を保ちながら 生きのびてきた宗氏にとって、 朝鮮国王を秀吉に服属・入朝させる使いを出すことは自殺行為につながる。
しかし、秀吉の命令は絶対的なもであり、背くことは直ちに打ち首、対馬滅亡につながる。
対応に困り果てたあげく、家臣の橘康広を「日本国王使」に仕立てて派遣し、「秀吉が日本の新しい国王になったので、親善の通信使を派遣してほしい」と朝鮮国王に要請しのであった。
宗父子は、室町時代から前例がある「通信使」の来日を求めることで秀吉の要求を乗り越えようとしたのであった。
朝鮮側は、秀吉が王位を簒奪(さんだつ)したものと疑いをもち使節派遣を断った。
こうしたなかで、宗義調が世を去り、義智(20)があとを継ぎ、小西行長の娘・マリアを妻に迎えた。
1589年、 朝鮮国王の「入朝」の遅延に腹をたてた秀吉は、宗義智自ら朝鮮に渡って「入朝」を促すよう命じた。また小西行長には、宗氏の朝鮮との交渉を監督するよう命じた。
堺豪商出身のキリシタン大名 ・小西行長は、国際的な事情を良く知るため明・朝鮮侵略は無謀な企てであることを認識していた。
宗義智は、博多の聖福寺の僧・景轍玄蘇を「日本国王使」に仕立て、自分は副使として朝鮮に渡り、「新しい政権に対する 通信使」派遣をねばり強く交渉した。交渉が難行すると、小西行長は博多の豪商・鳥井宗室をおくり、宗義智らを助けた。
朝鮮側は、宗義智の執拗な要請に応え、日本の事情探索も必要とみなし、正使・黄允吉(ファンユンギル)、副使・金誠一(キムソンイル)らを通信使として派遣したのであった。
1590年、秀吉は、京都聚楽第で通信使を引見した。
朝鮮通信使が持参した国書は、「秀吉の天下統一を祝い、応仁の乱以来途絶えがちだった交隣関係を正したい」という儀礼的な内容であった。
しかし、秀吉は、これを朝鮮国王が服属し自分の臣下になったものと思いこみ、朝鮮王朝に明征服の先導役を命じたのであった。
秀吉のとんでもない要求に驚いた宗義智は、通信使の帰国に際し、重臣の柳川調信を同行させて、秀吉の要求は「入明のために道を借りるものだ(仮途入明)」と戦争を避けるための弁明をしたが、朝鮮側は納得しなかった。
1592年、秀吉軍による朝鮮侵略戦争は開始された。
先鋒を命じられた小西行長は、婿の宗義智に密命を授け水面下で朝鮮側と 和平交渉を行ったと言われているが明らかではない。
日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥落させるが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、苦戦を強いられ進退きわまる中、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされた。
この戦争によって、朝鮮に数十万人の犠牲者と数百万の人びとに癒しがたい苦痛と惨禍を残した。
秀吉軍の残虐行為は、長らく朝鮮民衆に深い恨みの感情を抱かせた。
一方、日本の各地から狩りだされ侵略軍30万の兵士とその家族に癒しがたい犠牲・苦痛を強いたのであった。
中でも、対馬藩は一次、2次合わせて7千人の兵〈15~53歳、島内の男子〉を出し、先陣をきって参戦したため犠牲者が多く、戦後の対馬の人口減少、消耗と疲弊は目を覆うばかりであったと記録されている。
朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となった。
関ヶ原の戦いにおいて、宗義智は義父の小西行長に付いて西軍(石田三成方)に味方して敗れた。捕えられた小西行長は処刑され、一家は離散した。
その災いが自らに及ぶのを避けるため、宗義智は妻マリアと離縁し長崎に逃した。マリアは30歳で亡くなり、対馬厳原八幡宮に祀られている。

厳原八幡宮 マリアを祀る

八幡宮前のマリア説明看板
義智は、家康によってお咎め無しと許され、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられたのであった。
対馬藩の生き残りの道は、朝鮮との和睦・信頼回復すこと以外の選択はなかった。
宗義智は、頑強な対日不信感を抱く朝鮮と忍耐強い交渉をかさねた。
そして、ついに朝鮮王朝からの使者を迎え、徳川家康と松雲大師 の会談が開かれた。〈朝鮮通信使2・参照)

厳原港まつり対馬アリラン祭 毎年8月開催
義智は、朝鮮と交隣関係を築き、誠心外交・「朝鮮通信使」の往還を実現させた第一の功労者と言うべきだろう。
秀吉の朝鮮侵略戦争に狩り出され、数千の島民の犠牲、義父の処刑、妻との離縁、戦後の和平交渉など、波乱に満ちた人生を送った宗義智は、1615年、48歳の生涯を終えた。
江戸時代の200年間、日朝間に平和外交の礎を築いた宗義智の功を素直に評価したい。
豊臣秀吉は、戦国時代を勝ち抜き天下人となり、日本の最高権力者として君臨した人物である。

豊臣秀吉
一方の宗義智は、秀吉の臣下・対馬藩主として、小さな島 の生き残りに奔走した人物にすぎない。
あえて、二人を並べた理由は、秀吉が明〈中国〉征服の野望を実現するため朝鮮侵略戦争を強行したのに対し、
宗義智は朝鮮との信頼関係を維持し、戦争を回避するるために交渉したことである。
明征服の野望に燃える秀吉に対し、抵抗はもちろん誰ひとり 反対の声を上げられなかった当時の状況下で、偽りの国王使を仕立て何とか朝鮮との友好関係を維持しょうと奔走した宗義智についてスポットを当てて見た。

宗義智
1587年、九州最大の島津を降伏させたことにより、ほぼ全国統一を果した秀吉は、 対馬藩主宗義調(よししげ)・義智(よしとし)父子に対して、対馬一国を安堵(所領保障)する一方、朝鮮王朝に対して自らのもとに服属・入朝(上洛拝礼 )するよう交渉を命じた。
秀吉は、朝鮮が異民族の国であるという認識がなく、朝鮮国王を国内の戦国大名と同列に見ていたようである。これが秀吉の誤算・野望破綻の始まりであった。
秀吉の命令を受けた宗父子は仰天・狼狽した。命令をそのまま朝鮮に伝えることはできなかった。
朝鮮から200石を得て、貿易を盛んに行い 密接な関係を保ちながら 生きのびてきた宗氏にとって、 朝鮮国王を秀吉に服属・入朝させる使いを出すことは自殺行為につながる。
しかし、秀吉の命令は絶対的なもであり、背くことは直ちに打ち首、対馬滅亡につながる。
対応に困り果てたあげく、家臣の橘康広を「日本国王使」に仕立てて派遣し、「秀吉が日本の新しい国王になったので、親善の通信使を派遣してほしい」と朝鮮国王に要請しのであった。
宗父子は、室町時代から前例がある「通信使」の来日を求めることで秀吉の要求を乗り越えようとしたのであった。
朝鮮側は、秀吉が王位を簒奪(さんだつ)したものと疑いをもち使節派遣を断った。
こうしたなかで、宗義調が世を去り、義智(20)があとを継ぎ、小西行長の娘・マリアを妻に迎えた。
1589年、 朝鮮国王の「入朝」の遅延に腹をたてた秀吉は、宗義智自ら朝鮮に渡って「入朝」を促すよう命じた。また小西行長には、宗氏の朝鮮との交渉を監督するよう命じた。
堺豪商出身のキリシタン大名 ・小西行長は、国際的な事情を良く知るため明・朝鮮侵略は無謀な企てであることを認識していた。
宗義智は、博多の聖福寺の僧・景轍玄蘇を「日本国王使」に仕立て、自分は副使として朝鮮に渡り、「新しい政権に対する 通信使」派遣をねばり強く交渉した。交渉が難行すると、小西行長は博多の豪商・鳥井宗室をおくり、宗義智らを助けた。
朝鮮側は、宗義智の執拗な要請に応え、日本の事情探索も必要とみなし、正使・黄允吉(ファンユンギル)、副使・金誠一(キムソンイル)らを通信使として派遣したのであった。
1590年、秀吉は、京都聚楽第で通信使を引見した。
朝鮮通信使が持参した国書は、「秀吉の天下統一を祝い、応仁の乱以来途絶えがちだった交隣関係を正したい」という儀礼的な内容であった。
しかし、秀吉は、これを朝鮮国王が服属し自分の臣下になったものと思いこみ、朝鮮王朝に明征服の先導役を命じたのであった。
秀吉のとんでもない要求に驚いた宗義智は、通信使の帰国に際し、重臣の柳川調信を同行させて、秀吉の要求は「入明のために道を借りるものだ(仮途入明)」と戦争を避けるための弁明をしたが、朝鮮側は納得しなかった。
1592年、秀吉軍による朝鮮侵略戦争は開始された。
先鋒を命じられた小西行長は、婿の宗義智に密命を授け水面下で朝鮮側と 和平交渉を行ったと言われているが明らかではない。
日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥落させるが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、苦戦を強いられ進退きわまる中、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされた。
この戦争によって、朝鮮に数十万人の犠牲者と数百万の人びとに癒しがたい苦痛と惨禍を残した。
秀吉軍の残虐行為は、長らく朝鮮民衆に深い恨みの感情を抱かせた。
一方、日本の各地から狩りだされ侵略軍30万の兵士とその家族に癒しがたい犠牲・苦痛を強いたのであった。
中でも、対馬藩は一次、2次合わせて7千人の兵〈15~53歳、島内の男子〉を出し、先陣をきって参戦したため犠牲者が多く、戦後の対馬の人口減少、消耗と疲弊は目を覆うばかりであったと記録されている。
朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となった。
関ヶ原の戦いにおいて、宗義智は義父の小西行長に付いて西軍(石田三成方)に味方して敗れた。捕えられた小西行長は処刑され、一家は離散した。
その災いが自らに及ぶのを避けるため、宗義智は妻マリアと離縁し長崎に逃した。マリアは30歳で亡くなり、対馬厳原八幡宮に祀られている。

厳原八幡宮 マリアを祀る

八幡宮前のマリア説明看板
義智は、家康によってお咎め無しと許され、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられたのであった。
対馬藩の生き残りの道は、朝鮮との和睦・信頼回復すこと以外の選択はなかった。
宗義智は、頑強な対日不信感を抱く朝鮮と忍耐強い交渉をかさねた。
そして、ついに朝鮮王朝からの使者を迎え、徳川家康と松雲大師 の会談が開かれた。〈朝鮮通信使2・参照)

厳原港まつり対馬アリラン祭 毎年8月開催
義智は、朝鮮と交隣関係を築き、誠心外交・「朝鮮通信使」の往還を実現させた第一の功労者と言うべきだろう。
秀吉の朝鮮侵略戦争に狩り出され、数千の島民の犠牲、義父の処刑、妻との離縁、戦後の和平交渉など、波乱に満ちた人生を送った宗義智は、1615年、48歳の生涯を終えた。
江戸時代の200年間、日朝間に平和外交の礎を築いた宗義智の功を素直に評価したい。
2018.03.07
富士山と夕日と雲68
不思議な空模様
2月のある日、
富士山を中心に左右全く違った空模様であった。
富士山の近くに日が沈み、左の丹沢、大山方面は
なんとも表現できない雲の形が現れていた。
対照的に右の奥多摩方面は、
薄い雲の間を夕日が広がっていた。
筆者も初めて見る不思議な光景である。
動画をご覧下さい。
動画は、立体的に伝えられるので便利だ。
2月のある日、
富士山を中心に左右全く違った空模様であった。
富士山の近くに日が沈み、左の丹沢、大山方面は
なんとも表現できない雲の形が現れていた。
対照的に右の奥多摩方面は、
薄い雲の間を夕日が広がっていた。
筆者も初めて見る不思議な光景である。
動画をご覧下さい。
動画は、立体的に伝えられるので便利だ。
2018.03.01
玉川上水駅周辺の風景
春が来た

春の夕日 3月1日
3月1日、
昨夜来降った雨は、朝には止んでいた。
午前中にすっかり晴れ上がり、青空が広がる、
窓を開けると春一番が吹いていた。

玉川上水 水ゆるむ
春の訪れをを実感する、
年甲斐もなく、動揺を思い出した。

5分咲きの桜 玉川上水駅南口
春が来た 春が来た
どこに来た
山に来た、里に来た、
野にも来た、

東大和南公園 花壇
そして、
玉川上水駅周辺にも
やっと、春がやって来た。

春の夕日 3月1日
3月1日、
昨夜来降った雨は、朝には止んでいた。
午前中にすっかり晴れ上がり、青空が広がる、
窓を開けると春一番が吹いていた。

玉川上水 水ゆるむ
春の訪れをを実感する、
年甲斐もなく、動揺を思い出した。

5分咲きの桜 玉川上水駅南口
春が来た 春が来た
どこに来た
山に来た、里に来た、
野にも来た、

東大和南公園 花壇
そして、
玉川上水駅周辺にも
やっと、春がやって来た。
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