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         純白の花

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  5月末、
 東大和南公園の平和広場、
「戦災変電所」の両側に設けられたボランティア花壇は 春のおわりを飾る花々が盛んである、
 なかでも純白のオルリアの花が目を惹く、
 遅咲きのバラの花は美しさ残し、

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 フレックス(おいらん草)、ゴデチア、
 アグネステンマ等の 花が咲き乱れている。

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 他の花に比べて華やかさはないが、
 細い千鳥草が風に揺られている姿は、
 爽やかである。

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 よく観察すると、
 名も知らない小さな花が無数に咲いている。

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 平和広場のボランティア花壇は、いつ行っても、
 訪れる人を癒してくれる憩いの場所となっている。
      ポピーが咲く花の丘

5月21日、真夏のような暑い日であったが、
決心して昭和記念公園のポピー見学に出かけた。
モノレールの立川北から公園立川口まで歩いたのであるが、
着いたときは汗ダクダク・クタクタであった。
公園内をいろいろ見学しながらポピーが咲く
「花の丘」まで歩いて行く予定であったが、
もはや、これ以上は歩いて行く自信がなく、
園内を走るパークトレーンを利用することにした。
初めて乗ったのであるが、子供に返った気分であった。
トレーンがシャーレ―ポピーが咲く「花の丘」を通過するとき、
丘全体がが燃えているような光景に乗客から歓声があがった。
近くの停留場に降り、花の丘に登り写真を撮りまくった。
動画をご覧ください、




 写真の何枚かを、東大和どっとネットのまちで遊ぶ、
「玉川上水駅周辺の風景21」に掲載しました。合わせご覧ください。
         道端の草花

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 五月中旬、
 玉川上水周辺を散歩するため一歩外に出ると、
 道端やアパートの軒先、一軒家の庭などに、
 美しく咲いた草花が目に止まる。

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 これは美しいと思うと立ち止まり、
 スマホでパチパチと撮るようにしている。
 いつの間にかかなりの画像数になっている。

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 今回はその中から何枚か選び掲載する、
 今日の散歩でまた、

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 どのような草花の発見があるか、
 この時期の散歩は楽しみである。


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      アグロステンマ

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 東大和南公園の「戦災変電所」両側にある
 ボランティア花壇にバラの花が咲きだした。
 5月13日現在,まだ蕾が多いが早咲きのバラは綺麗に咲いている、
 これから、一日一日、見ごろになると思われる、


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 今日はバラより一足早く満開となったアグロステンマを紹介する。
 アグロステンマはラテン語の「畑」と「王冠」からなる、「畑に美しく咲く」という意味らしい、
 ヨーロッパでは小麦畑の雑草で厄介者扱いされているという。


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 日本では切り花や花壇に利用される
 5弁の花びらは赤桃色で、秋に咲くコスモスに似た風情がある、


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 この時期に咲く花に見られない爽やかさがある。
 左側の花壇にはポピーの一種であるスナゲシが静かに咲いていた。


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 鮮やかさはないが、平和広場にふさわしい素朴な美しさがある。
     朝鮮半島の平和を願う

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       東アジア・朝鮮半島の地図

 朝鮮半島に戦争の危機が迫っている。
 この危機は、超大国・アメリカが最新鋭の大量破壊兵器と圧倒的な軍事力をもって、北朝鮮に 核放棄を迫り圧力をかけているからである。
 一方の北朝鮮は小国であるが、核とミサイルで徹底抗戦すると一歩も引かない構えでいるためでもある。
 一触即発の緊迫した状態がつづいている。
 なんとか戦争だけは避けてもらいたいと祈るよな気持ちで成り行きを見守っている。

 戦争の危機が迫る度に,朝鮮戦争(1950~1953)時の悲惨を思いだす。
 南北合わせて数百万の死傷者を出した人命被害と都市の殆んどが廃墟となった。離散家族3千万とも言われている。再会を果たせず亡くなった肉親は計り知れない。今も悲劇の後遺症がつづいている。
 まさに、国が分断されている南北の人々にとって悪夢のような戦争であった。
 戦争の悲惨を知っている筆者は、何としても二度目の朝鮮戦争を起こしてはならないと、思いは切実である。
 世界の良識ある人であれば誰も戦争を望まず、平和的な解決を願っているだろう。
 アメリカは超大国の傲慢を捨て、北朝鮮は小国のツッパリをやめるべきである。
 具体的には北朝鮮を標的にした米韓軍事演習は即刻やめ、北朝鮮は核開発凍結を直ちに宣言すべきである。
 大国であれ、小国であれ一国の指導者は、自国民の生命・安全を守るだけでなく、世界の平和と安全のために尽力すべき責務があるはずだ。

    ハト

 平和的な解決は話し合いにつきる。話し合いは当事者がテーブルに着くことから始まる。
 そのためにまず、戦争状態を解消すること、相手国の立場を尊重し、お互いに忍耐強い外交交渉をすることである。虚心坦懐に話し合えば必ず平和的な解決の道は開かれるはずである。
 トランプさんも、キム・ジョンウンさんも自国の利害関係にとらわれず、東アジア・世界平和のためにリーダーシップを発揮して欲しい。
 隣国の大国である中国と日本は、朝鮮半島での戦争を回避し、緊張緩和と東アジアの平和のために積極的に仲介役を果たすべきではなかろうか。
 
 昨日(2017年5月9日)、韓国の大統領に「南北の対話・交流の再開」を公約した「共に民主党」のムン・ゼインさんが選ばれた。
 10年ぶりの南北首脳会談を一日も早く開き、お互いに不信感を払しょくして、共存共栄・自主・平和・統一への道を探ってくれるものと期待している。
 そして、今までの緊張状態が嘘だったかのように、平和ムードを一気に高めて欲しい。
 南北当事者間の和解を基礎に、早期に6者会談(米国・中国・日本・ロシア・南・北)を再開して、朝鮮半島の非核化と東アジア地域の恒久な平和を構築してほしいものである。
 最終的には、米・朝首脳会談を開催し、停戦協定を平和条約に転換して、緊張状態を完全に解消して欲しいと願っている。
 
 21世紀、今日の朝鮮半島の緊張状態は、7世紀に起きた東アジアの動乱を彷彿させる。
 「高麗の里」は古代、東アジアの朝鮮半島に起きた戦乱から派生的に生まれたものであった。 
  この時期、中国大陸に大国・唐が勃興し、東方の朝鮮半島にまで覇権の触手を伸ばした。 朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が覇権争いを繰り返していた。
  三国のうち劣勢にあった新羅は唐と結び、新羅・唐連合軍でもって660年に百済を滅ぼし、つづいて668年に高句麗も滅亡させたのであった。
 百済、高句麗の滅亡により、百済、高句麗(高麗)人の多くは難民となり海外に逃れた。難民の一部は日本に渡来し定着した。
 高句麗の外交使節として日本に滞在中であった高麗王若光は、高句麗の王族出身であったため政治亡命者となった。
 若光は、奈良朝廷から 従5位下と高麗「王」(こきし)の姓を賜り、優遇されたように思われる。

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       高麗王若光 肖像画

 716年、武蔵国に新設された高麗郡の初代郡長となった若光は、東国七国から集まった1799人の高麗人(高句麗人)を率いて、未開地開拓を進め郡民の安住・安定をはかった。
 若光は、生涯賭けて高麗郡の開発と経済的発展、周辺居住民と共存共栄する善政を行なった。
 そのため、若光は老若男女すべての郡民から尊崇され、没後は高麗明神・白髭明神として高麗神社に祀られた。
 人々から称賛された生涯だったとはいえ、若光にとっては異国での終焉である。

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   高麗王若光の墓 聖天院勝楽寺境内

 若光にとって祖国はやはり高句麗であったはずである。
 多感な青年時代に外交官として日本にやって来た若光にとって、祖国に残した父母兄弟、縁者、同僚への想いは脳裏から離れることはなかっただろう。高句麗国再興の夢・故郷に錦を飾る夢を幾たび見たことだろう。
 いつの時代も戦争は、 人命被害と破壊という結果だけを残す。後遺症は永い間残るものである。
 21世の戦争は、恐ろしいほどの人命被害と難民を生み出すだろう。
 
 1300年前、高句麗からの難民によって建郡された「高麗の里」は、高麗王若光のリーダーシップよって「平和の里」としてその基礎が築かれた。

  巾着の春
     日和田山を望む巾着田の春

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     高麗の里を潤した高麗川

 高麗の里のシンボルである日和田山の「日」と高麗川の「高」を合わせて「日高市」と名付けられ、「高麗」の地名は地図上から消えた。
 しかし、「どのような状況下でも平和を愛し、隣人を慈しむ心があれば、皆が手を携えて生きていける」
 高麗王若光の平和の精神は、「高麗の里」とともにいつの時代にも生き続けることを筆者は信じたい。
 朝鮮半島を巡る緊張状態が緩和され、東アジアに恒久的な平和が訪れることを願っている。 
 
「高麗の里」はこの記事をもって最終回とします。
          おわり
2017.05.05 高麗の里99
      ”武士をやめる”

 高麗家
     高麗家住居  重要文化財

 高麗神社の宮家・高麗氏が武士の道に足を踏み入れたのは、27代目当主・豊純のときである。
 豊純は、それまでの高麗氏一族から嫁を迎えるという慣習を破り、1242年、源頼朝の縁者であった駿河の岩本僧都道曉の娘を嫁に迎え、鎌倉幕府の御家人になった。
 この時から高麗郡の高麗氏宗家は武士の道を歩むようになった。
  この選択は、源頼朝の支配のもとに台頭した武蔵国一帯の新勢力に対処して、高麗氏一族の権威と領域を守るためのやむを得ない選択であったと思われる。
 その後、高麗氏は6代・120年間、「武士のこと」をするようになったが、鎌倉幕府の衰退に伴ない高麗氏も幾多の試練を強いられるようになった。
 1333年、高麗氏30代行仙の弟・三郎行持と四郎行勝は北条得宗家に仕えていたが、攻め入ってきた新田義貞軍との戦いに敗れ討死し、鎌倉幕府は滅亡した。
 1337年、 高麗氏32代行高(19才)は、南北朝の戦いが始まると南朝側につき、初めての戦さに挑み勝利したが負傷、帰郷を余儀なくされた。
 1351年、行高は足利尊氏・直義兄弟間の覇権争いが起きると、180名を率いて直義側につき、薩唾山(さつだやま)で戦ったが敗走した。

  薩た峠
     薩唾山付近 現静岡県富士市

 翌年の1352年、新田義興の招きに応じた行高は、2人の弟・左衛門介高廣・兵庫介則長を従え、足利尊氏討伐に加わった。武蔵野一帯で激しい局地戦が展開され、弟高廣は相模の河村城で討死、もう一人の弟則長も鎌倉で流れ矢に当たり失なった。
 その後も戦さは続いたが新田義興は鎌倉を捨て河村城に逃亡した。これを機に行高は、上州藤岡(群馬県)の別家・曾祖父の縁戚を頼り身を隠したのであった。。
 3年間隠遁した行高は、鎌倉の足利氏に降伏を申し入れた。この降伏は高行にとって、高麗氏一族の滅亡を救い、血脈を後世に繫ぐための苦渋の決断であったと思われる。
 足利氏の許しを得て帰郷した行高は、あまりにも甚大な犠牲と惨憺たる結果におののき、再び武士の道に戻らないと心に誓ったと思われる。

  s-本殿
      高麗神社本殿

 その後、30年を生きた行高は、臨終に際し遺言を残した。
 「我が家は修厳者である。以後は何事があっても武士のおこないをしてはならない
 「武士をやめよ」・「戦に与せず」 この遺言こそがその後、幾多の難局から高麗氏を救うことになった。
 15、6世紀、群雄割拠する戦国動乱時代に入ると、全国全ての大きな勢力は戦乱にまきこまれた。
 当然、高麗氏一族にも出陣要請や勧誘があった。しかし、高麗氏歴代当主は修厳者の道に徹し、行高の「武士をやめよ」・「戦に与せず」の遺言を守り通した。

  系図
  『高麗氏系図』60代1300年の歴史

 その結果、高麗氏一族は脈々と命を継承することが出来た。『高麗氏系図』はその史実を証明しているのである。
 高麗神社60代現当主・高麗文康氏は、「多くの名のある氏族が浮かんでは消えていく中で1000年以上その血族が受け継がれてきたことは特筆に値するであろう。」と述べている。(『武蔵野』3号)
 「特筆に値する」と 言うよりも、奇跡的に生き延びた1300年の歴史であったと言えであろう。
 高麗氏一族の歴史的経験は、世界的に見れば地方の一氏族の小さな出来事にすぎないかも知れない。
 しかし,テロや紛争が絶えない現代社会のおいて、如何に紛争や戦争を回避し、平和な世の中を築いていくのか、高麗氏1300年の歴史はその答えを教えているような気がしてならない。 つづく
2017.05.01 高麗の里98
      高麗出身の武蔵武士

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  高麗丘陵の風景 聖天院勝楽寺から撮影

 武蔵武士とは、平安時代末期から鎌倉時代、室町時代にかけて武蔵国を本拠にして活躍した武士たちのことである。
 平安時代末期、律令制度がくずれ、律令を根拠とした郡は存在価値を失った。それにともない地方では自ら土地を開墾し、その土地を守るために武装するようになった。武蔵国においても武士が勢力を増していた。武蔵武士は開発した土地の領主であり、その地名を名字にした。
  武蔵国の周囲、相模、上総、下総、上野、下野等に関東武士が次々と生まれた。武蔵国では武蔵7党と呼ばれる同族意識をもつ中小武士団が勢力を伸ばした。武蔵7党とは、横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党(丹治党)、西党(西野党)ことで、他に綴党、私市党の2党があった。
 
 これらの武士団の中に、 高麗王若光を祖とする「高麗氏」、丹党から出た「丹党高麗氏」、桓武天皇の曾孫・高望氏の後裔「平姓高麗氏」の3氏が名を連ねた。
 若光を祖とする高麗氏が武士になった経緯については、すでに掲載したので省略する。(「高麗の里16=高麗氏系図」)
 「丹党高麗氏」は高麗五郎経家が鎌倉幕府の御家人となり、1190年、源頼朝入洛の際、五郎経家の子・高麗太郎実朝が先陣随兵として活躍したことが記録されている。
 また、「平姓高麗氏」には高麗景実・高麗定澄の兄弟が活躍したことや、定澄の子孫である高麗季澄、高麗経澄らが足利尊氏側につき活躍したことが伝えられている。
 「高麗」を姓とする武士団は3氏のみが記録に残るが、実際は「高麗姓」以外の高麗系武士団がはるかに多く存在したと思われる。
 なぜなら、高麗郡建郡から400~500年が経過し、建郡当初1799人であった高麗人の子孫は、その何十倍かに膨れ上がったと推測されるからである。そして何よりも、彼らは「高麗姓」ではなく、「日本姓」を名のり、周辺地域に進出していったからである。
 鎌倉時代の1259年、高麗神社が大火で貴重な家宝・資料ともに『高麗氏系図』 消失した。

 系図
   『高麗氏系図』 高麗神社所蔵
 
 その『高麗氏系図』 を再編集するために高麗氏の縁者、老臣たちが集まった。高麗、高麗井(駒井)、井上、新、神田、丘登、本庄、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、安部、金子、中山、武藤、芝木等の姓名が連ねている。
 高麗氏宗家以外、全て「日本姓」であることは、渡来人子孫の殆どが在住民の中に同化、溶け込んだことを物語っているのである。
 それで筆者は、同化してしまった高麗郡出身の高麗人・武蔵武士は探し出せないと一旦はこの記事の掲載を諦めたのであった。
 ところが、たまたま図書館で『武蔵武士を歩く』(北条氏研究会編)見つけ、パラパラとめくると、武蔵7党の全武士団名と出身地を詳細に書いた図表が目に止まった。
 そこに書かれた高麗郡出身の武士団は、丹党の青木、加治、柏原、中山、野田、判乃各氏と児玉党の大河原氏、村山党の金子氏等である。これら武士団は高麗郡建郡当初の高麗人の後裔であることは間違いないと思われる。

  新田義貞
   新田義貞像  分倍河原駅前

  高麗人は、もともと高句麗騎馬民族であった。その後裔である彼らは馬の飼育、馬具の製造、弓矢を使った騎乗術に長けていた。この時代の馬は重要な移動手段であり、騎馬戦に欠かせないものとなっていた。武蔵7党武士団の活躍の陰に高麗人の騎馬術の影響が推測される。

 八国山1
   軍馬が通った八国山緑地 東村山市 

 武蔵武士は、鎌倉幕府が成立する当初は、その原動力となり目覚ましい活躍をしたが、源頼朝が没すると幕府内の政治抗争に巻き込まれ、武蔵武士の一部は権力を掌握した北条氏の対抗勢力となり少なからず滅亡した。 
 その後の武蔵武士は、後醍醐天皇の討幕派と北条派の戦い、新田と北条の戦い、足利尊氏と直義の兄弟間の戦い、足利と新田(南北朝)の戦い等で、敵味方に別れて各地で戦闘を繰り広げた。その過程で武蔵武士は次第に衰退していった。

  跡地
   分倍河原の戦いで焼失 国分寺跡

 関東での戦は、武蔵国内とその周辺が戦場となることが多かった。
 現在、小手指原、三ツ木原原、金井ヶ原、八国山麓の久米川、分倍河原、入間川原、高麗原、女影、笛吹峠等々が古戦場として跡を残している。
 武蔵武士が駆けめぐった旧鎌倉街道は、筆者が住む東大和市に隣接する東村山市・小平市・国分寺市を通っている。当時とは街道の様相はすっかり変わったが、旧鎌倉街道沿いに史跡が点在している。

  小手指
        小手指原の戦跡

 筆者は若いころ、時代小説『平家物語』、『太平記』を読んだことがある。その中に登場した武蔵武士の戦いは遠い昔のことであり、自分と関係のないところで起こった面白い物語にすぎなかった。
 ところが、「高麗の里」の記事を連載し、今回の武蔵武士の資料を調べる過程で、近くで戦が繰り広げられたことを知るとともに、近くの古道を駆けてゆく武蔵武士の存在が身近かに感じるようになった。
 これからは、「高麗の里」の記事取材を忘れて『平家物語』、『太平記』を読み直し、武蔵武士が活躍した古戦場や遺跡・伝承を訪ねて、のんびりと散策でもして見たいと思っている。