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2017.02.24 高麗の里91
   「コマ」の地名が残る場所3 

  石川合流
   古代 高麗人集落があった大和川付近

 近畿圏に「コマ」の地名が残る場所がいくつかある。高句麗(高麗人)が定着活躍した場所と考えられている。
 近畿圏に定着した高麗人は、その殆どが高句麗滅亡(668年)以前に渡来した人々である。
 高句麗滅亡後は、難民となった新しい高麗人が関東圏に渡来したのであった。
 従って、近畿圏の旧高麗人と武蔵国に建郡(716年)時の新高麗人とは、時代的に区別される。
 近畿圏の「コマ」の地名を残した2カ所・河内国大県郡巨麻郷 と山城国相楽郡高麗寺跡を紹介したい。

   河内国大県郡巨麻郷(こまごう)
   現在の柏原市、八尾市。

  八尾市
      許麻神社  八尾市

 東大阪市には巨摩橋鏡通という地名があり、寝屋川に架かる巨摩橋という橋もある。また、この附近には許麻神社、高麗系氏族・大狛連祖を祀る大狛神社があり、巨摩廃寺跡もある。

  大狛本殿
     大狛神社 本殿 柏原市
 
 柏原市平野から大県にかけて畿内最大級の鍛冶工房「大県遺跡」(東西500m・南北650m)がある。
 この遺跡は、朝鮮半島から先進技術をもった渡来人・鍛冶集団の集落遺跡である。
 朝鮮半島を起源とするウマの歯や骨なども発見されている。また、古代の井戸が検出され、井戸の底から須恵器、土師器壺、砥石なども出土した。

   井戸
     井戸と出土品 大県遺跡

 そればかりでなく、遺跡から5 世紀末~6 世紀の土器と共に鉄滓・鞴羽口 ・炉跡などが出土し、この地域で大がかりな鉄生産が行われていた事が明らかになった。
 鉄生産は農地を開く農機具、戦さのための武器製造に貴重なものであり、 全国統一をめざす大和政権にとって大県の鍛冶工房は特別に重要な場所であったと思われる。
 高句麗からの渡来人・高麗人が早くからこの地域一帯で活躍していたことを物語るものであろう。つづく

  柏原市峠
   飛鳥ー河内 大和川 柏原市峠
2017.02.20 高麗の里90
     「コマ」の地名が残る場所2       
      
   アルプス
     南アルプス 麓に高麗人が定住した  
  
   甲斐国巨摩郡(こまぐん)
 近世まで甲斐国は4郡で構成されていた。巨摩郡は西部にあたる甲府盆地と南アルプス地域に相当する。
 現在の韮崎市 、南アルプス市、北杜市 、甲斐市、中巨摩郡、甲府市の一部 、中央市の一部 、南巨摩郡の一部を包括する広大な地域である。

 巨摩郡から高句麗系渡来人の墓制である積石塚古墳が多数発見された。また、 天狗沢瓦窯跡(甲斐市天狗沢)からは高句麗系軒丸瓦が出土している。
 これらの遺跡や出土品から、高句麗からの渡来人(高麗人)集団が早くからこの地に定住したことが明らかになった。
  中でも、笛吹市石和町の大蔵経寺山古墳群は、5世紀にまでには高句麗からの集団移住があったと推測されている。
 668年、 高句麗滅亡によって、難民となった高麗人が新しく巨摩郡に移り住み、新旧の高麗人がこの地域に定着することになったと推測される。
 巨摩郡の地名は、この地域に多くの御牧(牧場)が存在し、馬(駒)を産出したことから「コマ」=「駒」=「巨摩」となったとする「駒説」が最近まで有力であった。

  甲府盆地
        甲府盆地 

 戦後、関晃氏の『上代特殊仮名遣の研究』により、「駒」のコは甲類、「高麗」のコは乙類で、乙類の「巨」に一致する「高麗説」が妥当とされるようになった。
 また、高句麗系の渡来氏族大狛連(狛造)の本貫地である河内国大県郡巨麻郷や若江郡巨麻郷に「巨麻」が当てられていることから、巨摩は高句麗(高麗)を意味することが明らかになった。

  img012.jpg
     桃の花咲く甲府盆地
 
 716年、高麗郡設置にともない、東国7国から高麗人1799人が武蔵国高麗郡に移住した。
 甲斐国巨摩郡からは、新しく定着した高麗人が高麗郡に移住して行ったと推測されている。
     立体交差の駅

玉川上水駅は、地下2階、地上3階の
5階建ての立体交差駅である。
地下2階は芋窪街道が南北にトンネルで通る、
地下一階は玉川上水の水路が東西に暗渠化され、
一階は西武線が東西に走り、二階は通路、
三階はモノレールが南北に走る。
次の動画は、トンネルを出入りする車、
駅にすべり込むモノレール、
拝島方面に向けて駅を出る電車の様子を
タイミングよく撮影したものである。
動画をご覧ください。



この様子を夕闇の中から、
富士山が静かに見守っているようだった。
    わが街・東大和市

 わが街・東大和市は、北に広大な狭山丘陵の緑地が連なっている。
 南端には野火止用水が流れ、わずかに雑木林があり武蔵野の面影を残している。
 狭山丘陵と野火止用水の間に広がるわが街、富士山を背景に動画でご覧ください。




   東大和病院7階 休憩室から撮影
   P1174081.jpg
         富士山と夕日と雲

 1月中は,快晴がつづき、
 クッキリとした富士山を朝・夕毎日のように見た。
 しかし、2月に入ると、、
 雲の間からわずかに姿を見せたり、
 靄がかかり、薄っすらと見せることが多かった、
 最近は、朝にその姿を見せるが、
 夕方には雲に隠されることがたびたびあった、、
 1月末から2月に入って撮った
 「富士山と夕日と雲」の画像を
 パラパラとご覧ください。

  2月富士

 くっきりした綺麗な富士山もよいが、
 たまには、様々な雲がかかった富士山も
 見る人を楽しませてくれるのではなかろうか?
      立春の日

DSC_8685.jpg
  
 2月4日は立春、立春は暦の上では春、
 しかし、立春といつてもまだまだ寒い、
 晴れた日も風が吹くと震え、
 蔭に入ると冷蔵庫の中にいるような感じである。
 寒さに弱い者にとってはまだまだ辛い時期、
 この日、風もない好天、久しぶりに散歩に出る、
 玉川上水駅南口に出て、上水遊歩道の入り口で、
 ハットして足を止め見上げた、
 なんと紅桜の蕾が膨らんでいるではないか!
 よく見ると、一部はすでに花開いている、

 DSC_8681.jpg

 ポケットからスマホ取り出し構えると、
 ラッキーかな小鳥が飛んできて止まった、
 パチパチ連続シャッターを切った、

 DSC_8684.jpg

 いい場面でタイミングよく撮れた!?
 その時、モノレールがホームから出て来た。
 あわてながら、モノレールを入れて撮れた、
 まあまあの画像が撮れたと自己満足しながら歩く、

 DSC_8691.jpg

 この日の散歩は、なんとなく晴れやかな、
 爽快な気分の散歩となった。
 春の兆しを感じた春分の日だった。
2017.02.05 高麗の里89
    「コマ」の地名が残る場所1

  高麗山2
       高麗山 春の風景
 「コマ」の地名が関東圏と近畿圏のところどころに残っている。大部分は高麗人(高句麗人)が居住した痕跡である。一部に百済人の痕跡も含めて渡来人が住んだ所を「こま」呼んだところもある。「こま」を高麗・巨麻・巨摩・狛など漢字で表記され、古代高句麗国からの渡来人と関連づけられる。 「こま」の地名が残る場所をいくつか紹介する。

  高麗山(こまやま)

 神奈川県の平塚市と大磯町に跨る山。大磯丘陵の東端にあたり、標高168m。地元では高麗寺山(こうらいじさん)とも呼ばれている
 668年、高句麗滅亡とともに船で亡命してきた高麗人は、大磯海岸海岸に上陸して化粧坂付近に定着・開拓したとされている。
 その後、都に在った高麗王若光も大磯に上陸した。
 高来神社の夏祭りの祝い歌は、すでに定着していた高麗人が、若光を大磯海岸で迎える様子を歌ったものであると言われている。
  高麗山に滞在した高麗王若光は716年、建郡された高麗郡の初代郡司として赴任して行った。この時、『続日本紀』に記されている相模国の高麗人は、若光にしたがい一行となって高麗郡へ移動していったと推測されてる。

  相模湾
   高麗人が上陸したとされる相模湾

 昨年の2016年4月、高麗郡建郡1300年を記念して、大磯・高来神社ー日高・高麗神社のルート、95キロ・4日間かけて「高麗王若光ウオーク」が行われた。

   若光2
   若光ウオーク 入間川沿いを行く

 若光が生きた時代に思いをはせ、渡来文化が薫る相模ー武蔵路を延べ255人が歩いたという。感慨深い・
 
 江戸時代は高麗寺領は高麗寺村という独立した村があった。
 高麗山にあった高麗寺は高麗若光を祀った寺院と言われ、最盛期には、山頂の大堂とその西側の西天照(現在の八俵山)東側の東天照を三権現と呼ばれた。

  高麗山江戸
       高麗山の見取り図 

 江戸時代の高麗山は盛況であった、歌川広重の『東海道五十三次』に平塚宿にあった高麗山の姿を描いている。
しかし、明治時代に入ると廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され、高来神社だけを残すのみとなった。

   若光3
  若光ウオークのゴール 高麗神社参拝

 現在の高麗山は「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれ「高麗山県民の森」とし親しまれている。
2017.02.01 高麗の里88
      「高麗」のつくもの 

     s-img010.jpg

 
 高麗郡建郡1300年記念して、『高麗郡歴史ミニガイド』(高麗浪漫学会編)が 発行された。
 このガイドブックは、筆者の「高麗の里」記事内容とあまり変わるものではないが、高麗郡の全体像を知るのには、筆者の記事よりはるかに分かりやすく便利である。
 また、知らなかったことや、気がつかなかったことも書かれているので大いに参考になる。
 ガイドブックに載った「高麗」つくものを紹介する。 

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     巾着田の水車小屋

 高麗錦(こまにしき) 
大陸・高句麗から伝えられた技術による錦織のこと、
”高麗錦 紐解き放(さ)けて 寝(ぬ)るが上(へ)に 何(あ)と為(そ)ろうかも あやに愛(かな)しき”
 この歌は万葉集の一種で、「高麗錦の紐をといて共寝したのに、まだ恋しさが増す。このうえ、一体何をすればよいのか、ふしぎなほどに愛らしいことよ」という意味。どんなに愛しても限りがない愛の喜びと切なさを、おおらかに歌い上げた歌です。

   万葉碑
     巾着田にある万葉歌碑

 高麗楽(こまがく) 
 朝鮮半島から伝わった雅楽の一種である。高麗笛、篳篥、三鼓 、鉦鼓、太鼓が使われる。
雅楽には日本固有の古楽にもとずく「国風」や大陸系の「唐楽」などがある。 

 高麗縁(こうらいへり)
 畳の縁の一種で、白地の綾に雲形や菊花などの紋を黒く降り出したもの、清少納言の枕草子に「高麗縁が美しい」と書かれている。現在では社寺の座敷や茶室の床の間などで見られる。

 高麗尺(こまじゃく)
 高麗尺は一尺36cmの長さ、6世紀末に建立された飛鳥寺や法隆寺などに高麗尺が使われた。8世紀初めまで寺院や宮殿の造営に高麗尺が使われていた。

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    日和田山から巾着田を見下ろす

 この他に、高麗紐、高麗門、高麗流などあるが、現在は使われていないものもある。