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2017.01.28 高麗の里87
      高麗郡の3大寺院遺跡
 
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       高麗山聖天院勝楽寺 全景
 
 高麗神社に隣接するする 高麗山聖天院勝楽寺は高麗王若光の菩提寺として広く知られている。
 昔、この聖天院勝楽寺の他に、女影廃寺(おなかげ)、大寺廃寺、高岡廃寺の三つの大寺院があったことが発掘調査から明らかになっている。
 高岡廃寺は発掘調査の結果、4棟の建物跡が、建物の規模から金堂や仏堂、カマド等が検出された。
 8世紀中頃に造営され、11世紀初めに火災を受け廃寺になったとされている。
 この寺は高麗王若光の侍僧であった勝楽の菩提寺であった可能性が高いとされている。

  高岡
  高岡廃寺 多し壺、須恵器、円面硯等出土品

 大寺廃寺は毛呂山丘陵の標高90~100mにあった大規模な寺院、創建は8世紀前半と推測され、青銅製の風鐸、壺金などの金属製の出土品から、高度な鋳造技術を持った工人の存在が明らかになっている。寺は高麗氏の氏寺と考えられている。

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     大寺廃寺  建築物跡

 女影廃寺は高麗郡建郡とともに郡寺としていち早く建立された。茨城県の新冶廃寺と同じ軒丸瓦が出土している。ほかに瓦塔、墨書土器など寺院に関蓮するものも出土している。寺は高麗郡家の付属寺院(郡寺)であったと考えられている。
 奈良時代、仏教が普及し仏教を基本にして政治が進められると、各地に寺院が建立されるようになった。

 寺院の建立は、高度な建築技術と大量の瓦の生産が必要であり、経済的に負担が大きい事業である。
 そのため、一般的には1郡1寺院 ・郡の役所近くに寺院を建立するのであった。
 ところが、高麗郡では8世紀前半から、中頃にかけて3っつの大寺院を建立したのである。
 そこには、高麗郡に入植した高麗人の高度な農業土木技術と生産力の向上、経済的発展があったことが考えられる。

 しかし、経済の発展があったとしても、また、能力のある工人技術者がいたとしても、 建郡から何年も経っていない当時の状況からして、高麗郡一郡で三つの大寺院を建立することは至難の業であったはずである。
 それにもかかわらず、三つの大寺院が建立されたのである。なぜだろうか?

 最近の遺跡調査や高麗郡に関する研究成果によって、女影廃寺、大寺廃寺、高岡廃寺の3寺の建立には
中央政府の強力なバックアップがあったと推測されている。
 女影廃寺で出土した周縁に面違鋸歯紋(めんちがいきょしもん)をもつ複弁8葉蓮華文軒丸瓦(ふくべんれんげもんのきまるがわら)は、天皇家が初めて造営した奈良・川原寺の流れをくむ瓦である。

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  奈良・川原寺と女影廃寺から出土した瓦

 女影廃寺が建立された以後は、この瓦がモデルに北武蔵のすべての郡寺で使われるようになった。
 大寺廃寺では平城宮の瓦に類似したものが見つかっている。
 それまで使われることがなかった都の瓦が武蔵国の大寺廃寺で使われたことは、国家的支援や朝廷で力をもつ人物が関わったと考えられるのである。
 それではなぜ、中央政府が地方の一郡にすぎない高麗郡の寺院建設を支援したのだろうか?
 この時期、朝廷は律令体制にもとずく中央集権国家をめざし、群などの地方行政機構の整備に力を注いでいた。
 そして、「地方の行政機関はこうあるべきだというモデルを示す」(高麗郡歴史ミニガイド)必要があった。
 そのモデルとなったのが高麗郡であり、女影廃寺、大寺廃寺、高岡廃寺の3大寺院建立の支援であったとする説が有力になっている。つづく

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    高麗人が開拓した巾着田 春の風景


2017.01.24 高麗の里86
      高麗郡開拓の遺跡

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   高麗人が開拓した巾着田水田、菜の花畑
 
 今から1300年前、高麗郡が設置され1799人の高麗人が入植すると、未開地であったこの地方は急ピッチで開発が進められた。
 高麗郡は高麗郷(現日高市)、上総郷(現飯能市)の2郷からなり、丘陵や台地が多く水田耕作に適した土地は少なかった。
そのため、高麗人が入植する以前は、この地域に人が住んだ形跡はなかった。
 しかし、高麗人たちがこの地に定着すると、彼らは農業土木技術を駆使して、少ない低湿地帯や今まで使えなかった土地を開拓し農地を広めていった。彼らの技術力は、水田開発だけでなく養蚕や織物などの生産、そして、窯業や製鉄の生産にまでおよび、高麗郡は急速な発展を遂げた。それを物語る遺跡が数多く発見されている。
 716年を境に、高麗郡内の遺跡は徐々に増え、700年代中にはが飛躍的に急増している。
 下の図は飯能エリアで発見された集落と遺跡の分布図である。9遺跡から23軒の住居と土器が見つかっている。

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   飯能エリア遺跡分布図

 日高エリアでは、日高市と川越市にまたがる光山(こうざん)・上猿が谷戸(かみさるがやど)遺跡が見つかっている。

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    日高エリア遺跡分布図
 
 この遺跡から公的施設のような大きな掘立柱建物の跡があり、馬具のほか、硯など出土、文書を扱う役人がいたと推測されている。

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  正面は高麗丘陵、裏側は飯能 聖天院から

 奈良時代始めごろ高麗人たちがもたらした高度な技術と優れた文化は、武蔵国各地に強い影響をおよぼしたことだろう。
 遺跡分布図は「高麗浪漫学会」発行の『高麗郡歴史ミニガイド』から引用。 つづく
      富士山が見える日々

  正月7日間だけでなく、
 その後中旬まで毎日のように富士山が姿を現した。
 北海道・東北地方だけでなく、西日本一帯にも含め
 全国的に大雪に見舞われたという、
 不思議にも東京は快晴の日がつづいていた。
 朝・夕、風が冷たく、カメラを持つ手がかじかみ、
 震えながらも富士山を撮りつづけた。
 数十枚の画像から7枚をパラパラとご覧ください。

 正月中旬

 昨日から少し気温が上がり、曇りの空模様、
 富士山はしばらく姿を隠すようだ。
 筆者にとって寒いのは困るが、
 富士山が見られないのも淋しいかぎりである。
     富士山とモノレール

この日、遅くまで富士山が夕闇の中に
鮮やかに浮かんでいた、
そこに、上北台行きのモノレールが玉川上水駅に入って来た。
これまで、走るモノレールと富士山の同時撮影を試みたが、
レンズの焦点を合わせられず失敗を重ねた。
よし!今度こそはと撮影したものが次の動画である、
ご覧ください




この動画撮影の経験から、筆者は、
もっといいものを撮ってやるぞと気合が入っている。
       春を待つ

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   ボランティア花壇  5月初旬の風景

東大和市南公園の「空襲変電所」のある平和広場、
両脇に設けられたボランティア花壇は、
新しい年を迎え、花壇の模様替えをするためか、
昨年の草花はすべて取り払われ、
きれいに整備されていた。

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   休眠中のボランティア花壇

背の高い皇帝ダリア・エンゼルストランペット等も刈り取られ、
他所の公園ではあまり見られない貴重な花なのに・・・
惜しいことをしたものだと残念に思いながら近づいて見ると、
根の部分が残されていたから、ホッとしたものだった。
今年もきっと、大輪の花を咲かせてくれるだろう。

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  皇帝ダリア 高さ約5m 昨年の秋

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  エンゼルストランペット 昨年の秋

筆者が「ボランティア花壇」をブログに載せたのは、
昨年のバラが咲く頃からで、まだ1年になっていない。
今年は春の初めからボランティア花壇に咲く花を
ひとつひとつ、できるだけ丁寧に伝えたいと思っている。
また、今年は東大和どっとネットにも、市民レポーターとして
「四季の風景」に投稿することになり、そこにも
「ボランティア花壇」をとりあげ掲載していきたい。
ボランティア花壇に色とりどりの花が咲き乱れる
  ”春が待ちどうしい”
       正月富士

  正月元旦から7日まで快晴の日がつづき、 
 朝・夕、毎日、富士山が美しい姿を見せていた。
 ブログに載せるため撮り出して4年以上なるが、
 1週間つづけて富士山を見ることはなかったこと、
 その間、撮り損ねた日もあったが、
 毎日、朝・夕の富士山の雄姿を撮ること出来た。
 その中から7枚、パラパラとご覧ください。

 正月富士

 モノレールが走る画像を一枚挿入した。
 違和感があるが意図的に入れたものである。
 撮影中いつも下を通るモノレールが気になり、
 モノレールに乗って夕日に映る富士山を
 動画を撮って見たいと筆者の願望をこめて
 あえて挿入したもの、
 はたして良かったかどうか?
2017.01.07 高麗の里85
    在日韓民族無縁の慰霊碑

正月、高麗神社・聖天院勝楽寺に参詣した。
勝楽寺境内奥にある在日韓民族の慰霊塔・慰霊碑が建つ
「在日白衣民族の聖地」にまで足を延ばし、お参りした。
高麗神社・勝楽寺は初詣の客で賑わっていたが、
「聖地」は数人がいるにすぎなかった。
よほど関心のある人以外、ここまで訪れないようである。
「在日白衣民族の聖地」は戦前、朝鮮半島から渡って来た
朝鮮人の遺骨・無縁仏を慰霊するために造られたものである。
「聖地」内の説明版「慰霊塔・聖天院回帰の歴史」には
次のように書かれている。


「この由緒聖天の山腹にそびえ立つ慰霊塔は、第2次大戦の不幸な歴史の中で亡くなられた沢山の無縁の同胞達に、昔渡来した高句麗の同胞達と共に永遠の安眠を与え供養したいと願う、在日同胞篤信者の真心により建立されました。塔は日本との関係36年間を象徴する36段階で高さ36m、石塔としては日本最大、下部に納骨堂が備わっています。その周囲には無縁仏が生前白衣民族であったことをわすれぬよう、檀君をはじめ、広開土大王・太宗少し大きい文字武烈王・鄭夢周・王仁博士・申師任堂等祖国の自尊心をを高めた偉人達の石像が配されています。慰霊塔左手に建つ八角亭は3・1独立宣言書を初めて朗読したソウルパコダ公園内の八角亭を縮小建築したもので、祖国同胞により祖国の建材を使用して施工されたものです。」

1年前、筆者は何枚かの画像で「聖地」の様子を紹介したが、
今回は動画で紹介します。ご覧ください。



 現在、「白衣民族の聖地」を保存・管理するため「在日韓民族無縁の霊碑を守る会」が結成され、
 慰霊祭・清掃をはじめ様々な活動が行われている。
2017.01.03 高麗の里84
    「高麗の里」の原風景 

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  高麗の風景 聖天院勝楽寺本堂が見える

「高麗の里」は特定された地域や場所ではない。
しかし、筆者が思い描く「高麗の里」の原風景がある。
その一つが、聖天院勝楽寺本堂前からの展望である。
筆者がながめる遠くの日高市街と丘陵地帯、
近くの田舎的な風景を動画でご覧ください。



昔、この地はすべて原生林に覆われていた、
本堂前に立つと、筆者はなぜか、
高麗郡に入植した高麗王若光をはじめ1799人の
高麗人が、原野開拓に勤しむ姿を思い浮かべ、
そして、1300年という長い歴史に思いを馳せるのである。
   富士山を見ながら多摩川を渡る

 正月元旦 快晴 
早朝から富士山がくっきり姿を見せた。
その姿に魅せられて、モノレールの車窓から
富士山を背景に動画を撮って見ようと思い立ち、
高幡不動尊へ初詣に出かけた。
柴崎体育館~甲州街道駅間の多摩川を渡る所にスポットをあて、
行き帰り動画を撮ってみた。ご覧ください。




 富士山と多摩川の流れを同時に焦点が合わせられず、
富士山がはっきり映らないことになってしまった。
帰りの動画はもっとひどかった.。しかし、
モノレールの車窓から、富士山を見ながら多摩川を渡る景観は撮れたのではと、
自己満足している。
 
      謹 賀 新 年

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         世界の平和を願う
 
 昨年中はいろいろなご支援・ご声援心よりお礼申し上げます
  
  ブログ「日朝文化交流史」の内容
   1、玉川上水駅周辺の風景
     1) 玉川上水散歩
     2) 玉川上水沿線
     3) 玉川上水駅周辺
     4) ボランティア花壇
     5) 富士山と夕日と雲
   2、日朝文化交流史
     1) 高麗の里
     2) 日本に残る渡来文化
     3) 渡来文化の発展

 今年も、変わらぬ応援・ご鞭撻よろしくお願いします申し上げます。

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   2017年1月1日 7時30分 

    2017年 元旦