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       2016年を送る

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          2016年 大晦日の朝

 筆者にとって今年は、
 1. ブログ記事更新のスピードアップが出来たこと、
 2. 動画の導入により 記事が多様化したこと、
 3. 入力操作技術が少々向上したこと、
 以上の理由で記事の内容が昨年に比べて前進があったと自負している。
 わずかな前進、そこにも東大和市民ネットの仲間の皆さんの親切丁寧な手助けがあった、
 また、読者からの声援や励ましがあり記事更新のパワーをもらった。
 東大和市民ネットの皆様と読者の皆さんに感謝したい。

 しかし、冷静に今年をふり返ってみると、
 まだまだ内容に欠点があり、技術的にも未熟であることを自覚している。
 明日から来年、新たな気持ちで自身のブログ記事の充実を計っていきたい。


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2016.12.30 高麗の里83
     まんが・高麗王若光物語

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  今年の2016年5月16日は、高麗郡建郡1300周年の記念日であった。
 記念すべき今年、高麗神社を中心に地元日高市では様々な祝賀行事・イベントがが行われた。なかでも、5月に開催された記念式典と3000人の市民参加の虹の大パレードは圧巻であった。
 その他、渡来人の里フオーラム、歴史シンポジュウム、建郡1300年記念碑建立式典、古代装束絵巻、若光ウオーク、馬射戯競技大会、遺跡物展示会等々が開催された。まさに高麗郡建郡1300年に相応しい盛大な祝賀の年であった。
 このような祝賀ムードに花を添えるかのように、今年の4月、「古代の国・高句麗から現代の日本へ!時空を超えた歴史ロマン『まんが・高麗王若光物語』」(埼玉新聞社)が出版された。
 作者は地元漫画家比古地朔弥氏、 協力・監修は高麗神社60代宮司・高麗文康氏である。高麗文康氏はすでに歴史ロマン小説「陽光の剣~高麗王若光物語」を著わしている。
 まんがはこの小説の内容にもとずいて高麗王若光の生涯と現代にいたる高麗郡の歴史をつづったものである。
 筆者は、まんがというより建郡から現代に至る高麗郡の歴史解説書・入門書のような感想をもった。


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 最初のぺーじに「600年代中頃の朝鮮半島」「700年代の関東地方」の地図、最後に高麗郡1300年関係年表がついているので内容の理解を助けてくれる。

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  そして、「まんが高麗王若光物語国」の内容は、古代武蔵国一地方での出来事であるが、国の戦争がもたらす悲劇や共存共栄の重要性、国際交流、平和の大切さを考える足がかりになるものとなっている。

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 東京大学大学院佐藤信教授は、
「7世紀の東アジア激動の時代、戦乱を逃れて王族をふくむ多くの高句麗の人々が日本列島に渡ってきた。東国に安置された彼らは、今から千三百年前、武蔵国に高麗郡を建て、東国社会の一員として長く歴史をつむいできた。王族の若光をはじまり今日にいたる高麗氏を軸にした波乱の歴史物語は、日本史が国際交流の中で展開してきたことを改めて自覚させてくれる。国際化した今日にこそ、若い人々にこの物語を広く勧めたい」と推薦文を書いている。

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 筆者もまた、このまんがを小・中・高校生、大学生、そして歴史に感心のある多くの大人にも広く読んで欲しいと願っている。
    イルミネーション5

 12月25日、メリークリスマス。
 昭和記念公園のイルミネーションは最終日、
 筆者はイブの日、高さ7mのお城や富士山、
 枯山水など日本庭園、シャボン玉ライトアップ
 生き生きした動物のイルミネーションを堪能した。
 動画をご覧ください。



 イルミネーションは年々、華やかに、規模も大きくなっている。
 昭和記念公園のイルミネーション、
 玉川上水からモノレールに乗って僅か10分、徒歩10分、
 こんな近くにクリスマスの夜を楽しむところがあった。再発見

    イルミネーション4

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 今日、12月24日、クリスマスイブ、
 昭和記念公園のイルミネーション点灯は明日まで。
 筆者のカメラに収めたイルミネーションの画像・動画は多い。
 せっかく撮ってきたものであるから、全て掲載したいが
 イルミネーションはこの時期だけが旬、
 今日は、自画自賛の5枚の画像を載せます。


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 明日は最後の昭和記念公園のイルミネーション、
 動画を載せます。
      イルミネーション3

 昭和記念公園立川口付近のイルミネーションを、
 カメラを360度回転させて撮った、
 動画をご覧ください。




 動画は、説明文をながながと書く必要がないので
 記事更新が便利である。
      イルミネーション2


 昭和記念公園の入口に立ち止まり振り返ると、
 大都会の谷間を走る モノレールが目に入った。
 幻想的な風景に、おもわず動画を撮ってみた。
 モノレールだけでは短かすぎるので公園入口の
 イルミネーションまで撮りつづけた。
 動画をご覧ください。



 やはり、動画は立体的に表現できるからいい。
    イルミネーション1

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  クリスマスツリーのイルミネーションが輝く季節がやってきた。
 昨年は、多摩センターからパルテノンに飾られたイルミネーションを取材・掲載した。
 今年は、昭和記念公園の「ウインタービスタイルミネーション」を見学した。
 玉川上水からモノレールに乗るとわずか10分で立川北駅に着く。
 高島屋方面の出口をを出ると、すぐさまモノレール下に飾られたイルミネーションが目につく。
 印象深い飾りをカメラにおさめながら、昭和記念公園入口から立川口まで進んでいった。

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      昭和記念公園入口

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    フアンタジーな世界に誘う道

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     何を表現しているのか?
 
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     昭和記念公園立川口付近

 昭和記念公園内に入るとシャンパングラスツリーがきらめき木と水が輝く ロマンチックな
 「ビスタエリア」や「フアンタジーエリア」、
 「日本の美エリア」等がある。

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    立川口玄関から幻想的な世界を撮る    

 昭和記念公園のイルミネーションは12月25日まで点灯され、
 最終の23,24,25日は冬の花火がが打ち上げられる。
 実際はもっと迫力があり、フアンタジーな世界を楽しめる。
2016.12.18 高麗の里82
      麗しの郷里はるか

 12月18日今朝、NHKの番組・小さな旅で「麗しの郷里はるか」が放映された。
 [高麗の里]の魅力を短い時間内に凝縮したような番組、
 筆者が2年間,「高麗の里」をテーマで取材したものを簡単にまとめてくれたようだった。
 さすがNHKの教養番組、よくできた番組だと感心した。
 見終わるころになって、録画すべきだったと思ったが、とき遅し、
 止む終えず最後の部分をデジカメでテレビ画面に向けて撮影した。
 動画をご覧ください。



 再放送が12月24日(土)朝5時15分からあり、始めから見られます。
 高麗の里の自然の美しさや、特異な歴史を知る絶好の機会では、
 ご覧になることをおすすめします。
2016.12.15 高麗の里81
         高麗福信2

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     大仏殿建立時 高麗福信は造営卿 

 古代、奈良時代から平安時代にかけて、活躍した高麗(高倉)福信について知る人は少ない。
 筆者は以前にも高麗福信をとり上げたが文章が長く、読者にとって読みづらいものであった思われる。
 今回、たまたま『埼玉歴史ものがたり』という本の中に、高麗福信についての,短い物語を見つけた。
 イラスト入りの子供用に書かれたものであるから読みやすい。そのまま紹介する。

  武蔵国の国司をつとめた高麗福信           
          ー高麗郡出身の有名人ー 
 
 「高麗福信は、高麗郡の人で、本姓を世奈(せな)という。福信のおじいさんは、高句麗が新羅にほろぼされた、安心して住める地をもとめて、武蔵国の高麗郡に移住してきたという。
 福信は小さなころから、たいへん力があったと いう。少年のころ、おじさんにつれられて都に行った。
ある日、石上ですもうをとったが、福信があまり強いので、だれ一人として相手になる者がなかった。
 このことが朝廷に聞こえると、福信は、朝廷を守るための、衛士府(えじふ)というところにつかえることになった。
 その後、奈良の大仏をつくった天皇として有名な聖武天皇にみとめられて、どんどん地位がのぼり、高麗朝臣(こまのあそん)という名をもらった。朝臣というのは、高い位の人がもらえる称号である。
 その後、都の整備にあたる造営卿になったり、武蔵守や近江(滋賀県)守にもなった。国守になったのである。いまの知事にあたるよう地位である。
 晩年には、高麗の名をあらためて、高倉福信と名のったという。」

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   高麗福信は相撲がめっぽう強かった

 高麗福信について、詳しく知りたい読者に次の本を紹介します。
 『渡来人・高麗福信』 (相曽元彦 明石書店)

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 高麗福信に関する単独の書物は、これ一冊のみと思われる。
 比較的に読みやすく、年表がついているので福信の生涯を詳しく知る好著として推薦したい。つづく
2016.12.11 高麗の里80
      入間郡の高麗人

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  狭山丘陵・奥多摩を望む 高倉寺から撮影

 古代、武蔵国入間郡に高句麗、百済、新羅からの渡来人が 居住していた伝説・遺跡・史料がいくつか残されている。それらの伝説・遺跡・史料から入間郡の高麗(高句麗)人について、そして入間郡内に設置された高麗郡との関係について考えて見たい。
 唐・新羅連合軍によって660年に百済が滅び、668年には高句麗が滅びた。そのため、多くの百済人・高麗人が難民となって国を離れ、北の大陸へ、または南の新羅国内へ、そして、一部は海を渡り日本列島へ渡来した。九州、山陰、北陸の海岸から上陸した彼らは、安住の地を求めて 内陸各地に移っていった。
 武蔵国入間郡にも百済人、高麗人が渡来・入植・定着したと推測される。
 東京市役所が発行した『山口貯水池小誌』(1934年) によれば、 
 「山口貯水池(狭山湖)の中心とも云うべき所にあった勝楽寺村に、昔高麗人が居たといふ伝説がある・・・この伝説が真実だとすると、旧勝楽寺村の地は高麗人が武蔵に来た最初の場所の一つであったものではないかと思われのだ」と書いる。
 狭山丘陵周辺には、数軒の竪穴住居跡群が点在し、お伊勢山遺跡、日向遺跡,畦の前遺跡など古墳遺跡と須恵器・瓦を生産する新開窯跡、東金子窯跡群、栗谷ツ窯跡などが見つかっている。 古墳群、窯跡は奈良・平安時代のもので、高麗人の痕跡を残している。
 そして、勝楽寺村にあった仏像院勝楽寺の記録『往譲旧録』に716年、「高麗人来居し一寺を建てる」と記されていることから、旧入間郡狭山丘陵一帯に高麗人が来居していたことを物語っている。
 また、入間郡に高麗人が定着していた根拠の一つに、『続日本紀』に記された高麗出身者・高麗福信の存在がある。
 奈良・平安朝の高官(従三位・造営長・武蔵守・弾正尹等)となった福信は、高麗郡(716年)が設置される以前の709年生まれで あることから、当時の入間郡出身者である。
 高麗福信については、高句麗王族の背奈福徳(しょうなふくとく)の孫・子供の頃に伯父背奈行文に連れられ都に上り、立身出世した人物であったことは、すでに「高麗の里41」『高麗福信』」で記した。
 高麗福信は自ら願い出て朝廷から高倉の姓を賜った。 高倉福信は引退(785年)後、晩年を武蔵国高麗の里・高倉御所で過ごし、81才で没したとされている。
 それでは、高倉御所はどこにあったのだろうか? 
 
 入間市の高倉は「霞川流域の低地・台地・丘陵に位置する。地名の由来は、一説には渡来人にちなむもので、高倉は高麗(カクリ)の音を国語化したもの・・・また一説には高倉御所があったことによるとし、小字に宮の小路・中小路・若宮・宮ノ下などがある」( 『角川日本地名大辞典』)と記している。

 また「入間郡豊岡町の高倉という所は、昔高倉村と呼ばれ入間川にある景勝の地であり、古老の伝によれば昔、高倉御所があった所で、その字に宮小路若小路という名前が残っている所をみると福信は豊岡町の高倉に居たものではあるまいかと思われる」(『豊岡町史』1915年・現入間市)と記している。

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       高倉寺 山門
 
 現在、入間市には高倉1丁目~5丁目)の地名があり、高倉小学校・高倉公民館・高倉寺等の高倉の名が付けられている。これら地名は高倉福信に由来していると思われるが、福信の居住地は未だ確定されていない。福信の子・石麻呂が武蔵介(次官)に任命され、従兄弟の高麗大山は外交官として渤海国に派遣されたことが記録されている。
 高麗福信の一族は、王族出身の背奈氏系の高麗家で、高麗郡が設置される以前に入間郡に入植していた。したがって、後に高麗郡の長としてやってきた高麗王若光が率いる一族とは一線を画す別の高麗氏と考えられる。
 
 入間郡には 勝楽寺村 ・高倉の地名の他に、 金子、宮寺村などに高麗人が居住したことが判明している。宮寺村の吉川氏は墓板に高麗出身であることを明確に刻んでいる。この吉川氏と金子氏は高麗家系図を再編集(1200年)するために集まった高麗家縁者の一員として参加している。この史実は高麗郡と入間郡と密接な関係にあったことを物語たっている。ただ、吉川・金子両氏が高麗郡が設置される以前から入間郡に居住していたのか、それとも高麗郡の発展とともに入間郡に移住していったかについては不明である。

 高句麗滅亡から約50年後の716年、武蔵国に高麗郡(現飯能市・日高市)が設置された。東国7ヵ国 から1799人の高麗(高句麗)人が集められ建郡された。初代郡司には、相模国大磯近くの高麗山に在った高句麗王族の高麗王若光が赴任した。

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    入間郡に設置された高麗郡の位置
 
 高麗郡は入間郡内の西部の未開地に設けられた。現在の埼玉県日高市・飯能市一帯で、入間川を境界にし北側の地域である。
 
 すでに入間郡に定着していた高麗人にとって王族の高麗王若光着任は、初めて 祖国からの首長・指導者を迎えるという画期的な出来事であったであろう。
 また、新しく入植した高麗人にとっても、すでに定住する高麗人の存在は言葉や生活習慣を同じくする心強い存在であったと推測され、すぐさま新旧高麗人の交流が始まったと考えられる。
 未開地の開拓は困難を極めたが、高麗王若光の卓越した指導力と入植高麗人の技術力・努力によって比較的に順調に開拓が進んだとされている。そこには、すでに定着していた入間郡の高麗人の支援・援助があったことが推測されるのである。

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    入間市玄関口 西武線入間駅
 
 現在の入間市は、大都会の衛星都市化が進み、高層アパートと住宅が並ぶ人口15万の街となっている。筆者は入間市図書館・愛宕公園・高倉小学校・高倉寺と歩き回ったが、昔の面影はどこにも見られなかった。
 唯一、筆者が注目したのは高倉寺である。高倉寺は入間市の中央を西東に流れる霞川の北側、ゆるやかな台地の上に建っていた。そこから入間市内全域を見渡せ、境内から狭山丘陵と奥多摩の山陵が見える景勝の地にあった。

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      入間市の中央を流れる霞川

 高倉寺は室町時代に建立されていることから、高倉福信が居住した場所とは直接的に結びつかない。しかし、高倉寺が建てられる前には、そこに、伝えられている「高倉御所」があった場所と仮定すると、高倉福信が住む御所の前には宮小路・若小路・若宮・宮の小路の地名や道路がこの辺りにあったと推測されるのである。
 また、高倉寺の観音堂は、飯能市白子の長念寺観世音宝堂を1744年に移築したものとされている。飯能市白子は高麗郡上総郷に属し、高麗川流域にあったことからすると、高麗郡と福信と高倉は何らかの結びつきがあったことが想像されるのである。
 高倉(高麗)福信はこの景勝の地で晩年を平穏に送ったのであろう、
 そんなことを想像しながら入間市を後にした。   つづく 
       蝶の舞

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 東大和南公園のボランティア花壇
 コスモスに止まり雌の蝶が蜜を吸っていた、
 そこに雄の蝶がやってきて誘いかけた。
 夢中で蜜を吸っていた蝶は最初、うるさいと、
 雄の蝶を嫌っている様子であったが、
 雄の蝶の執拗な愛の告白を、受け入れたのか、
 二匹は仲良く舞はじめた。
 二匹の蝶の舞は所かまわずつづいた。
 動画をご覧ください。



 いつまで続くかと一旦動画を止めた。
 その瞬間、視界から消え失せた。
 やはり、蝶も愛の交歓は人目につかないところで、
 そこまで撮れなかったのは残念だが、
 やむを得まい。
     秋の名残り

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 12月に入った日曜日、風もなく穏やかな秋晴れ、
 筆者は、玉川上水駅南口から上水下流に向かって
 約1km、15分のところにある「こもれびの湯」・
 足湯に散歩かたがた出かけた。

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 足湯周辺は武蔵野の面影をのこす雑木林、
 まだ、秋の風情を残していた。
 また、散歩道のところどころに色鮮やかな紅葉が残っていた。
 しかし、風もないのにひッきりなしに枯れ葉がまい落ちる風景は
 やはり冬の到来を感じさせた。

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 季節の移り変わりは、何をもってしても止められない。
 「冬来たりなば春遠からじ」と言うが、

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 寒さに弱い筆者にとって、
 これからだんだん寒くなるかと思うと気持ちが塞がる。

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 せめて、秋の風情を遅くまで残し、
 春の萌しがが早くなればと願うのみである。
       晩秋

   師走に入った1日の午後、
 雨上がりの東大和南公園を散歩した。
 雪が降り、北風の寒い日がつづいたので
 紅葉も終わったものと思われたが、
 公園のあちこちに秋の終わりを惜しむかのように
 鮮やかな紅葉の風景を残していた。
 筆者の目に映った印象深い場所をスマホで撮った、
 8枚の画像をパラパラとご覧ください。


  晩秋

  美しい紅葉はまだ何日か見られるようだ。
2016.12.01 高麗の里79
    高麗王杯騎射競技大会3

  まさひ3
 

 高麗郡建郡1300年を迎えた今年、高麗神社を中心に地元日高市と周辺の高麗郡ゆかりの地域でさまざまなイベントが開催された。 
 筆者が参加したイベントも数多い,巾着田で行われた「菜の花祭り」と「曼珠沙華祭り」、花畑を古代・高句麗・奈良・平安時代衣装の「虹のパレード」は、特に印象深いものであった。そのときも撮った動画はアップ出来ずに終った。
 そういうこともあって、今回の高麗王杯騎射競技大会では、11名の騎射選手全員の競技の様子を動画に撮ってきた。。

 動画をご覧ください。


     マレーシアのボハン・フィアン騎手
 
 予定では、11名の騎射選手全員の競技の様子を連続 掲載するつもりであったが、点検してみるとお粗末な撮影のため、公開できる動画はこれ以上ないことがわかった。残念ながら高麗王杯騎射競技大会の動画はこれで終わります。
 これからも撮影技術を高め様々な動画を掲載していきたい。