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2016.02.29
富士山と夕日と雲32
2月29日
今日は4年に一度、巡って来る閏年の2月29日である、
ブログを始めて4年目になるが、初めての閏年の日、
記念になる記事を発信したいと考えたが、
いいアイデアが浮かばず、今月は比較的に富士山が
よく姿を現したので、撮った多くのの画像の中から、
7枚を選んでお届けする、パラパラとご覧下さい、

4年後の今日まで、ブログ記事を発信しつづけていきたい、
今日は4年に一度、巡って来る閏年の2月29日である、
ブログを始めて4年目になるが、初めての閏年の日、
記念になる記事を発信したいと考えたが、
いいアイデアが浮かばず、今月は比較的に富士山が
よく姿を現したので、撮った多くのの画像の中から、
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4年後の今日まで、ブログ記事を発信しつづけていきたい、
2016.02.26
高麗の里41
高麗福信

「高麗の里」を流れる入間川、
「高麗の里」出身の高麗福信(709~789)は奈良時代、朝廷の高位高官として歴史にその名が刻んだ人物である。しかし、彼は歴史に名を残したが、武蔵国高麗郡の地方郡司にすぎなかった高麗王若光に比べると知名度は低い。

福信の故郷「高麗の里」・現飯能市を展覧山から望む
『続日本記』(797年)によると,武蔵国高麗郡上総郷(現飯能市) 出身の福信は、最初の姓が背奈氏であった。祖父の背奈福徳は高句麗王族の家柄であったが、新羅・唐連合軍の高句麗攻撃に際して、唐軍の李勣(敵将)の平壌城攻略に加担したにもかかわらず、高句麗が滅亡すると日本に亡命渡来したと記されている。
福信は少年の頃、伯父に連れられ都(奈良)に上った。彼は相撲がめっぽう強かったことが宮中に聞こえ、朝廷の内堅所に召され朝廷官職の道を歩んだ。その後、外従5位下・春宮(皇太子宮殿)の次官に任じられた。彼は聖武天皇(701~756)の恩寵をうけ、高麗朝臣(尊称)という姓(かばね)を賜い、従3位の高位と造宮郷(平城宮造営長官)という高官に昇進した。そしてまた、武蔵国守も兼任するという出世・栄達をきわめたのであった。武蔵国守は高麗郡を含む21郡の行政長官であるから、一郡の長であった若光よりもはるかに高い地位・官職に就いたことになる。
福信の出自について、『新選姓氏録』(815年)では「高麗朝臣は、高句麗王好合七世孫の延典王より出づ」と書かれている。「高句麗王好台」は高句麗全盛期の広開土王(好太王319~413)のことであるから、福信は王族の後裔である。国を裏切った王族出身者が日本への亡命に至ったことは、当時の高句麗王族支配者層の内紛が、いかに凄まじいものであったかを物語っている。
高句麗滅亡時の祖父・福徳の素性を知られることを怖れたのか、福信は自ら願い出て高倉朝臣福信に改姓した。因みに高倉は高句麗のなまったコクラの音写仮名である。
段熙麟氏は高麗王若光の家系図と福信の出世を比較しながら、「若光の裔孫がみな就官しないで、僧籍にはいったり、または武蔵丹党の武士として兵馬を事としたことくらべてみると、高倉(高麗)福信は実に要領よく優雅にスマートに雄飛したこが知られ、人生の皮肉さと言おうか、はかなさといったものを痛感させられる」(『日本に残る古代朝鮮』1976年)と述べている。
段熙麟氏は「実に要領よく」出世・栄達した福信をあまり評価してないようであるが、古代歴史上の人物を現代的視点で評価するのもどうかと思われる。
確かに国を裏切った祖父の背奈福徳は非難されるべきであろう。しかし、福徳の孫である福信は日本生まれの三世である。本国での祖父の背信行為と福信の出世とは関連させるべき問題ではないと思われる。
渡来人は出身国の身分や地位に関係なく、日本の地に足を踏み入れた瞬間から与えられた境遇のもとで必死で生き抜かねばならない。それぞれの人生は生まれ育った環境に左右されることもあるが、機会や才能、努力によって大きく変わることがある。福信の出世・栄達は、たまたま機会にめぐまれ、そこに彼自身の才能や努力があったからではなかろうか?
福信が「藤原仲麻呂の乱」(764年)や、道鏡事件(770年)をくぐり抜け、高位高官を保ちつづけたことは「要領」や「処世術」が巧みであったと思われる。この時代の「要領」や「処世術」は立身出世するための才能であった。
福信は高位高官を保ちつづけ、聖武・光謙・淳仁・称徳・光仁・桓武天皇の実に六朝に仕えたことは、彼の才能が抜群であったからではなかろうか?

飯能市近郊の宮沢湖 ボート・つりを楽しめる
高麗福信(高倉朝臣福信)の晩年は、生まれ育った故郷・「高麗の里」に帰り、悠々自適な余生を送り、81才の生涯を終えたとされている。
都から遠く離れた田舎に育ち、しかも渡来人の子孫というハンディを背負って都に上り出世・栄達をきわめ、勤めを終えて故郷の高麗郡に帰ったことは、現代風に言えば故郷に錦を飾ったことになるが、故郷の人々は彼をどのように迎えたただろうか?
また、彼自身は悔いのない人生であったとふり返ったのだろうか?

飯能市を流れる入間川 家族づれで賑わう夏の川原
故郷・高麗郡(現飯能市)に高麗福信の伝説や遺跡が何一つ残されていないようである。
「高麗の里」出身者・高麗福信の知名度がもう少しあってもよいのではと思われてならない。

「高麗の里」を流れる入間川、
「高麗の里」出身の高麗福信(709~789)は奈良時代、朝廷の高位高官として歴史にその名が刻んだ人物である。しかし、彼は歴史に名を残したが、武蔵国高麗郡の地方郡司にすぎなかった高麗王若光に比べると知名度は低い。

福信の故郷「高麗の里」・現飯能市を展覧山から望む
『続日本記』(797年)によると,武蔵国高麗郡上総郷(現飯能市) 出身の福信は、最初の姓が背奈氏であった。祖父の背奈福徳は高句麗王族の家柄であったが、新羅・唐連合軍の高句麗攻撃に際して、唐軍の李勣(敵将)の平壌城攻略に加担したにもかかわらず、高句麗が滅亡すると日本に亡命渡来したと記されている。
福信は少年の頃、伯父に連れられ都(奈良)に上った。彼は相撲がめっぽう強かったことが宮中に聞こえ、朝廷の内堅所に召され朝廷官職の道を歩んだ。その後、外従5位下・春宮(皇太子宮殿)の次官に任じられた。彼は聖武天皇(701~756)の恩寵をうけ、高麗朝臣(尊称)という姓(かばね)を賜い、従3位の高位と造宮郷(平城宮造営長官)という高官に昇進した。そしてまた、武蔵国守も兼任するという出世・栄達をきわめたのであった。武蔵国守は高麗郡を含む21郡の行政長官であるから、一郡の長であった若光よりもはるかに高い地位・官職に就いたことになる。
福信の出自について、『新選姓氏録』(815年)では「高麗朝臣は、高句麗王好合七世孫の延典王より出づ」と書かれている。「高句麗王好台」は高句麗全盛期の広開土王(好太王319~413)のことであるから、福信は王族の後裔である。国を裏切った王族出身者が日本への亡命に至ったことは、当時の高句麗王族支配者層の内紛が、いかに凄まじいものであったかを物語っている。
高句麗滅亡時の祖父・福徳の素性を知られることを怖れたのか、福信は自ら願い出て高倉朝臣福信に改姓した。因みに高倉は高句麗のなまったコクラの音写仮名である。
段熙麟氏は高麗王若光の家系図と福信の出世を比較しながら、「若光の裔孫がみな就官しないで、僧籍にはいったり、または武蔵丹党の武士として兵馬を事としたことくらべてみると、高倉(高麗)福信は実に要領よく優雅にスマートに雄飛したこが知られ、人生の皮肉さと言おうか、はかなさといったものを痛感させられる」(『日本に残る古代朝鮮』1976年)と述べている。
段熙麟氏は「実に要領よく」出世・栄達した福信をあまり評価してないようであるが、古代歴史上の人物を現代的視点で評価するのもどうかと思われる。
確かに国を裏切った祖父の背奈福徳は非難されるべきであろう。しかし、福徳の孫である福信は日本生まれの三世である。本国での祖父の背信行為と福信の出世とは関連させるべき問題ではないと思われる。
渡来人は出身国の身分や地位に関係なく、日本の地に足を踏み入れた瞬間から与えられた境遇のもとで必死で生き抜かねばならない。それぞれの人生は生まれ育った環境に左右されることもあるが、機会や才能、努力によって大きく変わることがある。福信の出世・栄達は、たまたま機会にめぐまれ、そこに彼自身の才能や努力があったからではなかろうか?
福信が「藤原仲麻呂の乱」(764年)や、道鏡事件(770年)をくぐり抜け、高位高官を保ちつづけたことは「要領」や「処世術」が巧みであったと思われる。この時代の「要領」や「処世術」は立身出世するための才能であった。
福信は高位高官を保ちつづけ、聖武・光謙・淳仁・称徳・光仁・桓武天皇の実に六朝に仕えたことは、彼の才能が抜群であったからではなかろうか?

飯能市近郊の宮沢湖 ボート・つりを楽しめる
高麗福信(高倉朝臣福信)の晩年は、生まれ育った故郷・「高麗の里」に帰り、悠々自適な余生を送り、81才の生涯を終えたとされている。
都から遠く離れた田舎に育ち、しかも渡来人の子孫というハンディを背負って都に上り出世・栄達をきわめ、勤めを終えて故郷の高麗郡に帰ったことは、現代風に言えば故郷に錦を飾ったことになるが、故郷の人々は彼をどのように迎えたただろうか?
また、彼自身は悔いのない人生であったとふり返ったのだろうか?

飯能市を流れる入間川 家族づれで賑わう夏の川原
故郷・高麗郡(現飯能市)に高麗福信の伝説や遺跡が何一つ残されていないようである。
「高麗の里」出身者・高麗福信の知名度がもう少しあってもよいのではと思われてならない。
2016.02.22
富士山と夕日と雲31
おもしろい雲
夕陽が沈む頃,西の空を眺めていると
思わぬ光景に出会うことがある、
中でも、想像すらできない雲の出現に
おもわず、アレ!アレは何だと、
おもしろい雲に見惚れることがある、
パラパラとご覧ください、

いつも、富士山を撮ろうと構えているのであるが、
いつの間にか、おもしろい雲の出現を待っているようだ、
夕陽が沈む頃,西の空を眺めていると
思わぬ光景に出会うことがある、
中でも、想像すらできない雲の出現に
おもわず、アレ!アレは何だと、
おもしろい雲に見惚れることがある、
パラパラとご覧ください、

いつも、富士山を撮ろうと構えているのであるが、
いつの間にか、おもしろい雲の出現を待っているようだ、
2016.02.19
玉川上水緑道散歩1
春が近い
季節はまだ2月中旬であるが、
春が訪れたかのように桜が咲いていた、
玉川上水駅南口の階段を降りると
5~7分咲きの紅桜が目に飛びこんでくる、
梅の花のように見えるが、早咲きの紅桜である。
横を流れる玉川上水の水も少し温んでいるようだ、
朝夕はまだまだ寒く、晴れた日の風も冷たい、
しかし、季節は確実に春が近いことを告げている。
春の訪れを知らせる桜をパラパラとご覧ください

本格的な春はすぐ目の前に近ずいているようだ、
季節はまだ2月中旬であるが、
春が訪れたかのように桜が咲いていた、
玉川上水駅南口の階段を降りると
5~7分咲きの紅桜が目に飛びこんでくる、
梅の花のように見えるが、早咲きの紅桜である。
横を流れる玉川上水の水も少し温んでいるようだ、
朝夕はまだまだ寒く、晴れた日の風も冷たい、
しかし、季節は確実に春が近いことを告げている。
春の訪れを知らせる桜をパラパラとご覧ください

本格的な春はすぐ目の前に近ずいているようだ、
2016.02.09
富士山と夕日と雲30
富士山三景

今年に入って、初旬は
晴天がつづき毎朝のように富士山が姿を現した、
朝の富士山は常に自然の姿、素顔で現れる。

ところが、夕方になるとその表情は千差万別に変化する、
富士山自体が変わるわけではないが、
周囲の状況・夕日と雲によって
富士山の姿を変えたように見せるにすぎない、
とくに、 雲の出方次第にによって、
富士山はより美しくもなり、醜くもなる、
まことに、「富士山と夕日と雲」の不思議な関係である、
、

富士山の就寝は早い、夜の灯りが燈るころには
富士山はそろりと眠りにつく、静かにいつものように、、

今年に入って、初旬は
晴天がつづき毎朝のように富士山が姿を現した、
朝の富士山は常に自然の姿、素顔で現れる。

ところが、夕方になるとその表情は千差万別に変化する、
富士山自体が変わるわけではないが、
周囲の状況・夕日と雲によって
富士山の姿を変えたように見せるにすぎない、
とくに、 雲の出方次第にによって、
富士山はより美しくもなり、醜くもなる、
まことに、「富士山と夕日と雲」の不思議な関係である、
、

富士山の就寝は早い、夜の灯りが燈るころには
富士山はそろりと眠りにつく、静かにいつものように、、
2016.02.06
富士山と夕日と雲29
千切れ雲の舞い
暖冬かと思われたが、1月中旬から急速に気温が下がり、
人間社会は、寒い、寒いと大騒ぎだが、
自然界では平年並みに戻ったにすぎない、
この日、日が沈み人々が家に閉じこもると、
何処からともなく、
富士山付近に千切れ雲が集まり踊り始めた、
雲の舞は、つぎからつぎへと繰り広げられた、
夜の灯りが下りるころ、人間の視界から消え失せたが、
雲の舞は、夜を徹してつづけられたようである、
その様子をパラパラとご覧ください、

2016年1月20日16時55分頃から八場
暖冬かと思われたが、1月中旬から急速に気温が下がり、
人間社会は、寒い、寒いと大騒ぎだが、
自然界では平年並みに戻ったにすぎない、
この日、日が沈み人々が家に閉じこもると、
何処からともなく、
富士山付近に千切れ雲が集まり踊り始めた、
雲の舞は、つぎからつぎへと繰り広げられた、
夜の灯りが下りるころ、人間の視界から消え失せたが、
雲の舞は、夜を徹してつづけられたようである、
その様子をパラパラとご覧ください、

2016年1月20日16時55分頃から八場
2016.02.02
富士山と夕日と雲28
自然現象

2016年19日17時16分 不思議な現象が発生
いったいあれはなんだ!
事故か、事件か何が起きたのか?
夕日が沈んだあと、しばらくして
夕日と雲による現象かと思ったが、
いつもの自然現象とちょっと違っている、
それまで雲一つなかったところで炎があがったのだ、
富士山に近いところに突然だった、
火山噴火か? ちょっと違う、
それでは、地雷が爆発したのか?
それとも爆弾が落ちたのか?
しかし、戦争が起きたとは考えられない、
何かが爆発して炎があがったことは間違いない!
これからどうなるか?
カメラをかまえて待っていると たちまち消え失せた、
なんだ、やっぱり自然現象だったか、
がっかりする事がらではないが、
次の展開を期待していた筆者としては
自然現象であっても、ばしばらく見ていたかった。
4,5分の間だったろうか、消えるのが早かった、

富士山から近いところで起きた不思議な現象
撮った画像写真はこれ2枚だけ、
こんなに早く消えるならパチパチ撮るべきだった、
いろいろな富士山付近の現象を見て来たが、
このような瞬間的な自然現象を見るのは初めてだった、
このような現象をなんというのだろうか?
知っている人がいたら教えてほしい、
直後の富士山付近はいつものように
何事もなかったような風景だった。

2016年19日17時16分 不思議な現象が発生
いったいあれはなんだ!
事故か、事件か何が起きたのか?
夕日が沈んだあと、しばらくして
夕日と雲による現象かと思ったが、
いつもの自然現象とちょっと違っている、
それまで雲一つなかったところで炎があがったのだ、
富士山に近いところに突然だった、
火山噴火か? ちょっと違う、
それでは、地雷が爆発したのか?
それとも爆弾が落ちたのか?
しかし、戦争が起きたとは考えられない、
何かが爆発して炎があがったことは間違いない!
これからどうなるか?
カメラをかまえて待っていると たちまち消え失せた、
なんだ、やっぱり自然現象だったか、
がっかりする事がらではないが、
次の展開を期待していた筆者としては
自然現象であっても、ばしばらく見ていたかった。
4,5分の間だったろうか、消えるのが早かった、

富士山から近いところで起きた不思議な現象
撮った画像写真はこれ2枚だけ、
こんなに早く消えるならパチパチ撮るべきだった、
いろいろな富士山付近の現象を見て来たが、
このような瞬間的な自然現象を見るのは初めてだった、
このような現象をなんというのだろうか?
知っている人がいたら教えてほしい、
直後の富士山付近はいつものように
何事もなかったような風景だった。
2016.02.01
富士山と夕日と雲27
正月の富士山

正月の3日間は快晴で気温も上がり穏やかな日々であった。
その後も気温の多少の上下差はあったが好天に恵まれた。
殆ど毎日のように富士山が朝から顔を出し、
夕日が沈む頃は、化粧直しをたかのように美しい姿を現す。
その富士山の姿を撮りつづけたのであるが、
沢山撮った割には画像に特徴がない、
しかし、富士山から離れた奥多摩方面の夕焼けが美しい、 。
正月数日間、撮った画像の中から5景を選択して掲載する。

夕焼け風景 奥多摩方面

雲がかかった富士山 手前は玉川上水駅前アパート

奥多摩方面 夕焼けと白銀に輝く雲

夕焼けの富士山上空 動物のようなな雲が舞う
晴天つづきでは 美しい富士山も単純すぎるのである、
適当に雲がかかり、夕日に染まる
いろいろ変化に富んだ富士山が面白い。

正月2日 最も美しく輝いた富士山

正月の3日間は快晴で気温も上がり穏やかな日々であった。
その後も気温の多少の上下差はあったが好天に恵まれた。
殆ど毎日のように富士山が朝から顔を出し、
夕日が沈む頃は、化粧直しをたかのように美しい姿を現す。
その富士山の姿を撮りつづけたのであるが、
沢山撮った割には画像に特徴がない、
しかし、富士山から離れた奥多摩方面の夕焼けが美しい、 。
正月数日間、撮った画像の中から5景を選択して掲載する。

夕焼け風景 奥多摩方面

雲がかかった富士山 手前は玉川上水駅前アパート

奥多摩方面 夕焼けと白銀に輝く雲

夕焼けの富士山上空 動物のようなな雲が舞う
晴天つづきでは 美しい富士山も単純すぎるのである、
適当に雲がかかり、夕日に染まる
いろいろ変化に富んだ富士山が面白い。

正月2日 最も美しく輝いた富士山
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