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2016.01.31 高麗の里40
              開天節

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          開天節の日 摩尼山頂上 チャムソンダン)で踊る仙女の舞 

 10月3日は、檀君朝鮮の建国記念日で開天節(ケチョンジョル)という。韓国ではこの日を国慶日と定め祝日である。
 この開天節の日に祭事を行う祭壇が江華島にある。江華島は南北の軍時境界線に近い、韓国側の西海に浮かぶ比較的大きい島(南北28キロ、幅15キロ)である。この島で一番高い所が摩尼山(480M)である。頂上に「塹城壇」(チャムソンダン)と呼ばれる祭壇が設けられている。この祭壇において檀君王倹が国を開き、天神を祀る儀式を行ったと伝えられている。
チャムソンダンは 、檀君朝鮮時代から今日に至るまで、綿々と祭事が行われてきた場所で、朝鮮半島に残る最古の祭壇である 。祭壇は長い歴史の中で、補修・改修が繰り返され、現在の形になったようだ。この祭壇のある摩尼山の存在は、檀君が民族の心のよりどころになり、朝鮮民族の聖地であることを示すものであろう。

  
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           摩尼山頂上 天神を祀る祭事行うチャムソンダン

  
この聖地で毎年10月3日、天神に感謝する祭事が執り行われ、摩尼山は参拝者で賑わう。
参拝者の一人として参加した金両基氏は、その時の様子を次のように語る。
 「10月3日の早朝、摩尼山の麓を,祭天儀式に参加する群衆が三々五々、列をなして登ってゆく・・・中老以上の男女は白装束で、孫の手を引きながら登る老女もいた。―もうすぐ、タングンハラボジ(檀君おじいさん)にお会いできるよー老女は頂上を指さしながら孫の手を引いてゆく。ハラボジと呼ぶほど檀君は身近に生きつづけていた.檀君は国父であるからハラボジと呼ばれているが、そこにはハヌ二ㇺ(天帝・天空神)を超えた親しみの情がこもっている。(『物語 韓国史』中公新書)
 開天節の日、摩尼山に登る老若男女の姿が目に浮かぶようである。
  

  マニ山
            霊山 江華島摩尼山  ネットより引用

 もともと開天節は旧暦であったが、1949年に太陽暦の10月3日を国慶日として定められ、檀君朝鮮の創建を祝うようになった。
 南北朝鮮が平和統一して、国内の人々と共に、海外のコリアンもこの日を祝うことができたらどんなに素晴らしいことであろうか!  つづく
2016.01.31 高麗の里39
          檀君朝鮮=古朝鮮

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         「在日白衣民族の聖地」 檀君王倹像 聖天院内 

 檀君王倹(タングンワンゴン)が初めてピョンヤンに都を置き、国号を朝鮮と名づけた。その国が檀君朝鮮であり、古朝鮮とも呼ばれる。
 檀君王倹の名は、朝鮮民族の歴史上、建国の祖として最初に登場する人物である。そのため、南・北朝鮮ではほとんどの人がよく知っている。しかし、日本では馴染みがないため檀君の名を知る人は少ない。
 2000年、檀君王倹の石像が「高麗の里」・聖天院勝楽寺(埼玉県日高市)に立てられた。檀君像は日本で初めてであろう。
聖天院勝楽寺域内の奥側に「在日白衣民族の聖地」が設けられていることは、すでに筆者が「高麗の里35」で紹介した。 
 この聖地を見守るかのように山側の斜面に五人(檀君王倹、武烈王、王仁博士、鄭夢周、申師任堂)の石像が立っている、最上段の石像が檀君王倹である。
 
 檀君朝鮮に関する記録は、高麗時代末期、高僧・一然(1206~1289)によって編まれた『三国遺事』の中に記されている。その要旨は、
 「昔、天帝桓因の子桓雄が熊女と結婚し、檀君王儉が生まれた。中国の帝王唐高=堯が即位して50年の庚寅に檀君が朝鮮を建国し平壌に都を置いた、のちに阿斯達に遷都し、1500年間朝鮮をおさめた。箕子が朝鮮に封じられたので、檀君は隠棲して阿斯達の山神になった」

 この説話について南・北の学会では、 事実とは考えられない部分も含まれているが、内容の大筋は連錦として民衆の間に伝承された物語であり、何らかの意味で国家形成の動きを反映したものと理解している。
 また、遺跡・遺物の発見・発掘調査 によって説話は、古代国家誕生の歴史的事実を反映したものであると結論している。

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        檀君朝鮮・古朝鮮の勢力範囲 韓国高校歴史教科書より

 学会の結論に基づいて韓国の高等学校歴史教科書では、「最も早く国家として発展したのが古朝鮮であった。古朝鮮は檀君王倹によって建国されたという(BC2333)。檀君王倹は当時の支配者の称号であった。」
 そして、「古朝鮮は遼嶺(現中国東北)地方を中心に成長し、次第に隣接した君長社会を統合して、韓半島まで発展したとみられるが、このような事実は出土した琵琶型銅鐸の分布にとって知ることができる。古朝鮮の勢力範囲は、青銅器時代を特徴ずける遺物の一つである琵琶縣銅鐸が出た地域とほとんどいっちしている」と記述している。


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           檀君王倹、  韓国高校歴史教科書より

 教科書では、檀君は実在した人物に等しい扱いで記述されているが,確証はない。あくまでも神話・伝説上の人物である。
 ところが、20世紀末の1993年、朝鮮民主主義人民共和国社会科学院は平壌市郊外、江東郡江東村の檀君陵発掘趙査を行い、二体の遺骨と多数の遺物を発見した、その遺骨を科学的に測定した結果、「一つの遺体は檀君王倹であり、もう一つは檀君の妃の遺体であると断定した。そして、これまでは檀君王倹は神話伝説上の人物にすぎなかったが、これからは歴史上に実在した人物となった」と発表した。
 この発表にたいし、韓国では民族史上の大発見と歓迎する一方、疑問をもつ考古学、歴史学研究者もいるようである。
  南・北の歴史研究者・専門家がピョンヤンの檀君陵発掘現場に一堂に集まり、シンポジュウムでも開けばハッキリ結論が導きだせると思われるが、国が分断されているため、同じ民族の歴史問題でも共同研究・学術交流すら出来ない状態にある。なんともはがゆい現実である。つづく、
2016.01.30 高麗の里38
       「在日白衣民族の聖地」

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      聖天院勝楽寺 本堂前左側 枝垂桜 河正雄さん植樹

 2000年11月3日、聖天院勝楽寺本堂の竣工の落慶開眼法要を祈念して、在日韓民族無縁之霊除幕、開眼法要の式典が厳かに行われた。式典において、在日同胞二世のハ・ジョンウン(河正雄)さんが感動的な式辞を述べられた。長文であるため前半部分を紹介する。
 「振り返りますと 20世紀は韓日、朝日、両民族の歴史に於いて、まさに激動の時代でした。在日同胞百年の歩みはまさにその象徴であります。この百年の間に、祖国を離れた遠い異国の地で、望郷の思いを噛みしめながら痛恨の生涯を終えられた人々はどれほどの数になるでしょうか。いたずらな経済的繁栄の中で過去を忘れ、歴史の事実が埋没せぬように異国に果てた犠牲者の無念を慰安せんが為に、数年前、ここ聖天院本堂建立を記念して埼玉県居住の在日一世ユン・ピョンド氏が発願し、聖天院寺域の奥山に、在日韓民族無縁之霊碑並びに納骨堂と慰霊塔を建立されました。
 民族の統一を願い、民団、朝総連の垣根を越え20世紀の時代、歴史の中で犠牲になられた在日同胞の御霊と渡来人の御霊が安眠出来るように供養したいという願いからであります。
 植民地時代と戦後、そして今日に至るまで我が同胞は家業に精励し、子弟を養育しあらゆる苦難を乗り越えて祖国や日本の発展に大きく寄与貢献してきました。人間らしく生きるために人権を守り人格を高めてきた在日のヒューマニズム魂は誇り高く崇高で健全である発露であります。

 この慰霊祭が心ある方々の尊い浄財によって開かれますことはひとえに聖天院様を始めとする、関係各位の皆様がそれぞれの立場を乗り越え真の平和と友好を願い、心を一つにしたことの賜物と思います。
 1250年の縁起をもつ、高句麗王若光を祀る聖天院本堂建立落慶法要の記念すべき節目の日に過去の不
幸な歴史を風化させることなく、21世紀を担う世代へと伝えていくことは我々に課せられた、大きな使命であり勤めであります・・」

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     高麗の里開拓の父 高麗王若光が眠る墓  聖天院入り口付近
   
「白衣民族の聖地」が、渡来人ゆかりの「高麗の里」に誕生したことは意義深いことである。
 故郷を離れ異国の地で犠牲となり、遺骨になってからも放置されたままおかれた在日同胞一世たちの無念を癒し、その御霊に、この地を築いた高麗の人々と共に永遠の安眠供養される聖地が与えられたのである。
 「白衣民族の聖地」は、無縁仏の存在を知る在日同胞はもちろん、心ある日本人もまた、胸のつかえがとれるようなホッとした気持ち、心安らかにしてくれる場所になるであろう。

 しかし、河正雄さんが式辞で述べているように、「在日白衣民族の聖地」建立を契機に、不幸な歴史を風化させることなく次世代にしっかり伝えていくことが大事なことである。
 21世紀もすでに15年が過ぎ、祖国はいまだ南北に分断されたままである。生まれ育った故郷を知る在日同胞一世のその殆どは世を去り、日本生まれ、日本育ちの3世、4世、5世が在日同胞社会の主流を占めるようになった。彼らの中にはなぜ日本に在住しているのか?祖父母がどうして故郷を離れて日本に渡来してきたか?自らのルーツさえ知らずに成人している人が増えるている。

 
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          高麗の里の風景  聖天院本堂前より撮影 
    
  筆者は高麗郡建郡1300年記念を迎え、「高麗の里」の歴史とともに、ユン・ピョンドさんやハ・ジョンウンさんを始め「在日同胞篤信者たち真心」によって 高麗王若光が眠る聖天院寺域内に「在日同胞白衣民族の聖地」が建立されていることを、広範囲な在日同胞社会に広報しなければと痛感している。つづく
2016.01.26 高麗の里37
         「在日白衣民族の聖地」 3

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      聖天院本堂全景  澤田政廣作  釈迦如来像が安置されている  

 ハ・ジョンウン(河正雄)さんは、ユン・ピョンド(尹炳道)さん に協力して、「在日白衣民族の聖地」建立に貢献した在日同胞二世である。
 ハさんは大阪布施市(現東大阪市)生まれ、布施朝鮮学校に入学、小学2年のとき秋田県仙北市に移住,生保内小学校に転校、生保内中学校を経て、秋田工業高校を卒業する。日本生まれ、日本育ちの在日同胞ある。、
 ハさんは、在日同胞の立場から、日本と韓国を往来し、両国の友好・親善のために活躍、文化交流に貢献している。彼の活動の内容については自身のホームページか、著書「韓国と日本 二つの祖国に生きる」(2002年明石書房)をよんで欲しい。
 この記事では、ハさんが聖天院と「在日白衣民族の聖地」の建立に如何に貢献したか、具体例をいくつか挙げてみる。

 1998年7月、釈迦如来像がハさんの家から聖天院本堂に納められ、安置された。この釈迦如来像は澤田政廣氏(文化勲章受章)の最後の作品である。1982年、ハさんは澤田氏を訪ね、釈迦如来像の制作を依頼したのであるが、88歳の高齢であったため約束できないと断られるが、「20世紀の時代に日本国内で不幸にして亡くなられた、我々の先輩や先祖の慰めるための仏像を彫って欲しい]というハさんの熱意にほだされ、承諾制作されたものである。その3年後の1985年、像が引き渡されるとき澤田氏は、「これが私の最後の作品になるかもしれないね」と言われた。その3年後の1988年93歳で旅立たれた。
 ハさんは「この像には先生の全霊が込められているのだと思い、感謝の念を強くした。」と書いている。

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             在日韓民族慰霊塔・慰霊碑

 ハさんはまた、自宅の庭に置かれてあった「羊の石像」2像を「在日白衣民族の聖地」の誕生にあわせて、 慰霊碑前と高麗王廟前に配置した。この「羊の石像」は、新羅時代(BC1世紀~AD10世紀)に造られたもので、ハさんが1980年代初め、たまたま京都平安神宮前の美術商で見つけ手に入れたものであった、「羊の石像」はもともと朝鮮の高貴な人の墓の守り神として安置されいたが、植民地時代の朝鮮から日本に持ち出されたものであるらしい。、
 ハさんは、「韓国の風波の歴史の証人である「羊の石像」は韓民族無縁の霊碑を守護することになったことは、本来の役目を担うために収まる場所に収まったのではないかと」、胸をなでおろしている。
 
 ハさんはまた、秋田県角館の枝垂桜5本を、少年時代過ごした母校の先輩の好意を受けて送ってもらい、在日韓民族慰霊塔・慰霊碑の両側、聖天院新本堂前、高麗王廟前に記念植樹した。秋田県角館の枝垂桜は国の天然記念物に指定されている。江戸時代から庶民に親しまれてきた桜であるらしいが、筆者はまだ見たことがない。満開の頃に撮影して、ブログに掲載したいと思っている。
 在日韓民族慰霊塔の下に設けられた納骨堂の壁面に、五大陸の平和を祈る「祈願の形象ー平和の使者・鳩」と題するブロンズの浮き彫りにが造られている。韓国韓南大学教授・パク・ピョンヒの作品で、この地に設置した理由をハさんは「海峡を越えて魂だけでも自由に往来し、羽を休めて欲しいという念願からであり、未来の春をしのび慰霊のよすがになることを祈願するためである。」と述べ、、同じ作品が秋田県田沢湖町田沢寺の朝鮮人無縁仏を慰霊する「よい心の碑」壁面と韓国光州市立美術館の壁面にも設置されているという。

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       聖典院勝楽寺山門と門前に広がる高麗の風景 本堂前から撮影

 ハさんが貢献した一つ一つは、由緒ある聖天院に相応しいものであり、金や物質的な価値では計れない真心がこもっている。この真心が、無援仏を供養する「在日白衣民族の聖地」の建立へとつながっていったのだろう。筆者はユンさんやハさんの真心に共鳴するとともに、限りない感動をおぼえている。つづく
2016.01.21 高麗の里36
       [在日白衣民族の聖地]  2

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        在日韓民族慰霊塔・慰霊碑・八角亭休息所

 ユン・ピョンド(尹炳道)さんは秩父長瀞で農園業を営む在日同胞一世である。
 ユンさんが、「在日白衣民族の聖地」建立の発願から最後の完成まで貢献した人で、「聖地」建立の第一の功労者であった。
 もちろん、このような大事業はユンさん一人で出来るものではない、聖天院の住職はじめ寺院関係者の積極的な支持協力を得なければならないし、推進に当たってはいろいろの分野の支援協力が必要であっただろう。特に巨額を要する資金の問題では、小さな浄財だけではとても、間に合う話ではない。巨額の資金負担する篤信者たちが必要であることは言を待たない。
 あえて、筆者がユン・ピョンドさんを「在日白衣民族の聖地」建立の第一の功労者に上げるのは、ユンさんが最初にこの大事業を発願し、先頭に立ってその事業を推進し、基礎工事から完成まで莫大な費用の大部分を負担したと思われるからである。
 ユンさんはかねてから、関東大震災や第二次世界大戦で犠牲となり、全国各地の散らばっている同胞の無縁仏を弔いたいと願っていた。
 彼はある日、その願いを聖天院の第50世住職横田辨明さんに相談したのであった。
横田住職はその日をふり返り、次のように語った。
 「平成七年(1995年 )のある日、二〇数年来交誼のある尹炳道さんが来山したおり、終戦までの数十年間にたくさんの無縁仏が日本のあちこちに散在し、誰も訪れる者もない。何とかこの地に葬り供養したいとの、戦争中全く日本人と同じ気持ちで過ごし終戦を迎えた在日の尹氏の言葉に感銘を受け、早速,総代にことの次第を報告、役所のあちこちを奔走し、尹氏の心が形となって実現しました。心が形と成り、形は人々の心に映じ、心によってこれを支えていくものです。形なき世界に心を寄せ、今後一層確かなものとなることを念じています。遥かなる古の先祖、同胞を祀る異国の地に、心ある同胞が静かに冥福を祈る時、生きている我々の心が通じ合い、安らかな世界が展開するのではないでしょうか」(河正雄著『日本と韓国二つの祖国に生きる』) 
 
       
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           在日韓民族慰霊塔の前に立つ無縁之霊碑
 
 ユン・ピョンドさんは、、なぜこの事業を思い立ったかについて自身の熱い思いを、協力を依頼した美術コレクター河正雄さんに 次のように語った。
在日韓民族慰霊塔と慰霊碑は、民族統一を願い、日本国内における民団や朝鮮総連の垣根を超え、関東大震災、第2次大戦で犠牲となった同胞の御霊と、渡来人の御霊が安眠できるように供養したい、との願いを込めて発願しました。
 私が高麗の地に「白衣民族の聖地」をつくろうと思い立ったのは、李方子女史が聖天院を訪れた二十数年前に遡ります。李女史は私を前に「自分が死ねば高麗若光の隣に骨を埋めたい」と語った。李女史の願いは叶えられなかったが、それ以来「朝鮮人、韓国人の全てのお骨を拾ってあげよう」という気持ちに傾いていったのです。
 まず思い浮かんだのが、関東大震災で犠牲になった同胞の霊、東京・目黒の祐天寺に保管されたまま、引き取り手のない第2次大戦当時の同胞軍人・軍属の遺骨、いずれは、全国に散らばる引き取り手のないまま放置されている無縁仏を、安置したいのです。
 白衣民族の聖地にすれば、朝鮮人でも韓国人も区別なく、いろんな人が好きなときに来て線香を手向けられるとおもう。完成したら10月3日の開天節に合わせ法要をしていきたいとおもいます。6・25動乱(朝鮮戦争)の最中、何の罪もない同族が死んでいくのを目のあたりにしたので、「白衣民族の聖地」には南北の平和統一を願う気持ちもこめました
、、」(同上書)

 実際に河さんが協力するため聖天院に訪れてみると、
「懐かしい山門をくぐり登ったところに、「2000年竣工」と書いた新本堂建立計画の掲示板があった。本堂の裏山では、新本堂建立のための敷地の土木工事がなされており、ブルドーザーが山を削っていた。ユンさんの言う朝鮮人慰霊碑の建立のための敷地は、さらに奥まったところにあり、山を削り立木を払って造成ししており、一大土木工事が進行していた。あまりの大規模事業にで、予算も数億と聞いて度肝を抜かれてしまった。その事業費は在日事業家らの篤志で賄うので心配はない、とユンさんは言うが、少し不安もあった。」(同上書)と、その当時の状況を語っている。

 ユンさんは、聖天院新本堂の建設基礎工事と合わせ、慰霊塔と慰霊碑、納骨堂などの工事を無償で請け負ったのであった。ユンさんのこの大事業にかける情熱と工事進行の陣頭指揮する行動力、そして横田住職と河さんの惜しみない積極的な協力のもとに「聖地」の建立工事は着々と推し進められた。
 
2000年11月、高麗の里(埼玉県日高市)・聖天院勝楽寺の寺域内に在日韓民族慰霊塔と無縁之霊碑及び納骨堂が完成し、「在日白衣民族の聖地がの誕生した。
  完成を祝う式典までに、まず「三井・三菱美唄炭鉱朝鮮人死亡者名簿」(537人分)など4310人分の過去帳が納骨堂に奉納された。納骨堂は慰霊塔の下に設けられ、名前と生年月日の判明している遺骨と無縁仏の安置所である。70万柱以上の遺骨が納めることができ、遺骨がなくとも、納骨堂の裏には埋葬場所の土を納められる穴が掘られている。

 2000年11月3日、聖天院勝楽寺新本土竣工の落慶開眼法要を祈念して在日韓民族慰霊塔・慰霊碑除幕式が厳かに行われた、この日ユンさんは
 「人知れず全国のお寺に安置されている在日同胞の遺骨を1カ所に収め、白衣民族の聖地にして在日韓国人が1人でも2人でもお参りできるようにしたかった。7年前の想いがようやくかなった」(民団新聞)
と喜びをかくさなかった。念願がかなったユンさんの万感の思いが伝わってくる。 つづく

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    聖天院鐘楼 在日白衣民族の聖地への入り口
 
 
2016.01.15 高麗の里35
          「在日白衣民族の聖地」 1

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          白衣民族の聖地 在日韓民族慰霊塔・慰霊碑 

 高麗山聖天院勝楽寺本堂前に立つと左に高麗若光王の石像が見える、鐘楼に登る階段を上り若光王石像の横を通り抜けて丘に立つと、前方に聳える石塔が見える、石塔に向かって舗装された山の斜面の道を進むと石塔のある広場に出る。そこが「白衣民族の聖地」である。   
  
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        聖天院奥側の丘から白衣民族の聖地を一望する
  
 36段の慰霊塔と慰霊碑を正面に右側、山の斜面に歴史上の人物五体の石像が配置されいる。左側に八角亭の休息所が設けられている、その片隅に「白衣民族の聖地」の小さな看板がかけられている

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              「在日白衣民族の聖地」の看板

   看板の内容は「ここは日本国土の中心地で、今からおよそ1300年前、若光王一行が風水孝(現韓国風水学)上、最高の地と定めた。山林を切り開き、ここを居住地にさだめ巾着田(埼玉県重要文化財)を造成し、武蔵野一帯に稲作を普及した。 檀記4332年10月3日
 白衣民族は朝鮮半島の出身者、つまり朝鮮民族・韓民族であることはすでに周知していることであるがが、この内容だけでは  なぜ「白衣民族の聖地」をこの地に造るようになったのか、筆者には理解出来ない。
いったい、この「聖地」を造ることを考え出し、誰が推進し、資金は?
 戦前・戦中から無援仏となっている朝鮮人の遺骨が全国に無数にあると云われて久しい。在日朝鮮人の 遺骨を収集して、その霊を慰める慰霊塔・慰霊碑を建てることは崇高な事業に違いないが、現実的には簡単なことではない。また、このような施設を造ることに摩擦はなかったのだろうか?


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         慰霊塔の右側、五体の歴史上の人物石像

  
 いろいろな疑問を抱き、広場の四方を眺めていると慰霊塔から離れた広場の隅に大きな看板、「慰霊塔・聖天院開基の歴史」 が立っていた。
 書かれている内容の前半部分は聖天院の由来が、後半部分に慰霊塔・慰霊碑のことが、次のように [ ,,,この由緒ある聖天の山腹にそびえ立つ慰霊塔は第2次大戦の不幸な歴史の中で亡くなられた沢山の無縁の同胞達に昔渡来した高句麗の同胞たちと共に永遠の安眠を与え供養したいと願う在日同胞篤信者の真心より建立されました。塔は日本と朝鮮の関係36年間を象徴する36段階で高さ16M,石塔としては日本最大、下部に納骨堂が備わっています、、」と書かれていた。
 筆者はここに書かれた「在日同胞篤信者達の真心によって建立された」の部分がやけに気になった。「在日同胞篤信者」とは、一体誰なのか、複数の人たちがいるのか? 戦後、半世紀が過ぎても全国に散らばっている無縁仏、心を痛める人はいるが、どうすることもできずに放置されたままの遺骨、その霊を供養するこれだけの大規模な施設を整えるためには、巨額の浄財を注がなければならない。その浄財を投じた奇特な人たちとは如何なる人たちか?

  
 「白衣民族の聖地」からの帰り道、聖天院の受付に立ち寄って聞いてみたが、よく知る住職は忙しいとのことで会えなかった。 家に帰ってネットで調べて見ると、高麗山聖天院勝楽寺本堂落慶法要式典で在日同胞2世の河正雄さんが式辞を述べたことがわかった。
 そして、その河さんが「日本と韓国二つの祖国に生きる」を出版し、その著書の項目「高麗王と眠る」の中に、「白衣民族の聖地」が建立されるまでの経緯が詳しく書かれていた。
「白衣民族の聖地」を最初に発願したのは秩父に居住する在日同胞一世の尹炳道さんであった、つづく

 
2016.01.13 高麗の里34
          高麗神社初詣

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           高麗神社 新しく改築された 本殿
  
 
 今年は武蔵国に高麗郡が置かれて、いよいよ1300年を迎える記念の年である。
 昨年の正月から始めた筆者の連載記事「高麗の里」も、記念日に当たる5月16日に向けて締めくくる時期がきたようである。

「高麗神社の御祭神高麗王若光は高句麗(高麗)からの渡来人です。霊亀二年(716)五月一六日、武蔵国に高麗郡が置かれ、若光は渡来人の高い技術力でこの地を開拓しました。その遺徳を偲びつくられた霊廟が、高麗神社のはじまりで、代々若光の子孫が宮司を努め、現代で六〇代目となります『日本書記』『続日本記』『高麗氏系図』より」(高麗神社発行パンフ)

 2016年元旦、筆者はブログ記事「今日の富士山」を 掲載後、中学生になる孫を連れて高麗の里・高麗神社に初詣に出かけた。去年の経験から玉川上水ー拝島ー高麗川ルートで所要時間1時間あまりであった。
 正午頃、高麗神社前に着いて見ると、すでに参拝客が長蛇の列をなしていた。例年より参拝者が多いようだった。徐々に進むこと約30分、社殿前にたどりつき見上げると改築された本殿が輝いていた。
    

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     聖天院勝楽寺域内 在日韓民族無縁仏慰霊塔  

 高麗神社で初詣でを終え、高麗王若光の墓がある聖天院勝楽寺を訪れた。さらに本堂の奥側にある「在日韓民族無縁仏慰霊塔・慰霊碑」まで足をのばし,ここに眠る霊の冥福を祈り黙とうした。
この「在日韓民族慰霊塔・慰霊碑」については改めて記事して掲載したいと思っている。
       

     「高麗鍋」の味は?

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       高麗神社前に立つ魔除けトーテム 

  参拝を終えるまで無口であった孫たちが、がぜん元気になったのは食べ物の屋台が並ぶ場所に戻ったときであった。なかでも他所では見られない朝鮮・韓国風「チジミ」と「トツポギ」を口にしたときは孫よりも筆者が夢中になって食べた。そのため、写真を撮ることをすっかり忘れ、「チジミ」、「トツポギ」を画像で紹介できなくなった。残念な思いでこの記事をかいている。

 食べ物の話のついでに「高麗鍋」のことを紹介する。なんでも地元日高市・「高麗の里」の食材を使って、韓国の食文化と日本の食文化を融合して作られた鍋料理であるらしい。高麗郡建郡1300年に合わせて何年か前から地元で開発が進められ、日高市では既に郷土料理として普及しているようである。数種類の高麗鍋があり、値段も手頃だというから庶民的な鍋料理かと思われる。<

  
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       高麗神社境内で高麗鍋祭り 案内チラシ

  来月2月7日(日)に「開運高麗鍋祭り」が 開かれるチラシ読み、紹介を兼ねて、この機会に、いまだ食していない筆者は、この祭りに参加して高麗鍋を味わってみたいと思っている。
     明けましておめでとうございます

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      2016年 元旦  7時30分    玉川上水付近から撮影
 
 昨年は週一回以上の記事の更新を行うことができました、
 皆様方のご支援に感謝しておます。
 今年は一層のスキルアップと記事の内容充実に励み、
 「富士山と夕日と雲」、
 「高麗の里」、
 「玉川上水散歩」などシリーズ記事と
 「日朝文化交流史」に関する記事を発信してまいります。
 東大和市民ネットクラブの仲間の皆様方、
 私のブログご愛顧の皆様方 本年も変わらぬ
 ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げします。
        2016年1月1日