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          富士山と夕日と雲5 

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     噴火した富士山から溶岩が流れ出した、上空の雲は熱波により燃えていた、
  
     はたしてこれからどうなってゆくだろうか? 
   
     富士山が噴火せずに、いつもこのような光景だけを見せて欲しいものだが、

   
     IMG_0434.jpg

         覆うっていた雲にポッカリ大穴が空き光が漏れ出した、
  
         ユーホーでも下りて来るのか?

         と思ったが、何事もなかった、
  
         ともかく、不思議な光景だった。

    
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        沈む夕陽に向かって集まった雲たちが呼びかける。
    
       「夕陽さん、夕陽さん、毎日決まった時間に家に帰るようだが、
        たまには我々と一緒に遊んで行ったら、夜遊びは楽しいよ」

    「私は雲さのように自由にできないよ、私が少しでも夜遊びすると地球が滅びるよ」

      「そんな大袈裟な」

      「雲たちは地球を守る私の立場を、何にもわかっちゃーいない、
      説明する時間がない、バイバイ」


          富士山と夕日と雲4 
    
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       晴天の朝の富士山は、いつもすがすがしい気分にしてくれる。

       今日も一日元気で頑張れよと励ましてくれているようだ!

   
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     空を覆っていた雲が赤く染まりだし、次第に地球を燃え尽すかのように

     大空全体が真っ赤にもえ出した。この世の終わりかと思わせる恐ろしい光景だった。

     富士山だけが悠然と構えていた。


    IMG_0684.jpg

       夕日と雲は、いつも不思議な光景を創りだす。

       この日もこのような風景を創り筆者の撮影を楽しませてくれた。

           富士山と夕日と雲3   

   PC100242.jpg

     
    夕日に輝く白金色の雲に照らされて雪崩が発生か? と

    思いきや、よく見ると富士山が雲のふとんをかぶっている姿だった。

    上空の赤く染まった雲は色や形を変えながら富士山を優しく眺めていた、

  
   IMG_0787.jpg

     まだ高い位置にある太陽が、うす雲に覆われたために

     淡い炎を発して幻想的な宇宙世界を創り出した、

   
   IMG_0584.jpg

     夕陽はまさに沈まんとしているが、

     上空の雲のすき間から光が漏れだした不思議な光景だ、
       富士山と夕日と雲2
 
 筆者は玉川上水駅前の高層アパートに住んでいる。太陽が昇る東側は、

 やはり高層アパートが立ち並び視界を塞いでいるため、日の出は見られない。

 しかし、西側はモノレールを挟んで、広大な墓地と学校群があり、

 高層建築物がないため視界が大きく広がっている。

 そのため、晴天の日は富士山をはじめ、その北側の奥多摩の山並み、

 南側の丹沢の山並みが非常に良く見える。

 夕陽が西の山にかかるころ、雨、曇り以外の日は、

 雲の動きによって千差万別に変化し、いろいろな風景を見せてくれる。

 筆者が撮ったいろいろな風景の中から今日も3枚を選びお見せしたい。

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          素顔もよいが背景のある富士山はもっと美しいい

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        雲の中から顔を出した夕日は奥多摩の山々を照らしだした

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          夕陽が沈むと一斉に奇怪な集団だ飛び出した

 筆者はこのような風景が眺められ所に住み、

 また、この様な光景をそのまま発信できることに幸せを感じている。



        富士山と夕日と雲1

  テンプレートを「日朝文化交流史」変更して3ヶ月が過ぎた。

 その後、これまでに「平安京遷都と渡来人」と「奈良大仏造立と渡来人」の

 2編の長文の記事を連載した、

 その間、何人かの友人、仲間から以前の富士山や夕日、雲の美しい画像は

  もう出さないのかと問われた。その返事に困っていたのである。

  013.jpg
            ブログを始めた頃撮った富士山

   最近、 筆者は拙文を長々書きつづけたためか少々疲れて、これからしばらくの間、

  休もうかなと思っていたが、友人や仲間の問いに答えるために

  ちょうど良い機会ととらえて、 しばらく「富士山と夕日と雲」の画像を中心にした

 「玉川上水駅周辺の風景」の 記事なら休まなくとも書けると思うようになった。

  駅前の高層アパートから、2年間撮りつづけた写真はかなりの数にのぼる。

  今まで、これはと思える画像は全て公開したが、筆者が何回見ても

 「 いいなあー」(自画自賛)と思える画像をを選んで再度掲載したい、

  また、 最近撮った未公開の写真と合わせて3枚を掲載する、

    IMG_0357.jpg
            沈む夕陽に傘を被せた雲の不思議な光景

    P1150480.jpg
              真っ赤な夕日の大空に会長現る

  久しぶりに「玉川上水駅周辺の風景」の記事をかいて、画像を整理していると

  ブログを始めた頃のオロオロしていた自分を思いだして一人苦笑いする、
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  奈良盆地
            奈良盆地(大和平野)    竜王山城から市街を望む                 

            はじめに

 大仏といえば誰もが奈良の大仏か鎌倉の大仏を思いうかべ、

 そして奈良大仏がより大きいことも知っている。奈良東大寺大仏は、

 像高約16m、顔の長さ3・2m、頭部の螺髪(パンチパーマ)は約1千個あり、

 その一つ一つが人間の頭より大きく、銅約500トン(10円玉約1億枚)、

 錬金400キロを使用したといわれる。当時の人口推定550万人の半数にあたる

 延べ260万人が動員され、約8年の歳月をかけて完成した仏像である。

 銅製の仏像としては世界一大きく、大仏を納めている大仏殿も

 木造建築物としては世界最大級である。
 
 巨大な仏像の正式名は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と云い、

 サンスクリット語で「ブイローチャナ」と呼ばれ、その発音を音写して盧舎那仏と云う。

 盧舎那仏とは「華厳経」の教えで「光明があまねく照らす」、

仏の光明が宇宙全体に行きわたり、その救おうとする心は太陽の光のように

 輝くという意味で、大きな仏像を造ることはそれだけ信仰心があつく、

 ご利益も大きいと考えられた。

 結跏趺坐(けっかふざ)する蓮華の台座には、釈迦を中心に菩薩群、

 九山八海四洲などを表す須弥山(しゃみせん)などの絵が線刻で描かれ

 蓮華蔵世界・極楽浄土が表現されている。

だいぶつ6
              盧舎那大仏坐像 (奈良大仏)       

大仏5
             東大寺大仏殿 (江戸時代再建)      国宝建造物


 1300年の昔、なぜこのような巨大な仏像を造立するようになったのか? 

 誰が発願し、協力・推進者は誰か? いかなる技術者集団が加わり、

 莫大な財政負担はどのようにまかなわれたのか? 

 等々の疑問にたいして、知っているようで知らないことが多く、筆者もその一人であった。

 奈良という呼び名が、「国」、「都」を意味するハングル(朝鮮語・韓国語)の

 나라(ナラ)に漢字の「奈」、「良」を当てたものである。

 その漢字は5世紀初、百済から渡来した王仁によって日本に伝えられた。

 同時期に仏教をはじめ紙や墨をつくる技術、機織、寺院の建築、堤防の築造・

 治水灌漑の土木技術等、天平文化(白鳳・天平)そのものが

 朝鮮半島からの渡来人とその子孫たちによって造られたものが多い。

 日本民芸運動の先駆者である柳宗悦は朝鮮が日本の植民地であった時代に

 「日本古代の芸術作品は朝鮮の影響をうけたものであり・・・

 日本が国宝として世界に誇る殆ど凡ては、実に朝鮮民族によって作られたのではないか
」 

 (『朝鮮の美術』1922年)と叙述した。

 天平文化の象徴である大仏造立という大事業もまた、僧行基をはじめ朝鮮半島からの

 渡来人とその後裔・子孫たちが大きな役割を果たした。

 奈良大仏造立の過程について浅学を顧みず記してみたい。

大仏1
              東大寺 大仏殿屋根      二月堂とり撮影




       岡寺から飛鳥
          古代ロマンの里 飛鳥       岡寺から撮影

1、 仏教の伝来
 
 日本に仏教が伝来(公伝)したのは、元興寺(飛鳥寺)縁起によると538年

 (『日本書記』では552年)、百済の聖明王から欽明天皇に金銅の釈迦如来像と経典

 仏具が贈られ、7人の僧が渡来したことから始まるとされている。

 飛鳥地方にすでに根付いていた百済系渡来人、東漢(やまとのあや)氏一族の支援を得て

、急速にその勢力をのばした蘇我氏はいち早く仏教を受け入れていた。

 欽明天皇自身は日本古来の神を祀る司祭者であるため受け入れに慎重であった。

 百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し意見を聞いた。

 「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」
 
 これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。

 日本だけこれに背くことができましょうか
」と受容を勧めた。

 この意見に対し武門氏族の物部尾輿は「我が国の王の天下のもとには、

 天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう

 恐れがあります
」と反対した。そして、崇仏・廃仏論争がまき起こり、

 意見が二つに分れたため欽明天皇は仏教への帰依を断念し蘇我稲目に仏像を授けた。

 稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。

 その後、疫病が流行ると、尾輿らは外国から来た神(仏)を拝んだので、

 国津神の怒りを買ったのだとして、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。

 こうして仏教の可否を巡る論争は争いに発展し、次世代までつづいた。

 物部尾輿の子・守屋は 破仏活動を活発化させたため、蘇我稲目子・馬子と 

 ついに、587年、蘇我・物部の雌雄を決する全面戦争となった。

 多くの皇族や豪族を味方につけた 蘇我馬子が勝利した。

 この戦いには厩戸皇子(聖徳太子)が馬子側に参戦していた。

 勝利した蘇我馬子は百済から僧令照をはじめ寺工(建築技師)、瓦博士、彫刻家等の

 集団を招き、593年に日本で最初の本格寺院・飛鳥寺(法興寺・元興寺)を建立した。

    飛鳥寺
                   飛鳥寺

 また、この寺院の本尊である「飛鳥大仏」(釈迦如来坐像・金銅製・像高約5m)を鋳造した。
 
 この大仏は、百済から渡来した止利仏師(鞍作鳥)によって造立された、

  飛鳥大仏
         飛鳥大仏   釈迦如来像(銅製)   止利仏師昨
 
 飛鳥寺の伽藍配置は、塔を中心として東・西・北の三方の金堂が建つというもので

 東西200m、南北300m、法隆寺の3倍もある雄大な境内を有していた。

 日本最古の本格寺院であった。現在発掘調査が続けられている。

  遺跡
   593年建立、平城京遷都時に移転、現在の元興寺(奈良市内)  
 
 推古天皇の摂政となった聖徳太子(574~622)は百済僧の恵聡と高句麗僧の恵慈を

 師として仏教を学んだ。彼は政治を革新するための基調として仏教を採用し

、仏像をつくらせ寺を建てることを奨励した。自らも父・用明天皇のために法隆寺を建立した。

  法隆寺
       日本最古の木造建築    世界文化遺産

 こうして飛鳥地方は6世紀末から7世紀にかけて仏教の中心地、

 渡来(高句麗・百済・新羅)文化の情緒が漂う都となった。

    22   33
          法隆寺五重の塔    幻想的な2景

  山尾幸久は「7世紀前期の大和の飛鳥地方を中心に、

 国際色豊かな仏教文化の花が開いた
」(『蘇我氏と東漢氏』)、

 また、五木寛之は飛鳥の里は「日本のふるさと」といわれる土地でありながら

 「渡来人の里」、「国際色豊かな場所」、「エキゾチックな地域

 (『百寺巡礼』第1巻 奈良)になったと表現している。 
                             つづく

飛鳥の里
  現在の飛鳥寺周辺の風景

   生駒
     生駒山            行基 山中にある竹林寺に眠る
             
        聖徳太子と行基
 聖徳太子(574~622)と行基(667~749)、二人は同時代に活動した人ではない。

 太子は仏教を朝廷・支配層に定着させ、行基は弾圧されながらも

 仏教を民間の中に布教した。若干の時代的違いがあるが、

 二人して日本に仏教を根付かせた歴史上の人物である。

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       「行基大僧正」  東京国立博物館造 

 推古天皇(592~627)の摂政となった聖徳太子は百済僧の恵聡と

 高句麗僧の恵慈を師として仏教を学んだ。彼は政治を革新するための基調として

 仏教を採用し、仏像をつくらせ寺を建てることを奨励した、

 また、仏教の精神に基づいて17条憲を制定し、仏教興隆の道をひらき、

 仏教を朝廷や支配層の中に定着させた。しかし、仏教は民衆には無縁であった。

 民衆の中に仏教の布教をはじめたのは行基である。後に民衆から行基菩薩と慕われる。

 梅原猛は「聖徳太子と行基によって日本は仏教の国になった」(『仏になろう』)と語る。

       橘寺
         聖徳太子生誕の地   奈良県高市郡明日香村

 ところが、聖徳太子については教科書に多くのページを割いて扱われ、

 小説、ドラマにもなり日本人であれば、ほとんどの人がその名を知っているが、

 行基については一般的に太子ほどに知られていない。高校の歴史教科書に奈良時代の

 「僧侶の活動は、国家のきびしい統制のためもあって一般的に寺院のなかにかぎられ、

 民間への布教はあまり活発ではなかったが、それでも行基のように、政府の取締りを

 うけながらも農民のための用水施設や交通施設をつくるなど、布教と社会事業に

 つくした僧もあった
」と

 数行触れてはいるが、行基について理解するにはあまりにも不足していると思われる。

 筆者は行基の『墓誌』や『行基辞典』、『行基年譜』など、

 行基に関する本を参考にしながら、行基の出自、学問と修行、寺院建設、農業用水、

 交通施設、社会福祉活動等について簡単に記してみたい。

 また、本題である大仏造立に如何に関わり、

 どのような貢献したかについても微力を尽くして記してみる。
                                  
                                  つづく 

      家原寺
         行基生誕の地  家原寺   堺市西区家原町



    大和葛城山
     大和葛城山  修験道霊場     役小角・行基の山岳修行地


              行基の出自と修行

行基の父は高志才智(こしさいち)、高志氏は書氏・西文(かわちのふみ)氏から別れた一族で、

高石市高師浜にある高石神社一帯に住み、祖の王仁は5世紀初、応神朝のとき

漢字入門書「千字文」と「論語」を携えて百済から渡来し、日本に漢字・学問を普及させ、

当時の朝廷貴族・支配層から「学問の始祖」、「博士」(ふみよみひと)と崇められた人である。

行基はその王仁の後裔・子孫である。

母は蜂田古仁比売(はちだこにひめ)、蜂田氏は百済系渡来人で河内国大鳥郡

一乗山清涼院(堺市)一帯に住み、行基はこの地の家原町で生まれた。

したがって行基が渡来系氏族出身であることは間違いない。(『行基辞典』井上薫)

行基の家庭は貧乏で母は賃金をもらって田植えの下請けの仕事をしていたという。

梅原猛「彼は生まれゆえに、民衆の生活の苦しさをつぶさに知ることができこのような

多くの衆生を救済することができたのであろう
」(『日本仏教をゆく』)と述べて

子供の頃、行基は木をとって堂を建て、泥にて仏を作り、石ころで塔を建て、

 砂の上に仏像を描いて遊んだという。

 行基は15才で出家して元興寺(法興寺・飛鳥寺)に入り、道昭(渡来人船氏出身)を 

 師として 法相宗をはじめ学問・修行に励んだ。師の道昭は唐に留学、

 玄奘三蔵に師事して、法相宗の教学を学び、661年多くの経典をたずさえ帰国、

  法興寺の東南に 禅院を建て弟子を養成した。道昭の弟子となった行基は、

 法相宗を一読して即座にその奥義を理解したといわれ、ている。

 オーバーな表現であるが行基の俊才ぶりを表したものだろう。

 飛鳥の里
     行基が学問・修行した元興寺・飛鳥寺付近 当時の元興寺、平城京に移転

 
 また、道昭は10余年諸国をめぐって井戸を掘り、橋を語り、各地に社会福祉施設の

 設置に努めた。師のこのような事業や活動に行基も参加し実体験したと思われる。
 
 行基がのち民間で布教と社会福祉事業と並行して進めるやり方は

 道昭から学んだものであった。

     元興寺
    平城京に移転した現在の元興寺 重要文化財 奈良市内

キキョウ
元興寺境内   桔梗の名所 シーズンには観光客で賑わう


 元興寺での修行を終えた行基は山岳修行・隠遁の道に入った。

 行基28~37才の10年余、彼は大和葛城山(修験道発祥地)の山中で

 修業に励んだと推測されている。この頃の行基について、墓誌に「苦行精勤」記され、

 「続日本記には「霊異神験は類に触れて多し」と記しているにすぎないが、

 葛城山中で烈しい山岳修行に励み、心身を鍛えたことは

 その後の超人的な活躍から容易に想像される、

 この頃、葛城山の山中では密教呪法に長じ役行者と呼ばれる、

 修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が修行していた。

 『続日本記』に記された、役小角が699年に伊豆に流された時期が、

 行基の山岳修行時代(695~704)が一致することから行基と役小角の二人が

 何らかの接点があった可能性は十分に考えられる。

     大鋒山
       役小角の開基伝承   国宝    吉野郡吉野村吉野山


 修験道者の荒行苦行は記録に一切残さない。行基と役小角の二人が

 葛城山中で会っているとすれば、どんな会話を交わしただろうか?

 想像するだけでもたのしい。
                  つづく     
      
      吉野山
        山岳信仰霊場本山  桜の名所  歴史の 吉野山   

   
 
      狭山池
       狭山池 日本最古の溜池  731年行基改修    平成大改修            
 
            行基の布教と社会事業

 行基が山岳修業を終えて、民衆の前に現れたのは704年(37才)、

 自らの生家を改造して素朴な家原(えばら)寺を開いたときからである。

 その後、行基は民衆と共に生き、民衆と共に働き、民衆のために生涯を捧げた。

       家原寺銅像
           生家 家原寺前の行基像
  
 行基が出家した頃の仏教は国を守る鎮護国家のためにあり、
 
 僧侶の役目は国の繁栄や天皇の健康を祈ることにあった679年の勅で僧は

 「常に寺の内に住み、以て三宝(仏・法・僧)を護る」ことが本務であるとされ、

 寺院外での布教や 諸活動は禁止されていた。朝廷や豪族が平城京の造営と

 同時に大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺などの寺院を建立し、

 仏教を奨励したのはそのためであった。

 しかし、行基は寺院に留まらず外に飛び出して、民衆に語りかけた。

 彼の平易な説法を聞いた民衆は争って行基を慕い礼拝したという。

 行基が民衆から熱烈な支持を受けるようになった、もう一つの理由は、

 抑圧や貧困からの解放を望む民衆のために、井戸を掘り、橋を架けるなど

 池溝活動や社会福祉事業を民衆と一緒になって営んだからであった。

 若僧のころに、師の道昭に従い現場で実体験から優れた土木・建築技術を習得していた

 行基は弟子たちを従え橋や道づくり、池、堤を築く灌漑工事、港湾建設、

 貧苦にあえぐ人々や病人を救う布施屋(租庸調の運搬脚夫や役民を宿泊させ

 食物を与える施設)を各地に設けた。彼は「利他行」(自分のことよりも他人の

 利益や幸福のために行う)を率先して実践したのであった。

 千田稔は行基四十九院をはじめ行基の足跡を検証して次の地図を作成した。

 img052.jpg
      行基が活動したゆかりの地   『天平の僧行基』より引用

 交通手段も機械もない一万三千年以上の昔の奈良時代、

 行基は超人的ともいえる活動して、その業績の痕跡を残した

 彼が741年(天平13)までに河内、和泉、摂津、山城国など畿内に多くの寺院の

 建立したことをはじめ、溜池15、溝6、橋6、布施屋9、船息2、堀4等を

 知識・知識結 (仏と結縁するために田畑、穀物、銭貨、労働力を差し出す信者集団)の

 協力で建造した。 (「行基年譜」)

 行基が建立した寺院は布教活動と社会福祉事業と結合して使われた施設であった。

 たとえば昆陽施院には昆陽池・布施屋および弧(親のない子)、独(子のない親)の

 収容所が結合し対応する寺(今日の福祉施設)であった。

     昆陽寺731
      昆陽寺 地元では「こやでら」 「行基さん」 伊丹市

     昆陽池
           昆陽池 現在伊丹市都市公園 

   s-昆陽池野鳥
     行基が造った昆陽池 今は 野鳥の楽園 白鳥など3,000羽 飛来

 行基の活動状況について『続日本記』(797年)は、

 「早くから都や地方を周遊して、多くの人を教化した。僧侶や俗人が
 
 教化をうけ和尚を慕う者は千人に達することもあった。和尚が来ると聞けば、

 巷の人が争ってやってきて礼拝をした。それらの人々の器量にしたがって導き、

 みなを善に向かわせた。自らも弟子たちを率いて、いろいろな要害のところに
 
 橋をつくり、堤を築いた。その評判を聞いた人がまた、やってきて労働を提供したので


 またたくまに工事は完成した。人民は今に至るまで、その恩恵をこうむっている

 和尚はふしぎな神がかり的なことをいくどとなくした。時の人は行基菩薩と号た


  と記している。

 この様な行基の活動について金達寿は、「これはカッコつきかもしれませんが、

 社会主義的伝道師というか、奈良時代の社会主義者だったわけですね
」と語っている。

 (『日本の渡来文化』) 

 千数百年の昔、社会主義的な思想が行基によって実践されていたのだろうか?。
 
 窮民、病人の救済の途をひらいた行基の活動は、各地にその 痕跡を残している。

 『行基ゆかりの寺院』によれば、全国に1400余カ所が伝承され、そのうち北海道を除く、

 全ての都府県に現在750余の行基開基の寺院が確認されている。

 筆者の住む東京多摩地区に、八王子の高尾山の薬王院、
 
 日野の高幡不動金剛寺、青梅の安楽寺等が行基の開基と伝承されている。

   高幡不動
        高幡不動金剛寺  関東三大不動尊の一つ(成田山、大山)
 
      高尾山薬王院の本尊薬師如来像は行基作と伝えられている。

       行基高尾山
              高尾山薬王院の行基像

        行基には僧侶の最高の地位「大僧正」「高僧」より、
        民衆が崇める“菩薩様”が似合っている。

                           つづく

       薬王院
             薬王院全景       高尾山山頂付近  




    だんじり3
      大阪岸和田 「だんじり祭り」   行基祭  行基への感謝祭
              
            行基祭
 「エーラ、ソーラ」「エーラ、ソーラ」というかけ声と共に勢いよく走りだし、

 直角に方向を転換する「やりまわし」、高い山車の屋根で扇をもった

 二人の若い衆が飛び跳ねる勇壮な迫力ある「だんじり祭り」は、

 ニュースやドラマで見ることがあって、この祭りについては広く知られている。

 しかし、大阪岸和田の「だんじり祭り」の正式名が「行基祭」、「行基まいり」で

 あることを知っている人は少ない。毎年10月、村々から13台の山車が久米田寺に参り、

 「泉州第一の大池・久米田池を竣工させた(天平10年・738年)行基菩薩に対し

 久米田池の水を利用することへの感謝の意と、五穀豊じょうを願って」

 の祭りである。(『岸和田市広報』)

       だんじり
 行基が生まれた和泉は南側に葛城山,三国山が聳える和泉山脈で、

 この山脈を水源とする河川(石津川、槇尾川、堅井川)は全て大阪湾に注ぐ。

 しかし、どの河川も急流であるため直接水を利用することは難しい。

 そのためこの地方での灌漑用水、生活用水を確保するためには溜池を造る必要があった。

 溜池を造るためには灌漑土木工事が必要であった。

 行基は自らその技術を修得していたばかりでなく、行基を慕う信徒の技術集団を持っていた。 

 行基が和泉に土室池、長土池、蒲江池、檜尾池、茨城池、鶴田池、物部田池、

 久米田池の⒏ケ所の溜池を造ったことが確認されている、これらの池によって

 田畑が潤い、住民が生活水として利用したことを思うと、その地域の農民、

 住民の喜び、感激、行基に対する感謝の気持ちは爆発的で、

 まるで「お祭り騒ぎ」のようになったのだろうと想像できる。
 
 久米田池は周囲約4キロ、水面積623万7千平方キロメートルの巨大な溜池である。

 この池の水によって広大な土地が開墾され、水を利用する多くの農民や住民が救われた。

 その時から始まった「お祭り騒ぎ」が今日まで続いている

 「行基参り」、「行基祭」・「だんじり祭り」だろう。

       2だんじり


 金達寿は祭りのあった当日、地元で現地取材した。

 これは何のお祭りですか

 「行基さんまいり言うてな、偉いお坊さんだった行基さんのお祭りですじゃ

 「ずいぶん賑やかな祭りなのでおどろきましたよ
 「ええそうです、行基菩薩は千数百年をへだてた今日なお、
  人々の心のなかにいきておられるのですよ


 「今日なお、生きておられる、ほんとうにそうですね
 「あの池、久米田池がある限り、忘れられませんよ」(『行基の時代』)
    
 久米田寺
      久米田池管理のため   行基建立  738年
 
 日本に仏教が伝わった古代から、歴史上に多くの名僧が生まれたが、

 1300年の時空を経て今日まで、庶民から親しまれ祭り上げられる僧は

 行基をおいて他にいないであろう、

     久米田池
      久米田池(738年) 泉州一の大池 現在まで利用


  2i石窟庵
        世界文化遺産 仏国寺と石窟庵のある吐含山 韓国慶州              

              朝廷による行基弾圧

 行基と門弟たち集団による社会事業は、少なからず朝廷に脅威を与えていた。

 朝廷側の実力者、藤原不比等(659~720)らは律令体制を維持し、

 農民の貢納力を確保するためにも、行基の活動に歯止めをかける必要があった。

 そこで朝廷は元正(げんしょう)女帝の「詔」(717年)を出し、行基を激しく糾弾した。

 「小僧(しょうそう)行基および弟子たちは、街頭で教化の活動を行って、
 
  人々に罪福についての教えを説き、徒党を組んでは、指や手足に火を灯し、

  皮を剥いでそれに写経する行為を行っている。そして家々を巡っては教えを説き、

  物を乞い、聖道を得たと自ら称して民衆を惑わせた
」(『続日本紀』)

 この詔は、行基を名指しで「小僧」と蔑み、行基とその弟子らの活動を

 僧尼令(そうにりょう)違反だと断じ、所定の寺院にとじこめて国家の安寧を祈る

 官僧に戻そうとしたものであった。また、朝廷は仏教行政機関である

  僧網(三網=大僧都、少僧都、律師)に圧力をかけて行基集団の活動を禁圧しょうとした。

 行基は朝廷の弾圧圧力にも屈することなく、ひたすら民衆の中に入り

  布教・社会活動をつづけた。師を身を案じる弟子に向かって行基は言った。

 「なに、気にすることはない。あれも修行、これも修行だ。

 もし、牢に入れられることがあっても、それも修行だ
」(『行基の時代』)
 
  朝廷は詔を出して行基を罰しようとしたが出来なかった。

  その理由は、
    1) 行基集団が強大で強力な組織になっていた。
      
    2) 行基集団は朝廷の直接脅威を与えるものではなかった。
      
    3) 僧網の僧たちは行基の師・道昭の影響や、

      華厳経の祖・新羅の元暁の教えを受けていた。

 その中でも3)の理由が決定的であったようだ。なぜなら、

 僧綱職にあった大僧都・観成、少僧都・弁通、律観智の3人は新羅に留学し、

 華厳経を中心に新羅仏教を学んだ。華厳経の祖・元曉(617~686)は

  661年に義湘と唐に渡ろうとしようとしたが、偶然に骸骨に溜まった水を飲んで、

 「真理は遠くにあるものではない。枕元で甘く飲めた水が、

 起きた後に骸骨に 溜まっていた  ことを知った時、気に障り吐きたくなった。

 世の中への認識は心にこそある
」と

  悟って帰って来た。その後は華厳学の研究に専念し、240巻もの著作を成した。

 また、元曉はどこへでも出かけていって人を教化し、衆生を救済するため

 戒律を破ってまで奔走したため世の尊崇をうけていた。

      3仏国寺
        仏国寺  韓国最大の寺  金大城建立  新羅時代

         石塔
            仏国寺内  釈迦塔と多宝塔  国宝

 新羅に留学し華厳経を学んだ僧綱たちの脳裏には、行基の行動は

 華厳経の祖・元曉のそれと何ら変わらないものと写り

、 「詔」の糾弾どおりにすることに躊躇せざるを得なかった。

 朝廷の太政官は僧綱に「凡そ諸の僧徒は浮遊せしめることなかれ。

 或いは衆理を講論して諸義を学習し、或いは経文を唱へ禅行を修道し、

  各業を分ちて皆其の徳を得せしめよ
」と圧力をかけたが、僧綱たちはこれ無視した。

 朝廷は行基集団を最後まで「僧尼令」で罰することがきなかったのである。

 行基の教えや恩恵を受けた農民や貧しい人々は、

 彼を慕い尊崇の念はますます深めていった。

 このころから民衆は行基を生きる仏という意味をこめて「菩薩」と呼ぶようになった。
       つづく
       
         菩薩
          世界文化遺産 石窟庵内 如来坐像(石像) 韓国慶州
       平城京
       平城京跡 復元した朱雀門から東大寺、若草山を望む 

           奈良大仏造立時の社会政治状況

  「青丹よし 奈良の都は 咲く花の におうがごとく 今はさかりなり
 
 この歌は万葉集の一句で、奈良の都が藤原京(飛鳥)から平城京に移され(710年)、

 都の造営が本格的にはじまり、都の栄えているようすを満開の花にたとえた歌である。

 しかし、一部の貴族をのぞいて、実状はとてもこの歌のような栄えた都ではなかった。

 都の造営は遅々として進まず、徴発された農民の逃亡はあとをたたず、

 政情も不安定であった。

     平城京跡
       平城京跡地  遠くに復元された朱雀門が見える 
 
 724年、聖武天皇が24才で即位し、その3年後に待望の基皇子(もとい)が誕生したが

 1年もたたず妖折した。729年、政争の一端である長屋王の変 がおこった。この事件は

 藤原氏の陰謀により謀反の疑いをかけられ自殺においこまれた事件であった。

 天平期(729)に入ると、連年のように旱魃や地震などの天変地異・天候不順がつづき、

 農村に飢饉が襲った。離農者がふえ、貧窮者・浮浪者が都に溢れた。

 律令制による粗税・賦役の負担もかさみ、庶民は極度に疲弊した。

     井戸
            平城京跡  復元した水路跡
 
 そこに、拍車をかけるように735年、大宰府に伝染病・天然痘が発生し、

 2年後には都の平城京まで波及・猛威をふるった。

 朝廷の権力者であった藤原4兄弟・武智麻呂、房前、宇合、麻呂 (藤原不比等の子、

 光明皇后の兄たち)が全員死亡するという京内は悲惨な状況であった。

 さらに740年、北九州で藤原広嗣の反乱が勃発した。この反乱は

 玄昉、吉備真備ら勢力に対する藤原勢力のまき返しをはかったもので、

 貴族間の激しい政争の表れであった。反乱は追討軍により鎮圧されたが、

 朝廷は大変な衝撃をうけた。社会的不安と混乱の拡大は朝廷の威信を失墜させ、

 ひいては国王たる天皇の徳に対する疑念を抱く恐れがあった。

   大極殿復元
                  平城京大極殿復元
 
            聖武天皇大仏造立を決意

 聖武天皇は思い悩んだ末、仏教の力によって世の中を平安、朝廷の安泰を

 はかっていくほかはないと思うようになっていた。

 そのきっかけとなったのが740年、難波宮への行幸の途次、河内国大県郡の

 知識寺(柏原市、大平寺)に立ち寄り、大仏・盧舎那仏を拝観したからであった。

 この知識寺は、同信者集団知識・知識結(仏に結縁をするため寄進して信仰を同じくする

 人・団体)によって建立されたものであった。

 天皇が盧舎那仏の威容に感動をおぼえるとともに、

 寺と仏像を建立した知識結の力・民衆の結束力に心を動かされ、

 「朕も造りまつらん」(『続日本紀』)と告げ大仏造立を決意した。

 天皇が慮舎那仏建立を決意したことについて、田村円澄氏は

 「慮舎那仏を本尊とする知識寺は、当時としてはもっとも新しい華厳宗の寺であり、

 新羅仏教の影響をうけ、そして朝鮮半島の渡来系の人びとによって建てられたと

 考えられます。・・聖武天皇が知識寺に参詣して大仏造立を発願したときに、

 聖武は初めて民衆に出会い、そして民衆の仏教を発見したのです。

 それだけではありません。知識寺の壮麗な伽藍が示しているように、

 財政的にも、大仏造立は可能であるという見通しを得たでしょう。

 さらに技術的にも大仏造立は可能であるという決断に達することができたと思います。 

・・・ここに居住している渡来系集団の文化・技術の水準の高さを、

 みずからの目によって確かめることができました。
」(『仏教伝来と古代日本』講談社)

 行基集団の社会事業も知識結によって推進されていた。 この知識結の中には

 各種事業を立案・計画し、現場の労働を統率する優れた技術者が存在し、渡来人が多かった。

   礎石
         知識寺東塔心礎 大阪柏原市大平寺石神社

    イラスト
      聖武天皇が感動した知識寺全景(イラスト)  柏原市立歴資料館

 天皇は知識寺の行幸後、北九州で藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が起きると、討伐軍をおくり、

 自らはその結果報告も待たず「自分は考えることがあって、関東(伊勢・鈴鹿・美濃)に

 行幸したい
」(『続日本紀』)と云い残して5年間、各地を巡り彷徨した。

 天皇の彷徨は伊勢神宮へ戦勝祈願、反乱軍からの避難、貴族間の紛争や

 飢饉、伝染病などから逃れるためと思われるが真相は定かでない。

 国のトップリーダーが5年の長期間、都を離れることは現在の感覚では理解できない。

 聖武天皇はこの間に、如何にすれば仏教の力によって

 平和な国を実現させることができるか?

 如何にすれば仏教をさかんにして人々の心を一つにまとめることができるか? 

 大仏建立の理想の場所はどこか? 

 など考えつづけたのであろう。(『聖武天皇と行基』NHK出版)
                 つづく

     青によし
        青丹よし奈良の都は咲く花のにおうがごとく今さかりなり
 
     平城京復元事業が進められている、1300年前の都の姿に戻るか?
     世界から観光客の急増が予想される。

















  木津川
     京都府木津川 付近に1300年の昔 恭仁京があった

         聖武天皇の行基への接近

 聖武天皇は、741年に山背国相楽郡(京都府木津市)に至り、

 突然、この地に恭仁京の遷都・造営を宣言した。

 この地域は渡来系高麗(狛・こま)氏が早くから開拓を進めていた所であり、

 朝廷の実権をにぎった左大臣橘諸兄の根拠地であった。その後4年間、

 都の造営がつづけられた。 恭仁京が造営されている頃、行基はその近くの

 山背国相楽郡高麗里で泉橋院と隆福尼院を建立し、泉大橋を架けていた。

 1恭仁京
       恭仁京と行基が建立した泉橋院(寺)・泉大橋 位置関係図

 この橋を渡って往くと恭仁京の中央部に至る。おそらく天皇の恭仁京造営は、

 行基の活動と密接な連携のもとに行われたと思われる。(千田稔『天平の僧行基』)  

 聖武天皇は自ら行基が活動する泉橋院を訪ね対面した。このときの様子について

 「行基大菩薩縁図」には、行基と聖武帝とは「終日、御放談有り」と記している。

    泉橋寺全景
          聖武天皇と行基の会談があったとされる泉橋院

 この「御放談」の内容は史料がないので想像の域を出ないが、

 おそらく聖武天皇は国分寺建立や盧舎那仏造立について、

 行基に協力を求めたのではないかたと思われる。

 聖武天皇自ら市井の僧を訪ね会談したのは、宿願である大仏造立のために

 民衆の支持をうける行基の協力が必要であったのだろう。

   s-111120_105844.jpg
              恭仁京跡を訪れた筆者
                     
          
         紫香楽宮における大仏造立発願とその失敗

 聖武天皇は、泉橋院での行基との「御放談」後に災害、国難から国の守護を念じる

 「金光明最勝王教」納めた国分寺と「法華経」を納めた国分尼寺を全国に建立を命じた。

 国分寺の総本山は東大寺、国分尼寺の総本山は法華寺とされた。

 東大寺本尊の毘慮舎那は宇宙の中心の仏であり、

 各国の国分寺は小宇宙の化身の仏に相当するものであった。
 
 その後、聖武天皇は743年、近江国紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に行幸して

 大仏造立の寺地・甲賀寺を開き、盧舎那仏造立発願の詔を発した。

 「仏法の恩恵は国中に行きわたっておらず、不安なことばかりだ。仏法の力によって

 動物、植物、あらゆるものすべてが心安らかに暮らせるようにしたいのだ。この私の

 思いを現実のものにするために盧舎那仏を造りたい。国中の銅をすべて使い、像を

 造り、山を削って堂を建てることに協力して欲しい。私が持っているお金や権力を使

 えば簡単に仏像はできるであろう。それではただの仏の「かたち」だけで、私の思いも

 伝わらないし、反発する者や罪を犯す者を生み、さらに世の中を不安にしてしまうだろ

 う。私のこの思いに賛同し、一本の草や一握りの土といったわずかなことでも自発的に

 協力,参加しょうと思う者がいれば共に盧舎那仏を造ろうではないか
」(『続日本紀』)

 この詔で注目すべきことは、盧舎那仏造立を国も総力をあげるが、

 大事なことは「一本の草や一握り土」でも民衆の自発的な参加である。

 これはまさに、行基が実践し模範を示した知識の参加を呼びかけているのであった。

 大仏造立発願の目的は、国土を仏世界に転じて蓮華蔵世界を現出することである。

 大仏は天皇の姿そのものであり、天皇こそが衆生を盧舎那仏に結縁させる存在・

 「皇帝菩薩」であり、天皇の威信の回復、新たな権威の創出、

 朝廷政権の安泰を図ろうとしたものであった。

 聖武天皇は大仏造立が始まると先頭に立ち、「一本の草一握りの土」を自ら運んだ。

 行基は弟子と共に大仏建立の勧進役を務めた。ところが、紫香楽宮周辺で放火による

 山火事が頻発し、夜盗の出没や不穏な動きもあったため僅か1年余りで紫香楽での

 大仏造立は完全に失敗におわった。

  大仏跡2
           紫香楽宮 大仏造立の跡地 甲賀市信楽町宮町

 その後、天皇は難波京に都を遷し、さらに745年平城京に戻ることになったが、

 大仏造立を諦めたわけではなかった。 

 宿願の毘盧遮那仏造立は平城京東大寺で再挑戦することになった。

  大正
      大正時代の泉大橋   1300年の昔 行基が造った泉大橋は?

     泉大橋
      現在の泉大橋  国道24号に架かる  木津市木津町山城 


    s-2恭仁京
            聖武天皇の 彷徨と都の変遷

         毘盧遮那大仏造立の再開
  
 恭仁京―紫香楽宮―難波京と5年間転々と彷徨した末、平城京に戻った聖武天皇は

 745年、大仏造立の地を国分寺の総本山東大寺(金鐘寺・光明寺)と定めた。

 夭折した基親王の菩提を弔った所であった。

 金鐘寺別当の良弁(渡来人船氏出身)は大仏造立の詔が発せられると、

 すぐさま新羅僧審祥(しんしょう)を招き「華厳経」の研究をはじめた。

 審祥は唐に留学し華厳経を学び、新羅の元暁、義相の著作を持って日本に渡来し

 大安寺で修行していた。審祥の講じた華厳経学は新羅独特の教学であった。

 審祥は滞在3年間に、60巻を講じ、経典571巻を残した。

 華厳経では世界はいろいろな花が咲き乱れ、それぞれの花が他に束縛されることなく

 自分を主張し、しかもそうしたさまざまな花が調和し世界を飾るという。

 これを人間世界にあてはめると国家と個人とは一つのものとみなし

、国がよくなれば個人も幸せになると説いた。国家が民衆を支配するには都合のよい教えで、

 その教主(中心の仏)は毘盧舎那仏であり、即ち天皇自身であると考えられた。 

 聖武天皇は二度目の大仏造立に挑んだ。それは自身の権威の存亡をかけた兆戦であった。

 そのために民衆の信望あつい行基に勧進、協力を託し、民衆の支持・協力、特に知識の

 積極的な参加のもとに官民一体となって取りくんだのであった

 聖武天皇は行基をあつく敬い、史上初めての大僧正の位をさずけた(745年)。

 これは紫香楽宮における大仏造立の功績と恭仁京の造営という国家的事業に対する

 活躍を称えたものであった。この時期の僧正・玄昉は、自分より位の高い大僧正・行基の

 出現に嫉妬したこと、一方の行基は位や名誉には全くの無関心であったと伝えられている。

 行基は聖武天皇の期待に応えて弟子を率いて勧進を行い、行基集団は大仏造立の過程で

 財政、技術力、組織力を如何なく発揮したものと思われる。また、

 行基は大仏造立に関わりながらも窮乏する民衆を救済する活動も以前と変わりなく行われた。

 行基が建立した49院のうち報恩院、長岡院、大庭院は大仏造立再開後に建立したもの、

 それまでと比べて行基の寺院建立や社会事業は少なくなっているが、

 大仏造立時も彼は常に民衆の中にあったことは確かである。

    s-朝靄かかる
         朝靄のなかに浮かび上がる大仏殿 背景は若草山

      






    s-山焼き
            奈良若草山の山焼きの夜景

        行基の「裏切説」、「非協力説」

ところで、行基の大仏造立への勧進、協力についてはいろいろな「説」がある。

その一つは、行基の大仏造立のための勧進は官の事業に協力したことになり,

民衆を裏切って朝廷権力と結びついたとする、行基「裏切説」である。

社会主義的な現代思想からすれば、弱者・窮民・民衆の味方であったはずの指導者が、

権力側が民衆に負担・苦痛を強いる事業に手を貸し協力することは「裏切り」行為となるが、

当時の 行基の説法や施しに生きがいを覚え、救われ、信者、知識となった民衆にとって、

行基の行うことはすべて善、「利他行」であったはずである。行基が大仏造立に協力した後も、

民衆の行基に対する信頼を失うことはなかった。

二つ目は、行基は大仏造立のために勧進も、協力もしていないとする

行基「非協力説」がある。金達寿氏は「行基がそのような大僧正となったのは、

金銅盧舎那仏造立や、それを本尊とする東大寺建立のためにかれがその弟子たち、

すなわちその集団を率いて勧進となったから、というのがそれであるが、しかし、

行基がそのような勧進となったという事実・根拠はどこにもないのである。

行基にあってはそんな権力的、あるいは国家的名利など、はじめからまったく

念頭になかったのである。・・・大僧正となった以後もその事業に変わりなく、

民衆のことしか考えていなかった行基は、ただひたすらわが道を往くであった」

(『行基』歴史の群像7)とし、大僧正に任じられたことだけで、

行基が協力した根拠にはならないと論じる。行基が大仏造立に協力したことは、

「行基法師が弟子を率いて、多くの人々に大仏建立を勧め誘った」(『続日本記』)と記され

 この記事が唯一の史料的根拠である。
  
 この史料的根拠をもって紫香楽宮での大仏造立の勧進は行ったが、

 「東大寺での大仏造立事業から離脱した」(『日本仏教史の研究』二葉憲香)という説もある。

 史料がないから行基は大仏造営に関わってないと言うのである。

  史料が無いから事実がなかったとするのは結論の急ぎすぎである。  

 古代史の場合、一つの史料的根拠だけをとり上げて結論を出すことは危険である。

 しかし、客観的な状況からみて行基とその集団は勧進を行い、

 大仏造立の技術・労役など作業にも加わり協力したと思われる。

 大仏造立は知識の力を借りておこなう事業であり、官の行政力だけでは不可能な

 大事業であった。財政もそうであるが、高度の建築・土木・冶金・鍍金・彫刻等の

 技術集団の協力が不可欠である。仮にそのような技術者を官の力で強制的に徴発して

 働かせたとしても、長期間つづけることは不可能である。行基の勧進に応じて

 大仏造立に寄進した豪族、板持氏、川俣連人麻呂らの名が記録されている。

 行基の知識結が積極的に協力することによって、行基の影響下にあった地方豪族もふくめ、

 貴賤を問わないさまざまな階層の人々が動き、大仏造立という比類ない大事業が

 前進したと考えるのが自然である。

 井上薫氏は「行基は民間で最も強力な、造仏のための支え柱であった。

 行基の献身をほかにしては大仏の達成はありえなかった」(『行基』と述べ、

 林屋辰三郎氏は「仏法を平易に説き、数多くの知識寺を各地に造り、

 組織的な労働力を動かす力をもつ行基の参加はおそらく大きな力となったことは疑いない」

 (『民衆生活の日本史』)と断言する。

      s-薬師寺
            奈良大池から薬師寺・若草山を望む



    s-130521_103218.jpg
      奈良二月堂より大仏殿を望む  筆者撮影
           
       聖武天皇の悲願と行基の献身

律令体制下、現人神(あらひとがみ)である天皇は絶対的権力者である。

その天皇が僧である行基を「崇拝帰依」したのである。

行基について記録した 古典史料『続日本紀』(794年)には、「天皇、甚だ敬重したまう」、

『大僧正舎利併記』(749年)では 「聖朝、崇敬す」、

『日本霊異記』(822年)では「聖武天皇、威徳を感ずる故に、重くこれを信ず」と記している。

三史料は系統の異なったものであるが、一致して聖武天皇が行基に「崇拝帰依」した

ことを記しているのである。

なぜ、天皇はそれほどまでに行基を[崇拝帰依]するようになったか?

 考えられるのは、聖武天皇は自身の尊厳の回復、朝廷の安泰をはかるために、

なんとしても盧舎那仏造立の悲願を達成することであった。

聖武天皇は行基の利他的「民衆の救済にある」宗教理念に共鳴し、

しかも行基の人格的カリスマ性に魅了されたのであろう。

壬申の乱(672)で勝利した天武天皇以来、律令国家体制の頂点・

天皇は現人神であると位置づけられていた。天皇自らの出家は、

神が仏に従僕することを意味し、律令体制の根幹を揺るがしかねない問題である。

にもかかわらず聖武天皇が仏に従僕したのは、ただひたすら菩薩行基に心酔し、

彼の背後にある民衆の力を借りるためとしか考えられない。

聖武天皇行基像


 
それでは、行基自身は大仏造立による民衆の負担、苦痛と「民衆救済」の

宗教的理念との矛盾をどのように克服したのか? 

この疑問について仏教思想家の石田瑞麿氏は次のように解いている

「彼は進んで天皇の発願に協力したにちがいない。 また逆に協力することによって

 行基のこのような活動の思想的基盤は何であったかについて・・それは『梵綱経』の

 精神であった・・かれの活動の一々がこの『梵網経』の精神にきわめてよく符合すると

 考えられる・・行基のこのような活動社会福祉救済の運動と天皇の大仏造営の願意は

 けっして抵触し合うものではなく、むしろ共鳴するものがかれの行動自体が拡大し

 増殖する結果を招く可能性も予想される。」〈『日本仏教史研究3』)

 行基は何人をも魅了する人物であったと思われる・。

 田村圓澄氏は「やはり行基は人を引きつけるものをもっていたと思われます。

 行基の魅力が、人間的、人格的なものか、あるいは超人間的な

 呪験力なのかなどについては想像するしかありませんが、しかし

 行基はヒューマンの豊かな人であったようにおもいます」『日本の渡来文化』
 
 大仏の造立工程で最も重要な鋳造作業の段階に入った747年頃、行基(80才)は

 病に臥していたようである。聖武天皇は行基を見舞い、749年に天皇は大僧正行基から

菩薩戒を受け出家して「勝満」と名のる。名実ともに仏弟子となり、

自らは「太上天皇沙弥勝満「三宝の奴」(仏、法、僧の僕)と称し、孝謙天皇に譲位した。

 その一か月後、749年、行基(82)は盧舎那仏造立の完成を待たず

 菅原寺(喜光寺)で生涯を終えた。行基の墓地は竹林寺(生駒市有里)にある。



      
 南大門
             奈良東大寺   南大門


        奈良大仏造立の工程

 金銅鋳造仏像をつくる技術は百済から伝えられた。

 木像・石像・塑像・乾漆像等とともに鋳造仏をつくる方法も伝わった。

 日本で最初に造られた鋳造仏は渡来人止利仏師による「飛鳥大仏像」であった。

 その経験や技術は止利氏の子孫によって代々伝えられたが、

 そこに新技術をもった秦氏ら渡来人も加わり大仏造立を容易にしたと思われる、

 それでは鋳造大仏造立の作業工程を簡単に説明してみたい。
 
 ① 最初に、山をけずり土地を平らにし、重い大仏をすえても地面が沈んだり、

   傾いたりしないように、しっかり基礎をかためる。この時、聖武天皇と光明皇后は

   衣の袖に土を入れて運び、地面をつきかためる作業に参加したと云われている。
   
 ② 地面をかため終わると、そこに柱を組み上げて骨組みをつくり、

   竹を縦横にあんで大仏のおおよその形をつくる。

 ③ この竹かごのような大仏の上に粘土をぬり大仏の原型をつくる。

   そのため目鼻から衣のしわなどこまかい模様にいたるまでていねいにつくり、

   大仏の中型(なかご)を完成させる。

 ④ 中型を十分に乾燥させて、外型の粘土を塗っていく。このとき中型と外型が

   接着しないように剥離剤の薄い紙をはさむ。外型は大仏全体を八段に分け、

   下から順番に作業を行い、一段目の外型を適当な幅で割りはがす。
  
 ⑤ 中型の表面を一定の厚み(に(数センチ)けずり取る。外型の内面を火で焼き、

   型崩れしないようにして元にもどすと、中型と外型との間にすき間ができる。

   このすき間が銅の厚みとなる。中型と外型がはずれないように型持をいれる。

 ⑥ このすき間に溶けた青銅を流しこむ。このときに鋳型が動かないように、

   しっかり土をかぶせる。この盛り土の上に多数の炉を築き、ふいごによって空気を送り、

   炉の温度を上げつづけながら材料の銅やスズを溶かす。

   溶けた青銅の温度は1000度以上にもなり、たいへん危険で重労働であった。

 ⑦ このようにして、鋳型を作り材料の青銅を流しこむところまで一連の作業が終わると、

   二段目、三段目、と同じ作業を順にくり返すことによって、

青銅製の大仏の形ができあがる。 最後の八段目の青銅を流しこむときには、

大仏はすっぽりと、小山のような土におおわれる。

   この土をとりのぞき、鋳型を取り外したところで、ようやく大仏が姿をあらわす。

   鋳造工程約3年間(747~749)を要した。

     s-img034.jpg
               『朝鮮文化と日本』 ㇼ・ジニ著より引用

 ⑧ 次に、各段のつなぎの部分や大仏表面の凹凸を砥石や、やすりでみがく鋳加

   (いくわえ)、鋳淳(いさらい)という表面仕上げをする。

 ⑨ 最終段階は表面に金メッキをほどこし、全体を黄金色に輝かせると

   大仏造立の完成となる。金メッキは金と銀をまぜ合わせると金アマルガムという

   どろどろの液体となる。これを大仏の表面にぬる。そして炎で熱すると、

   水銀は蒸発して大仏の表面には金だけがのこる。しかし水銀が蒸発するときに

   有毒のガスが発生し、たいへん危険である。

    この作業中に多くの犠牲者が出たと思われる。

 ⑩ 大仏造立が完成した後、脇侍像が造られ、大仏がおさまる大仏殿を建立して完成・

   造立事業の全工程が終る。 

   奈良大仏は全工程が終わる前の➇の段階・未完成のまま、

   752年4月9日(5月26日)大仏開眼供養会が開かれた。 
           
                   つづく

    中門
         奈良東大寺 鏡池より中門と大仏殿を眺める

















      奈良大仏造仏長官 国中連公麻呂

 盧舎那仏像(大仏)造立は一大国家プロジェクトであった。

 聖武天皇の悲願、威信をかけた国家的大事業ではあるが、

 未曾有の巨大像を鋳造するという計り知れない難事業でもあった、

 この難事業の造仏長官(総監督)をつとめ、卓越した指導力を発揮して

 これを完成・成功させたのは国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)である。

 日本の国宝・世界の遺産となった奈良大仏の誕生は天才的な才能、鋳造技術、

 芸術的素質を持った公麻呂の存在なくして語れない。

 「当時の鋳工の技術水準では、だれも手を下せなかった。そこで、公麻呂が大変

 巧みな着想(「巧思」)を発揮して成功させた
」(『続日本記』797年)と記している。
 
 ところが、これまで国中連公麻呂について、出自や功績についてあまり語られない。 

 公麻呂の祖父・国骨富(こくこつふ)は徳卒(階位4位)の百済の高官であった。

    kumgan.png
      韓国扶余 錦江 千数百年の昔 「白村江の戦」があった

 国骨富は、滅亡した百済復活のため日本からの救援軍が白村江で

 新羅・唐連合軍によって敗北(663年)したときに亡命してきた渡来人である。

 公麻呂の姓は百済に多い「国」氏であっが、大和国の国中葛下郡に居住していたことで

 「国中連」姓を賜与された。公麻呂の生年や成長過程は定かでないが、

 文献に「造仏所」の仏師としてはじめて登場する。「造仏所」は7世紀中葉、国や貴族による

 寺院が次々と建立されるようになり、それらの寺院建立の企画や安置する

 仏像の製作を専門とする部署として設けられた。この「造仏所」に多くの渡来人仏師、

 仏工技術者が集まり、公麻呂はその代表的な存在であった。

 因みに公麻呂の配下に百済系の将軍万福、田辺国持、新羅系の秦家継,己智帯成等

 10人の渡来人の名が記録されている。公麻呂のこの「造仏所」で長年、寺院建立や

 仏像造りで経験習熟したことが大仏造立という難事業を成し遂げる糧となったと思われる。

  国中連公麻呂が建立に参画した寺院

          法華寺浄土院、新薬師寺、石山寺

       石山寺
            

 公麻呂が製作した代表的な作品

    東大寺法華堂(3月堂)、
          不空羂索観音立像(ふくうけんじゃくかんのんりつぞう)
        
          日光、月光菩薩像、不空羂索観音宝冠 、
       
          執金剛神立像(しゅこんごうじんりつぞう)


    東大寺戒壇院 、四天王像

    新薬師寺    12神将像
  
    唐招提寺、   鑑真像 
    
    法隆寺     行信僧都像

    公麻呂のこれらの作品は全て天平を代表する傑作。国宝となっている、

        s-img013.jpg
        不空羂索観音像    東大寺3月堂(華厳堂)所蔵
   
       頭部
             不空検索観音像 頭部     

                12神将
         12神将造  新薬師寺所蔵  国宝

         新薬師寺
                
 これらの作品は永い間、作者不詳、あるいは集団による作品とされてきたが、

 最近、ヨーロッパ美術史の専門家田中英道氏が国中連公麻呂の作品であると断定した。

 「・・こうして比較対照してきた数々の仏像をつくった、天才作家とはだれか。

 <大仏>建立の造仏長官をつとめ、後に、造東大寺司次官に就任した、

 国中連公麻呂だと考えられる
。」(『天平のミケランジェロ』)と書き、

 公麻呂は「抜群の技量」の持ち主であり、ルネッサンス期の

 ミケランジェロに匹敵する「天才的な彫刻家」と評価している。

 朴鐘鳴氏は 『奈良のなかの朝鮮』で

 「いわば、国中連公麻呂は、大仏鋳造、東大寺建立という膨大なプロジェクトを

 プロデュースし、指揮下のそれぞれの部門に渡来系技術者の個人の力量を

 最大限に発揮させた。古代日本における傑出した人物の一人といえる
」と述べる。


 奈良大仏は誰の作品か? と個人名を問われると

 躊躇なく、国中連公麻呂の作品だと答えられるのではなかろうか!

     s-法華堂
          3月堂(法華堂) 公麻呂の作品多数所蔵

つづく























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   奈良大仏造立に貢献した渡来人たち
    img016.jpg
                           韓国歴史教科書より引用

 奈良大仏造立に関わり貢献した渡来人とその後裔たちは多い、

 記録に残されている渡来人をとりあげて見る。前回の造立長官国中連公麻呂の筆頭に、

 公麻呂の配下の副長官は鋳師の高市真麻呂(たかいちのままろ)もまた渡来人の子孫である。

 高市には多くの渡来人が居住していたから、彼らの中から少なからず真麻呂について、

 木工、鋳工の役夫として従事したと思われる。

 奈良大仏造立工事が始まると「造仏所」「鋳造所」、「木工所」が設置され、

 そこに、仏師、銅工、木工、金箔工、など約550名の技術工が集まり、その下で

 延べ、 金工37万2075人、大工5万1590人、役夫166万5070人が携わった。

 『東大寺要録』に、渡来人技術工として、朝妻手人(あさつまのてひと)、

 朝妻金作(かなつくり),金作部(かなつくりべ)、忍海手人(おしぬみ)、忍海漢人

、飽波漢人(あくなみあやひと 韓鍛冶(からかぬち)、河内手人(かわちのてひと)

、鎧作(よろいづくり)三田首(みたのおびと)、 山背甲作(やしろのよろいずくり)ら

 十数名が記録されているのみである。

       
       秦寺
         教興寺(秦寺) 秦河勝建立 大阪八尾市

      秦氏一族の銅山開発と鋳造技術・財政の貢献

 盧舎那仏造立で最も大切な資材は銅で、500トンもの大量の銅が必要であった。

 この時期、すでに長門国(山口県)をはじめ出雲、秩父で銅が発見され開発が進んでいた。

 大仏はおもに長門国の銅が使われた。いずれの銅山もその開発・生産・運搬には
 
 秦氏一族が一役かっていた。

 平野邦雄氏は秦氏一族が大仏鋳造にかかわったことを、金属工として秦(伊美吉)船人、

 秦物集、秦乙万呂、秦仲国の4名をあげて明らかにしている。

 大和岩雄氏は「大仏鋳造には、製錬銅(塾銅)と鋳工の物と人が、もっとも重要な

 存在であった。秦氏が採銅・鋳造の両方に深くかかわっていることからみても、

 大仏造立に秦氏系氏族が深く関与していたことは確かである


 (『日本にあった朝鮮王国』白水社) 

 また、財政担当は秦氏一族の秦朝元(はたのあさもと)であることから、

 大仏造立に必要な財政負担、資材、銅の生産加工、鋳造技術等の必要な

 人と物の相当な部分が秦氏一族によって賄われたと思われる。 

      
        黄金神社
         黄金山神社 陸奥国小田郡 (宮城県湧谷郡)

      百済王敬服の金鉱発見と献納
      
 百済王敬福(だらおおきみきょうふく)が陸奥守在職中、

 小田郡(宮城県湧谷郡)で749年黄金を産出、、

 黄金の不足で鍍金(メッキ)ができず、大仏の完成が危ぶまれたとき、陸奥にからの

 黄金900万両の献上によって大仏を完成させることが出来るようになった。

 聖武天皇は大変喜び敬福を従5位から従3位に特進させ、年号を「天平感宝」と改めた。

 百済王敬福は百済最後の王、義慈王の4代目子孫で、敬福の孫娘・明信は

 平安京を築いた桓武天皇の寵愛を受けたたことで有名である。
 
 また、盧舎那仏を収める大仏殿の建立は木工・猪名部百世(いなべのももせ)が

 総監督となり、 新羅系の渡来人を率いて完成させた。

 また彼らは、東大寺伽藍全体の造営にも貢献した。

 以上見てきたように、大仏造立全工程、全分野にわたって

、渡来人とその後裔たちが関わり、貢献したことが理解される。まさに、

 世界に類例のない金銅大仏の完成は渡来人の活躍なくして不可能であったと思われる。

 田村円澄氏は「8世紀の現史に立ちかえるならば、東大寺造営の技術的な面はいうまでもなく

 財政面においても、さらに仏教学の面においても、渡来の人々が先頭にたっている

 事実があきらかとなった。しかも名をとどめたのは、一部の指導者というべきであり、

 かれらに率いられたより多くの渡来系人々が、東大寺造営に参加したことは推測に難しくない


 (『古代朝鮮仏教と日本仏教』吉川弘文館)と述べている。

 巨大金銅仏像・奈良大仏は、聖武天皇の発願、民衆の僧・行基の協力、

 天平の天才的な仏師・国中連公麻呂のリーダーシップと

 渡来人とその子孫たちの様々な活躍、貢献により完成を見たのである。
     つづく
        
      だいぶつ6

              完成した盧舎那仏(奈良大仏)     

  





         奈良大仏造立開眼法会の盛儀

 大仏造立の発願から8年目の752年4月9日、大仏開眼法会 (かいげんほうえ)には

 一万数千人が参列して盛大に催された。4月8日は百済から仏教が伝来(552)して

 200年目にあたり、釈迦の誕生日であった。

 1日延期されたのは聖武天皇の病状によるもであったらしい。

 大仏開眼法会は墨で大仏の目に瞳を描いて、仏に魂を入れる重要な儀式である。

   img014.jpg
          1915年(大正4年) 大仏殿慶賛大法要会

 この時、大仏の姿は出来上がっていたものの、全身に施す金メッキの作業は

 頭と顔の部分が塗られただけで、まだ完全に終わっていなかった。

 それでも開眼の儀式を急いだのは聖武上皇の病が重かったためであった

 大仏開眼供養会を開く、聖武上皇は菩提僊那に開眼の導師依頼の手紙を送った。

 「朕は身体が疲労し弱って起居も思うになりません。朕に代わって開眼の筆を執って

いただくかたとしては、和上1人あるのみです。どうか辞退なさらないでいただきたい


 こうして開眼導師としての筆を執ったのは婆羅門僧正と称さた

 インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)であった。彼はインドから唐に渡り

 736年日本に渡来し大安寺に住んでいた。行基が生存しておれば、

 当然彼が聖武天皇なに代り筆を執っていたであろう。

 この日、大仏殿の前の中庭には、東西に五色の幡(ばん)がはためき、高座がおかれていた。

 中央に舞台が作られ、大仏殿の周囲はさまざまな造花と刺繍をした幡によって飾られた。

 聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇の3人が大仏殿の前の布を敷いた板殿に坐し、

 百官が礼服で背後に並んだ。国中連公麻呂、行基の弟子の景静が招待されていた。

 南門から、上位の僧侶たち1026名が入場し、

 東門から開眼の導師・菩提僊那僧正が輿にのり、背後から絹の傘を背に入場した。 

 参列した一同が座についてから、高い台の上に昇った菩提僧正の持つ

 筆から下にむかって、200m程度の藍染の絹糸製の縄が結わえ付けられ、

 聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇、貴族、文人、武官、僧侶、参列者がその先を握る。

    開眼
        菩提僧正が目に瞳を描き大仏に魂を入る「大仏開眼」

 菩提僧正の筆がおもむろに大仏の眼晴を点ずると、

 左右それぞれ1・2メートルの両眼が燦然と輝いた。「大仏開眼」である。

 奈良大仏の造立完成の瞬間であった。

 聖武天皇、行基大僧正、国中連公麻呂仏師をはじめ、技術工の心血そそいだ努力、

 名もなき民の血のにじむ労役の結晶として奈良大仏は成った。

     1250年慶賛大
            東大寺大仏開眼1250年慶賛大法要     

 つぎに、講師・読師の華厳経の講義があり、大安寺、薬師寺、元興寺、

 興福寺の四大寺から贈られた祝いの品々が献じられた。

 続いて、南門から楽人・舞人が登場し楽舞が奉納された。 

 雅楽寮や緒寺僧による演奏や五節舞・久米舞・盾伏舞など古来の舞の他、

   新羅琴
         新羅琴(カヤグム) 高麗楽で使われたか? 正倉院所蔵
 
 唐楽、高麗楽、林邑 (ベトナム) 楽などの舞楽も演奏され、国際色豊かに行われた。

 「仏法東帰してよ り斉会 (さいえ)儀,未だ、かってかくの如き盛んなるは有らざるなり

 (『続日本紀』) と記されているように、古代においてこのような

 国際的な文化イベントも珍しいのではなかろうか?

 田中栄道氏は「現在からは、想像できないほどの国際的だいスペクタルである。これは、

 はっきり史料に残されている。天平時代の文化の頂点を総合的に示すものである」

 『天平のミケランジェロ』と述べている。

 まさに、大仏開眼供養会の催しは、古代インドで誕生した仏教が、天山山脈を越え、

 砂漠を渡り、シルクロードに沿って唐ー朝鮮半島を通り、そして玄界灘を渡り、

 終着駅・奈良の都で仏教文化の花を咲かせた象徴的なイベントとなった。

 それを実証する開眼法会で使われた様々な用品が東大寺正倉院に残されている。
    つづく
     正倉院
      正倉院 大仏開眼供養会の品・古代の宝物所蔵 世界遺産

           「お水取り
 奈良の早春の風物詩である東大寺二月堂の「お水取り」は、

 毎年、全国の人々が注目する宗教行事である。

 「お水取り」は正式には修ニ会(しゅうにえ)といい、奈良大仏造立直後から

 今日まで欠かすことなくつづけられてきた。

   二月堂
        「お水取り」の行事が行われる東大寺2月堂

 東大寺を開山した良弁の弟子・実忠はあるとき、

 「木津川上流にある笠置という村に出向いた。笠置は今も断層によってできた

 険しい断崖絶壁のある地だが、そこにあった龍穴のなかで、実忠は天人が行法を

 おこなっている幻想をみたのである。これを地上に移そうと大仏殿より東の

 奥の山中に、十一面観音を祀るお堂を建てて、旧暦の二月に14日間の

 厳しい行法をおこなうことにしたのである」

 ここから『お水取り』のはじまったとされている。
 
 それは、十一面観音に罪過を懺悔して罪の消滅とともに天下泰平、風雨順時、

 五穀豊穣、万民快楽を祈り、国家の安全繁栄と万民の幸福を祈願する行法である。

 「お水取り」は、毎年旧暦の2月に行われたが、

 現在では新暦の3月1日から14日まで行われている。

 法要は世の中の罪を背負って苦行する練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる

 11名の僧が執り行う。この練行衆が二月堂の下にある井戸から水を汲んで

 観音に献じるところから「お水取り」とよばれ親しまれるようになった。

 「お水取り」の見どころは、練行衆一人ひとりが松明(たいまつ)を燃やし、

 二月堂正面の舞台をめぐり、観客に向けて火の粉を飛び散らす、

 いわゆる「おたいまつ」である。この「おたいまつ」は連日行われるが、

   2月
        11人の練行衆が松明をもって二月堂の舞台をめぐる

 クライマックスは3月12日の夜、籠松明(かごたいまつ)と呼ばれる

 特大の松明が二月堂の舞台から燃えさかる炎が突き出され、

  水取
          「お水取り」のクライマックスシーン上から見る

 松明
          「お水取り」のクライマックスシーン下から見る
 
 火の粉が上へ下へ撒き散らされる光景であろう。

 観衆のどよめきが聞こえてくるようである。

 「お水取り」・修二会は密教や神道の要素や、春迎えの民間習俗を取り入れた部分もあり、

 「神秘に満ちた」きわめて複雑で、謎の多い行事であるらしい

 筆者は何度か奈良見学をしたが、まだ「お水取り」の行事を見たことがない。

 「百聞は一見に如かず」一度は見て見たいものである。

   大仏殿屋根
         二月堂から大仏殿の甍。奈良市内を望む

         奈良大仏さんの願い
 奈良の大仏は造立後、三回の天災、人災によって大災難を被った。

 最初は855年、地震により首の部分が落ちるという災難があったが、

 このときはほどなく修復された。

  南大門
            東大寺大仏殿入り口   南大門

 2度目の災難は平安時代末期の1180年、源氏と平氏の戦い(源平合戦)で、

 平家の平重衡の兵火によって胴体部分を失った。このときの修復は鎌倉時代になって、

 僧重源が先頭にたち信者、民衆の力を借りて行われた。

 3度目は応仁の乱の1567年、三好・松永の戦いで松永久秀の兵火で頭と右手を失った。

 大仏の姿は戦火に苦しむ民衆の姿そのものではなかっただろうか。

     s-中門
              東大寺中門から大仏殿を眺める

 この修復は、破壊されてから百数十後の江戸時代、僧公慶の勧進によって行われた。

 1709年、新しく建立された大仏殿の落慶と大仏の二回目の開眼供養法会が行われた。

 奈良大仏は知識(信者)の力をかりて造立されたこともあって、

 災難の度に多くの信者、民衆の力によって修復された。

    s-大仏5
                東大寺 大仏殿

 
 人類の貴重な文化財も人災によって瞬時に破壊されるが、修復・復興にかかる

 時間は 数千、数万、数億倍、否、永久的に修復できないことが多い。

 奈良大仏は3度まで大損傷を修復・再生されたのは奇跡である言えるだろう。

 現存の奈良大仏は、752年造立当初の4分の3に縮小されているが、

 全体的な姿は建造された当初の容姿をそのまま残している。

 古代天平時代の象徴的な文化財であり、世界に誇る文化遺産である。

    s-だいぶつ6
             奈良大仏 毘盧遮那仏

 古の都に1250年の昔からどっしり座る奈良の大仏さんは、天災も、人災もない

 平和な世界、人々の幸せを、今日も願いつづけている。
              おわり