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2014.07.07
夕陽
5月末、雲一点無い晴天の夕方、
普通なら肉眼で直接見ることが出来ない高い位置にある太陽が
月を見るが如くよく見られた、幻想的な夕陽である、
湿度が高く、気温が上昇した夏日にときどき見られる現象、



観賞するには良いが、じっとりした暑さの辛い日でもある。
このような雲の無い晴天があってこそ
千変万化の雲の出現がまた面白いのだろうか、

夕日と雲が織りなす幻想的な世界、、
普通なら肉眼で直接見ることが出来ない高い位置にある太陽が
月を見るが如くよく見られた、幻想的な夕陽である、
湿度が高く、気温が上昇した夏日にときどき見られる現象、



観賞するには良いが、じっとりした暑さの辛い日でもある。
このような雲の無い晴天があってこそ
千変万化の雲の出現がまた面白いのだろうか、

夕日と雲が織りなす幻想的な世界、、
2014.07.04
平安京遷都と秦氏一族(7)

桂川から霞かかる愛宕山を望む 嵐山渡月橋付近
4)秦氏一族の技術、労力支援
平安京への遷都後、造営工事のもっとも中心的な役割を担う官職、
造営大工と少工が任命された。大工・少工は造宮の技術責任者、副責任者のことで、
大工に造営大工に外従五位上・物部多芸建麻呂(もののべのたきのたけまろ)、
少工に外従五位下・秦都岐麻呂(つきまろ)である。
外位は地方貴族や地方官に与えられる位階で、内位にくらべて位が低い。
物部多芸氏は美濃国多芸郡出身の地方官、秦都岐麻呂は蕃族出身で
二人ともに位や身分が低い、にもかかわらず登用されたのは、
二人のもつ技術はきわめて優秀なものであったからである。(井上満朗『渡来人』)
彼ら二人の指導のもとに、建築・道路の土木工事が行われ、
多くの測量工、大工、瓦工、左官工等が動員されたであろう。
そこには経験豊富な秦氏一族の人々が含まれていることが想像できる。
」
また、新都に旧都の平城京から移って来る人たちが居住するためには
主食や野菜、燃料などの生活品もひつようであった。これら日常必需品の供給も
秦氏一族の積極的な協力なしには不可能であったろう。
以上述べてきたように、京都盆地開発や平安京遷都・造営に
朝鮮半島からの渡来人、とくに秦氏一族の貢献度は大きかっと思われる。
そのような歴史的事実があって日本人の心の故郷、今日の京都があると言えるだろう。

京都市街図と平安京 衛星写真
井上満朗は「渡来系氏族…彼らが、中国大陸・朝鮮半島
伝来の先進的な文化・文化を日本にもたらした。それらはとくに京都の地で
華麗に花ひらくことになった。それをうけての宮都建設なのであり、
それ以後京都の地が千年の王城として政治、経済、文化の中心になったことを思えば、
渡来人の活躍は 日本の原点を担うものであったといえよう。」(『渡来人』)

(昔、秦氏一族が築いた大堰はどんな風景だっただろうか?)
もちろん、秦氏一族や渡来人だけが京都盆地開発や平安京造営に
貢献したのではない。平安京遷都・造営と大事業は、藤原氏をはじめ
桓武天皇の側近氏族やさまざまの職掌の人、住民が秦氏とともに協力、
貢献しなければ、成し得ないことであったことは言うまでもない。
永年、秦氏の研究を重ねてきた大和岩雄は「秦氏は渡来人氏族の中では
最大であり、日本の文化・経済・宗教・技術・政治などに、
広く、深く、影響を与えている。 だから、秦氏について考究することは、
最大の渡来氏族についてではなく、日本の文化・経済・宗教などにちての考究にもなる」
(『秦氏の研究』)言及している。

神泉苑法成橋 園遊の場 平安京大内裏に接続 現在二条城の隣り
(平安京創設時から残る数少ない遺跡の一つ、往時の十分の一縮小)
おわりに
在日二世の筆者は京都市西京区松尾の出身で、地元の松尾小学校、桂中学、桂高校に通った。
この小・中・高校の生徒は、桂川と西山の間、嵐山渡月橋から南へ、松尾、山田、御陵、
大枝、そして阪急電車沿線の上桂、桂、物集、向日町、長岡等の区域から通学していた。
今もこの域には、筆者の同級生や友人、知合いの人が多く住んでいる。ところが、
筆者はこの地域が秦氏が開拓したゆかりの地であることを最近まで全く知らなかった。
嵐山渡月橋の上流約50mのところに堰堤がある。高校を卒業する頃までは、
その付近で泳いだり、ボートに乗ったりしてよく遊んだ。その頃から古希になる今日まで、
筆者はこの堰堤はボートが流れ落ちなように事故防止用と、渡月橋が急流で
流されないようにするための二つの目的で築かれたと思っていた。
[丹青会]の勉強会で発表するため渡来人に関する本をあさっている中に、
京都盆地開発に絶大な技術、財政、組織力をもった秦氏一族を知るようになり、
この堰堤が川の氾濫を防ぐとともに桂川両岸の下流域を開墾することが目的で築かれ、
秦氏一族が発揮した才たる事業の一つであったことを知った。
私が生れ育った全域が秦氏一族の開発の恩恵を受けていたことになる。
晩年であるが新しい歴史的事実の発見に小さな喜びを感じた。
また、渡来人に関する勉強の過程で、平成天皇が68歳の誕生日を迎える記者会見で
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の
子孫であると『続日本紀』に 記されていることに、
韓国とのゆかりを感じています」(2001年12月23日)と語ったことを知った。
その桓武天皇の生母・高野新笠の墓が京都市西京区大枝にあること、
大枝には中学校時代の友人が居るところで、その当時を懐かく思いだす。
1200年以上の昔、桓武天皇の母がこの地に住み、天皇自身が少・青年期を
この地で過ごしたことを思うと、なんとも表現しようのない歴史の不思議を感じる。
この拙文を作成する過程は、筆者にとって歴史の再発見であり、
歴史教育、歴史認識の重要性を再認識する過程でもあった。
同人誌『丹青』掲載記事より

京都 桂川 秦氏により両岸流域が開発された 松尾橋からj上流を望む
2014.07.02
平安京遷都と秦氏一族(6)

京都東寺 平安京遷都後796年建立 世界文化遺産

3)平安京造営を推進した秦氏一族の官僚たち
平安京遷都に秦氏一族がどのように関り、いかなる役割を果したのか
行政・財政・技術の面から見てみる。
平安京遷都の提唱者は初代造営使長官となった藤原小黒麻呂である。
藤原小黒麻呂の外戚秦島麻呂は聖徳太子に仕えた秦河勝の嫡孫で、
秦氏一族の最有力者であった。島麻呂のバックアップによって、
小黒麻呂は造営長官として遷都造営の任務を遂行したと思われる。
その子葛野麻呂は小黒麻呂の死後、造営使次官となる。
二代目造営使長官は和気清麻呂(渡来人漢氏)で秦朝元(はたのちょうがん)らと
関係が深い。秦朝元は僧弁正の子で民部省の主計寮の頭(長官)を
務めた.医術、文学(『万葉集』に採録)に明るい秦氏の長老であった。
菅野真道は百済系渡来人で造営使次官を務め『続日本紀』を編纂した。
その他、秦智麻呂(ともまろ)は民部省主税寮の助(次官)、
秦足長(あしなが)は主計頭、太秦公宅守(きみのやかもり)は主計助、
秦都伎麻呂(いみきつきまろ)は造宮少工を務めた。
主計寮、主税寮は現在の大蔵省に該当し、古代国家の財政の中枢である
造営事業が巨大な出費をともなうことを考えれば、主計頭・助などの地位にある、
秦氏が遷都・造営に深く関与し、貢献したことをうかがい知ることができる。

平安京遷都・造営と同時期造苑
3)秦氏の財政協力
長岡京、平安京遷都・造営に秦氏一族が貢献したことを 最初に明らにしたのは
喜田貞吉である。喜田は「日朝同祖論」者で「朝鮮併合」を主張した学者であった。
彼は1925年、研究雑誌に平安京遷都・造営において秦氏一族が土地の提供、
財政援助について次のように論じた、
「河勝が聖徳太子の奉じて造った広隆寺は、現在、京都市の西方太秦にあるけれども
平安京造営以前は大内裏となる河勝の邸宅付近に建てられていたものである。
広隆寺の古縁起によると、もとは荒見川、すなわち今の紙屋川の付近、
おそらくは北野神社・平野神社などの方面にあったもののようである。
北野はすなわち大内裏の北の野である。おそらくこの付近一帯
河勝の邸宅地であったと察せられる。
平安京は山城北部地方で有力であった河勝の一族と地理的にも深い関係にあった。
おそらくその河勝の正嫡を承けたと思われる島麻呂は、もと河勝の邸宅たりし
平安京大内裏の地をも伝承しておったと察してよかろうと思う。
かくて今やこの島麻呂の女を妻とした小黒麻呂が、造宮職の長官となり、
その島麻呂所有の河勝旧邸の地が新宮の敷地として選ばれた。
平安京の経営の資が少なからずこの島麻呂の家より出ていると
解するはしかるべきことと思う。…はなはだしき国庫の窮乏のさいに当り、
この秦氏の因縁最も深き土地に移って、これが無難に成功するに至りたる奇現象は、
これ以外に解釈を要る余地はなかろうと思う」(研究誌『帝都』1925年)
秦氏の財政的援助は「補助的な援助にすぎない」(村井康彦)との見解もあるが、
林家辰三郎、上田正昭、井上満郎、大和岩雄ら多くの渡来人、
平安建都の研究者、専門家は平安京遷都・造営における協力は
歴史的な事実で認めるだけでなく、その貢献度は大きいと主張している。
秦氏が一族が土地の提供や財政的支援することによって、
新都・平安京建設が促進されたことは疑う余地はないだろう。

大極殿遺跡碑 千本丸太町
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