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見る愛宕山から比叡山を
  愛宕山から東の比叡山を望む 中央に京都盆地市街が広がる

四、平安京遷都・造営における秦氏一族の貢献  

 1)長岡京遷都の失敗

 遷都とは、それまでの政治・経済・文化の中心地を移すことであるが、

  社会改革をともなう革命的な大事業である。

  財政的負担も大きく朝廷政権の命運に関わる重大な政治問題でもある。

  それでも桓武天皇が長岡に遷都を決意したのには次のような理由があった。
 
  桓武朝廷の新体制の確立、崩壊しかけた律令体制の再構築、

  旧都(平城京)の守旧勢力の排除と仏教の腐敗堕落との絶縁、

  乙訓郡長岡は淀川の上流で河川を利用する交通の利便性、

  この地域を開拓した秦氏一族の支援が期待できた。

  また、桓武天皇にとってこの地(乙訓郡大江)は、少、青年期を過ごした故郷であり、

  母高野新笠出身氏族百済王氏(くだらのこにきし)の本拠地・難波百済郡と

  河内交野郡が(大阪枚方市)隣接していた。

  桓武天皇は即位から3年後、平城京(710~784)を捨て長岡京へ遷都した。

  しかし、この遷都はわずか10年で失敗に終った。
 
       長岡京
           
       長岡京大極殿復元(模型)
          長岡京大極殿復元(模型)

  造営長官・藤原種継が暗殺され、容疑をかけられた草良親王(桓武の実弟)の

  憤死による怨霊がつきまとい、2度の大洪水被害などが

  長岡京失敗の理由とされているが、本当の理由は定かでない。


 2)桓武天皇の平安京遷都決意

  桓武天皇が長岡京から山背国葛野郡宇多村に新都を遷す決意を固めた。

  なぜ、山背葛野郡に遷都を決めたか3つの理由があげられる。

  まずあげられのは、渡来系氏族・和気清麻呂らの強い推薦があった。

  二つ目の理由は、風水説による4神相応、三山信仰の理想的な都邑地であった、

  つまり、北方(玄武)に高峰をいただき、東方(青竜)と西方(白虎)に丘陵めぐらし、

  南方(朱雀)に河が流れ、中地地は盆地になっていて、その前方が開けた

  平地をもつ四神相応、三山信仰の地勢が都邑地にふさわしい。

  因みに、平城京も長岡京も四神相応の地相、三山信仰にもとづいて造営されている。

  三つ目の理由は、都邑地の中心となる葛野郡宇多村は秦氏一族の根拠地であり、

  遷都・造営には彼らの協力が期待できたからである。

  秦氏一族はすでに山背盆地開発に多大な実績をつみ、

  長岡京造営でも彼らの支援協力の経験があった。

  実際に彼ら一族は財政、土木技術集団を擁する大勢力を誇示していた。

  秦氏の富豪ぶりは国家財政を担当する大蔵官僚を輩出していた。
 
  桓武天皇は長岡京をあきらめると、すぐさま藤原小黒麻呂(秦島麻呂娘婿)らを

  山背に派遣して新しい都邑地の選定にあたらせた。

  天皇自らも現地に赴き陰陽師に地相の吉凶を占わせた。

  そして、桓武天皇は最終的に葛野を中心とする山背盆地・

  秦氏一族の根拠地を都邑地にすることを決意した。

      s-img012.jpg
      秦氏の遺跡と平安京の相関図 『謎の渡来人 秦氏』より引用
大文字山
   京都盆地  大文字山から市街を望む 中央の森は京都御苑 背景は西山

   
  3)桓武天皇と百済王氏

  桓武天皇は即位すると、「朕が親母(みおや)高野夫人を皇太夫人と称して

  冠位上げまつり…
」と宣命し、高野夫人を正三位に上げるとともに、

  外戚の百済系和氏(やまと)に高野朝臣の称号を与えた。

  そして、「百済王氏は朕の外戚である.から、彼らに爵位を加増する」と

  百済王氏を称える異例の詔勅をくだした。

  桓武天皇は即位前、東大寺大仏の造立で功のあった

  百済王敬福(亡命百済王子=善光の曾孫)の孫娘・明信を寵愛した。

  彼女はすでに藤原継縄(つぐただ)の妻となっていたが、

  即位後、「いにしえの野中のふる道」での出逢いの「君こそ忘れたるらめ、、、」の

  和歌を贈り、尚侍(女官)として宮廷に迎え入れた。

  桓武は45才で即位し、70歳の退位まで23人の后と35人の子をもうけているが、

  その中に、百済永継・百済貞香・百済王教法の三人の渡来人女性を後宮に入れる。

  平安京が開かれる、桓武天皇は大和にあった百済系の神社を、 内大裏の近くに

  遷都した同じ794年、平野神社(京都市北区)として移し、歴代の百済王を祀った。
 
       平野神社1
            平野神社    京都市北区

  平野神社本庁刊の『神社名鑑』には、「祭神四座各々別殿に祀る。即ち、
 
   第一殿、今木大神(いまきのおおかみ)、外国から来た新しい神、

       桓武天皇の母・高野新笠の遠祖、百済聖明王(523~554)

       右1,2 
           左第二殿     右 第一殿

   第二殿  久度大神(くどのおおかみ)、百済聖明王の先祖仇首王(214~234)

   第三殿、 古開大神(ふるあきのおおかみ)、古は百済の沸流王(304~344)、

          開は肖古王(166~214)

            
       右3,4
          左 第四殿    右 第三殿

   第四殿 、比売大神(ひめのおおかみ)、高野新笠の祖神か高野新笠を祀る 

        総じて桓武天皇の外戚を祀ったもの…」と記されている。
  
  桓武天皇自身は同じ血族の外戚・百済王氏や百済王族の先祖ばかりでなく、

  他の渡来人も優遇、重要視したのは確かであろう。
   
  現在、平野神社は「桜の名所」としてしられ、重要文化財に指定されている。

      桜の名所
               平野神社境内の桜

  2、3年前、友人の案内で平野神社を訪れたのであるが、

  境内には神社建立の由来、、桓武天皇の外戚・百済の王統を祀っていることを

  説明する案内板がないのでが不思議でならなかった。

 4)桓武朝廷の政治勢力
   
  父・光仁天皇からその地位を禅譲された桓武朝廷には、崩れかけた律令体制を建てなおし、

  東北地方の蝦夷征討と遷都、いわゆる「軍事と造作」の二大軍事・政治課題があった。

  これらの課題を遂行するために天皇自身リーダーシップ(統治能力、政治手腕、徳性)が  

  要求される。 また、天皇がリーダーシップを発揮するためには、

  天皇を補佐するブレーンたちの役割と支持勢力の結集が欠かせない。

  桓武朝廷の確固とした政治基盤となったのは、光仁・桓武天皇を誕生させた

  功労者の藤原氏と、その藤原氏と深く結びついていた渡来人の秦氏一族、

  そして桓武の外戚・姻戚関係の百済王氏一族であった。

  桓武天皇は彼らを側近・要職に登用し、彼らはまた桓武朝廷の権力安定と維持に勤めた。

  桓武は太政官人事で藤原種継(たねつぐ)、中納言に藤原小黒麻呂(こぐろまろ、)を

  要職に抜擢した。種継の母は秦氏一族の秦朝元(ちょうがん)娘であり、

  小黒麻呂の妻も、恭仁京の造営長を務めた秦島麻呂(秦河勝の後裔)の娘である。

  桓武天皇はこうした朝廷内の体制を整え、遷都と云う大事業を強力に進めた。

       桓武天皇
           桓武天皇陵   京都市伏見区桃山

  
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京都盆地 市街図 中央の森は京都御苑 右に鴨川が見える

三、桓武天皇の誕生  
 
  桓武天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の孫である光仁天皇(白壁王)を父に

 、百済系氏族出身の高野新笠(たかのにいがさ)を母として、

  737(太平9)年に生まれ、幼名を山部王と称した。

 1)父方の血統

  桓武天皇の曽祖父・中大兄皇子(なかのおうえ)は、660 年に滅亡した百済を

 復興するための救援軍を派遣した。救援軍の中に滞在中の百済王子・豊璋はじめ

 百済からの渡来人・亡命遺民らが加わっていた。

 救援軍の先頭に斉明天皇が立って出陣したが九州で急逝した。中大兄皇子の指揮下の

 百済復興救援軍は白村江(錦江)口で唐・新羅連合軍と戦い敗北した。

 その後、中大兄皇子は百済の官人・貴族の余自信,、谷那晋首、木素貴子、

 きょ億礼福留らとともに帰国、天智天皇となり近江朝を開いた。

 天智天皇は彼らに法官、学職頭、兵法、薬方、陰陽等の官職を与え登用した。

 百済の官人は行政面から近江朝を支え、朝廷周辺に多くの百済人が住み着いた。

  『日本書記』によると、665年に、百済の民400余人を近江国の神崎郡に移され、

  また、669年には余自信(よじしん)、佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら700余人

  百済の男女を近江国蒲生郡に移されたと記されている。「佐平」は百済第一の官位で、

  鬼室集斯は近江朝では学問を司る長官「学識頭」を務めた。

      s-鬼室神社
       鬼室神社 鬼室集斯の墓碑 滋賀県蒲生郡日野町

  近江朝はさながら「百済の国をそのまま移してきた」かのような有様で、

  天智天皇と百済とは密接な関係にあったことを覗わせる。

  天智天皇の近江朝は「壬申の乱」(672)によって滅びた。

  勝利した天武天皇(天智天皇の弟・大海人皇子)は都を飛鳥に移した。

  以後の約100年間、天武天皇の子孫によって皇位を継いだが、

  称徳天皇の逝去より天武系王統は断絶した。皇位は天智天皇の孫、光仁天皇が受け継ぎ、

  次いでその子の桓武天皇が781年(45歳)で即位した。

2)母方の血統

   桓武の母・高野新笠は、百済25代武寧王(501~523)の子純陀太子の後裔である

  渡来人和乙継(やまとおとつぐ)の娘であり、新笠の母も同じ百済からの

  渡来人土師真妹(はじのまいも)である。したがって、

  桓武天皇は百済系渡来人の血脈が流れているのである。
 
           s-img008.jpg
              桓武天皇 母方系譜図

     
      s-高野新笠
        高野新笠           京都市西京区大枝                

  桓武天皇は成長する過程の環境もまた、百済王氏(くだらのこにきしうじ)、

  秦氏等の渡来系氏族らが多数定着する地域でもあった。

  桓武の父・光仁天皇は不遇の時代がながく、即位したのは63才であった。

  そのため山部王もまた、皇太子となる37才まで日の当たらない所で過ごした。

  この間の山部王の記録は残されていない。彼は幼少期、青・壮年期に至るまで、

  母方の百済王氏一族の住む山背国乙訓郡(向日市)で過ごしたと思われる。

  乙訓郡には秦氏をはじめ高句麗からの渡来人も少なからず住んでいた。

  また、隣接する難波百済郡河内交野(大阪枚方市)は百済王氏一族の拠点となっていた。

    s-百済王神社
            百済王神社   大阪枚方市交野
  
  このような山部王の血脈と生活環境は、天皇という最高の地位・絶対権力者となった

  桓武の思想や政治活動に影響があったと思われる。
    桂川
        京都名所嵐山 小倉山・渡月橋・桂川

二、秦氏一族による京都盆地(山背=山城)開発
  

  京都盆地は奈良の平城京から見ると、山のうしろ側、山背(やましろ)と呼ばれた。

  山城には葛野(京都市右京区、西京区)紀伊(伏見区)、愛宕(左京区)、宇治、

 乙訓(向日市,長岡市)、相楽(木津市)等の郡があった。

  秦氏は平安京遷都の時期に突然に現れた氏族ではない。

  秦氏は5世紀前半、瀬戸内海から淀川を上り、葛野郡、紀伊郡に入植・定着した。

  彼らはこの地域を開拓し、さまざまな生産活動を行って8世紀までには

 「富裕な氏族」として成長した。

1)紀伊郡開発と秦大津父

  紀伊郡深草の秦大津父(おおつち)は欽明元年(539年)大蔵の長官となり、

  族長の待遇をうけ秦氏の民を管理した。このころ秦氏一族はますます繁栄し

 大いに暁富(にぎわい)を致す」と記されるまでになっていた。

  繁栄は人口の増加につながり、秦の民が92部18、700名に達したという。

  最近、山城盆地の木津川の左岸、精華町に森垣内(もりがいと)遺跡から

  朝鮮半島の陶質土器をとともに大壁立ちの住居が発掘された。この遺跡は、

  渡来人による窯業、鍛冶をはじめ紡織などが生産された集落跡である。

  5~6世紀、この地域には渡来人の中でも、秦大津父をはじめ秦氏一族が

  集中していたことから、秦氏居住の痕跡と見られる。(『京都と京都街道』水本邦彦)

  紀伊郡の秦氏一族の活躍で見逃すことの出来ないのは、稲荷神社創建である。

  『伏見稲荷大社略記』には、711年(和銅4年)深草の長者、秦伊呂具が勅命を受け

  三柱の神を伊奈利山の3ケ峰に祀ったのに始まると記されている。

  また、『山城国風土記』には、「伊奈利と称するのは、秦中家(はたのなかつへ)らの

 遠祖秦伊呂具公は稲や粟などの穀物を積んでゆたかに富んでいた。

  それで餅を使って的にして矢を射ると餅は白い鳥となって飛んでゆき山の峰に下り、

  そこに伊禰奈利(稲になる)生いたので、ついに神社の名とした
」と記され、

      s-稲荷
          京都伏見稲荷大社

  稲荷神社は稲の生長、豊作を願う農耕神である。

  稲荷山には一の峰、二の峰、三の峰があり、それぞれの山頂に4世紀後半のものと

  推定される古墳が残っている。秦伊呂具が稲荷神社を創建する以前から

  稲荷山にたいする民間の信仰はつづいていた。秦氏一族が深草に定着するのが

  5世紀であることから、この地の開発を進めた秦氏が土着の民間信仰ととり込み、

  秦氏一族の稲荷山信仰となり、秦伊呂具による稲荷神社創建であったと思われる。

       s-稲荷2
         稲荷神社 参道鳥居群

現在の稲荷神社が商売繁盛を願う商いの神になったのは後世になってからである。

  日本全国に稲荷神社は3万5千~5万と推定されている。数字が正確に計算できないのは、

  個人の館内に稲荷神(キツネ)を祀っているところがあり把握が出来ないからであろう。

  秦大津父の活躍以後、秦氏の中心地は南山城の紀伊郡から北山城の葛野郡へと移った。

2)葛野郡開発と秦河勝

  最近、嵯峨野周辺から秦氏の族長級のものと思われる古墳が多数発掘さ れている。

  その多くが5世紀後半から平安朝初期のものである。

  秦氏一族が巨大な勢力を築いていたことがうかがえる。

  秦氏一族の入植と彼らの開拓・ 生産活動によって平安京遷都の基礎が築かれた。  

(1)秦氏の治水開拓事業                   

  葛野川(桂川)の両岸は現在の右京区と西京区である。この領域は湿潤地で、

  たびたび川の氾濫が起こり荒廃地となるため定着が難しいところであった。

  5世紀初、秦氏一族は大阪湾から淀川上流のこの地方に入植し、開拓を始めた。

水路
         秦氏の大堰築造付近 現在図

  まず、秦氏一族が始めたのは、川の氾濫を防ぎ、水の流れを調節して両岸下流域を

  開墾するための大堰築造の工事であった。当時の土地住民には思いも及ばない

  難工事・大工事であったが先進土木技術をもつ秦氏一族はこれを完成させたのである。

  このときより葛野川を大堰川(おおい)と呼ばれようになり大堰川両岸の流域の

  開墾地が拡大していった。

        大井現在の
             現在 大堰の風景

  『秦氏本系張』には「葛野大堰を造る。天下に於いて誰か比検すること有らんか」と記し、

  秦氏の偉業をたたえている。

  渡月橋を南詰めから阪急嵐山駅方面に向って少し左に入った所に、一の井堰碑立っている。

  碑には「秦氏が5世紀頃に大堰を築造し、15世紀には松尾、桂、岡の10ケ郷の

  農地灌漑用水路として機能していた
」(一之井堰並通水利組合 1980年)と記されている。

       s-img006.jpg
                 葛野大堰の碑

 現在、嵐山渡月橋上流付近に見られる堰堤は、当時の原形ではないが、

  堰堤の両側の溝に大量の水が流れていく当時の様子がわかる。

  渡月橋からこの堰堤を眺めると、千数百年前に秦氏一族が平安京開発にいかに

  尽力したか思い知らされる。

   詳細は省くが、秦氏一族は賀茂川上流の高野川の改修土木工事も行った。

(2)秦氏の農業、養蚕業

  大堰築造により桂川流域に用水が引かれて、左岸の嵯峨野、太秦、花園、山ノ内、

  右岸の松尾、上桂、桂、下桂、川岡、物集、向日町等地域の荒廃地が開墾され

  農耕地が拡大した。そして稲作をはじめ農作物のとなりこの地域は急速に発展した。

  これらの地域の繁栄は秦氏の氏神を祭る神社建立となって現れた。

  その代表的なものが、秦都理によって711年建立された松尾大社である。

  この神社の神官は秦知痲留女(ちまるめ)をはじめ代々秦氏一族が務めた。

  もとは農耕神であったが、江戸時代のころから酒造の神「日本第一醸造祖神」として

  仰がれるようになった。

      s-松尾大社
              松尾大社 

農作物の増産とともに発展したのは養蚕と機織である。

  秦氏一族は養蚕を盛んに行い、絹織物生産の拡大によって巨大な富を得た。

  現在も残る太秦広隆寺の隣に「蚕の社」(かいこのやしろ)養蚕神社がある。、

  正式名を「木島座天照御魂神社」(コノシマニマスアマテルミムスビ)といい、

  この神社は秦氏の養蚕、蚕神信仰によって建てられたと『続日本紀』に記されている。

  秦氏が養蚕によって繁栄したことを物語るものであろう。 
   
      蚕ノ社
                蚕ノ社

 八世紀頃、嵯峨野地域の耕作者114人中、秦の勢が82人と記されている、

  この地域に秦氏が大半を占め、その繁栄を示している。

(3)秦河勝の活躍

  葛野の秦河勝(生年未詳、推定565~645?)は秦氏一族の中で最も活躍し、

  歴史上にその名を残した人物である。彼は聖徳太子(屁戸皇子574~622)の

  側近中の側近で、太子からあつい信頼を受け、護衛・政治・外交・軍事を補佐した。

  彼は冠位十二階のなかでの高い冠位である小徳を与えられた。 
    
  秦河勝に関する説話を『古事記』、『日本書紀』、『新撰姓氏録』等からとり上げてみる。

  ① 推古11年(603)、皇太子(聖徳太子)は諸の太夫に、自分は尊仏像を有するが

  、「誰かこの仏像を礼拝するものはいないか」と言われた。このとき、秦河勝が進み出て、

   「私が礼拝をいたしましょう」と答え仏像をもらい受けて、蜂岡寺(広隆寺)を建てた。
 
  この時、秦河勝が聖徳太子からもらい受けた仏像が現在、広隆寺に安置されている

  「宝冠弥勒菩薩半跏思惟像」ではないかと推定されている。

       s-P6111025.jpg
             広隆寺  弥勒菩薩像

この仏像は「永遠の微笑」、「>神秘な微笑」の像といわれ、現存する仏像の中でも

  最も「美しい表情」をした仏像と云われている。「国宝第1号」に指定された傑作である。

  朝鮮産赤松を原材にした造られた一本彫りで、この仏像に酷似した「金銅弥勒菩薩像」が

  慶州(新羅の首都)から出土した。(現在、ソウル国立博物館所蔵)

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         左 新羅金銅弥勒菩薩  右 広隆寺木造弥勒菩薩像
 
 この仏像が朝鮮でつくられたものか、日本でつくられたものか、見解の相違はあるが、

  朝鮮からの渡来人とゆかりの深い仏像であることは否定できない。

  「百歩譲って日本の赤松で造った仏だとしても、渡来の仏師が造ったものに間違いない
 
  (『京都のなかの渡来文化』 上田正昭)

 ② 推古18年(609)新羅と任那の使人が入京して朝廷を拝したが、この時、

秦河勝は土師連兔(はじむらじう)とともに新羅の使人の導者(先導者)となった。

 ③ 崇峻紀(587~592)秦河勝は「軍政」(軍政人)として軍を率いて厩戸皇子を護り、

   厩戸が放った矢が守屋の胸にあたると、すすんでその頭を斬ったとある。

   河勝が物部守屋討伐に活躍したことを物語るものである。

 ④ 推古12年(603)、厩戸皇子が山背の門野村に至り、この地に後世、

   帝都がつくられることを予言し、蜂岡の南に宮を建てること、この時、秦河勝は

   己が親族を率いて支えたので、喜んだ厩戸は河勝を小徳に叙し、宮を預け、

   新羅から献上された仏像を賜り、宮の南の水田数十町と山野の地などを与えた。

 ⑤ 秦河勝は日本における舞楽(猿楽、能)の始まりに関係したとされている。

   能役者の世阿彌は自らを河勝の子孫であると『風姿花伝』に記している。

   室町時代の能役者金春禅竹(河勝の子孫)は能樂家の氏寺・秦樂寺建立した。

 ⑥ 皇極紀(644)東国の富士川のあたりから来た大生部多(おおふべのおおし)と

   いう人が、蚕に似た虫を常世の神と称して虫をまつることをすすめた。

   この虫をまつると貧しき人は富をいたし、老いたる人も長寿をもたらすといって

   虫を飼うことをすすめたので、この俗信はたちまちひろがり、民家は財宝をすて

  、あらそってこの常世の虫を神として祭った。この俗信が山背にひろまって来たとき、

   秦河勝は民を惑わしたとして大生部多を打ちこらしめたという。

   以上のような説話からも分かるように、秦河勝は6世紀後半~7世紀 にかけて

   秦氏一族を代表する人物であった。

             s-秦河勝
           秦河勝像(広隆寺)

   秦河勝は「富蓉の家」人、 朝廷内で最も活躍した人物であったと言えるであろう。
  
   秦氏一族の活躍、繁栄を示す古墳が桂川(葛野川)北岸の

   嵯峨野地域に多数発見されている。太秦古墳群と呼ばれ、これらの古墳群から

   秦氏がいかに大集団氏族であったかをうかがい知れる。
   
   太秦の面影町にある全長30mのいわゆる前方後円墳である、

   蛇塚古墳は河勝の墳墓ではないかと推測されている。確かなことは解からないが、

   秦氏一族が太秦を中心に繁栄していたことを物語っているのではないか。

               同人誌『丹青』8号掲載記事より





 はじめに  
 
 歴代天皇の中でも聖王といわれる桓武天皇は794年、平安京遷都に際して、

 「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り来たらんことも便にして・・・

  この国、山河襟帯自然に城をなす。この景勝により新制すべし、よろしく国名・山背国と

  改めて山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同音に平安京という


  と詔勅を発し、 新しい時代の到来を宣言した。
 
  以来400年間、新都にきらびやかな平安文化が花開いた。

  平安京を母体に千二百年の歴史を刻んだ京都は、日本人の心の故郷となった。

  世界文化遺産に登録されたこともあって、文化都市京都には日本全国津々浦々から
  また、外国からも多くの観光客が訪れる。

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           京都名所   清水寺

  この平安京遷都・造営には、朝鮮半島からの渡来人が深く関わった。

  秦氏一族は早くから山城地方(京都盆地)を開拓、遷都の基礎を築いたばかりでなく、

  桓武朝廷による平安京造営に積極的に協力・貢献した。まさに、

  平安京遷都・造営は秦氏一族の協力・貢献なくして、不可能であったと云われる。

  秦氏が平安京建設で果した役割・貢献について、古代史研究者、専門家は

   史実として認識しているが、歴史教科書に載せられていないこともあって、

  一般的にはあまり知られていない。

  筆者は、先学者たちの研究にもとづいて、平安京遷都・造営に秦氏一族が

   いかなる役割・貢献したかについて記してみたい。


1、 秦氏一族による京都盆地(山城)の開発

Ⅰ)朝鮮半島から秦氏一族の渡来

  古代の巨大な氏族集団であった秦氏の日本への渡来は

  4世紀後半~6世紀と考えられている。

  当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国による覇権争いが絶え間なかった。

  中でも、北方の高句麗が次第に勢力を伸ばして百済、新羅に侵攻した。

  百済、新羅は次第に国境の南下をよぎなくされた。

  朝鮮半島南部海岸にあった加羅(伽耶)地方の小国民は

  南下する百済・新羅の挟撃にさらされ戦乱から逃れるように

  集団的、波状的に日本列島に移住・渡来してきた。

  また、加羅系だけでなく、百済系、新羅系の人々も渡来してきた、

  その中に秦氏一族も含まれていた。

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     5世紀 高句麗の拡大と百済・新羅の後退 (韓国歴史教科書引用) 

 秦氏一族は最初、北九州に定着した。とくに豊前地方には多くの秦氏一族が集中し

 「秦氏王国」(『日本にあった朝鮮王国』大和岩雄)を築くまでになった。

 「王国」を築いた説については、もう少し検証する必要であるが、

 秦氏が巨大な勢力であったことは間違いなく事実であろう。、

 秦氏は仏教や儒教などの思想と、土木、建築、製陶、機織、造仏、絵画など
 
 さまざまな新技術を持った殖産的集団であった。

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     高句麗、百済、新羅三国文化の日本伝播  (韓国歴史教科書引用)
    
  やがて秦氏一族は瀬戸内海の沿岸を北上し、

  西日本一帯と日本全国にその勢力を拡大していったと考えられる

  秦氏が何処から日本へ渡来して来たかについては

 、新羅説、百済説と加羅(伽耶)説があり、古代中国節もある。、

  加羅(伽耶)は小国群で現在の慶尚南道南海高霊、金海、咸安地方である、

  加羅が新羅に併合される以前、以後、この地方から移住してきた説である。

  また、古代中国説として秦氏は秦国(前221~205)始皇帝の後裔説がある。
 
  ① 高句麗に設置された漢四郡の半島内にあったとされる楽浪郡、帯方郡から

    渡来した。                
 
  ② 秦始皇帝の14世子孫、功満君が仲哀期に渡来した。
  
  ③ 応神紀(270~310)に始皇帝の末裔、秦氏祖・弓月君が

    120県の人夫を率いて渡来した。

 いずれの説も始皇帝の秦が倒れて500年以上経過していることから信憑性がない。

  筆者は、秦氏一族は新羅に併合される前の加羅地方から、

  併合後の新羅 から渡来してきた説を有力視している、

2)ハタ(秦)、ウズマサ(太秦)の由来 
 
  なぜ、秦をハタと読み、太秦をウズマサと呼ぶようになったか?
 
 (1)ハタ(秦)の由来
  
  ① パダ(海)説、  海を渡って来た人々。
  
  ② ハタ(機織)説、 機織る人々。  
  
  ③ ハダ(体)説、  秦氏が織った布が肌膚(ハダ)に温かい。       
  
  ④ 地名説      慶尚北道蔚珍郡の波旦(パタン)から渡来した。
   
  以上、四つの説があるが、どれも決定的な根拠はない。

  ただ、渡来人の秦氏に次ぐ大勢力であった「漢」(アヤ)氏は

  現在の慶尚南道咸安地方の 安羅(アンラ)出身者である。

  安羅出身者をアヤと呼ぶのはアンラをハングル(朝鮮語・韓国語)で

  発音するとき転化して「アヤ」と呼んだためである。

  安羅出身のアヤ氏に「漢」の漢字が当てたのは、後に彼らが

  後漢(105~230)霊帝の子孫であると称えたためである。

  これに対抗して、秦氏は漢よりも古い秦国・始皇帝(BC200~200)

  の子孫であると称え、 ハタに「秦」の字が当てられたと考えられる。

  渡来氏族が競って中国古代大帝国の秦、漢などの漢字が当てたことは、

  当時、すでに朝廷内に中華思想が浸透していたのであろう。

 (2)ウズマサ(太秦)の由来 
  
  太秦(ウズマサ)の地名が最初に登場するのは『日本書紀』の雄略紀(456~479)

  「秦の民が、四方に分散していて各豪族に使われて、

  秦造(みやつこ)の思うままにならなかった。

  秦酒公(さかのきみ)が、それを嘆いていたので、天皇は詔をだして

  秦の民92部1万8670人を 集めて酒公に賜った。

  そこで酒公は百八十種の勝部を率いて、庸調の絹・かとりを朝廷にたてまつり、

  それが朝廷に充積された。そこで禹豆麻佐(ウズマサ)という姓をあたえられた
。」

  天皇から与えられたウズマサの姓がそのまま

  秦氏の根拠地を太秦の地名になった説をはじめ、  いろいろな説があるがあるが、

  筆者は次のように考えている。
 
  秦氏の姓の一つに「勝」(マサル)があり

  「勝」姓をもつ者が秦人・秦人部・秦部を支配する立場にあった。

  ハングル(朝鮮語・韓国語)で支配者・組織の最高位・トップに立つ

  人のことを「ウズ(ドウ)モリ」と呼ぶ。

  したがって、秦の族長・太=大人(ウズモリ)と「勝」(マサ)が合成されて、

  ウズモリマサがウズマサと 簡略化かされ、

  「太秦」をウズマサと呼ぶようになったと考える。 
 
  ウズモリマサ=秦河勝が居住している場所が

  そのままウズマサ=「太秦」の地名になったのではないかと考えている。、

  現在の京都市右京区秦河勝が建立した広隆寺の場所が太秦である。
  
広隆寺 
        京都太秦  広隆寺

                          同人誌『丹青』8号記載記事より
 







 21世紀に入った2001年、定年退職した在日コリアン有志が集まり

 サークル「丹青会」を結成した。

 このサークルは朝鮮半島の統一問題をはじめ朝鮮の歴史、文化、科学技術、

 在日コリアン、日・朝関係問題等の勉強会である。

 3ヶ月ごとに定例会を開き、そこで勉強した主題と内容をまとめて1年ごとに

 同人誌『丹青』を発行してきた。

 2003年4月に創刊号から毎年1冊づつ積み重ねたが8号をもって終刊となった。

 終刊になった理由は8号発刊直前、「丹青会」の発起人であり、

 常にリーダーシップを発揮してきたK氏が他界したためであった。

 メンバーの誰もが近い将来、必ず復刊し9、10号を出す意志を持ち続けている。
 
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             『丹青』誌 1~8号

 筆者は「丹青会」結成当初から参加し、『丹青』創刊号から8号まで8編の論稿を掲載した。

 筆者の論稿を読んだ読者・友人からブログ記事にすればと積極的な意見があり、

 また、東大和市民ネットの仲間の勧めもあって、

 これまで『丹青』誌に載せた記事の中から、 何編か選んで次回から掲載する。

 今回は『丹青』創刊号の巻頭言を紹介する。

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            『丹青』創刊号表紙と巻頭言

 「二年間の結実を公開して、同人誌『丹青』の創刊号をだす。

 <丹青>とは、『漢書・蘇武』にある『丹青所画』を典拠とする熟語で

 朱色と青色、色彩画を意味する古語である。

 わたしたちは、あえてこの<丹青>という古語を現代に復活させ、

 同人会の呼称に、さらに同人誌の表題に採用した。

 いま、<丹青>という語はわたしたち同人の価値観、死生観を

 凝縮させた語としてよみがえる。

 在日同胞社会の中堅であったわたしたち2世も、歳月の流れともに

 いつしか還暦、定年を迎え、社会活動の一線から退く 世代となった。

 人生九十年の時代を迎えて、第二の人生をどう主体的に生きるのか、

 それはけっして<老後、余生>といった消極的な言葉で包摂されてはならない。

 わたしたちの前途にも豊かな可能性をはらんだライフステージがある。

 このかけがいのない第二の人生を自己の実現をめざして積極的に生き、

 円熟した絵筆でカンパスいっぱいに彩色豊かな絵を描こうではないか、

 これが<丹青>の第一義である。

 <丹青>の<丹>は丹心、赤心を意味する丹である。わたしたちはタテ組織社会の

 地位や肩書きにいつまでも執着しない。権威に屈し、財富におもね、

 不条理に沈黙した人間の弱さを省みる。わたしたちは互いに知性と人格を尊重する

 ヨコ組織、損得勘定を超えた人間関係の共同体の構築をめざす。

 同人たちを結ぶ絆はただひとつ、丹青の丹である。

 わたしたちの生の活力源は、祖国、民族そして同胞への愛である。

 21世紀を迎え祖国・朝鮮はいま分断と相克の歴史を止揚して、

 統一と和解の歴史へと転換しつつある。

 わたしたちは、祖国と民族そして同胞への愛を心に深く秘め、良心の命ずるままに

 激動する祖国と在日の歴史に関与するつもりである。一片丹心―これが丹青の理念である。

 同人誌『丹青』は、わたしたち同人が勉強会で語りあった主題と内容、

 山歩き会や飲み会の思い出を編んだものである。素人にとる手作りの私製本ではあるが、

 わたしたちが第二の人生の出発点で編んだ意義深い記念碑でもある。

 ひとはなにかをつくり、なにかを生み出すことで人生をこよなく楽しむ。

 わたしたちは丹青会の日々の活動の中でこの楽しみを体験している。

 丹青の<丹>は、赤子を生みだすという意の<誕>、 あかい太陽が

 地平線上にある意の<旦>と同系の文字であるという。

 まずは始めること。これが<丹青>のもうひとつの含意である。」