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    江戸城中の「馬上才」公演


 第10次朝鮮通信使一行が江戸入りして、くり広げられた華麗なパレード(唐人行列)は、江戸庶民を魅了し強烈な印象を与えた。

 一方、江戸城中では将軍をはじめ幕閣、老臣、諸大名たちが、通信使一行の江戸往来を楽しみにしたのは、なんといっても朝鮮の伝統武芸・「馬上才」(参照「朝鮮通信使19」)の観覧であった。

 江戸城1
        江戸城中図

 江戸城中における「馬上才」の公演は、三代将軍・徳川家光時代から恒例の行事となっていた。

 朝鮮通信使の幕府への「国書伝達」は、最も重要な公式行事である。その行事を円満に挙行するため、日・朝双方と対馬藩は事前に協議を重ねて意見の違いを調節した。そして当日の「国書伝達」は江戸城大広間で儀式として厳かに行われたのである。
 
 「国書伝達」の儀式が終わると、城中の武士たちの関心事は、毎回人気を博している「馬上才」の公演にあつまる。

 「馬上才」とはどのようなものか、先に記事・「朝鮮通信使19」でその歴史と何枚かの絵図・「韓人戯馬図」を紹介したが、今回は同じ絵図を使って映像風に編集してみた。


     クリックしてご覧ください。 

 二人の騎手が、馬上に立ったり、逆立ちしたり、走る馬上で横臥したり、馬上から地上の物を拾ったり、二頭の馬を1人の騎手がまたがって走ったりして、8種目の曲芸・妙技を演じている。

 こ゚の公演に、将軍・家重はもちろん世子の家治(11歳)、そして二日前に行われた「国書伝達式」に欠席した大御所・吉宗も姿をみせ、父・子・孫の将軍家三代がそろって見物したというから、「馬上才」の人気は大変なものであった。

 馬上才を見物する将軍、幕閣・大名ら武士たちの感嘆の声がもれ聞こえてくるようである。
  つづく
    朝鮮通信使の江戸入場

 1748年5月、第10次朝鮮通信使一行は、神奈川を経て多摩川(六郷川)を渡り品川で休憩後、出迎えの幕府役人に先導されて江戸に入場した。

 使節の正使・副使・従事官三使をはじめ堂上官、製述官、訳官、書記、医員、画員、写字官、馬上才等は、盛装、威儀をただし、輿上、馬上、随行員、護衛兵など長い行列をつくり、楽隊が高々と朝鮮楽を奏でながら江戸市中を堂々と行進した。

 それはまさに、豪華絢爛な大行列・一大パレード(唐人行列)であった。

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      行列の先頭を行く清道旗隊

 この行列を、ひと目見ようと江戸市中は庶民と周辺の農民であふれかえり、沿道の両側は老若男女で立錐の余地なく埋めつくされた。

 この頃、江戸の人口は100万人を突破して、京都、大阪の3倍になっていた。大阪、京都、名古屋を見てきた使節一行もあまりの人の多さに驚いたという。

 江戸の庶民は、諸大名の華やかな参勤交代の行列も、オランダの商館長、琉球人の行列もさほど驚かなくなっていた。

  見学5
       つめかけた江戸の民衆

 そのようなときに、日本が唯一、国交を保っていた朝鮮国の親善使節の来日は、異国の文化に接する絶好の機会となり彼らの好奇心を高ぶらせた。

 通信使一行の江戸来訪を前にして通信使関連書物や絵画などが売れていた。それは江戸の人々が、既に朝鮮の文化に強い関心をもっていたことを物語っていた。
 
  音楽隊
       朝鮮楽を奏でる楽隊

 昭和初期の朝鮮史研究者・中村栄孝は、
 「いまの祇園祭りを思わせる華やかさ一色につつまれ・・武家屋敷は大門をひらいて金屏風をたてて、どんすや紫絹の幕をはり、番人は麻のかみしもをつけて礼装した。また町中も金屏風や縮緬、御所染の幕で念入りに飾られ、一行の通る道すじの家々は軒を切りそろえ、商人は仕事を休んで歓迎に加わるという盛大さ」(『日本と朝鮮』)であったという。

  朝鮮通信使一行と案内の対馬藩士・護衛官・荷役人・馬夫ら約5000人の行列が、約5時間かけて通過するあいだ、、沿道は歓声、感激、興奮につつまれた。まさに江戸時代最大の国際的親善のイベントであった。

  江戸入場
    「朝鮮人来朝図」(神戸市立博物館所蔵)
 
 幕府にとっては、朝鮮通信使の歓待は将軍一代の盛儀、幕府の権威を高める外交儀礼にすぎなかった。
 しかし江戸の民衆にとっては幕府の思惑とは違い、通信使行列を直接目撃して、隣国朝鮮に対して親近感を深めた。民衆は異文化に触れて素直に喜び、憧れ、感動したのであった。

  見物人
      通信使行列を見学する民衆

 朝鮮通信使一行の行列が、江戸庶民に与えた印象は強烈で、興奮はしばらく冷めやらなかった。見物の手引きとなる使節の登城行列絵本や1枚絵図などの刊行物が見物人の生涯の記念にと飛ぶように売れたという。

 その頃から神田明神(神田神社)の際礼や山王祭(永田町日枝神社)の祭礼には、朝鮮通信使行列(唐人行列)を真似た練り物や異国風服装の人物が新しく登場して、現在までも受け継がれているという。

 また、朝鮮通信使行列を描いた「朝鮮人来朝図」(神戸市立博物館)をはじめ、屏風、絵画、版画、絵馬など多数各地に残している。

 日本橋通りの呉服問屋・白木屋(現東横百貨店)は、店先に席を設け、通信使を見学する客に料理や酒をふるまって店の宣伝に使ったという。町人のしたたかさを知る挿話も残した。

 通信使一行がパレードを終えて、宿泊所である浅草東本願寺に着くと、門前で越前長岡藩主、豊前竹田藩主、大目付、寺社奉行らが多くの家臣を従えて、彼らを丁重に出迎えた。

 使節員一行は、ようやく長旅(ソウル出発から6ヵ月)の終わりとイベントの緊張感から解放されて、ホっと一息ついたと思われる。
 つづく

    江戸における警戒と警備

 1748年5月、10次朝鮮通信使が川御座船で淀川をさかのぼり京都へ向かう頃、江戸市中にお触れが出されていた。

「通り道はきれいにせよ。よけいな物は道路に置くな」
「牛車や大八車は、道路が荒れるので、通ってはいけない」
「火事を出さないようにせよ」など、

  多摩川
     「六郷渡舟」(多摩川)歌川広重画

 通信使一行が、江戸に近ずくと、お触れはさらに厳しくなった。
「火をおろそかに扱う者は捕えよ」
「火を焚く商売は、夕方6時で終了せよ」
「大きな火を焚く風呂屋などは、使節団到着当日は休業せよ」等々
 
 そして、通信使一行が江戸に到着すると、風呂屋の焚口には町内の者を立ち会わせ、もし怠って出火した場合は町内に罪が及ぶ連座制をしいて、互いに注意をうながした。

 幕府が朝鮮通信使を迎えて、これほど火事に対する警戒をするのには理由があった。
 7次使節団が宿泊していた馬喰町の本誓寺が、1682年の火事で焼失した。それも使節団が江戸を出立した3ヵ月後に起きた火災のためである。

 この頃、江戸では大小の火災が頻繁に起き、「江戸の華」と呼ばれまで火事が多く、2,3年に一度は大火があった。幕府・奉行は火事をもっとも警戒し恐れた。

  火消し
     火消しの出動 江戸時代

 万が一にも火事により、招聘した通信使に被害が及ぶことにでもなれば一大事である。朝鮮国との交隣関係の破綻はもちろん、幕府の威信が地に落ちるからである。

 幕府は本誓寺焼失後、通信使一行の客館を浅草本願寺に移し、不時の火災に備えて、築地本願寺や谷中の感応寺など使節の避難先を定めた。

 また幕府は、見物に際しては高声を発したり指を指したり、高笑いすることを禁じた。使節一行を見物する男性は酒を飲まないように、女性は華美な服装にならないように禁じたのであった。

 一方で幕府は、通信使一行の警備に対しても厳重な注意をはらった。

 名奉行とされた南町奉行の大岡越前守忠相を最高責任者とする警備体制を整えた。

     大岡忠相
        大岡越前守忠相

 そして、使節団が通る沿道に1万石以上の藩邸がある場合は、ろれぞれ護衛の家士を出させた。
 
 通信使一行が通過する、品川ー芝浦ー浜松町ー京橋ー室町ー本町ー浅草ー黒町ー諏訪町ー浅草本願寺までの各沿線区間の警備責任者が決められた。因みに芝浦ー浜松間は百人組・溝口式部直道が警備担当を任された。

  あんない
      通信使一行の先導護衛武士
 
 使節の江戸滞在は20~30日間、その間の浅草本願寺の出入り口、浅草橋門と芝口門、使節員の外出時の警備もそれぞれ別の警備担当者が決められた。

 こうして幕府・奉行は、朝鮮通信使一行の大江戸入場を迎えるあたって、火事の警戒とともに厳重な警備体制を敷いたのであった。

  警備2
      日朝双方で正使輿を護衛

 その間、厳しい町触れを守らなければならない町人にとっては息の詰まる日々であったと推測される。
 
 しかし、いよいよ通信使一行が江戸に入場すると、華麗な大パレード「唐人行列」をひと目見ようと沿道は人々でうめつくされ、江戸市中は興奮につつまれた。
    つづく

 
    通信使・川御座船に乗る

 朝鮮通信使一行は、大阪に上陸してから数日後、難波から川御座船に乗り換えて、淀川をさかのぼり京都に向かう。朝鮮から乗ってきた船6隻は、底が深いため浅瀬の川では航行できないからである。

  天地丸
     徳川将軍家の御座船 天地丸   

 淀川は、京都と琵琶湖から流れる桂川、宇治川、木津川が大阪北部の山崎付近で合流して大阪湾に流れる近畿最大の河川である。
 江戸時代、淀川を利用して大阪ー京都伏見間を「過書船」と呼ばれる30石船(28人乗り、船頭4人)が航行していた。
 
 朝鮮通信使が乗船する川御座船は、30石船よりはるかに大きく、しかも二階建ての屋形を設けていた。そのため、2倍近くの時間がかかったという。所要時間は、登り一日または一晩、下りは半日ないし半夜であったという。

 もともと川御座船は、四国の大名が参勤交代用に造営したもので、金銀箔がちりばめられ、色とりどりの幔幕で飾られた豪華船であった。地方の大名が国元から瀬戸内海を渡り淀川を上り下りするのに利用していた。
 その絢爛豪華さに使節団一行も目を奪われたという。

 難波橋から伏見の淀までおよそ32キロ、しゅんせつ船を先頭に曳船と両岸から千五百人の綱引き人夫が船団を引かせての航行である。
 
 通信使一行が乗る川御座船7隻に随伴する大小の船合わせて140隻が淀川をさかのぼるのである。船上で使節の楽員たちが立ち上がって陽気にチャンゴ(長鼓)や銅鑼を打ち鳴らし華やかな演奏をした。それはまさに絢爛豪華な船団の大パレードであった。
 
  淀川
      川御座船が航行した淀川地図

 これをひと目見ようと、守口、枚方、淀に至る川土手には立錐の余地すらないほど町人、農民ら群衆が押し寄せ、まるでお祭り騒ぎであったという。
 
 淀川の堤にひなだん式の桟敷を造り、席料を取ったり、弁当を売って銭もうけする商人も現れたという。
 
 また、この日に備えて頼母子講を作り、郊外から見物に来た農民もいた。
 
 河内の美具久留御霊神社には、通信使が乗る川御座船の絵馬が奉納された。この神社は、和爾宮(わにのみや)とよばれ、この地方を開拓した百済からの渡来人、王族一族の祖神を祀ったとされている。
 
 幕府は、隣国の客人を手厚くもてなすことによって、その威勢を天下に示そうとしたのであったが、民衆は厳しい規制にもかかわらず、通信使という異国人に興味津々、彼らがもたらす異文化を驚き楽しんだのであった。

  淀4
      江戸時代の淀船着き場の風景

 通信使一行は、臨時に設けられた淀の船着き桟橋・「唐人雁木」に上陸した。ここで一行は仮泊したり、しばし休憩をとった後、陸路をひたすら江戸に向かって旅をする。帰路も同様ここで船に乗る。淀はまさに陸路と水路の交差点(水陸歴程)の地であった。

    唐人碑
       通信使が上陸した地点
 
 現在の淀周辺の川筋は、様変わりして当時の風景は何も残っていない。通信使が上陸した船着き場は、陸の内部・京都市伏見区淀納所町に「唐人雁木旧跡」(とうじんがんぎきゅうし)と書かれた石碑が立つ場所である。

 朝鮮人をなぜ「唐人」と呼んだのか?
 江戸時代の日本人は、唐人は唐時代の中国人だけでなく、外国人を一般的に唐人と呼んでいた。朝鮮人も外国人とみなして「唐人」と呼んでいたのである。
 つづく


    大阪におけるエピソード


 1748年、10次朝鮮通信使一行が大阪に上陸すると、一人の朝鮮人が久太郎町の薫物屋(線香屋)四朗兵衛を探し訪ねたいと願いでた。
役人が通訳を連れて、その朝鮮人を四朗兵衛の店へ案内した。近所の町人が集まり黒山の人だかりになったという。

  歓迎4
    通信使一行を歓迎する大阪庶民

 朝鮮人は、「薫物屋四朗兵衛殿と申すのはこなたにございますか」と問うと、店の主人が「その通り」だと答えた。
 いぶかった朝鮮人は、「さては四朗兵衛殿は亡くなられたのか」と問うと、店の主人は「はい死去いたしました」と答えたのであった。
 朝鮮人は「とすると貴方は長吉殿と申す人ではありませんか」、
 店の主人は「そのとおり」と返答し、しばしこのような問答がつづいた。
  
 そこで初めて朝鮮人は、店に訪れてくるまでの不思議な経緯を話し始めた。
 「私儀、先年この御家に相勤めていました。紀州有田郡瀬名村の者で、お父上様の代に奉公致しましたところ、集金の銭、四貫文がままならず(売掛金がこげついた)、京都へ出稼ぎにゆきましたがうまくゆかず、長崎へ下る人を知り、一緒に下りましたが、ここでも難義しておりましたところ、対馬へ行った方が暮らしよいという人があり、対馬へ渡って6年間暮らして、朝鮮に渡る「通り切手」(渡航証明書)をもらって朝鮮に渡り、ある家の婿になりました。婿入り先が小役人の家だったので、このたび日本派遣の人員に加えられました。大阪にまいりましたら、昔の主人の家に立ち寄り右の事情を話したく思い、また紀州の様子や風間を承りたくて参りました。
 私が日本にいました時は、朝鮮人参の値段は一両につき300匁(約1㎏)であったように覚えていますが、今でもそうでしょか」と聞いた。

 店の主人・長吉が「左様です」と答えると、懐から朝鮮人参3本と小皿10枚を取り出し
 「これは、はるばる心がけて持参したものです。お受けとりください」というので長吉もこれを受けとり、
 「現在は知行(給料)をとっておられますか。暮らしの方はいかがですか」と尋ねた。
 朝鮮人は「6間(約12m)の間口、奥行き7間の住まいで、それ相応に暮らしております」と返事した。

  歓迎2
      通信使を見学する男衆
 
 長吉は銭二貫文をさしだしたところ、堅く断わり、
「もし、この銭を朝鮮にもって帰れば、15、6年は楽々と暮らせるでしょう。しかし百文だけいただきましょう」と申すので五百文を渡したところ「かたじけない、しかし隠してもち帰ることも難しいので百文だけ貰い妻にも日本には金銀が沢山あることを話します」(林復斎編『通航一覧』1853年)といって帰った。

 長吉がその朝鮮人参を薬種屋に持ってゆき見てもらったところ、銭1貫7百文になったという。

 江戸時代の相場では銭1貫7百文は米4斗(60キロ)分の値段であったから、朝鮮人参はかなり高価であったことがわかる。
 *金1両=銀60匁=銭4貫文=4千文

  歓迎1
      通信使を見学する女性

 この物語は、店の金が集金できないため、朝鮮まで逃げた紀州有田出身の元日本人が、自責の念にかられて、わざわざ通信使に混じって訪ねてきた物語であるが、江戸時代の大阪商人の様子や、当時のいろいろな情景を想像させるエピソードではないだろうか。、 つづく