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     朝鮮通信使の終了


 江戸時代、日本と朝鮮の交隣関係を築いた朝鮮通信使は、初代将軍徳川家康から始まり、1811年の第12次朝鮮通信使・対馬での「易地通信」が最後となった。

   通信使路
       朝鮮通信使の行程図

 その間、新将軍が誕生すると、幕府が対馬藩を通じて朝鮮国に要請し、それに応えるかたちで朝鮮通信使が派遣されてきた。
 
 対馬における「易地通信」から明治新政府が樹立されるまでの57年の間、徳川家将軍は家斉ー家慶ー家定ー家茂ー慶喜へと交替した。

 1837年、家斉が在位50年で引退し、世子家慶に将軍職を譲った。新将軍家慶には世子家定がおり、徳川家にとって3御所が同時に存在するというめでたい年になった。
 
 幕府は、これを祝う朝鮮通信使の派遣を要請するよう対馬藩に命じた。対馬藩の使者が釜山に渡り朝鮮側と交渉した結果、1846年に13次朝鮮通信使の派遣、対馬での易地通信を行うこと合意した。何としても易地通信の存続をはかりたい対馬藩の粘りづよい交渉の結果と言われている。

 ところが、大御所の家斉が1841年に没したため、通信使派遣計画は消滅した。
 家斉没後、幕閣の実権を握った水野忠邦は、「天保の改革」とともに朝鮮通信使を対馬ではなく、大阪で迎えるという「大阪聘礼」案をもちだした。 
 対馬での国書交換では、対馬までの幕府の使節派遣にかかる費用が大きく節約できないというのが理由であった。しかし水野の本当のねらいは、西国の諸大名に通信使の接待費用を負担させることで、揺らぎはじめた幕府の立て直しと権威誇示をはかろうとの目論みであった。。

 日本側の勝手な交渉に怒った朝鮮側は、10年先の1856年に通信使を派遣すると返答してきた。
 
 仲介役の対馬藩は、何んとか朝鮮を説得しょうと交渉中、「大阪聘礼」案を出した水野が罷免されたために、その計画もご破算となってしまった。

 1858年、家茂が新将軍に就任したときも、対馬での易地通信が合意されたがこれも家茂死去で消滅した。

 その後も、対馬藩と朝鮮側訳官使が互いに対馬―釜山間を往来し外交の窓口は開かれ交渉はつづいた。
 
 しかし、江戸時代の終焉まで通信使の使行が実現しなかった。その理由はさまざま上げられるが、主な要因としは日・朝ともに、華やかな通信使の行列や交流をくり広げる余力が残っていなかったためだと思われる。

 1867年、最後の将軍徳川慶喜が大政を返上(大政奉還)し、徳川幕府は消滅した。同時に善隣友好の日朝通信使外交の幕も閉ざされた。

   徳川慶喜
       徳川家最後の将軍慶喜
 
 1868年、明治新政府が誕生した。新政府は対馬藩を通じて日本が王政復古をしたことを知らせる国書(書契)を朝鮮国に通達した。
 
 書契を見た朝鮮国は、形式が先例と異なり、とくにその内容が対等な交隣関係ではなく、朝鮮を格下にみる「皇」、「勅」の字が含まれていたため、その受け取りを拒否した。

 1872年、対馬藩が外交実務を返上し、対馬藩が管理運営していた釜山の「草梁倭館」は、着任した外務省の花房義賢によって接収された。

  倭館1
     江戸時代 釜山にあった「草梁倭館」
 
 明治新政府内に、「征韓論」(武力による朝鮮侵略)が急速に高まっていた。
 つづく

  対馬1
     一衣滞水の隣国・日本と朝鮮半島

 次回から江戸時代の260年、12回の朝鮮通信使が日本各地に残した遺物・事跡・文化について記していきたいと思っています。ひきつづきよろしくお願いいたします。
    対馬における日朝文化交流


 12次朝鮮通信使は、対馬までの易地通信であったが、対馬にとっては沈滞した経済を活性化する絶好のチャンスとなった。

 港湾の改修、道路の整備、宿館の新築、宗氏藩邸の大改築など幕府資金12万両が投じられた。
 通信使の饗宴の調度品である、茶碗、皿,おひつなどはすべて新調された。焼物の多くは信楽(滋賀県)の窯で作られたものであった。

  対馬府中
       対馬府中 現在の厳原

 通信使一行の328人が府中に到着し、幕府から派遣された役人、儒者、芸人や荷役船頭ら3千数百人が島外から訪れ対馬は大いに賑わった。

 通信使一行の人数は以前より少なかったが、構成員は変わらなかった。
 製述官(文才、筆談唱和、文章の起草に当たる)
 写字官(書字に長けた者)・画員(画家)
 良医(医術精通者)・楽工(楽器手)・吹手(角笛吹き)
 押物官(輸送担当通訳)・訳官(通訳)
 小童(三使・堂上・製述官に従い沿道で踊りを披露)など有能な人材が選ばれてきた。
 
 通信使一行は、対馬府中に入ると制服を揃え、伝統的な吹奏と舞のパレードを行い威容を誇った。

 対馬島主は下船宴を張り、日本の鳴り物と遊戯を披露した。これに答え踊りの上手な小童が戦笠をかぶり踊りを踊ると、江戸の使者と島人たちは皆称賛し喝采したと言う。
 
 国書伝令式後、朝鮮の力士(軍官)が手で碁石を握り潰す怪力を発揮し朝鮮の力を誇示する与興があった。

 当時の「文化交流」とは、自国の特技を自慢することであった。島主は日本の技術水準を見せる「絡繰(からくり)人形」を披露した。
 『使行録』には「・・内部に機輪を装置して美人が琴を弾く形態を作り、運転に従って音が出るので、すがすがしく聞くに値するものである」と記している。「絡繰り人形」は当時、ヨーロッパの技術と肩を並べる精巧さを持っていたと言われる。使臣たちはその高い技術に驚いたようである。

 幕府の使臣も、文化交流のために江戸の芸人や大阪の演芸人を連れてきて遊戯を見せた。太鼓、琴、三味線、笛の音が耳慣れないため奇異の感にうたれた使臣たちは、演技者らにさまざまな品物を褒美として与えたという。

 しかし、朝鮮通信使が考える文化交流とは、通信使の得意とする詩文によって日本の文士と唱和することであった。
 
 対馬府中で詩会が開かれた。この場には、朝鮮側は製述官李顕相(リヒョンサン)はじめ数名が参加し、日本側は、以酊庵長老や幕府が送った林家(羅山)7代大学頭林述斎をはじめ、昌平坂学問所の教授古賀精里、加賀藩の三宅橘園、会津藩の樋口留川、佐賀藩の草場凧川ら幕府が選抜した当時の優れた儒官が遠くからやってきた。
 
 詩会の詳しい内容は記録に残っていないが、以酊庵長老が使臣に送った律詩が『使行録』に載せられている。
 「隣好皇華答聖朝」(善隣の使臣は聖朝にこたえる)という一句で、ここにいう「皇華」は「天使の使臣」のことで、通信使を「天使の使臣」と称えた美辞麗句で、使臣の自尊心を満足させるものであったため、この詩だけが記録されたようである。

 *以酊庵=対馬にあった禅寺、1636年、幕府は五山の碩学(=学僧)をここに派遣して、朝鮮との往復書簡のことや朝鮮からの使者の接待などにあたらせた。現在の対馬市厳原町西山寺。

 幕府の儒官の中で、主役は「寛政の三博士」の一人、古賀精里で、彼は『李退渓書抄』全10巻を持ってきて、李退渓(朝鮮朱子学の大家)の陶山書院(韓国慶尚道安東市)へ伝えてくれるよう使臣に託した。『李退渓書抄』10巻は、現在も「陶山書院」に保管されている。

  李退渓
       韓国紙幣に載る李退渓

  安東
       陶山書院 慶尚道安東市

 当時、幕府は「寛政の改革」の一環として1790年、朱子学を正学とし、湯島聖堂において正学以外の異学の教授を禁じた。この「寛政異学の禁」を推し進めた人物の一人が古賀精里であった。
 「李退渓書抄」が日本で編纂されるほどであったから、使臣たちは朱子学があたかも日本の学問の主流であるかのように理解したのである。
 しかし、官学の朱子学とは異なり、自主的に成長した国学は、日本の思想界に新たな気運をまきおこしつつあった。国学者らは、朝鮮、中国に背を向け通信使を好ましくない存在として見ていた。

 狭い対馬に限られた易地通信では、日本の情勢を詳しく把握できない状況にあったのである。そのため通信使らは、このような日本の思想界の新たな気運を全く感知するこなく文化交流を終え帰国することになった。

  厳原1
      対馬厳原港祭り 毎年8月初

 その後も朝鮮は、訳官らを対馬に派遣して、幕府の関係者と接触したが、日本国内の情勢・状況を把握できず、新しい時代の対応に遅れをとる要因の一つなったと思われる。
 つづく
     対馬における易地通信

 1811年、第12次朝鮮通信使が派遣された。11代将軍徳川家斉の就任を祝賀するための使節団であるが、就任から25年も過ぎてからの使行であった。それも将軍のいる江戸ではなく、国境の島・対馬で聘礼(国書伝達式)が行われた異例の使行となった。

  対馬地図
        国境の島 対馬

 通信使の使行が大幅に延期された理由は、「天明の大飢饉」(1782~87)による「下々の困窮、宿駅の衰微」であった。

 しかし、老中松平定信の対馬聘礼(易地通信)の提案には、表むきの天災や凶作による経費削減の他に思想的な理由が隠されていた。

 これまで通信使の使行は、日朝両国の交隣関係の構築という目的をもって行われ、紆余曲折を得ながらも日朝関係の信頼・親善・交流が図られてきたのであった。
 通信使の江戸往還は一般の日本人にとっては一生一代のお祭り騒ぎであっった。しかしこれを眺める知識人の中には通信使のパレードや文化交流を苦々しく思う者もいたのであった。

  旗手
       朝鮮通信使 清道旗隊  

 その一人が、大阪懐徳堂(学問所)の学主・中井竹山であった。竹山は、幕府の実権を握る松平定信が大阪を巡視したとき、朝鮮通信使の「聘礼改革」をするよう提言した。そして、その内容を書物にして定信に献上した。その中で竹山は、

 「神功皇后の三韓征伐以来の朝貢国であった朝鮮と、徳川幕府が杭礼(対等)の礼によって交わることは、古代以来の伝統とは異なる」と言い、「韓人來聘は隣交の礼を欠くべかざるの事でそれを中断させるわけにはいかないなら、対馬易地聘礼にすべきである」
「朝鮮は本来日本への朝貢国であったので、通信使とは坑礼で通交するのではなく、朝廷に通貢せねばならい」(『草茅危言』「朝鮮の事」)と書ている。

 このような中井竹山の言説には、古典や古代史に基いた歪曲された朝鮮観・明らかに「朝鮮蔑視」の思想が見られる。

 また18世紀後半、日本国内に本居宣長ら「記紀神話」(日本書紀・古事記の神話)・神国日本を称える国学者の登場と相まって歪んだ「朝鮮蔑視観」・排他意識が徐々に醸成されていた。
 
 竹山の通信使にたいする考え方・「朝鮮観」の影響を受けた松平定信は、自らの著書の中で、
 「朝鮮通信使によって江戸までの道すがらの盛衰を見られること」
 「日本の腐儒どもみな出て、鶏林(朝鮮)人と唱和して恥さらすこと」
 「通信使の行列が”巡視”や”清道”の旗を掲げて江戸まで行列すること」(『宇下人言』)などと書き、通信使の江戸往来を大へん苦々しく思うようになっていた。

 楽隊
       朝鮮通信使 楽隊

 定信は、天災と凶作による財政難のこの時期に、幕府の威厳を示すためばかりの通信使派遣の要請は必要ないとの思いに至った。そして竹山の提案「易地聘礼」を具体化、幕府の方針として朝鮮側にその受け入れを迫ったのであった。 
 朝鮮側は一方的な聘礼変更の要求に反発し、交渉は難航し長期化した。

 対馬藩を仲介役にした交渉が進まないため、朝鮮国は「易地聘礼」を言い出した日本側の真意を正式に確かめる必要から、幕府側と直接協議を提案した。
 
 1809年、対馬において通信使派遣を協議するため幕府の使者、遠山景晋(金さんの父)と朝鮮国の訳官、玄義旬(ヒョンイジュン)の実務協議が行われた。
 遠山は、日本側の本音を隠し、幕府は経費軽減のための易地聘礼であることを強調した。朝鮮側は経費軽減が真意なら対馬聘礼を拒む理由はないと承諾したのであった。そして日朝間で31項目の「通信使講定節目」が結ばれた。
 その内容は、聘礼、儀典節次、使行準備、礼物などについてであり、今日の観点からは大した問題とは思えない。しかし当時としては国家の体面に関わる重大な問題であったことは確かである。

 1811年3月29日、第12回朝鮮通信使の正使金履喬(キム・リギョ)、副使李勉求(リ・ミョング)はじめ一行328名が、最終目的地である対馬府中(厳原)に到着した。

  厳原港
       現在の対馬厳原港(府中)
 
 ところが、日本側の上使も副使も、まだ府中に到着していなかった。
 上使の小笠原忠͡固(小倉藩主)、副使の脇坂安重(竜野藩主)や儒官の林述斎、古賀精里など全ての日本側関係者が府中に着いたのは5月2日であった。  

 5月13日~26日、府中の宗氏邸宅で両国の使臣たちの相見礼(そうけんれい)、国書伝令式、盛大な饗宴が開かれ、通信使の正式行事を終えた。
 
 6月19日、朝鮮通信使たちが対馬府中に滞在中にもかかわらず、日本側の上使、副使たちは江戸に向け府中を発って行った。
 朝鮮国の使臣たちが朝鮮に向けて府中を発ったのが6月25日である。つまり日本側の使臣たちは、朝鮮国の使臣より遅れて来て、先に帰っていったのである。
 
 日本側の上使、副使らの朝鮮通信使に対する対応は、これまでの接待・もてなしとは違い、実に素っ気ないものであったと伝えられている。

 対馬での聘礼・易地通信の結果、日本、朝鮮ともに経費軽減において大きな効果があった。日本側の経費は38万両で、これまで100万両だったことから半分以下の経費で済んだとされている。
 
 経費は大幅に軽減されたが、対馬に限定された易地通信は、両国間の交隣の象徴であった通信使派遣ともてなし、善隣友好の交流が形骸化したことを意味していた。

  対馬3
       国境の島 対馬の風景

 しかし、幕府の関係者の思惑と関係なく、朝鮮通信使の使行員たちは、地元島民、そして筆談唱和を求めて日本本土からやって来た儒者や芸能人らと活発な文化交流が継続されたと言う。

 つづく

     第12回朝鮮通信使

  「天明の大飢饉」による延期

 1786年、将軍徳川家治が死亡し、養子の家斉(いえなり)が14歳で11代将軍となった。家斉就任とともに家治時代の田沼意次が老中を追われ、白河藩主の松平定信が老中首座となり、幕政の実権をにぎった。

  家斉
      11代将軍 徳川家斉

 将軍が新たに就任すれば、朝鮮側はこれを祝う通信使を2、3年以内に派遣するのが恒例であった。
 幕府は、新将軍を祝賀する使節を招聘するよう、対馬藩主宗義功(そうよしかつ)に命じた。
 対馬藩は朝鮮側と交渉を開始したが、すぐさま松平定信から「朝鮮通信使の招聘を延期せよ」との命令が伝達された。

 この時期、日本は浅間山噴火による被害と東北地方を中心に凶作がつづき「天明の大飢饉」(1782~87)が襲い深刻な状況にあった。飢民は草根木皮で延命して、各地で百姓一揆が起きた。都会では米価が暴騰し買い占めに抗議する暴動・打ちこわしが続出していた。
 1788年には京都で大火災が発生し、市街地の4分の3が焼けて京都御所・二条城が焼失したという。幕府の財政悪化は深刻であった。 

  2004年
     浅間山噴火  2004年
  
 老中松平定信は幕府の財政を立て直すための緊縮政策・「寛政の改革」を推し進めるとともに対馬藩に対して、
 「大飢饉で、下々が困窮し、宿駅も衰微して、その接待を担当する諸大名も不如意であるから、しばらく通信使の派遣を延期」(『通航一覧』)するよう朝鮮と交渉するよう命じたのであった。

 この頃、対馬藩も朝鮮貿易が衰退し財政難に陥っていた。

 対馬藩主は、通信使の派遣をしばらく待つよう朝鮮国に手紙をかいた。
 「本国は近年、凶作に見舞われ、穀物の実が熟さず、百姓は貧しさのどん底にあえいでいます。大君の新たな政治は、自愛深く、役人はそれに従い、行っていることといえば、もっぱら百姓の救済のみであります。しかしながら、残念なことに今はその甲斐なく、努力の実が結んでいないこの時期に、貴国の大使が厳かにいらっしゃれば、百姓は困難に処するので、、」(『通信使初登録』1789年)

  松平
     老中首座 松平定信

 このような延期の要請に、朝鮮側は新井白石による一方的な「聘礼改革」(参照「朝鮮通信使」37,38)のおしつけによって強いられた苦い経験から日本側の本意を疑ったのであるが、今回ばかりは隣国の事情を理解し延期を承知したのであった。
 これまで、11回の通信使派遣の交隣において、恒例と礼を主要な徳目としてきた朝鮮は、時期の決定は幕府と対馬の事情を受け入れ一度たりともおろそかにしなかった。

 ところが、朝鮮が通信使派遣の延期を受け入れた直後、松平定信は次回の通信使聘礼(国書伝達式)は江戸ではなく、対馬で行うことを決定して、対馬に朝鮮と交渉するよう命じた。
 松平定信は、凶作のため通信使のもてなしは難義であるが、みだりに延期することもできず、対馬で聘礼(易地聘礼)=「易地通信」を行うように提議したのであった。

 1791年、対馬は使者を朝鮮に送り倭館に滞在しながら交渉にあたらせた。朝鮮側は、聘礼の延期からさらに「易地聘礼」へと変えた日本側の真意を疑い反発して交渉すら応じなかった。

  海峡
      朝鮮-対馬ー日本
 
 1793年、松平定信が失脚したが、「易地聘礼」は幕府、対馬双方ともに「経費節約」・益になるというので、朝鮮との交渉を粘り強くつづけた。
 
 朝鮮朝廷の財政事情も苦しい状況にあった。そのため朝鮮側も「易地通信」は通信使派遣費用を削減できるメリットを感じていた。
 
 幕府ー対馬ー朝鮮の3者の間で、書契の交換や使者が海を往還して「易地通信」をめぐり、20年以上の長い
交渉がつづけられた。
 つづく

     大阪庶民の人情


 竜宮城みたいな門がまえのお寺・竹林寺が大阪西区松島公園の横にある。

  竹林寺2
       竹林寺 大阪西区

 この寺は、江戸時代に朝鮮通信使が大阪で船を乗りかえ、淀川を京へのぼる中継地の宿舎として利用されていた。

  竹林寺境内の奥に朝鮮通信使の小童・金漢重(キムハンジュン)の墓がひっそりと立っている。
 どうして、朝鮮通信使小童の墓が竹林寺にあるのだろうか?

 *小童は、日本の小姓にあたる。毎回の20人程が通信使三使(正使・副使・従事官)や堂上官、製述官らに従った。未婚の男子が一般的であったが既婚者もいたようである。沿道で踊りを披露したこともあり通信使一行の中でも人気が高かった。髪を三つ編みにして長くたらしていたので、絵師が女性と間違えられるような絵を描いた。

      小
        朝鮮通信使小童の姿

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        馬にのる小童の姿

 1764年2月、11次朝鮮通信使の小童・金漢重は、厳寒の瀬戸内海を航海中、暴風雨にあい重病となり大阪に着くやいなや床に伏した。天満の漢方医や医師の平山文微が、通信使船にかけつけ竹林寺に移し、手厚い看病を施した。
 しかし回復せず、金漢重は故郷の妻や二人の子どもを恋しがるために、彼の子どもと同じ年恰好の地元の子ども二人を金漢重の側に座らせ看病を手伝わせたという。

 二人の子供をみて微笑む金漢重の様子に、「子を思う心の内おしはかられ、いと哀れなり」(宝暦物語)と人々は深く同情したという。

 金漢重は死期の近ずいたことを悟り、辞世の句を残した。

   今春倭国客 去年韓人中
   浮世何定処 可帰古地春
         金漢重 行年22齢書
  
 医者の懸命な施しも、地元住民の祈りもむなしく金漢重は異国の地で帰らぬ人となった。故郷の妻や子供たちはいつまでも父の帰りを待ち焦がれたであろう。

 竹林寺の住職は非常に哀れに思い、彼のために念仏を百万回唱えたという。その住職が建立した墓碑に金漢重の辞世の漢詩とともに追悼の和歌が刻まれている。

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         金漢重の墓
   
    日の本に 消えにし露の玉ぞとは
       知らで新羅の 人や待つらむ

 朝鮮通信使の小童の病死から250年以上経過したが、今も尚、金漢重の墓に献花とお世話を続ける人々がいるという。

    金漢重
     現在の金漢重の墓   

 時代が変わり、竹林寺付近も近代的な都会に大変革した。しかし、時代が変わり社会が変化しても、人を思いやる人情は変わりなく庶民の中に生きつづけるのであろう。
 つづく