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    朝鮮通信使の室津寄港

 牛窓を出航した朝鮮通信使大船団は、播磨灘にさしかかると姫路藩の迎護船の案内で室津(現兵庫県たつの市)に向かう。

  室津地図
         室津港位置図

 室津は、播磨灘に面する約1300年の歴史をもつ港町。奈良時代の名僧行基(ぎょうき)が開いた摂藩5泊(宿)の一つ、三方を山に囲まれた入江は波静かである。室の内のようだと「室の泊」(むろのとまり)と名づけられた天然の良港である。

  室津2
       室津港の現在の風景

 江戸時代、参勤交代の際に西国70の大名が海路で室津港に上陸、陸路で江戸に上り、帰りはここで乗船し帰藩した。年間90回もの大名行列が寄港した室津は、西国最大の宿場町、海駅として大いに繁栄した。

 異国から訪れる朝鮮通信使の寄港は、見なれた参勤交代とちがっていた。姫路藩は朝鮮通信使の寄港が伝えられると、早くから通信使一行の応接準備にとりかかり、使節員が上陸するときは藩主をはじめ藩挙げての歓迎であった。そして見物禁止のお触れにもかかわらず、室津周辺の村々から老若男女の見物人が押し寄せた。

 瀬戸内海を航行した11回の使節団すべてが往路、復路とも室津に寄港した。

 9次通信使の製述官・申唯翰(シンユハン)は、室津入港の風景を「前湾は水潤く、山は険しくて雲霞ただよい、四方を眺むれば、奇勝が客の感懐をすこぶる爽やかにしてくれる」(『海遊録』)と記した。

 日本本土に上陸した最後の11次(1764年)通信使が室津に上陸したとき、天候不順で滞在は6日間に及んだ。正使の趙厳(チョウオム)は、三方を山に守られた海辺のお茶屋の精巧な建物に驚きながら、浩々とした月と鏡のような静かな波を見て漢詩一句を吟じた。

 通信使船団が室津に入港した様子を伝える貴重な資料が残されている。

 室津の港につき出した岬の上に建てられた賀茂神社には、6次通信使入港のあらましを記した巻物『韓客過室津録』(長さ約10メートル)が保存されている。巻物には通信使船団の入港を前にして、不足する水の確保、料理につかう魚の調達、火の用心の夜回りなど、心くだいて接待準備に奔走する様子が詳述されている。

  室津神社
          賀茂神社 

 この巻物は、姫路藩が奉納したもので神社の神宝となっている。

 いま一つの資料は、2曲の絵屏風「朝鮮通信使室津湊御船備図屏風」である。

 屏風には、迎賓館である姫路藩主のお茶屋・別荘、朝鮮船6隻、数百隻の案内・護衛船、藩の大小の船が細かく描かれている。また屏風の上段、下段の空白部分に藩をあげて通信使を歓迎した歴史がぎっしり書きこまれ、当時の模様をありありと見ることができる。

 この屏風は、10次通信使(1748年)が入港したとき、姫路藩主松平明明矩がすべての様子を屏風に記録したものを、藩士の蔭山儀長がすべて描き写して新しい藩主酒井忠恭に提供したものである。

 現在、これらの巻物や屏風は、当時の御船問屋の遺構を生かして作られた御津町立の「室津海駅館」に通信使関連の資料とともに展示されている。

  海駅館
          室津海駅館

 室津は、明治に入ると参勤交代の制度が無くなり、鉄道・道路が内陸部に敷かれたため急速に衰退した。

 そのため、朝鮮通信使が往来した室津港は昔と変わらないままの姿を残したのであった。お茶屋は町民センターとなって存在し、通信使下級官吏の宿泊所なった浄蓮寺、寂静寺も現存する。

 昨今、江戸時代の善隣友好の外交使節・朝鮮通信使が注目されるようになり、室津においても朝鮮通信使行列や通信使展覧会などさまざまなイベントが行われるようになった。

  室津寄港
       朝鮮通信使正使宿舎跡

 2001年、室津において、「朝鮮通信使の世界記憶遺産」登録に貢献した「朝鮮通信使縁地連絡協議会」(1995年発足、朝鮮通信使1参照)が開催され、室津もまた朝鮮通信使ゆかりの歴史のまちとして広く認知されるようになった。

  つづく
    牛窓の海遊文化館

 1992年の春、岡山県瀬戸内市牛窓町に海遊文化館がオープンした。同年の秋には、江戸時代の朝鮮通信使行列を再現するパレードが行われるようになった。

  三重塔
     牛窓海遊文化館 後ろ本蓮寺三重塔
 
 海遊文化館は、朝鮮通信使牛窓寄港350周年祭(1986年)のときに開設した朝鮮通信使資料館を充実させると共に、牛窓町に伝えられるだんじり(山車)を展示する博物館である。

 朝鮮通信使船団が瀬戸内海を往来した中で、牛窓に寄港したのは17回に及ぶ。
 海遊文化館の名称は、第9次(1719年)の朝鮮通信使の製述官申維翰(シン・ユハン)の『海遊録』(日本往還の記録)に因み、「海」と「遊び心」を加味して名付けられたと言う。

 海遊文化館は、牛窓港の近く本蓮寺への道すじにある。白壁に窓はステンドグラスをはめた洋風のモダンな建築物(国登録有形文化財)、明治時代に警察署とし建てられ使用された施設である。

 内部の朝鮮通信使資料室には、通信使の牛窓寄港時の交流資料と通信使の正使、副使の等身大の人形のほか、朝鮮通信使行列を50体の人形や馬で再現している。

  正副使
      通信使正使・副使の人形

 パネル展示では、瀬戸内海を航行する船団図、入港する様子を描いた絵図、通信使行列絵巻、牛窓町筋絵図のほか、韓国国立中央博物館に所蔵されている搓路勝区図(10次朝鮮通信使画員李聖麟の画集)の牛窓場面の複製や写真などが展示されている。

 とくに注目されるのは、朝鮮通信使に由来する「唐子人形」を全国各地から収集展示していることである。
 京都の伏見人形・人形名「朝鮮通信使」、広島県福山の常石張子・「ラッパ男」、滋賀県五個荘町・小幡人形「唐子人形」、山形県米沢市の相良人形・「虎乗り唐子」、奈良県桜井市の出雲人形・「唐子」など、八か所の地域から16種類の人形が並んでいる。

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       新たに作られた牛窓唐子人形

 ラッパを吹く様子や、馬に乗った唐子、てっぺんの高い帽子をかぶった人形など、朝鮮王朝(李朝)時代独特の風俗をうかがい知ることができる楽しみな展示である。

 海遊文化館は、国際交流や地域文化の新たな拠点としてオープンして以来、毎年入場者が増えつづけていると言う。

 また一方、海遊文化館のオープンした同年秋から、善隣友好の歴史を伝える朝鮮通信使行列を再現したパレードが行われようになった。

  行列2
  チマ・チョゴリ姿で日・韓・在日コリアンの行進

 このパレードは、地元の人々はもちろん、瀬戸内市と交流関係を結んでいる韓国・密陽市から中学生らが毎年派遣され、神戸市にある駐日韓国総領事が「正使」役として参加し、岡山朝鮮学校の生徒、在日コリアンが加わり盛大に行われていると言う。

 今年のパレードには、日韓両政府の関係悪化により密陽からの中学生の参加が見合わせとなったが、ソウルの柳韓工業高校の生徒が初めて参加してパレードを盛り上げたと言う。

  本蓮入
     朝鮮通信使再現パレード本蓮寺入場

 パレードの「正使」役を務めたパク・キジュン総領事は、「日韓の政治関係が難しい中、牛窓の地域の人たちの思いをうれしく感じます。今後も多様な民間交流につながっていってほしい」と話した。

  牛窓港
       牛窓港の現代の風景

 これからも、平和と善隣友好の歴史を伝える朝鮮通信使の再現パレードや多様な文化の民間交流は、政治状況に左右されることなくつづけられることを願ってやまない。
   つづく
      牛窓の「唐子踊り」

 瀬戸内市牛窓町紺浦の疫(やく)神社の秋祭りに、毎年,地元の子供二人による童子舞「唐子踊り」が奉納される。  

 唐子1
     疫神社前 「唐子踊り」

 この「唐子踊り」は、朝鮮通信使三使の総務係・小童(日本の小姓)の「小童対舞」によく似ていると言われる。

 羽織ふうの袖なし衣装やだぶついた水色のズボン、円錐形の帽子などの特徴は、朝鮮の風俗に見られるものとほぼ同じであること。

 また、囃子の歌詞の中に「オーシャンデー」、「ワーシューンレー」など朝鮮語の「やって来られた」を意味する言葉であること。

 そして「唐子踊り」は、江戸時代のころから伝えられていることから、朝鮮通信使の「小童対舞」の影響を受けて始まり、今日まで受け継がれたものと推測されている。

 本蓮寺の住職・日譚(にったん)は疫神社の「唐子踊り」は、「通信使の踊りを見よう見まねで再現したもの」と説明している。

 それでは、「唐子踊り」とはどんな踊か? 動画を見てください。

 

 9次朝鮮通信使の製述官・申唯翰は随行の小童二人が浜辺で舞いを披露した様子について、
 「夜、湾岸の板を敷いたところに出て、楽士たちに鼓笛を奏でさせ、二人の童子を対舞させた。日本の群衆が雲ように集まった」(『海遊録』)と記している。

 異国の音楽、踊りを、はじめて見学した民衆の驚きと感動は如何なるものであっただろうか? 
 彼らに強烈なインパクトを与え、そして牛窓の広範囲な人々の中に長らく語り継がれた。

 現在、朝鮮通信使の貴重な置き土産である「唐子踊り」を後世に伝えようと、 地元保存会が結成され、その努力で若い世代に受け継がれていると言う。

 今年の秋祭りでは、踊り手の交代期にあたり新旧4人の子供による「唐子踊り」奉納されたという。

 善隣友好・文化交流の象徴として、いついつまでも続けられることを願ってやまない。
  つづく
     牛窓本蓮寺の文化交流

 鞆の浦を出航した朝鮮通信使大船団は、備前岡山池田藩の先導で一路牛窓(現瀬戸内市牛窓町)へ向かう。

  牛窓海遊
      瀬戸内海中央の要港・牛窓

 牛窓は、小豆島の北方対岸にあり、福山藩の鞆の浦と姫路藩の室津を結ぶ要所で、瀬戸内海の東西の中央に位置した天然の良港である。

  本蓮字2
      牛窓港から見る本蓮寺 

 朝鮮通信使船団が牛窓に入港、上陸、歓迎の宴会までの様子を地元の記録は次のように記している。
 
 「牛窓の西の岬にのろしが上った。鞆の浦まで派遣されていた家老の船の先導で、三使とその荷物を分載した6隻の大船、対馬守の乗船を大小1056隻の船でとりまき警護しながら、入港してきたのである。高らん付きの特設桟橋から三使以下残らず上陸ののち、対馬守も上陸。町筋はよく清掃され、道のまん中にはうすべりが敷かれ、提灯にあかりがともされている。一行は海浜に設けられた7棟からなるお茶屋に入り、32畳の饗宴の間で三使と対馬守の盛大な宴会が催されたのであった」(『邑久郡誌』)

 幕府は、朝鮮通信使の特別迎接所として、牛窓と駿河国興津(現清水市)の清見寺の2か所を指定した。  

 特別迎接所は風光明媚な所が選ばれ、長旅の疲れを癒し、道中の慰安を目的としたものであったから、逗留期間が長く、さまざな人々との多様な交流が繰り広げられたようである。

 1624年、第3次朝鮮通信使一行がはじめて牛窓に上陸し、正使らの宿舎饗宴の場となったったのは本蓮寺である。本蓮寺は京都の法華宗本能寺の末寺で、西日本・九州地方で最も古い名刹とされている。

 9次通信使(1719年)の製述官・申維翰は本蓮寺について、

「傍らに一堂あり、上に銅柱を立て半空に高く突き出ている。名を本蓮寺という。西の港口に一舎を設け、絶勝である、、左右には浴室や厠があり、ともにそれぞれ精妙である。庭には蘇鉄(ソテツ)やその他の草木が異香を放ち、疎秀淡潔の感がある」(『海遊録』)

 備前藩の儒学者らが本蓮寺に押しかけて、使節員らと連日連夜にわたって詩文の唱和をくり広げた。熱い交流の様子は庭の樹齢300年を超える蘇鉄だけが静かに眺めていた。

 ソテツ
      本蓮寺書院前の蘇鉄

 本蓮寺には、池田藩の儒学者たちと通信使の交流を偲ばせる通信使の遺墨9点が残されている。

 その中の一点、5次通信使(1643年)従事官・申濡(シン・ユ)の七言絶句が本蓮寺書院に掛かっている。

    牛頭寺古残僧少
    翠竹蒼藤白日昏
    宿客不眠過夜半
    蚊雷蔭々振重門
         遇客為妙上人題

 (牛窓の古寺さびて僧侶もわずか、青青とした竹や藤が生い茂り日の光をさえぎって静寂そのもの、投宿の旅人は夜半が過ぎても蚊が雷のようにブーンブーンと飛び回り、奥深い部屋でも羽音がやかましく眠れなかった。妙上人のために作る)

  木蓮寺三
       本蓮寺境内・三重塔

 このユーモラスな漢詩を残した申濡の書の横に、彼の10代子孫・申柄植(シン・ビョンシク)の書が掛かっている。

 韓国光州市に住む申柄植は、1986年、朝鮮通信使牛窓寄港350周年際のおりに招かれて牛窓にやって来た。

 申柄植は、先祖のお蔭で日本に来られたことを喜び、先祖の書と対面して大変感激したという。そして来日するまで日本と韓国の善隣友好の歴史に疎かったことを深く反省し、これからは朝鮮通信使の勉強をすると決意して帰国した。

 その後、申柄植から書簡が本能寺に送られてきた。現在本蓮寺書院に申濡の書とともにその書が掛けられているのである。

 最近になって申濡と申柄植は、朝鮮の歴史上に名を成した人物・申淑舟(シン・スクチュウ)の子孫であることが分った。

 申淑舟は、朝鮮王朝(李朝)4代世宗大王(1418~1450)から信頼され、ハングル(朝鮮語・韓国語)文字の創作に貢献した中心人物である。

 申淑舟は、室町時代(1338~1573)に派遣された朝鮮通信使(1443年)の書状官として京都まで来たことがあり、当時の日本の事情や風俗などを記した『海東諸国記』を編纂した。この書は、室町時代の日本の状況を知るうえで貴重な資料となっている。

 彼は中国、琉球、対馬を往来し外交官としても活躍し、朝鮮王朝政権の最高の地位・領議政(総理大臣)にまで出世した人物であった。

    申淑舟
       領議政・申淑舟 画

 申淑舟は、余命いくばくもない時、国王の成宗(1468~1494)が枕元で言い残すことはないかとたずねると「願わくば日本との善隣友好を絶やしませぬように」と遺言したと言う。

 申淑舟の遺言は、凡そ500年以上前のものであるが、7代子孫の申濡は江戸時代に、現在は17代子孫の申柄植によって守られていると言えるだろう。
 これからは、申淑舟の遺言は申家の子孫だけでなく、日朝、日韓の両国民が善隣友好、文化交流促進ために生かしていくべきであろう。
   つづく
 

 
    鞆の浦は「日東第一景勝」

 朝鮮通信使船団が下蒲刈を出航すると、次の寄港地は鞆の浦(鞆の津)である。   

  福禅字1
      断崖に建つ福禅寺

 鞆の浦は、広島県福山市の南、沼隈半島の南端に位置する史跡が多い港町である。大阪へ上る船、九州へ下る船も満潮に乗って入港し、干潮に乗って港を出る潮待ちの良港である。
    
 朝鮮通信使一行の宿舎となった福禅寺は鞆港の東端・海を見下ろす断崖の上に建っている。福山藩水野勝種は本堂に隣接するところに、通信使のための迎賓館・「対潮楼」を特別に設けた。

 対潮楼の座敷からは、東に仙酔島、弁天島、西側に巴形の鞆港、大小さまざまな島と、遠く四国の連山をパノラマのように眺望できる。その絶景はしばし時のたつのを忘れさせるという。ここに宿泊した朝鮮通信使一行はその景観を激賞し、その感激を詩文に書き残した。

  対潮楼
       対潮楼からの眺望

 1711年、第8次朝鮮通信使の正使ら上官8人が、福禅寺楼閣からの眺めは日本一であると衆議一致し、従事官・李邦彦(リ・バンオン)が「日東第一景勝」(日本一の景勝)と書いた六字の書を額装にして客殿に掲げた。 

 それから100年後、李邦彦の書の傷みがすすみ、なくなるのを心配した福山藩は、木額の「日東第一景勝」を作製して掲げた。その木額が今日まで客殿に掲げられている。

  書家2
      福禅寺扁額 李邦彦書
 
 1748年、第10次朝鮮通信使の正使・洪啓禧(ホンケヒ)は、海岸の崖上に立つこの書院造り客殿を「対潮楼」と命名した。そして子息の書家・洪景海(ホンキョンヘ)は、特別に準備された木の硯に墨をたっぷり含ませた特大の筆で「対潮楼」の字をいっきに書き下ろした。福山藩が扁額に仕立てて座敷に掲げた。その扁額は今日まで続けて掲げられ有名となっている。

  書家
      10次朝鮮通信使 洪景海書

 洪啓禧は、次のような漢詩文を書き残した。
「楼は鞆浦の東南間の崖上に在って、山の一つの麓が海に臨んで絶え、曠然として高い楼閣がその上にそびえている。前の使臣が此処に来て語った者は、皆この寺の楼を洞庭湖の岳陽楼に比べており、今見るに過ぎたる言ではない。雲が通り過ぎ、月が上ると甚だ広い蒼波が絹を広げたようで、千百隻の帆掛け船が岸の下に停泊し、点々と燈火を掲げて即ち下界の星の光が有るので、人として飄々として神仙になって天に登る気分になる」(『奉使日本時見聞記』)

 1812年、福山藩儒の管茶山は、漢詩と書の普及をめざして、拓本刷りができるよう通信使の漢詩を模刻して木版を製作した。町人たちは競って通信使の漢詩集を木版に作成した。

 福禅寺には数多くの陰刻、陽刻の木版が保存されており、対潮楼の座敷内には多くの漢詩文の扁額が掛けられている。芸術性の高い通信使の漢詩文作品が4方の壁にズラリと並び見学できるようになっている。

 江戸時代、対潮楼の漢詩文や遺墨を鑑賞するために、全国の有名無名の詩人や書家が訪れた。また、対潮楼で詩会もたびたび開かれた。対潮楼には通信使の漢詩の韻をふんで作詩された作品も残されている。
 福山藩校の塾生たちは、漢詩や書を学ぶため訪れ、対潮楼は移動教室のようであったと言う。

  鞆の浦
     生きた通信使博物館・鞆港の風景

 現在、鞆町は江戸時代の建物や波止場、雁木、常夜灯、町並、道路も当時のままであり、往時の姿で朝鮮通信使がパレードをしても、全く違和感のない風情だという。

 福禅寺は、1940年「鞆朝鮮通信使宿館跡」として広島県史跡に指定され、1994年には「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定された。

 1990年、広島県史跡「鞆朝鮮信使宿館跡」保存修理工事が開始された。福禅寺は資金が足りず全国的な募金活動に依存すことになった。、地元の「対潮楼の解体再建を支援する会」や「対潮楼再建カンパの会」(青丘文化ホール・辛基秀)を中心に全国的なカンパ活動が展開された。朝鮮通信使の研究者や通信使ゆかりの地域から積極的な支援もあって目標額が達成された。
 1993年、新装なった「対潮楼」が完成した。


  せとないかい
     瀬戸内海 鞆の浦付近地図

 福禅寺は、境内に通信使の遺品が数多く存在することから生きた博物館として注目されている。

 最近、朝鮮通信使が残した日・朝親善の生きた博物館・福禅寺対潮楼を訪れる外国人観光客が増加しつづけている言う。
 つづく