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 朝鮮通信使一行を大歓迎する江戸庶民


 朝鮮通信使の江戸到来は、徳川幕府が将軍一代の盛儀としてその威信を高めるれる行事で、通信使一行の江戸入場時の歓迎では江戸庶民・民衆にも見物が奨励された。江戸庶民にとって朝鮮通信使行列は一生一代の見物であった。

 朝鮮通信使一行が、幕府役人に先導されて品川を出発すると、日本橋から本町3丁目を通り浅草本願寺へと進む。その行列をひと目見ようと盛装した江戸の庶民が沿道をうめつくした。

 その様子について、第9次(1719年)通信使の製述官申唯翰は、
 「見物する男女がぎっしり埋まり、屋上を仰ぎ看れば、梁間に衆目が集まって一寸の隙間もない。衣の裾には花が飾られ、簾幕は日に輝く。大阪、京都に比べて3倍におよぶ」(『海遊録』)と述べ、江戸庶民の歓迎ぶりを伝えている。

 江戸庶民の歓迎の様子は、すでに「朝鮮通信使53」 ”朝鮮通信使の江戸入場”で記したので、ここでは羽川籐永が描いた「朝鮮人來朝図」(神戸市立博物館所蔵)を基に熱狂的な歓迎の様子を、各場面ごとに画像を拡大して動画風に編集した。よりリアルな表現を試みて見たのであるが、、、



 江戸時代の日本は、朝鮮だけが心を開いて交わる唯一の「通信」(よしみを通わす)国であった。貿易のみの「通商」の国(中国、オランダ)とは違い、はるかに大切に親近感をもって隣国の外交使節団・朝鮮通信使一行を迎えたことを物語っている。つづく
    朝鮮通信使の小田原・相模路への旅


 朝鮮通信使一行は、東海道最後の難所・箱根を越え、急坂を下りて小田原に着き、小田原城南の大蓮寺に宿泊した。第2次通信使以降の宿泊所は城周辺の茶屋になった。

 翌朝、小田原を出発すると大磯、藤沢を経て戸塚、保土ヶ谷、神奈川へと進む。そして通信使の旅は、いよいよ最終コースとなる江戸の入口・六郷川(多摩川)にさしかかる。この小田原・相模路にも朝鮮通信使の足跡がいくつか残されている。

 小田原は、箱根の嶮を控えて江戸の西入口を押さえる要衝であった。そのため幕府は老中歴任者や譜代大名ら重臣を城主に配置した。

 幕府は、朝鮮通信使が箱根に到着する3ヵ月前に、江戸から問慰使を小田原藩に派遣して迎接準備を急がせた。

 箱根を下る途中、湯本のほど近くに北条氏の菩提寺・早雲寺がある。通信使はこの寺に立ち寄った形跡はないが、どうしたことか寺の山門に「金湯山 朝鮮雪峰」の扁額が掛けられている。雪峰は5次(1643年)、6次(1655年)通信使の書記・金義信の号である。おそらく早雲寺の僧が通信使の宿舎を訪ねて揮毫してもらったものと思われる。

  早雲寺1
      早雲寺の山門・「金湯山」 箱根

 小田原から六郷川に至る道路整備や輸送、とくに東海道を横切る酒匂川(さかわ)と馬入川(相模川)に船橋を架ける工事は沿線の 村々から多くの人馬が動員された。

 馬入川は相模第一の大川で、両岸の河原に土盛をした台場を造り、長さ300m、幅3mの船橋を架橋した。並べられた船の数は69隻~90隻である。ところが1748年、10次通信使が到着直前にせっかく完成した架橋が流されてしまった。
 
  再度の架橋を造るため緊急に相模国203ヵ村、武蔵国の36ヵ村から多くの人馬動員の「御用」が課せられた。前年が凶作であったため農民は食糧難に喘ぎながら負担であった。
 そのため、大住郡北矢名村や高座郡の村々から藩に対して拝借金を願い出たり、通信使宿泊・休憩所の「賄御用」の御免を願い出ている。

 こうしてせっかく掛けられ船橋は通信使が通るときのみ使用された。何とも効率の悪い、もったいない船橋架橋であった。幕府が、朝鮮通信使をいかに特別な待遇で迎えたか窺い知るところであるが、負担を背負わされた村民の不満の声も聞こえてくるようある。
 
 このような苛酷な負担にもかかわらず、村民たちは異国の賓客・朝鮮通信使一行が到来すると、快く歓迎し、華やかな大行列に驚嘆したのであった。
 国府津(神奈川県大磯町)の国府祭に通信使の行列をまねた「唐人踊り」が行われいたという。

 相州淘綾(ゆるぎ)郡山西村の名主志澤家に残されている「覚書」によれば、小田原の「松屋御茶屋」に立ち寄った通信使の下官20数人が茶をゆるゆると呑みながら、日本語での会話を楽しんだと書き記されている。通信使と村民らの和やかな交流の場が想像される。

 初代将軍徳川家康が駿府に隠居中、2代将軍秀忠のはからいで第一次朝鮮通信使一行は江戸からの帰途、鎌倉へ立ち寄り鶴岡八幡宮や頼朝廟、鎌倉大仏など見学したことが記録されている。

 六郷川の渡し場(現川崎市川崎区)は相模国と江戸との国境である。ここに徳川将軍の命をおびた使者が通信使一行を出迎えた。
 通信使一行が6郷川を渡る様子について、9次通信使の製述官申唯翰は、
「川の広さ四五百歩、彩船四隻が待つ、一は国書を奉じ、二つは使臣が分乗した。広大ではないが金彩漆光が照り映え、華麗である。また緒船集まること雲のごとく、人馬や行李を積んだ」(『海遊録』)と書いている。両岸には、ひと目見ようと見物人が押し寄せていた。

  多摩川
  六郷川の渡し場の風景 絵

 六郷川を渡った通信使一行は、夕刻に品川の東海寺玄性院に着き一泊する。東海寺に掛かる扁額「海上壇林」は、箱根の早雲寺の扁額と同じ五次通信使の書記金義信の書である。

 ソウルを出発して、海路、陸路3000㎞、2~3ヵ月の長旅を終えた朝鮮通信使一行は翌日、いよいよ江戸市中入りする。
   つづくspan>
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     朝鮮通信使の富士山観賞


 富士山は、日本最高峰(剣ヶ峰)の山である。日本列島のほぼ中央部に聳え、その優美な姿は日本の象徴として国内外に広く知られている。
 富士山は、昔から信仰の対象として人々に崇められ数多くの芸術作品を生み出した。2014年、世界文化遺産に登録された。

 富士山の雄姿は、昔のままで今も変わらない。

 江戸時代、朝鮮通信使は第1回(1607年)から第12回(1811年)まで、江戸まで行かなかった第2回を除く計10回の東海道往復で富士山を観賞した。どのように観賞したのだろうか、通信使の使行録からいくつかをとり上げて見る。

 朝鮮通信使一行の鑑賞場所は、白須賀(浜名湖西)、今切(浜名湖)、浜松、掛川、中山、大井川、駿府、江尻、薩埵峠、蒲原、富士川東、吉原、三島、箱根と静岡県内の東海道の名所全域に亘っている。

 使節員らは富士山の雄姿を褒め称え、とくに山頂に万年雪があることに感動している。

 第3回(1624)通信使の副使・慶七松(キョンチルソン)は、
「山は大平野の中にあって、三州の境界に雄雄しくそびえ立ち、白雲がつねに中腹に発生し、空に浮かんで天を覆い、山の頂上はいつも雪が積もって白く・・・まことに天下の壮観である」(『海搓録』)と述べ、万年雪が残る富士山を称えている。

 第7回(1682)通信使の訳官・洪寓載(ホンウジェ)は、
「富士山の氷雪が消えないという話を、一行の中には出鱈目だと疑う人もいないわけではなかったが、今になってこれを見ると、平山に雪の痕跡があり、頂上には堆(うずたか)く盛られていた。、、疑いをもっていた心を打ち破られた」と記し、夏でも雪が残る富士山を不思議がったのである。

 第9回(1719年)通信使の製述官・申維翰(シンユハン)は、
「白須賀村(静岡県湖西市南西部)を過ぎた。日本人が東の雲際を指して”富士山だ!”と叫んだ。
私は輿を停めて、東の空を眺めた。雪の積もった山頂が白いかんざしのように青い空をまっすぐ貫き、山の中腹から下は、雲のかすみにおおわれて、陰となっていた。
聞けば、ここはあの山裾から四百里(1里=400m)も離れているという。それが今、すでに、私の目の中にある。海外に、あまたある山の中でも、富士山に並ぶものはないだろう」(『海遊録』)と記し、世界の山々を直接見たはずもないのに、”世界に並ぶものがない”と褒め称えているのは、外交辞令的であるが、はじめて見る富士山の雄姿に感動したからの表現であろう。

 11次(1764年)通信使の書記官・金仁謙は、
『風が吹き渡ると 白い蓮の花が半ば開いたような 白雪嵯峨たる山が姿を現した。、、優雅にして高大 雲の果てに届いている。』(『葵未隋搓録』)と記し、原(沼津市)から富士山の全貌を見渡たし感動している。

    芦に湖
     富士山を眺める通信使 葛飾北斎画

 富士山を眺めながら原を通過する通信使一行の様子を、葛飾北斎が描写して「東海道五十三次」画集の一つに残した。

 通信使一行が箱根峠にやっと登りつめると、眼下にひろがる芦ノ湖と左前方にそびえる富士の雄姿に、一行の誰もが感嘆の声を上げ、中国の故事にある神仙が棲む山にたとえて、その優美な姿を賞賛したのであった。

  箱根峠
        箱根峠からの眺め

 朝鮮半島から海をわたって、江戸到着までの海路、陸路の長旅の中で、箱根峠でみる圧倒的な存在感のある富士山の光景は、通信使一行に感動と共に強烈な印象に残したようである。殆どの使行録に記されている。

 しかし、18世紀に入り第10回(1748年)と11回(1768年)の2回の朝鮮通信使の中に、富士山の賞賛だけではなく、ナーバスな表現をした日記・記録も残さている。

 「優雅で奇観ではあるが、先人の日記にあるような天下の名山というほどではない」
「箱根のほうが山脈として魅力的である」
「伝説では、始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わし、富士山で仙薬を探させたというが、人参の産地である朝鮮を通過して、人参のない日本に来るはずがない」といった記述が見られるようになった。

 こうした記事が書かれるようになった背景には、武士の国・日本に対する朝鮮の儒教文化の優越意識と朝鮮王朝(李朝)の支配階級・両班(文班・武班)の間で繰り広げられていた党争(派閥争い)があった。

 通信使の使行録は正式に朝廷に報告するためであるが、使行員の日記や記録は国内用のもので、めったに日本人が読むことはなかった。

 そのため、使行員個人の日記・記録は、自派閥の優位を誇示するために書かれたもの、たとえば他派閥の先輩通信使が「世界でも比類なき山」と賞賛していた富士山を、「たいした山じゃない」と批判しているのである。

 そのような日記・記録を残した使行員は、「主観」・「先入観」という曇ったメガネで見たため、富士山の自然の雄姿を目前にしても素直に感動することができなかったのであろう。

 富士山の自然の姿は、江戸時代も現代も変わらず優雅に聳える。いつ、何処から見ても、白雪を被った富士山の雄姿は魅せられるものがある。

 筆者は、現在東京の郊外、東大和市の高層アパートの一室に居住している。ベランダから奥多摩の山稜線上に聳える富士山を遠望することが出来る。

 これまで朝夕、富士山の写真を撮りつづけてきた。

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      筆者がベランダから撮った富士山
 
 富士山の自然の風景は、昔も今も変わらず、朝鮮通信使が述べたように”世界に並ぶものがない"日本を象徴する名山である。
   つづく

 追記、筆者の富士山の記事は、「東大和どっとネット」の”まちで遊ぶ”・「玉川上水駅周辺の風景」に掲載しています。「富士山と夕日と雲」シリーズをご覧下さい。。



     朝鮮通信使の箱根山越え

 江戸幕府は、朝鮮通信使を国賓として迎え、江戸までの道中各地の主な藩で歓迎し、使節員一行を饗宴・接待した。また、長い道中における一行の安全のための警護を徹底し、難所とされる場所では事故が起きないよう万全な対策を講じたのである。

 朝鮮通信使一行が、清見寺を出て興津から由井に入る境界付近は、左はそそり立つ断崖、右は太平洋の荒波が打ち寄せる海岸で、波にさらわれないようわずかな道を波が引く時に一気に渡らなければない難所だった。そのため危険な「親知らず子知らず(親不知)」の場所と云われた。(大井川・箱根とともに東海道3大難所とされた)

   安藤広重
      由井「親不知」海岸 安藤広重画
 
 江戸幕府は、大行列で通過する通信使一行の不慮の事故を避けるために新しい道(迂回コース)を切り開いた。
 1607年、第1次通信使の往来の際に開通した新しい道の頂上は富士山がよく見える薩埵(さった)峠である。今日では、江戸時代の日朝の友好を伝える碑が建てられている。

  薩たる峠
      薩タ峠から富士山眺望

 薩埵峠を越えた通信使一行は、富士川の船橋を渡り千本松原という景勝地を進み三島で宿泊。翌日早朝に出発、いよいよ東海道最後の難所である箱根山越えである。

  千本松原
      千本松原の風景 三島市

 箱根山は標高約1400㎡の急坂がつづく険しい山、普通の登山者でも難儀であるのに重い荷物を持つ人、輿を担ぐ人たちにとっては大変な苦労であったと思われる。

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       使節員の輿を担ぐ人たち

 第9次(1719年)朝鮮通信使の製述官申維翰(シンユハン)は、輿を担ぐ人たちの様子について、
 「険にして峻、輿を担ぐ者は力を極めて登り、たびたび人を変えては休息する。それでもなお、呼吸が喘急である」と書き、険しい山道で輿を担ぐ人たちの苦労を思いやっている。 

 江戸幕府は、通信使一行が箱根の山を登る前に道路状況を確かめ、雪の日や雨の日に対処し、使節員が滑ったり、転んだりしないように竹を切って坂道を絨毯のように敷き詰めて舗装・道路整備を行ったのである。

 第3次(1624年)通信使の副使姜弘重(キムホンジュン)は、
 「麓から頂上まで四里(1・6㎞)を下らなかった。昨夜から雪が降り、嶺の道がひどくぬかるみ、竹を切って雪をおおったので、乾いた地を踏むようであった。一夜の間にこれをととのえたが、たとえ命令が神速であるとはいえ、また物力の豊富な事がわかる。その道に敷いた細竹は、皆矢を作るものであり、嶺の上には人家が数十戸あった」(『海搓録』)と書き、突貫工事で道路舗装が行われたことを伝えている。

 第5次(1643年)通信使の従事官申竹堂(シンチュクダン)は、
 「嶺の道は険しくて長く、時に長雨の季節なので泥土のぬかるみが脛までも沈めた。数里の間を行く道には、皆竹を編んでしいてあったが、その尽力を多く浪費したことを見る事が出来る」(『海搓録』)と書き、大勢の人が動員され、大変な経費負担であったことを感じとっていたのである。

 記録によれば、竹道の敷き替えに投じられた人員は約3000人。工費は約130両。これを負担したのは、箱根からほど遠い西伊豆~南伊豆(今の宇久須・松崎・南伊豆・下田・河津)の85の村々であった。幕府の命令により、箱根から離れた伊豆の人々が、東海道の整備に駆り出されていたのである。

 通信使一行が箱根峠の頂に着くと、眼前には神秘的な芦の湖と富士山が広がっていた。
 やがて、箱根の関所である。江戸時代の箱根関所は、通行人の取り調べが厳しかったことで有名である。この関所は江戸を守る関門として「入鉄砲に出女」と云われるほど身分や男女問わず厳しい通行検査が行われた。

  関所跡
           箱根関所跡

 朝鮮通信使一行の大行列は、誰も検査されることなくそのまま通過した。いわゆるフリーパスである。
 
 江戸幕府は、正式な外交関係の唯一の国家である朝鮮と善隣友好関係を構築するため、朝鮮通信使に対して最大級の接待、待遇をしていたのである。

 徳川幕府による朝鮮通信使の日本招聘は、諸大名や民衆に幕府の威厳を示すものであるとともに“善隣友好・誠信外交”を象徴するものであった。

 12回の朝鮮通信使が往来した江戸時代の260年間、日本と朝鮮との間で平和が保たれ、政府間の書簡の交換と文化交流、交易が行われた。

 しかし、明治維新後、政府内に「征韓論」が起こり、日朝関係は急速に悪化した。明治政府は、徳川幕府の対朝鮮との善隣友好関係を否定し、朝鮮通信使を「朝貢使」と蔑み、日朝の平和的な交流の歴史を矮小化したのであった。

 そして長い間、とくに日本の朝鮮植民地化(朝鮮併合19の10~1945年)などのために、朝鮮通信使は日本の歴史の中に埋没し、朝鮮通信使に関する歴史研究も行われなかった。関係文書などの保存もしっかりされていない状態にあった。

 1960年代に入って、朝鮮通信使に光をあてたのは李進熙、辛基秀、姜在彦氏ら在日コリアン(朝鮮・韓国人)学者、研究者たちであった。これに触発されて、日本史の大家・上田正昭、仲尾宏氏ら学者が加わり、江戸時代の善隣友好の使節団・朝鮮通信使の歴史が燦然と輝くようになった。

 朝鮮通信使に関する書籍の出版が相次ぎ、通信使が遺した書画などの展示会、通信使ゆかりの地での朝鮮通信使の行列を真似たパレードなどのイベント開催、通信使の記録映画も製作・上映などにより朝鮮通信使の認知度は急速に高まっていった。
 つづく
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      朝鮮通信使と清見寺

 朝鮮通信使一行が江尻宿を出発して、最初に立ち寄る先は徳川家康ゆかりの清見寺(静岡県清水興津)である。

  総門扁額
        清見寺 総門の扁額

 家康は幼少の頃、駿府を支配していた今川氏の人質になり、当時の清見寺住職太原和尚の教育を受けた。

 また、将軍を秀忠にゆずり引退したのち、大御所として駿府に隠せいした際には、家康は清見寺の大輝和尚に帰依し、たびたび清見寺に来遊したという。この寺の庭園は家康の設計によるものと伝えられている。

 清見寺は、東海道筋の駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、眼前に三保の松原が連なっている。

 1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、ただちに朝鮮との講和・和平交渉を対馬藩に命じた。家康の隣国朝鮮との友好策とリーダーシップにより、朝鮮通信使が来日するようになった。(参照、朝鮮通信使2)

 1607年、第1次朝鮮通信使の来日の際、大御所として駿府に居た家康は、江戸での国書交換の任務を終え帰路、駿府に着いた通信使一行をもてなした。一行に船を提供して富士山を望む駿河湾を遊覧させた後、駿府城において歓待したのであった。朝鮮との国交回復と友好関係の樹立にかける家康の強い意志を伝える機会となった。(参照、朝鮮通信使7)

  駿河湾1
     駿河湾からの富士山眺望

 豊臣秀吉の朝鮮侵略による後遺症が残る時期、初めての日本を訪問する朝鮮通信使一行にとっては、警戒心を抱いての訪日だった。

 江戸における秀忠の歓迎と駿府における家康の歓待を受けた使節員たちは、再び日本が朝鮮を侵略する意思がないことを確信し、家康・秀忠父子への信頼を一層深めたのであった。通信使一行は、朝鮮を出発する時から抱いていた警戒心と緊張を駿府においてようやく解いたのであった。

 使節員が清見寺に遺した詩文はそれを物語っているようである。

 第4次朝鮮通信使から江尻の宿場に泊まるようになったが、江戸への往きも帰りも一行は清見寺に立ち寄り、住職や近隣の寺僧、文人らと筆談唱和、書・画・詩の文化交流を活発に行った。

    北斎絵
    清見寺 日朝文人の交流 葛飾北斎画

 第1次から11次まで(1607~1764)の(2次は京都、12次は対馬まで)の往来で、朝鮮通信使一行は清見寺に立ち寄り交流を通じて書・画・詩・扁額など多くの作品を遺したのであった。

 その殆どは文化財・寺宝として現在まで保存されている。その中でよく知られている2、3の文化財を紹介する。

 まず、清見寺の山門に掛かる扁額「東海名区」、本堂に掛かる扁額「興国 朝鮮正使翠屏」、鐘楼に掛かかる扁額「瓊瑶世界 螺山」などの書は全て使節員の手によるものである。

   清見寺3
     清見寺本堂の扁額 チョヒヨン書

 清見寺を讃える詩文・3篇が刻板となって方丈に掛けてある。呂祐吉・慶暹・丁好寛の名があることから、1次(1607年)の使節員の作品であることが解る。

 清見寺に「山水花鳥図押絵屏風4曲」が寺宝として保存されている。

 その寺宝の由来について次のような話が伝えられている。
 11次通信使の正使の趙厳(チョウ・オム)が「清見寺は日東(日本)の神山(仙人が住むところ)として有名」、「前に大海を臨んで限界寺宝としている、後ろに山、関屏(屏風のようにかこんで)花林を成す」とのべた。 
  この時、清見寺の僧が製述官南龍翼(ナム・リョンイク)に「本寺を朝鮮の洛山寺に似ていると言ったので、是非一行中の画人に洛山寺の画を描いてくれるよう」所望した。この願いはかなえられて「金剛山、洛山寺の屏風4曲」が描かれた。作者は画員金有声(キム・ユソン)である。

 このように清見寺は、さながら朝鮮通信使の歴史資料館といっていいほど、珍しい絵画、書、扁額を見ることができる。

  清見寺4
     朝鮮通信使の漢詩刻版 清見寺

 2017年10月、江戸時代の朝鮮通信使関係資料・日韓合計333点がユネスコの「世界の記録遺産」に登録された。(参照、朝鮮通信使1)その内、朝鮮通信使が清見寺に遺した48点が含まれている。

 因みに登録名称は「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日朝間の平和構築と文化交流の歴史」となっている。

 「世界遺産」登録をうけて、清見寺は、広島県福山市鞆浦にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定された。清見寺は再び脚光を浴びるようになった。

 朝鮮通信使の足跡を示す文化財は、日朝、日韓関係の改善と友好平和に向けての貴重な資料・教材となるだろう。

  つづく