2020.07.26
朝鮮通信使100
世界の平和を願う
朝鮮通信使の記録・「世界記憶遺産」登録
江戸時代(1603~1868)は、戦争がなかった平和な時代であった。
関ヶ原の戦いで勝利し、天下統一を果たした徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争(文禄・慶長の役=朝鮮では任辰・丁酉倭乱)の戦後処理を誠実に行い、敵対国の朝鮮と平和友好の誠信「信(よしみ)を通わす」外交の道を開いた。

日本 一衣帯水 朝鮮半島
1607年から1811年まで12回にわたって、朝鮮通信使が日本を往来した200年余の間、日朝両国は良好な関係で平和が保たれていた。隣接の国家間でこれほど長い期間、争いがなかったのは世界史的にも珍しく、まさに朝鮮通信使は「平和の使節」であったと言える。
朝鮮通信使の日本訪問は、両国の友好関係と文化交流にとどまらず、17世紀~19世紀前半の東アジアの平和に寄与したのである。
日朝間の善隣友好の外交精神を対馬藩の真文役〈外交官〉・雨森芳洲は「互いに欺かず、争わず、真心をもって交わる」「誠信の交わり」と説いた。
そうした日朝間の平和外交、文化交流の証として、国書や外交記録、旅程の記録、書画、絵巻、屏風など交流の記録が、今も韓国と日本の各地に文化財として受けつがれ多数保存されている。
2012年、「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会釜山大会」を契機に日本のNPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会(禄地連)」と韓国の財団法人「釜山文化財団」は、「朝鮮通信使に関する記録」をユネスコ〈国連教育科学文化機関〉の世界記憶遺産に登録申請するため、共同して取り組むことで意思統一した。

朝鮮通信使の日本往来ルート
日本側の禄地連では、申請を具体的に進めるための部会を設置した。
部会メンバーには、通信使ゆかりの13市(対馬、壱岐、下関、上関、呉、福山、瀬戸内、京都、近江八幡、長浜、名古屋、静岡、日光)、4県(長崎、福岡、山口、滋賀)、3民間団体(朝鮮通信使対馬顕彰事業会、蘭島文化振興財団・呉市、芳洲会・長浜市)が参加した。
諮問機関として6人からなる日本学術委員会(委員長仲尾宏・京都造形大学教授)が設置された。
韓国側でも釜山文化財団により推進委員会が組織されるとともに、11名からなる学術委員会(委員長姜南周・前釜慶大学総長)が設置された。
両国の学術委員会は、それぞれ朝鮮通信使資料の調査・審査・登録資料選定を行ったうえで、合同学術会議を開催して、選定資料の相互審査と申請書案のすり合わせを行った。両国の立場の違いなどから討論が白熱したこともあったが、11回の合同会議を通じて最終的に双方の登録資料について認識を共有して申請書が作成された。
2016年3月、日韓の民間団体が中心となって両国が共同で「朝鮮通信使に関する記録」の申請書をパリにあるユネスコ本部に提出した。
ユネスコ本部 フランスパリ
ユネスコの「世界記憶遺産」は、人類の記憶に留めるべき重要な書類や地図、音楽等の歴史的記録物をデータ化して保存し、広く一般に公開することを目的としている。
ユネスコの登録基準は厳しい、第一に「真正性」、第二に「世界的重要性」、第3に「希少性」・「唯一性」である。さらに「保存管理」や「公開」が求めらる。
これまで登録されたものとして『アンネの日記』、ベートーベン第9交響曲の自筆楽譜』、『カール・マルクスの資本論初版原稿』などがある。
2017年10月、「朝鮮通信使に関する資料」111件、333点がユネスコの「世界記憶遺産」に登録された。登録名称は「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」である。
朝鮮通信使の記録が世界記憶遺産に登録された意義は計り知れなく大きい。何よりも、日韓両国の人々が世界に誇りうる歴史を共有したことである。
20世紀は、第一次、第2次世界大戦をはじめ、さまざまな戦争によって多くの尊い命が奪われ、人権や環境が失われた戦争の世紀であったとされている。
21世紀こそは、紛争や戦争を根絶させ、失われた人権や環境を回復する平和な世紀であることを誰もが望んでいるが、現実は20世紀の戦争の後遺症を引きずり、いまだに世界各地で紛争やテロが絶えることなく、最近では超大国の経済戦争から覇権争いへとエスカレートしている。
近年、日本と朝鮮半島との関係は悪化の一途をたどり、東アジアの不安定な状況が日ごと増しているように思われる。
このような時期だからこそ、政治に左右されない民間人・民衆同士の交流が大切であり、成熟した市民意識と活発な交流が望まれる。民間人・民衆の国際交流は平和を保つ基礎である。
平和は、市民レベルの交流・民際が基礎となるが、より重要なのは平和を希求する政治家たち、とくに国の権力者・指導者のリーダーシップである。国の大小を問わず、いかなる国の政治家・指導者も、平和への道筋を誤らないために歴史の教訓から学ぶべき時ではなかろうか!
世界遺産に登録された「朝鮮通信使に関する資料」には、悲惨な戦争を乗り越えて平和を構築し、それを維持する方法と知恵が擬縮されている。日朝両国が相互理解と信頼関係を構築し、平等、互恵、友好、平和を維持した200余年の歴史が刻み込まれている。
「朝鮮通信使に関する記録」が世界遺産に登録された後、朝鮮通信使にたいする関心が高まり、日韓両国の市民レベルの交流が一段と深まり広がりをみせている。

朝鮮通信使行列 対馬厳原港まつり

朝鮮舞踊 大阪四天王寺ワッソまつり

朝鮮通信使友情ウオーク ソウルー東京 日比谷公園
朝鮮通信使の記録を「世界遺産」登録に貢献した識者の声を紹介する。
禄地連会長・松原一征氏は、
「ユネスコの憲章の一文に”戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない”とあります。今こそ、世界の人々が平和友好を希求しつづけた朝鮮通信使に学ばなければならないと思います」
釜山文化財団代表理事 ユ・ジョンムク氏は、
「もはや朝鮮通信使は日韓両国だけの資産ではなく、全世界が保存しなければならない世界の資産となりました。貴重な資産を私たちの子孫に継承するため、今後、朝鮮通信使の”善隣友好“、”誠信交隣”の精神を広く知らせるよう、より努力していく必要があります」
日本学術委員会委員長・仲尾宏氏は、
「朝鮮通信使の記録が、今の日本と韓国の相互理解、これから両国が手を携えて未来へ向かうための大変大事なものであるということ、平和のための遺産であるということを、よく認識してもらう必要があります」
韓国学術委員会委員長・姜南周〈カン・マムジュ〉氏は、
「この記録を教育資料として活用したいですね。例えば、しっかりした図録をつくって、、これを教育資料とし、「朝鮮通信使に関する記録」は世界史的に重要なものだ、日韓の平和な関係はこのようにして構築されたなどを教育現場で教えていく、こうした活動が必要ではないかと思っています」(『ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使』仲尾宏・町田一仁著)

大系朝鮮通信使〈全8巻〉 資料集
ユネスコの世界遺産に登録された「朝鮮通信使に関する記録」は、日本と朝鮮半島の平和のみならず、東アジアから世界の平和実現への糧となることを願って止まない。
おわり
この記事をもって「朝鮮通信使」の最終回とします。100回の記事を掲載したことに、筆者自身が驚いています。毎回、勉強不足と未熟を反省しながらの掲載でありました。友人、先輩、後輩、親戚、東大和市のネット仲間の拍手と激励に鼓舞されたことが100回に至ったと感謝しています。とくに、朝鮮通信使100回全ての記事について、感想文と激励のコメントを下さったY・Mさんに厚くお礼申し上げます。
ブログ『日朝文化交流史』はこれからも続けてまいります。ひきつづき愛読をお願いします。
2020年7月27日
朝鮮通信使の記録・「世界記憶遺産」登録
江戸時代(1603~1868)は、戦争がなかった平和な時代であった。
関ヶ原の戦いで勝利し、天下統一を果たした徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争(文禄・慶長の役=朝鮮では任辰・丁酉倭乱)の戦後処理を誠実に行い、敵対国の朝鮮と平和友好の誠信「信(よしみ)を通わす」外交の道を開いた。

日本 一衣帯水 朝鮮半島
1607年から1811年まで12回にわたって、朝鮮通信使が日本を往来した200年余の間、日朝両国は良好な関係で平和が保たれていた。隣接の国家間でこれほど長い期間、争いがなかったのは世界史的にも珍しく、まさに朝鮮通信使は「平和の使節」であったと言える。
朝鮮通信使の日本訪問は、両国の友好関係と文化交流にとどまらず、17世紀~19世紀前半の東アジアの平和に寄与したのである。
日朝間の善隣友好の外交精神を対馬藩の真文役〈外交官〉・雨森芳洲は「互いに欺かず、争わず、真心をもって交わる」「誠信の交わり」と説いた。
そうした日朝間の平和外交、文化交流の証として、国書や外交記録、旅程の記録、書画、絵巻、屏風など交流の記録が、今も韓国と日本の各地に文化財として受けつがれ多数保存されている。
2012年、「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会釜山大会」を契機に日本のNPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会(禄地連)」と韓国の財団法人「釜山文化財団」は、「朝鮮通信使に関する記録」をユネスコ〈国連教育科学文化機関〉の世界記憶遺産に登録申請するため、共同して取り組むことで意思統一した。

朝鮮通信使の日本往来ルート
日本側の禄地連では、申請を具体的に進めるための部会を設置した。
部会メンバーには、通信使ゆかりの13市(対馬、壱岐、下関、上関、呉、福山、瀬戸内、京都、近江八幡、長浜、名古屋、静岡、日光)、4県(長崎、福岡、山口、滋賀)、3民間団体(朝鮮通信使対馬顕彰事業会、蘭島文化振興財団・呉市、芳洲会・長浜市)が参加した。
諮問機関として6人からなる日本学術委員会(委員長仲尾宏・京都造形大学教授)が設置された。
韓国側でも釜山文化財団により推進委員会が組織されるとともに、11名からなる学術委員会(委員長姜南周・前釜慶大学総長)が設置された。
両国の学術委員会は、それぞれ朝鮮通信使資料の調査・審査・登録資料選定を行ったうえで、合同学術会議を開催して、選定資料の相互審査と申請書案のすり合わせを行った。両国の立場の違いなどから討論が白熱したこともあったが、11回の合同会議を通じて最終的に双方の登録資料について認識を共有して申請書が作成された。
2016年3月、日韓の民間団体が中心となって両国が共同で「朝鮮通信使に関する記録」の申請書をパリにあるユネスコ本部に提出した。

ユネスコ本部 フランスパリ
ユネスコの「世界記憶遺産」は、人類の記憶に留めるべき重要な書類や地図、音楽等の歴史的記録物をデータ化して保存し、広く一般に公開することを目的としている。
ユネスコの登録基準は厳しい、第一に「真正性」、第二に「世界的重要性」、第3に「希少性」・「唯一性」である。さらに「保存管理」や「公開」が求めらる。
これまで登録されたものとして『アンネの日記』、ベートーベン第9交響曲の自筆楽譜』、『カール・マルクスの資本論初版原稿』などがある。
2017年10月、「朝鮮通信使に関する資料」111件、333点がユネスコの「世界記憶遺産」に登録された。登録名称は「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」である。
朝鮮通信使の記録が世界記憶遺産に登録された意義は計り知れなく大きい。何よりも、日韓両国の人々が世界に誇りうる歴史を共有したことである。
20世紀は、第一次、第2次世界大戦をはじめ、さまざまな戦争によって多くの尊い命が奪われ、人権や環境が失われた戦争の世紀であったとされている。
21世紀こそは、紛争や戦争を根絶させ、失われた人権や環境を回復する平和な世紀であることを誰もが望んでいるが、現実は20世紀の戦争の後遺症を引きずり、いまだに世界各地で紛争やテロが絶えることなく、最近では超大国の経済戦争から覇権争いへとエスカレートしている。
近年、日本と朝鮮半島との関係は悪化の一途をたどり、東アジアの不安定な状況が日ごと増しているように思われる。
このような時期だからこそ、政治に左右されない民間人・民衆同士の交流が大切であり、成熟した市民意識と活発な交流が望まれる。民間人・民衆の国際交流は平和を保つ基礎である。
平和は、市民レベルの交流・民際が基礎となるが、より重要なのは平和を希求する政治家たち、とくに国の権力者・指導者のリーダーシップである。国の大小を問わず、いかなる国の政治家・指導者も、平和への道筋を誤らないために歴史の教訓から学ぶべき時ではなかろうか!
世界遺産に登録された「朝鮮通信使に関する資料」には、悲惨な戦争を乗り越えて平和を構築し、それを維持する方法と知恵が擬縮されている。日朝両国が相互理解と信頼関係を構築し、平等、互恵、友好、平和を維持した200余年の歴史が刻み込まれている。
「朝鮮通信使に関する記録」が世界遺産に登録された後、朝鮮通信使にたいする関心が高まり、日韓両国の市民レベルの交流が一段と深まり広がりをみせている。

朝鮮通信使行列 対馬厳原港まつり

朝鮮舞踊 大阪四天王寺ワッソまつり

朝鮮通信使友情ウオーク ソウルー東京 日比谷公園
朝鮮通信使の記録を「世界遺産」登録に貢献した識者の声を紹介する。
禄地連会長・松原一征氏は、
「ユネスコの憲章の一文に”戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない”とあります。今こそ、世界の人々が平和友好を希求しつづけた朝鮮通信使に学ばなければならないと思います」
釜山文化財団代表理事 ユ・ジョンムク氏は、
「もはや朝鮮通信使は日韓両国だけの資産ではなく、全世界が保存しなければならない世界の資産となりました。貴重な資産を私たちの子孫に継承するため、今後、朝鮮通信使の”善隣友好“、”誠信交隣”の精神を広く知らせるよう、より努力していく必要があります」
日本学術委員会委員長・仲尾宏氏は、
「朝鮮通信使の記録が、今の日本と韓国の相互理解、これから両国が手を携えて未来へ向かうための大変大事なものであるということ、平和のための遺産であるということを、よく認識してもらう必要があります」
韓国学術委員会委員長・姜南周〈カン・マムジュ〉氏は、
「この記録を教育資料として活用したいですね。例えば、しっかりした図録をつくって、、これを教育資料とし、「朝鮮通信使に関する記録」は世界史的に重要なものだ、日韓の平和な関係はこのようにして構築されたなどを教育現場で教えていく、こうした活動が必要ではないかと思っています」(『ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使』仲尾宏・町田一仁著)

大系朝鮮通信使〈全8巻〉 資料集
ユネスコの世界遺産に登録された「朝鮮通信使に関する記録」は、日本と朝鮮半島の平和のみならず、東アジアから世界の平和実現への糧となることを願って止まない。
おわり
この記事をもって「朝鮮通信使」の最終回とします。100回の記事を掲載したことに、筆者自身が驚いています。毎回、勉強不足と未熟を反省しながらの掲載でありました。友人、先輩、後輩、親戚、東大和市のネット仲間の拍手と激励に鼓舞されたことが100回に至ったと感謝しています。とくに、朝鮮通信使100回全ての記事について、感想文と激励のコメントを下さったY・Mさんに厚くお礼申し上げます。
ブログ『日朝文化交流史』はこれからも続けてまいります。ひきつづき愛読をお願いします。
2020年7月27日
2020.07.12
朝鮮通信使99
映画『江戸時代の朝鮮通信使』上映
京都市北区に高麗美術館を設立(1988年開館)した在日コリアン一世の鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年 - 1989年)は、日本国内に散在する朝鮮の美術品を収集する過程で、肉筆の絵巻『朝鮮人大行列図巻』(全8巻)を入手(1977年)した。

高麗美術館 京都市北区
この絵巻を見に来るよう連絡をうけた朝鮮通信使の研究家の在日コリアン2世・辛基秀(シンギス)は、鄭詔文の家にかけつけ部屋いっぱいに広げられた絵巻をみて驚いた。全長120mに及ぶ朝鮮通信使一行の行列風景を描いた絵巻、それまで見たことのない見事な大絵巻であったからである。
そこには、通信使三使(正使・副使・従事官)をはじめ、対馬藩主や案内・警備・荷役人夫など行列に加わる4600人ほどの人物が描かれていた。一人一人の表情も生き生きと極彩色で描かれ、単なる絵巻と云うより江戸時代の記録映画のようなものであった。
絵巻は、尾張徳川家の姫君が京都の近衛家に嫁ぐときに持参した宝物で、木箱に明治44年(1911年)に二条城の蔵から民間に払い下げたと墨書で書かれていた。
1911年は、日本が朝鮮を植民地統治した翌年、江戸時代の善隣友好の証拠となる絵巻は、朝鮮を支配していく上で邪魔な遺品、価値のないものとばかりに払い下げられたようである。美術商も何が描かれているのか理解できず、買い手もつかないまま美術古物店を転々として、70年後に鄭詔文のところにたどりついたようである。
映画製作の経験がある辛基秀は、この壮大な絵巻物を何度も見るうちに、この絵巻を縦糸に、これまで各地で見つかった絵画や祭礼の際の行列・唐人踊りなどを横糸に記録映画を作れば、いいものができると確信をもった。
辛基 秀の映画製作構想を聞いた鄭詔文は、絵巻を京都7条の表具師墨申堂に依頼して、半年かけて修復作業行い、購入時の金額よりはるかに高い300万円で完成させたという。
やがて、辛基秀は『江戸時代の朝鮮通信使』のタイトルの映画を企画、監督の滝沢林三と高岩仁、清水良雄ら少数スタッフで映画撮影にとり組んだ。対馬から江戸に至る朝鮮通信使が旅した海路・陸路のコースをたどり、長距離・長期間にわたりロケが行われた。
鄭詔文が修復した『朝鮮人大行列図』は、東映の太秦撮影所に持ち込み撮影したという。
1979年、製作費千百万円、上映時間50分のドキュメンタリー映画「江戸時代の朝鮮通信使」が完成した。
1960年代まで、朝鮮通信使の存在が一部の学者以外ほとんど知られていなかった。
朝鮮通信使に関する記録や事績は日本の歴史書、辞書からかき消され、教育現場では「神功皇后の三韓征伐」、「豊臣秀吉の朝鮮征伐」、「加藤清正の虎退治」などが教えられていた。
戦後、30年以上経ったが、明治以降の「征韓論」からはじまる、朝鮮、朝鮮人に対する差別・蔑視・偏見の朝鮮観が日本社会の中に根づよく残っていた。
このような日本社会に潜む状況を認識していた辛基秀は、朝鮮通信使の史料や遺跡など掘り起こすのために全国を駆けずり回り、映画製作に情熱を燃やしたのであった。
辛基秀は映画上映にあたり、
「朝鮮と日本の善隣友好関係が260年も続いたことをきちんと伝えることで、日本の誤った朝鮮観を正す一助にしたい」と語った。
1979年、映画「江戸時代の朝鮮通信使」が大阪の中心地・御堂筋にある朝日生命ホールに600余名の観衆をあつめて一般公開された。
映画の反響は大きかった。
「主題と方法とが一致したドキュメンタリーの勝利で、ある時期における朝鮮が日本にあたえた文化的、学術的影響の足跡を辿ったのみでなく、両国民がもっと深い人間的基盤でかかわりあったことの輝かしい1ページをわたしたちに教える」などの感想文がよせられた。
また長年、朝鮮通信使の翻訳や研究をしてきた姜在彦(カンゼオン)は、
「自分でも通信使関係の翻訳をして朝鮮と日本の友好の歴史を紹介してきたつもりだが、人々に伝えるという意味では活字には限界がある。この映画ができたことによるインパクトはとても大きく、教科書にまで登場するようになった。それまでは江戸時代の絵巻物や屏風に外国人が描かれていても中国人か南蛮人かの区別しか分からない程度だったのだから」と語った。
朝日新聞は3月26日付の社説「映画『朝鮮通信使』を見て」で、
「最近、在日朝鮮人と日本人の映画関係者、音楽家、学者らが協力したドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』をみる機会があった。高松塚が古代の日朝交流史のあかしであるとするなら、これは近世の日朝関係を見直すきっかけとなる映画だと思う、、、いま必要なのは不幸な過去以外に、長い平和な友好の歴史があったことを知り、不孝な事件は時の権力者による例外的な事件であったことを認識することである。そうした時期があったことを持ちだしても不幸な事件の免罪符になるとは思わない。だが歴史の正しい認識が、偏見を正し、双方の理解に大きな役割を果たすだろうことも事実である。『朝鮮通信使』はわずか50分の作品である。だがこの映画が語りかけるは重い。われわれの朝鮮観はどうして形成されたか、長い徳川期を通じて友好関係にあった日朝関係がどうしてゆがんでしまったのか、われわれはいま一度、考えてみる必要がありそうだ」
その後、映画『江戸時代の朝鮮通信使』は、対馬、下関、岡山牛窓、大阪、京都、彦根、岐阜、清水、東京へと通信使ゆかりの地で上映され、仙台や他の地域、学校や団体などでも上映された。文部省選定映画となり、韓国ではテレビで全国放映された。何処の映画上映会も好評を博し大きな反響を呼んだ。
反響を呼んだ理由について、辛基秀は、
「日本人の場合、最大の理由は、こんなにも明るく、けんらん豪華な交流があったことを知らなかったという衝撃でしょうね、それも、知らさのていなかったということがわかって、もうひとつ驚きが大きくなる。日朝関係の歴史といえば、秀吉の朝鮮出兵、明治以降の征韓論、日韓併合といった暗い面ばかり教えられてきた。明暗のコントラストがあまりにも大きすぎる。ある雑誌編集者が”このような歴史的事実について、ほとんど無知であった私自身が恥ずかしい、、、目のウロコが一枚一枚はがされた”と感想を寄せている。日本人の反応はこの言葉に代表されていますね」と、
在日コリアン(朝鮮人・韓国人)のある女性は、
「映画を見ている間に、日本に対してばくぜんと積もり積もった憎しみが少しずつ消えてゆき、終わったあとは不思議とやさしい気持ちでした。日本と朝鮮は親友だったんだ。いやそれ以上のものなんだ。私は日本人を愛しているのかも知れない。とすがすがしく考えることが出来てうれしかった。もしこの映画を日本人が見たならば、やはり朝鮮に新愛の情を抱くでしょう」という感想文を書いた。
日本生まれ育ちの在日コリアン2世の筆者も、映画『江戸時代の朝鮮通信使』を見て感動を覚えた。早くにこの映画の存在を知っていれば、筆者はこの「朝鮮通信使」のブログ記事は掲載することはなかった思う。筆者の100回に及ぶ記事は、この50分の映画の中にすべて擬縮されていると言える。いや100回の記事より、一編の映画のインパクトははるかに大きい。
ドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』の中から15枚の画像をカットして動画風に編集してみた。映画と比べられるものではないが、高麗美術館所蔵の「朝鮮人大行列図巻」の一端として見てほしい。
つづく
京都市北区に高麗美術館を設立(1988年開館)した在日コリアン一世の鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年 - 1989年)は、日本国内に散在する朝鮮の美術品を収集する過程で、肉筆の絵巻『朝鮮人大行列図巻』(全8巻)を入手(1977年)した。

高麗美術館 京都市北区
この絵巻を見に来るよう連絡をうけた朝鮮通信使の研究家の在日コリアン2世・辛基秀(シンギス)は、鄭詔文の家にかけつけ部屋いっぱいに広げられた絵巻をみて驚いた。全長120mに及ぶ朝鮮通信使一行の行列風景を描いた絵巻、それまで見たことのない見事な大絵巻であったからである。
そこには、通信使三使(正使・副使・従事官)をはじめ、対馬藩主や案内・警備・荷役人夫など行列に加わる4600人ほどの人物が描かれていた。一人一人の表情も生き生きと極彩色で描かれ、単なる絵巻と云うより江戸時代の記録映画のようなものであった。
絵巻は、尾張徳川家の姫君が京都の近衛家に嫁ぐときに持参した宝物で、木箱に明治44年(1911年)に二条城の蔵から民間に払い下げたと墨書で書かれていた。
1911年は、日本が朝鮮を植民地統治した翌年、江戸時代の善隣友好の証拠となる絵巻は、朝鮮を支配していく上で邪魔な遺品、価値のないものとばかりに払い下げられたようである。美術商も何が描かれているのか理解できず、買い手もつかないまま美術古物店を転々として、70年後に鄭詔文のところにたどりついたようである。
映画製作の経験がある辛基秀は、この壮大な絵巻物を何度も見るうちに、この絵巻を縦糸に、これまで各地で見つかった絵画や祭礼の際の行列・唐人踊りなどを横糸に記録映画を作れば、いいものができると確信をもった。
辛基 秀の映画製作構想を聞いた鄭詔文は、絵巻を京都7条の表具師墨申堂に依頼して、半年かけて修復作業行い、購入時の金額よりはるかに高い300万円で完成させたという。
やがて、辛基秀は『江戸時代の朝鮮通信使』のタイトルの映画を企画、監督の滝沢林三と高岩仁、清水良雄ら少数スタッフで映画撮影にとり組んだ。対馬から江戸に至る朝鮮通信使が旅した海路・陸路のコースをたどり、長距離・長期間にわたりロケが行われた。
鄭詔文が修復した『朝鮮人大行列図』は、東映の太秦撮影所に持ち込み撮影したという。
1979年、製作費千百万円、上映時間50分のドキュメンタリー映画「江戸時代の朝鮮通信使」が完成した。
1960年代まで、朝鮮通信使の存在が一部の学者以外ほとんど知られていなかった。
朝鮮通信使に関する記録や事績は日本の歴史書、辞書からかき消され、教育現場では「神功皇后の三韓征伐」、「豊臣秀吉の朝鮮征伐」、「加藤清正の虎退治」などが教えられていた。
戦後、30年以上経ったが、明治以降の「征韓論」からはじまる、朝鮮、朝鮮人に対する差別・蔑視・偏見の朝鮮観が日本社会の中に根づよく残っていた。
このような日本社会に潜む状況を認識していた辛基秀は、朝鮮通信使の史料や遺跡など掘り起こすのために全国を駆けずり回り、映画製作に情熱を燃やしたのであった。
辛基秀は映画上映にあたり、
「朝鮮と日本の善隣友好関係が260年も続いたことをきちんと伝えることで、日本の誤った朝鮮観を正す一助にしたい」と語った。
1979年、映画「江戸時代の朝鮮通信使」が大阪の中心地・御堂筋にある朝日生命ホールに600余名の観衆をあつめて一般公開された。
映画の反響は大きかった。
「主題と方法とが一致したドキュメンタリーの勝利で、ある時期における朝鮮が日本にあたえた文化的、学術的影響の足跡を辿ったのみでなく、両国民がもっと深い人間的基盤でかかわりあったことの輝かしい1ページをわたしたちに教える」などの感想文がよせられた。
また長年、朝鮮通信使の翻訳や研究をしてきた姜在彦(カンゼオン)は、
「自分でも通信使関係の翻訳をして朝鮮と日本の友好の歴史を紹介してきたつもりだが、人々に伝えるという意味では活字には限界がある。この映画ができたことによるインパクトはとても大きく、教科書にまで登場するようになった。それまでは江戸時代の絵巻物や屏風に外国人が描かれていても中国人か南蛮人かの区別しか分からない程度だったのだから」と語った。
朝日新聞は3月26日付の社説「映画『朝鮮通信使』を見て」で、
「最近、在日朝鮮人と日本人の映画関係者、音楽家、学者らが協力したドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』をみる機会があった。高松塚が古代の日朝交流史のあかしであるとするなら、これは近世の日朝関係を見直すきっかけとなる映画だと思う、、、いま必要なのは不幸な過去以外に、長い平和な友好の歴史があったことを知り、不孝な事件は時の権力者による例外的な事件であったことを認識することである。そうした時期があったことを持ちだしても不幸な事件の免罪符になるとは思わない。だが歴史の正しい認識が、偏見を正し、双方の理解に大きな役割を果たすだろうことも事実である。『朝鮮通信使』はわずか50分の作品である。だがこの映画が語りかけるは重い。われわれの朝鮮観はどうして形成されたか、長い徳川期を通じて友好関係にあった日朝関係がどうしてゆがんでしまったのか、われわれはいま一度、考えてみる必要がありそうだ」
その後、映画『江戸時代の朝鮮通信使』は、対馬、下関、岡山牛窓、大阪、京都、彦根、岐阜、清水、東京へと通信使ゆかりの地で上映され、仙台や他の地域、学校や団体などでも上映された。文部省選定映画となり、韓国ではテレビで全国放映された。何処の映画上映会も好評を博し大きな反響を呼んだ。
反響を呼んだ理由について、辛基秀は、
「日本人の場合、最大の理由は、こんなにも明るく、けんらん豪華な交流があったことを知らなかったという衝撃でしょうね、それも、知らさのていなかったということがわかって、もうひとつ驚きが大きくなる。日朝関係の歴史といえば、秀吉の朝鮮出兵、明治以降の征韓論、日韓併合といった暗い面ばかり教えられてきた。明暗のコントラストがあまりにも大きすぎる。ある雑誌編集者が”このような歴史的事実について、ほとんど無知であった私自身が恥ずかしい、、、目のウロコが一枚一枚はがされた”と感想を寄せている。日本人の反応はこの言葉に代表されていますね」と、
在日コリアン(朝鮮人・韓国人)のある女性は、
「映画を見ている間に、日本に対してばくぜんと積もり積もった憎しみが少しずつ消えてゆき、終わったあとは不思議とやさしい気持ちでした。日本と朝鮮は親友だったんだ。いやそれ以上のものなんだ。私は日本人を愛しているのかも知れない。とすがすがしく考えることが出来てうれしかった。もしこの映画を日本人が見たならば、やはり朝鮮に新愛の情を抱くでしょう」という感想文を書いた。
日本生まれ育ちの在日コリアン2世の筆者も、映画『江戸時代の朝鮮通信使』を見て感動を覚えた。早くにこの映画の存在を知っていれば、筆者はこの「朝鮮通信使」のブログ記事は掲載することはなかった思う。筆者の100回に及ぶ記事は、この50分の映画の中にすべて擬縮されていると言える。いや100回の記事より、一編の映画のインパクトははるかに大きい。
ドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』の中から15枚の画像をカットして動画風に編集してみた。映画と比べられるものではないが、高麗美術館所蔵の「朝鮮人大行列図巻」の一端として見てほしい。
つづく
2020.06.24
朝鮮通信使98
朝鮮通信使一行を大歓迎する江戸庶民
朝鮮通信使の江戸到来は、徳川幕府が将軍一代の盛儀としてその威信を高めるれる行事で、通信使一行の江戸入場時の歓迎では江戸庶民・民衆にも見物が奨励された。江戸庶民にとって朝鮮通信使行列は一生一代の見物であった。
朝鮮通信使一行が、幕府役人に先導されて品川を出発すると、日本橋から本町3丁目を通り浅草本願寺へと進む。その行列をひと目見ようと盛装した江戸の庶民が沿道をうめつくした。
その様子について、第9次(1719年)通信使の製述官申唯翰は、
「見物する男女がぎっしり埋まり、屋上を仰ぎ看れば、梁間に衆目が集まって一寸の隙間もない。衣の裾には花が飾られ、簾幕は日に輝く。大阪、京都に比べて3倍におよぶ」(『海遊録』)と述べ、江戸庶民の歓迎ぶりを伝えている。
江戸庶民の歓迎の様子は、すでに「朝鮮通信使53」 ”朝鮮通信使の江戸入場”で記したので、ここでは羽川籐永が描いた「朝鮮人來朝図」(神戸市立博物館所蔵)を基に熱狂的な歓迎の様子を、各場面ごとに画像を拡大して動画風に編集した。よりリアルな表現を試みて見たのであるが、、、
江戸時代の日本は、朝鮮だけが心を開いて交わる唯一の「通信」(よしみを通わす)国であった。貿易のみの「通商」の国(中国、オランダ)とは違い、はるかに大切に親近感をもって隣国の外交使節団・朝鮮通信使一行を迎えたことを物語っている。つづく
朝鮮通信使の江戸到来は、徳川幕府が将軍一代の盛儀としてその威信を高めるれる行事で、通信使一行の江戸入場時の歓迎では江戸庶民・民衆にも見物が奨励された。江戸庶民にとって朝鮮通信使行列は一生一代の見物であった。
朝鮮通信使一行が、幕府役人に先導されて品川を出発すると、日本橋から本町3丁目を通り浅草本願寺へと進む。その行列をひと目見ようと盛装した江戸の庶民が沿道をうめつくした。
その様子について、第9次(1719年)通信使の製述官申唯翰は、
「見物する男女がぎっしり埋まり、屋上を仰ぎ看れば、梁間に衆目が集まって一寸の隙間もない。衣の裾には花が飾られ、簾幕は日に輝く。大阪、京都に比べて3倍におよぶ」(『海遊録』)と述べ、江戸庶民の歓迎ぶりを伝えている。
江戸庶民の歓迎の様子は、すでに「朝鮮通信使53」 ”朝鮮通信使の江戸入場”で記したので、ここでは羽川籐永が描いた「朝鮮人來朝図」(神戸市立博物館所蔵)を基に熱狂的な歓迎の様子を、各場面ごとに画像を拡大して動画風に編集した。よりリアルな表現を試みて見たのであるが、、、
江戸時代の日本は、朝鮮だけが心を開いて交わる唯一の「通信」(よしみを通わす)国であった。貿易のみの「通商」の国(中国、オランダ)とは違い、はるかに大切に親近感をもって隣国の外交使節団・朝鮮通信使一行を迎えたことを物語っている。つづく
2020.06.14
朝鮮通信使97
朝鮮通信使の小田原・相模路への旅
朝鮮通信使一行は、東海道最後の難所・箱根を越え、急坂を下りて小田原に着き、小田原城南の大蓮寺に宿泊した。第2次通信使以降の宿泊所は城周辺の茶屋になった。
翌朝、小田原を出発すると大磯、藤沢を経て戸塚、保土ヶ谷、神奈川へと進む。そして通信使の旅は、いよいよ最終コースとなる江戸の入口・六郷川(多摩川)にさしかかる。この小田原・相模路にも朝鮮通信使の足跡がいくつか残されている。
小田原は、箱根の嶮を控えて江戸の西入口を押さえる要衝であった。そのため幕府は老中歴任者や譜代大名ら重臣を城主に配置した。
幕府は、朝鮮通信使が箱根に到着する3ヵ月前に、江戸から問慰使を小田原藩に派遣して迎接準備を急がせた。
箱根を下る途中、湯本のほど近くに北条氏の菩提寺・早雲寺がある。通信使はこの寺に立ち寄った形跡はないが、どうしたことか寺の山門に「金湯山 朝鮮雪峰」の扁額が掛けられている。雪峰は5次(1643年)、6次(1655年)通信使の書記・金義信の号である。おそらく早雲寺の僧が通信使の宿舎を訪ねて揮毫してもらったものと思われる。

早雲寺の山門・「金湯山」 箱根
小田原から六郷川に至る道路整備や輸送、とくに東海道を横切る酒匂川(さかわ)と馬入川(相模川)に船橋を架ける工事は沿線の 村々から多くの人馬が動員された。
馬入川は相模第一の大川で、両岸の河原に土盛をした台場を造り、長さ300m、幅3mの船橋を架橋した。並べられた船の数は69隻~90隻である。ところが1748年、10次通信使が到着直前にせっかく完成した架橋が流されてしまった。
再度の架橋を造るため緊急に相模国203ヵ村、武蔵国の36ヵ村から多くの人馬動員の「御用」が課せられた。前年が凶作であったため農民は食糧難に喘ぎながら負担であった。
そのため、大住郡北矢名村や高座郡の村々から藩に対して拝借金を願い出たり、通信使宿泊・休憩所の「賄御用」の御免を願い出ている。
こうしてせっかく掛けられ船橋は通信使が通るときのみ使用された。何とも効率の悪い、もったいない船橋架橋であった。幕府が、朝鮮通信使をいかに特別な待遇で迎えたか窺い知るところであるが、負担を背負わされた村民の不満の声も聞こえてくるようある。
このような苛酷な負担にもかかわらず、村民たちは異国の賓客・朝鮮通信使一行が到来すると、快く歓迎し、華やかな大行列に驚嘆したのであった。
国府津(神奈川県大磯町)の国府祭に通信使の行列をまねた「唐人踊り」が行われいたという。
相州淘綾(ゆるぎ)郡山西村の名主志澤家に残されている「覚書」によれば、小田原の「松屋御茶屋」に立ち寄った通信使の下官20数人が茶をゆるゆると呑みながら、日本語での会話を楽しんだと書き記されている。通信使と村民らの和やかな交流の場が想像される。
初代将軍徳川家康が駿府に隠居中、2代将軍秀忠のはからいで第一次朝鮮通信使一行は江戸からの帰途、鎌倉へ立ち寄り鶴岡八幡宮や頼朝廟、鎌倉大仏など見学したことが記録されている。
六郷川の渡し場(現川崎市川崎区)は相模国と江戸との国境である。ここに徳川将軍の命をおびた使者が通信使一行を出迎えた。
通信使一行が6郷川を渡る様子について、9次通信使の製述官申唯翰は、
「川の広さ四五百歩、彩船四隻が待つ、一は国書を奉じ、二つは使臣が分乗した。広大ではないが金彩漆光が照り映え、華麗である。また緒船集まること雲のごとく、人馬や行李を積んだ」(『海遊録』)と書いている。両岸には、ひと目見ようと見物人が押し寄せていた。

六郷川の渡し場の風景 絵
六郷川を渡った通信使一行は、夕刻に品川の東海寺玄性院に着き一泊する。東海寺に掛かる扁額「海上壇林」は、箱根の早雲寺の扁額と同じ五次通信使の書記金義信の書である。
ソウルを出発して、海路、陸路3000㎞、2~3ヵ月の長旅を終えた朝鮮通信使一行は翌日、いよいよ江戸市中入りする。
つづくspan>
朝鮮通信使一行は、東海道最後の難所・箱根を越え、急坂を下りて小田原に着き、小田原城南の大蓮寺に宿泊した。第2次通信使以降の宿泊所は城周辺の茶屋になった。
翌朝、小田原を出発すると大磯、藤沢を経て戸塚、保土ヶ谷、神奈川へと進む。そして通信使の旅は、いよいよ最終コースとなる江戸の入口・六郷川(多摩川)にさしかかる。この小田原・相模路にも朝鮮通信使の足跡がいくつか残されている。
小田原は、箱根の嶮を控えて江戸の西入口を押さえる要衝であった。そのため幕府は老中歴任者や譜代大名ら重臣を城主に配置した。
幕府は、朝鮮通信使が箱根に到着する3ヵ月前に、江戸から問慰使を小田原藩に派遣して迎接準備を急がせた。
箱根を下る途中、湯本のほど近くに北条氏の菩提寺・早雲寺がある。通信使はこの寺に立ち寄った形跡はないが、どうしたことか寺の山門に「金湯山 朝鮮雪峰」の扁額が掛けられている。雪峰は5次(1643年)、6次(1655年)通信使の書記・金義信の号である。おそらく早雲寺の僧が通信使の宿舎を訪ねて揮毫してもらったものと思われる。

早雲寺の山門・「金湯山」 箱根
小田原から六郷川に至る道路整備や輸送、とくに東海道を横切る酒匂川(さかわ)と馬入川(相模川)に船橋を架ける工事は沿線の 村々から多くの人馬が動員された。
馬入川は相模第一の大川で、両岸の河原に土盛をした台場を造り、長さ300m、幅3mの船橋を架橋した。並べられた船の数は69隻~90隻である。ところが1748年、10次通信使が到着直前にせっかく完成した架橋が流されてしまった。
再度の架橋を造るため緊急に相模国203ヵ村、武蔵国の36ヵ村から多くの人馬動員の「御用」が課せられた。前年が凶作であったため農民は食糧難に喘ぎながら負担であった。
そのため、大住郡北矢名村や高座郡の村々から藩に対して拝借金を願い出たり、通信使宿泊・休憩所の「賄御用」の御免を願い出ている。
こうしてせっかく掛けられ船橋は通信使が通るときのみ使用された。何とも効率の悪い、もったいない船橋架橋であった。幕府が、朝鮮通信使をいかに特別な待遇で迎えたか窺い知るところであるが、負担を背負わされた村民の不満の声も聞こえてくるようある。
このような苛酷な負担にもかかわらず、村民たちは異国の賓客・朝鮮通信使一行が到来すると、快く歓迎し、華やかな大行列に驚嘆したのであった。
国府津(神奈川県大磯町)の国府祭に通信使の行列をまねた「唐人踊り」が行われいたという。
相州淘綾(ゆるぎ)郡山西村の名主志澤家に残されている「覚書」によれば、小田原の「松屋御茶屋」に立ち寄った通信使の下官20数人が茶をゆるゆると呑みながら、日本語での会話を楽しんだと書き記されている。通信使と村民らの和やかな交流の場が想像される。
初代将軍徳川家康が駿府に隠居中、2代将軍秀忠のはからいで第一次朝鮮通信使一行は江戸からの帰途、鎌倉へ立ち寄り鶴岡八幡宮や頼朝廟、鎌倉大仏など見学したことが記録されている。
六郷川の渡し場(現川崎市川崎区)は相模国と江戸との国境である。ここに徳川将軍の命をおびた使者が通信使一行を出迎えた。
通信使一行が6郷川を渡る様子について、9次通信使の製述官申唯翰は、
「川の広さ四五百歩、彩船四隻が待つ、一は国書を奉じ、二つは使臣が分乗した。広大ではないが金彩漆光が照り映え、華麗である。また緒船集まること雲のごとく、人馬や行李を積んだ」(『海遊録』)と書いている。両岸には、ひと目見ようと見物人が押し寄せていた。

六郷川の渡し場の風景 絵
六郷川を渡った通信使一行は、夕刻に品川の東海寺玄性院に着き一泊する。東海寺に掛かる扁額「海上壇林」は、箱根の早雲寺の扁額と同じ五次通信使の書記金義信の書である。
ソウルを出発して、海路、陸路3000㎞、2~3ヵ月の長旅を終えた朝鮮通信使一行は翌日、いよいよ江戸市中入りする。
つづくspan>
2020.06.06
朝鮮通信使96
朝鮮通信使の富士山観賞
富士山は、日本最高峰(剣ヶ峰)の山である。日本列島のほぼ中央部に聳え、その優美な姿は日本の象徴として国内外に広く知られている。
富士山は、昔から信仰の対象として人々に崇められ数多くの芸術作品を生み出した。2014年、世界文化遺産に登録された。
富士山の雄姿は、昔のままで今も変わらない。
江戸時代、朝鮮通信使は第1回(1607年)から第12回(1811年)まで、江戸まで行かなかった第2回を除く計10回の東海道往復で富士山を観賞した。どのように観賞したのだろうか、通信使の使行録からいくつかをとり上げて見る。
朝鮮通信使一行の鑑賞場所は、白須賀(浜名湖西)、今切(浜名湖)、浜松、掛川、中山、大井川、駿府、江尻、薩埵峠、蒲原、富士川東、吉原、三島、箱根と静岡県内の東海道の名所全域に亘っている。
使節員らは富士山の雄姿を褒め称え、とくに山頂に万年雪があることに感動している。
第3回(1624)通信使の副使・慶七松(キョンチルソン)は、
「山は大平野の中にあって、三州の境界に雄雄しくそびえ立ち、白雲がつねに中腹に発生し、空に浮かんで天を覆い、山の頂上はいつも雪が積もって白く・・・まことに天下の壮観である」(『海搓録』)と述べ、万年雪が残る富士山を称えている。
第7回(1682)通信使の訳官・洪寓載(ホンウジェ)は、
「富士山の氷雪が消えないという話を、一行の中には出鱈目だと疑う人もいないわけではなかったが、今になってこれを見ると、平山に雪の痕跡があり、頂上には堆(うずたか)く盛られていた。、、疑いをもっていた心を打ち破られた」と記し、夏でも雪が残る富士山を不思議がったのである。
第9回(1719年)通信使の製述官・申維翰(シンユハン)は、
「白須賀村(静岡県湖西市南西部)を過ぎた。日本人が東の雲際を指して”富士山だ!”と叫んだ。
私は輿を停めて、東の空を眺めた。雪の積もった山頂が白いかんざしのように青い空をまっすぐ貫き、山の中腹から下は、雲のかすみにおおわれて、陰となっていた。
聞けば、ここはあの山裾から四百里(1里=400m)も離れているという。それが今、すでに、私の目の中にある。海外に、あまたある山の中でも、富士山に並ぶものはないだろう」(『海遊録』)と記し、世界の山々を直接見たはずもないのに、”世界に並ぶものがない”と褒め称えているのは、外交辞令的であるが、はじめて見る富士山の雄姿に感動したからの表現であろう。
11次(1764年)通信使の書記官・金仁謙は、
『風が吹き渡ると 白い蓮の花が半ば開いたような 白雪嵯峨たる山が姿を現した。、、優雅にして高大 雲の果てに届いている。』(『葵未隋搓録』)と記し、原(沼津市)から富士山の全貌を見渡たし感動している。

富士山を眺める通信使 葛飾北斎画
富士山を眺めながら原を通過する通信使一行の様子を、葛飾北斎が描写して「東海道五十三次」画集の一つに残した。
通信使一行が箱根峠にやっと登りつめると、眼下にひろがる芦ノ湖と左前方にそびえる富士の雄姿に、一行の誰もが感嘆の声を上げ、中国の故事にある神仙が棲む山にたとえて、その優美な姿を賞賛したのであった。

箱根峠からの眺め
朝鮮半島から海をわたって、江戸到着までの海路、陸路の長旅の中で、箱根峠でみる圧倒的な存在感のある富士山の光景は、通信使一行に感動と共に強烈な印象に残したようである。殆どの使行録に記されている。
しかし、18世紀に入り第10回(1748年)と11回(1768年)の2回の朝鮮通信使の中に、富士山の賞賛だけではなく、ナーバスな表現をした日記・記録も残さている。
「優雅で奇観ではあるが、先人の日記にあるような天下の名山というほどではない」
「箱根のほうが山脈として魅力的である」
「伝説では、始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わし、富士山で仙薬を探させたというが、人参の産地である朝鮮を通過して、人参のない日本に来るはずがない」といった記述が見られるようになった。
こうした記事が書かれるようになった背景には、武士の国・日本に対する朝鮮の儒教文化の優越意識と朝鮮王朝(李朝)の支配階級・両班(文班・武班)の間で繰り広げられていた党争(派閥争い)があった。
通信使の使行録は正式に朝廷に報告するためであるが、使行員の日記や記録は国内用のもので、めったに日本人が読むことはなかった。
そのため、使行員個人の日記・記録は、自派閥の優位を誇示するために書かれたもの、たとえば他派閥の先輩通信使が「世界でも比類なき山」と賞賛していた富士山を、「たいした山じゃない」と批判しているのである。
そのような日記・記録を残した使行員は、「主観」・「先入観」という曇ったメガネで見たため、富士山の自然の雄姿を目前にしても素直に感動することができなかったのであろう。
富士山の自然の姿は、江戸時代も現代も変わらず優雅に聳える。いつ、何処から見ても、白雪を被った富士山の雄姿は魅せられるものがある。
筆者は、現在東京の郊外、東大和市の高層アパートの一室に居住している。ベランダから奥多摩の山稜線上に聳える富士山を遠望することが出来る。
これまで朝夕、富士山の写真を撮りつづけてきた。



筆者がベランダから撮った富士山
富士山の自然の風景は、昔も今も変わらず、朝鮮通信使が述べたように”世界に並ぶものがない"日本を象徴する名山である。
つづく
追記、筆者の富士山の記事は、「東大和どっとネット」の”まちで遊ぶ”・「玉川上水駅周辺の風景」に掲載しています。「富士山と夕日と雲」シリーズをご覧下さい。。
富士山は、日本最高峰(剣ヶ峰)の山である。日本列島のほぼ中央部に聳え、その優美な姿は日本の象徴として国内外に広く知られている。
富士山は、昔から信仰の対象として人々に崇められ数多くの芸術作品を生み出した。2014年、世界文化遺産に登録された。
富士山の雄姿は、昔のままで今も変わらない。
江戸時代、朝鮮通信使は第1回(1607年)から第12回(1811年)まで、江戸まで行かなかった第2回を除く計10回の東海道往復で富士山を観賞した。どのように観賞したのだろうか、通信使の使行録からいくつかをとり上げて見る。
朝鮮通信使一行の鑑賞場所は、白須賀(浜名湖西)、今切(浜名湖)、浜松、掛川、中山、大井川、駿府、江尻、薩埵峠、蒲原、富士川東、吉原、三島、箱根と静岡県内の東海道の名所全域に亘っている。
使節員らは富士山の雄姿を褒め称え、とくに山頂に万年雪があることに感動している。
第3回(1624)通信使の副使・慶七松(キョンチルソン)は、
「山は大平野の中にあって、三州の境界に雄雄しくそびえ立ち、白雲がつねに中腹に発生し、空に浮かんで天を覆い、山の頂上はいつも雪が積もって白く・・・まことに天下の壮観である」(『海搓録』)と述べ、万年雪が残る富士山を称えている。
第7回(1682)通信使の訳官・洪寓載(ホンウジェ)は、
「富士山の氷雪が消えないという話を、一行の中には出鱈目だと疑う人もいないわけではなかったが、今になってこれを見ると、平山に雪の痕跡があり、頂上には堆(うずたか)く盛られていた。、、疑いをもっていた心を打ち破られた」と記し、夏でも雪が残る富士山を不思議がったのである。
第9回(1719年)通信使の製述官・申維翰(シンユハン)は、
「白須賀村(静岡県湖西市南西部)を過ぎた。日本人が東の雲際を指して”富士山だ!”と叫んだ。
私は輿を停めて、東の空を眺めた。雪の積もった山頂が白いかんざしのように青い空をまっすぐ貫き、山の中腹から下は、雲のかすみにおおわれて、陰となっていた。
聞けば、ここはあの山裾から四百里(1里=400m)も離れているという。それが今、すでに、私の目の中にある。海外に、あまたある山の中でも、富士山に並ぶものはないだろう」(『海遊録』)と記し、世界の山々を直接見たはずもないのに、”世界に並ぶものがない”と褒め称えているのは、外交辞令的であるが、はじめて見る富士山の雄姿に感動したからの表現であろう。
11次(1764年)通信使の書記官・金仁謙は、
『風が吹き渡ると 白い蓮の花が半ば開いたような 白雪嵯峨たる山が姿を現した。、、優雅にして高大 雲の果てに届いている。』(『葵未隋搓録』)と記し、原(沼津市)から富士山の全貌を見渡たし感動している。

富士山を眺める通信使 葛飾北斎画
富士山を眺めながら原を通過する通信使一行の様子を、葛飾北斎が描写して「東海道五十三次」画集の一つに残した。
通信使一行が箱根峠にやっと登りつめると、眼下にひろがる芦ノ湖と左前方にそびえる富士の雄姿に、一行の誰もが感嘆の声を上げ、中国の故事にある神仙が棲む山にたとえて、その優美な姿を賞賛したのであった。

箱根峠からの眺め
朝鮮半島から海をわたって、江戸到着までの海路、陸路の長旅の中で、箱根峠でみる圧倒的な存在感のある富士山の光景は、通信使一行に感動と共に強烈な印象に残したようである。殆どの使行録に記されている。
しかし、18世紀に入り第10回(1748年)と11回(1768年)の2回の朝鮮通信使の中に、富士山の賞賛だけではなく、ナーバスな表現をした日記・記録も残さている。
「優雅で奇観ではあるが、先人の日記にあるような天下の名山というほどではない」
「箱根のほうが山脈として魅力的である」
「伝説では、始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わし、富士山で仙薬を探させたというが、人参の産地である朝鮮を通過して、人参のない日本に来るはずがない」といった記述が見られるようになった。
こうした記事が書かれるようになった背景には、武士の国・日本に対する朝鮮の儒教文化の優越意識と朝鮮王朝(李朝)の支配階級・両班(文班・武班)の間で繰り広げられていた党争(派閥争い)があった。
通信使の使行録は正式に朝廷に報告するためであるが、使行員の日記や記録は国内用のもので、めったに日本人が読むことはなかった。
そのため、使行員個人の日記・記録は、自派閥の優位を誇示するために書かれたもの、たとえば他派閥の先輩通信使が「世界でも比類なき山」と賞賛していた富士山を、「たいした山じゃない」と批判しているのである。
そのような日記・記録を残した使行員は、「主観」・「先入観」という曇ったメガネで見たため、富士山の自然の雄姿を目前にしても素直に感動することができなかったのであろう。
富士山の自然の姿は、江戸時代も現代も変わらず優雅に聳える。いつ、何処から見ても、白雪を被った富士山の雄姿は魅せられるものがある。
筆者は、現在東京の郊外、東大和市の高層アパートの一室に居住している。ベランダから奥多摩の山稜線上に聳える富士山を遠望することが出来る。
これまで朝夕、富士山の写真を撮りつづけてきた。



筆者がベランダから撮った富士山
富士山の自然の風景は、昔も今も変わらず、朝鮮通信使が述べたように”世界に並ぶものがない"日本を象徴する名山である。
つづく
追記、筆者の富士山の記事は、「東大和どっとネット」の”まちで遊ぶ”・「玉川上水駅周辺の風景」に掲載しています。「富士山と夕日と雲」シリーズをご覧下さい。。