FC2ブログ
  朝鮮通信使の船団・瀬戸内海を行く
     
   高麗船の よらで過ぎ行く 霞かな

 この俳句は、瀬戸内海を航行する朝鮮通信使の船団が、群衆の目のまえを過ぎて、春霞のなかに消えてゆく情景を詠ったものである。(高麗船は朝鮮通信使船)

   蕪村
        与謝野蕪村 画

 江戸時代中期の俳人・与謝野蕪村(1716~84年)の一句である。
 
 おそらく蕪村は旅の途中、西日本のどこか瀬戸内海の沿岸で10回目(1748年)か11回目(1764年)の朝鮮通信使の船団を偶然に見る機会があったと思われる。

  航海8
        朝鮮通信使船団

 玄界灘を波濤を超えて日本にやってきた朝鮮通信使一行は、木造大型船6隻、案内する対馬藩の船と各藩の案内・護衛船、大小の船約千余隻が延々と連なり航行していた。
 
 はじめて見る異国の船団を見物しようと、押し寄せた群衆の歓声と華やかな朝鮮楽隊の音が聞こえてくるようであり、大小の船が次から次へと目の前を走馬灯のように通過し、やがて彼方に消え行く。まるで映像を見ているかのような当時の様子を映し出している。

  航海3
       朝鮮通信使 正使船

 しかし、通信使の船団を迎えて、少しでも近くで見学しようとして事故も発生した。
 
 船に近寄ってはならないとの厳しいお触れにも関わらず、「備前日比沖で小舟に乗り込んだ見物人が、書を求めて朝鮮船に近ずき、底深い大型船に吸い込まれ、沈没寸前に朝鮮水夫の艪で甲板にひきあげられ、命がけで使節員の書をもらった」という話もあり、

 また、1764年4月、「加古川の二子村の見物船が通信使船に吸い寄せられて下敷になりそうになり、大人、子供ら7,8人が通信使船の甲板に引き揚げられ難をのがれた」という事故も記録されている。(1764年、11次通信使『海搓日記』)

  航海7
      朝鮮通信使護衛 対馬藩主船

 朝鮮通信使一行の旅は、海路・陸路の江戸まで半年から一年もかかる長旅、道中で言葉が通じないことや文化の違いから、思いもよらぬトラブル、いざこざも少なからずあったと推測される。

 しかし、沿道諸藩の歓待・もてなしや庶民の熱狂的な歓迎は、通信使一行の励ましとなり、使節員と日本の民衆との歌・踊りなどの交歓の場が設けられたり、筆談唱和や書画の交換など文化交流も盛んに行われた。
 それらの事実を裏付ける遺跡、遺物、文化遺産が通信使が通過した地方各地に存在して、歴史探索の名所となっている。

  PA084873.jpg
      朝鮮通信使船団 瀬戸内海航路

 17世紀~19世紀中葉、12回も朝鮮通信使が日本を往来した江戸時代は、日本と朝鮮は善隣友好の外交が行われた時代であり、日本も朝鮮も戦争のない平和が保たれた時代であった。
 そして、近世の東アジアの平和が保たれた時代でもあった。
   つづく
      不幸な事件起る

 1764年4月7日、江戸からの帰り大阪に到着した2日目の夜、北御堂の宿舎で11次通信使の都訓導(将校)崔大宗(チェデジョン)が殺害される事件が発生した。
 
 この国際的大事件をめぐって大阪の街は上を下への大騒ぎとなった。事件は各地に伝えられ、東町奉行所は殺人事件として調査をはじめた。

  正使1
       通信使 正使の行列図
 
 崔大宗が殺害されたその夜から、対馬の通訳鈴木伝蔵が行方不明であることが判明した。大阪より諸藩へ人相書きが手配され、4月18日に逃亡先の摂津の池田で捕まった。

 幕府は、このたびの殺害事件が両国の交隣関係にあたえる影響を重視し、急きょ目付けを派遣して事件の真相究明と事件処理にあたらせた。
 
 鈴木伝蔵は、「崔大宗が紛失した鏡を鈴木が盗んだと疑い、馬の鞭で殴られたので、怒りを抑えきれず刺殺した」と陳述した。
 幕府は、犯人が殴られたというのは、崔大宗が死んだ以上、立証することができない一方的な弁解だとして一蹴した。

 通信使の書紀金仁謙(キムインギョン)は、「たかが鏡一つで殺人事件まで起こしたと思えない、人参の密取引が原因」ではないか記録している。

  宗家
      通信使随行 対馬藩主行列図

 当時、使節員と対馬との間で人参などの闇取引が横行していたようである。真相は不明のままである・

 4月29日、幕府は調査を終え、犯人に対して「切腹するのが妥当であるが、逃げた罪」で死刑を言い渡した。
 5月2日、鈴木の処刑は道頓堀西にて執行された。現場には、幕府目付け、大阪城代、対馬藩と通信使の三使ら使行員54名が立ち合ったという。

  道頓堀
        現在の大阪道頓堀

 事件の背景には、18世紀後半対馬の倭館貿易の不振と、通信使随行の財政負担が重くのしかかり、使節側の横柄な態度と言葉の不通などが重なり、相互不信が極端な結果を招いたように思われる。

 この事件の他に、通信使の小童金漢重(キムハンジュン)が病死し、船員の李光河(リクアンハ)の自殺事件があった。
 5月6日、一か月の大阪滞留をよぎなくされたが、通信使一行は大阪を出航・帰国の途についた。 

 大阪の町人は、この事件の話題がつきず、3年後、「朝鮮人殺し」が脚本化され、並木正三作「世話料理鱸包丁」(せわりょうりすずきのほうちょう)として、1767年、大阪角座の芝居で上演されたという。
 
 それから200年後の1968年、東京の国立劇場で「韓人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)・俗称「唐人殺し」が上演された。

 筆者は、「通信使殺人事件」のことも、それを題材にした「唐人殺し」の芝居が上演がされたことなど、はじめて知る話である。

   海峡
     江戸時代 日朝交流の歴史があった
 
 朝鮮通信使の歴史は、日朝両国の平和と善隣友好の絆と、お互いの文化を理解するのに大きな役割をはたした。しかし日朝の長い交流過程で、お互いの理解不足や不幸な事件があったこともまた事実である。 
 つづく

 
   東大和南公園の銀杏   

 東大和南公園の入り口付近に一本の
 銀杏(いちょう)の木が立っている。
 広い公園内で、銀杏の木はこの一本のみである。
 昨年は、この銀杏が色づきはじめてから、
 黄金色に輝き、散る頃まで、
 8枚をパラパラ画像で紹介した。
  今回は、年初からこの銀杏にこだわり、
 撮りつづけた画像の中から、
 12枚をストーリー風に編集してみた。
 ご覧ください、

   

根気強くやれば、
何かが生まれるかと頑張って編集しているが、
なかなか思うようにはいかないものである。
       李真栄・梅渓父子

 1655年、江戸城において4代将軍・徳川家綱の襲職を祝う第6次朝鮮通信使の国書伝令式が行われた後、水戸の徳川光圀ら御三家が主催する饗宴が開かれた。
 
 この席に、紀伊藩主・徳川頼宣が若い侍講・李梅渓(ばいけい)を連れてきた。

  和歌山2
      李真栄・梅渓が仕えた和歌山城

 梅渓は、朝鮮通信使三使に向って、父・李真栄の略歴を述べながら「故国のことや祖先のことが知りたい調べてほしい」と涙ながらに切々と訴えた。その時の様子を従事官・南龍翼(ナムリョンイク)が記録『扶桑録』に残した。
 
 梅渓の父・李真栄は、秀吉軍の朝鮮侵略(1592)の際、朝鮮義兵として戦い、捕られ捕虜になり、1593年15歳のとき日本に連行されてきた。
  
 李真栄は、連行されてから5年間を大阪の農家で働かされ、その後紀州の商人・西右衛門に売られた。 そこで偶然に出会った朝鮮人の西誉のすすめで海善寺に入り仏教を修学するが、朝鮮で学んだ儒学との隔たりが大きく、1605年、再び大阪にもどり儒学の塾を開いたと言う。
 
1614年、大阪冬の陣の戦乱を避けて再び和歌山へもどり、海善寺近隣の久保町で私塾を開いた。1617年、日本人女性と結婚して梅渓が誕生した。 
 
 1619年、徳川頼宣が紀州に入国して藩政に人材を求め、李真栄を30石で侍講として召し抱えた。真栄は、「李」の姓を名乗りつづけ、儒学者として藩士の教育に献身し、1633年63才で他界した。

  海善寺
        海善寺 和歌山市
 
 真栄の生存中、4次の朝鮮通信使が日本を往来して、連行された朝鮮人を帰国させる刷還事業が幕府の協力のもとに行われた。とくに1624年の4次朝鮮通信使往来のとき、真栄は徳川頼宣の紀州藩の侍講であったことから、帰国の機会があったと思われるが、なぜか真栄は名乗り出なかったようである。
 
 李真栄は、息子の梅渓に幼い頃から17歳になるまで儒学を教えたが、朝鮮から連行されてきた経緯や故郷、祖先ことを伝えず逝ったのであった。

 朝鮮通信使は、梅渓の頼みを聞き帰国後、李真栄ついて調査をし、その結果は次の7次朝鮮通信使(1682年)によって伝えられた。真栄の祖先は李公済、故郷は慶尚南道霊山であった。この年に梅渓は亡くなった。

 李梅渓は、17才で真栄の家督を相続したのち、藩の儒官・永田善斎に弟子入りし儒者となった。また京都で儒学を修業し、藩主頼宣の子・光貞にも学問を教えたと言う。

  墓と碑
    李真栄・梅渓の墓   父子顕彰碑

 1660年の頃に、頼宣に命じられ藩訓「父母状」を作成した。「父母状」とは、農民に向けた教訓状で、1)父母に孝行のこと、2)法度を守ること、3)へりくだり、おごらざること、4)面々の家職を勤め、正業を本とすること、などの内容が書かれている。

 1670年に紀州藩内に布告された「父母状」は、その後の紀州藩の教育理念といわれ、江戸時代における紀州藩の民衆生活の規範とされた。
 
 梅渓は、徳川家の「年譜」の編纂にも携わり、30年がかりで「徳川創業記」10巻を完成して幕府に献上した。その功績により知行300石に加増された。
 後に、葛城山麓の梅原村(和歌山市梅原)を与えられ、この地名から梅渓と称したという。

 李梅渓は、日本の儒学の8賢人の一人に数えられまで名声を博した。

 また、熊野へ行き王子社や古跡の調査をしたり、友ヶ島の額や和歌浦碑文を書いたり、書画にも堪能だったようである。1682年、66才の生涯を終えた。

  s-PA274548.jpg
          李梅渓書

 梅渓は日本人と結婚し、子供はなく清軒を養子にした。その後李真栄の子孫は、13代目の李あやが1984年に亡くなるまで連錦と「李」いう姓を名乗り誇り高く生き続けたという。

 和歌山市の海善寺に李真栄・梅渓父子の墓がある。
 梅渓の父母状碑が、海善寺と岡公園に建てられている。
 
李真栄・梅渓父子の顕彰碑が、1992年郷里の韓国霊山の公園に、1998年和歌山城の西側に建立された。
 
  李梅渓
       李真栄・梅渓父子顕彰碑

 筆者の李真栄・梅渓父子についての知識は、朝鮮通信使の勉強をする過程でたまたま知り得たものである。

 秀吉軍に連行された数万人の朝鮮人が故国に帰ることができず日本に残された。(参照・朝鮮通信使11)その中に、わずかであるが歴史に足跡を残した人たちがいた。ひきつづきその人たちをとり上げ記してみたい。
             つづく
    富士山と夕日と雲10

 10月8日、体育の日、
 このところ激しい気温の上下に体調が整わず、
 「朝鮮通信使」の記事が進まない。
 ブログ記事の間隔を長く開けられないので、
 東大和どっとネットに掲載した
 「富士山と夕日と雲10」とどけます。
 ご覧ください。

 

 これからも、朝鮮通信使の記事をつづけます。
 よろしく。