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     朝鮮のソンビと「科挙」

  ルート
   朝鮮通信使ソウルー江戸往還ルート

  朝鮮王朝(李朝)時代(1392年~1910年)、書を読む人を「士」(ソンビ)といい、政治に従事する人を士大夫(サデブ)と呼んだ。

 日本における「士」は武士=サムライのことであるが、朝鮮での「士」=ソンビは、現在の知識人・インテリと呼ばれる人たちのことである。

 朝鮮王朝時代のソンビは、庶民から尊敬された。

 江戸時代の日本は、士農工商の四民で構成され、「士」=武士が支配する社会であった。

 朝鮮もやはり科挙に合格したソンビ・両班(文班・武班)が支配する社会あった。

 両国ともに「士」が支配する社会であるが、一方は武家政治、また一方は文治政治という本質的な違いがあった。

 朝鮮通信使の製述官・申維翰は、日本の士農工商について
 「国に四民あり、曰く兵農工商がそれである。商は富むといえども、税法がはなはだ重く、工はその技が巧みであるが、製品が廉価である。農はもっとも苦しいが、年間の租税のほかに他の徭役はない」と述べ、日本には兵があって「士」・ソンビは存在しないとした。

  サムライ
        町中を歩く武士の姿

 朝鮮のソンビは、官職があろうがなかろうが関係なく書を読む人であるが、彼らが官職を得るためには、官吏登用の「科挙」に合格しなければならない。合格後は両班官僚となる.

  ところが日本には科挙制度がないために、「士」・ソンビである儒者たちは、幕府や各藩に儒官として召しかかえられて「兵」=サムライの地位を得るか、医者になる以外に進路は閉ざされいた。

 維翰は、「四民の他にも、別に儒学、僧徒、医学がある。しかし、国俗として、医はすなわちその功があるゆえに上となし、僧徒がこれに次ぎ、儒は末である。いわゆる儒者は、学ぶに詩文をなすが、科挙試による仕進の路がない。ゆえに、ようやく声誉をえたところで、各藩の記室にとどまる」と述べ、儒者が低い地位におかれていることを嘆いた。

 そして、「君臣たるもの、黄口の幼児といえども嬰然としてその位にあり、その心は安楽に馴れ、汲々として事変をただ怖れる。どんな計りごとをめぐらしえようか」(申維翰『海遊録』)と世襲制の弊害を痛烈に批判したのであった。

 維翰のこうした批判は、表面的な現象を自国・朝鮮の科挙制度や朱子学文化と対比させた批判であった。
 
 維翰にかぎらず朝鮮のソンビたちは、自国文化の優位を誇るが、朝鮮における科挙制度や朱子学の閉鎖性や弊害を顧みることができなかった。

  両班
       囲碁をするソンビ・両班
 
 朝鮮における儒教・朱子学について簡単に述べておく、
 13世紀、儒教の一学派である朱子学が朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家統治理念として用いられた。朱子学が学問(官学)とし、官吏登用試験・科挙で唯一採用された。礼教と道徳政治を目ざしたのであった。
 ソンビたちにとって朱子学を学ぶことが朝鮮社会を生きる上での絶対的な条件となっていた。
 
 それまでの国教であった仏教が排され、朱子学以外の学問はすべて異端とされた。朝鮮王朝の後半は朱子学は創造性を失い形骸化していた。
 
 朱子学に凝りかまった朝鮮のソンビたちの価値観では、表面的な現象を観察できても、社会の深層を洞察することはできない。
 
 科挙の合格者であり、朱子学のエリートであった維翰も、やはり日本の社会を素直に見る能力を欠き、日本の良さを受容する度量を失っていた。

  日本は、人材を登用する科挙制度がなかったがために、朱子学にこだわらず、有用な学問・思想をとり入れる寛容な社会であった。

 江戸時代の朱子学は形だけが官学であったが、他の学問を抑圧したり、弾圧することはなかった。キリシタン禁制のほかは、学問や思想は自由であった。
 そのことが、その後、日本がアジアの中でどの国よりもいち早く、近代化の道を歩むことができた一要因であったと論じられている。

  復元船
        朝鮮通信使復元船
 
 第9次朝鮮通信使の製述官・申維翰が書き残した『海遊録』は、貴重な日本見聞録であるが、今一つ迫力がなく、物足りなさを感じるのはそのためでろうか。  つづく
 
    富士山と夕日と雲10

 10月8日、体育の日、
 このところ激しい気温の上下に体調が整わず、
 「朝鮮通信使」の記事が進まない。
 ブログ記事の間隔を長く開けられないので、
 東大和どっとネットに掲載した
 「富士山と夕日と雲10」とどけます。
 ご覧ください。

 

 これからも、朝鮮通信使の記事をつづけます。
 よろしく。
    富士山と夕日と雲3

  石油


 6年間、同じ場所から
 夕日が沈む頃の空の写真を撮りつづけてきた。
 過去の画像も含めて編集してみると、
 初期の頃の画像に良いもの多いことがわかった。
 よくよく考えてみるとブログを始めた頃は、
 いい場面を撮ろうと夢中になって
 頑張ったことがあげられる、
 最近は、いい場面現れないだろうと
 あきらめることが早くなった、
 あきらめた後に場面が現れていたかもしれない、
 忍耐が必要だなーと反省をしながら、
 「富士山と夕日と雲3」を編集してみました。
 ご覧ください。

 

 このシリーズしばらくつづけます、
 忍耐強く御笑覧下さい、
   富士山と夕日と雲1

 玉川上水駅前の高層アパートから、
 夕陽が沈む頃の、富士山周辺の風景を
 撮りつづけて、6年になる、
 今まで撮った画像の中から、富士山を中心に
 夕日と雲が織りなす美しい風景を、
 ストーリー風に編集して連載します、
 第一回目の「富士山と夕日と雲1」をご覧ください。



 8月7日、久しぶりの雨で涼しくなった。
 過しやすい日がつづいてくれればと願うのだが?
2018.04.07 朝鮮通信使7
     第一回 朝鮮通信使
     日朝国交回復への一歩


   景福宮
     ソウル 景福宮 朝鮮通信使出発地
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 "京都伏見城で行われた徳川家康・松雲大師会談(1605年)後、
朝鮮側から国交回復の二条件を示した国書が送られてきた。
 
二条件とは、
 1)徳川家康は、先に侵攻を謝罪する国書を朝鮮に送ること、
 2)朝鮮国王の陵墓をあばいた犯人を捕らえて引き渡すこと、
 
 この条件は、日本側にとって難題であった。とくに、犯人を特定し捕らえることは至難の業・不可能であった。 

 しかし、対朝鮮との国交の回復・貿易の再開を急ぐ対馬藩は,窮余の一策として家康の国書を偽造し、別件逮捕の若者2人を王陵をあばいた犯人に仕立て朝鮮に送ったのであった。(後の国書偽造・柳川事件)
 
 朝鮮王朝では、あまりにも早い家康の国書到着と日本国王の印が旧例の通りのものであり、犯人の年齢が若すぎて辻褄が合わないことから、対馬藩の工作であることを察知していた。

 当時の朝鮮国内は、日本に対する不信が充満し、国交回復に「反対・慎重論」が盛んであったが、麻痺した国内体制、荒廃した国土を立て直すためには、なによりも平和が必要であった。

 朝鮮王朝は日本側の対応に不信感をもちつつも、2条件が満たされていることから交渉を断る理由もなく、また、北方の女真(後金)に対処しなければならない事情もあって、日本との国交回復のための使節団派遣を決断したのであった。

 使節団の名称を、日本側は「信義を通わせる」・「通信使」を要求したが、朝鮮側はこれを受け入れず、あくまでも家康の国書に対する「回答」と、日本に拉致連行された朝鮮人を「刷還」する「回答兼刷還使」としたのであった。

 朝鮮側は、戦後処理の折り目をつけるために、そのような名称に固執したのであるが、事実上の江戸時代「朝鮮通信使」の始まりであった。 
 
 1607年、第1回朝鮮通信使・「回答兼刷還使」正使・呂祐吉、副使・慶暹、従事官・丁好寛の3使をはじめ総勢504名の外交使節団が日本に派遣された。

   一行は、3使の他、軍楽隊、学官、写字官、医員、通事(通訳)など各界の日本人との文化交流を予想したものであった。 

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     朝鮮通信使 先頭を行く清道隊
 
 使節団の目的は、国交回復のため日本の国書に対する回答と、豊臣秀吉軍の侵略によって拉致連行された朝鮮人の送還を要求することであった。 

 また、使節団には、徳川幕府と日本の国情について正確な情報を得ることと、北方女真族の騎馬隊に備えるために日本のすぐれた鳥銃(火縄銃)を購入することが課せられた。一方で、日本人との密貿易、密通は厳禁されていた。
 
 1月12日、漢陽(ソウル)を出発した使節団一行は、2月29日、4隻の船団で釜山を出航、対馬藩橘智忠らの水先案内船に誘導されて海峡を横断、3月2日、対馬の府中(厳原)に着いた。藩主宗義智邸で歓迎宴がもたれ、そしてしばらく滞在し船旅の疲れを癒した。

  ルート
      朝鮮通信使往還ルート

 徳川家康は、当初から秀忠をつうじ、朝鮮使節団一行が通過する、各藩大名に対し、身辺安全と誠意ある接待、接待時の無礼厳禁を命じていた。
 
 日朝間の国交回復にかける家康の意気込みはなみなみならぬものがあった。
 
 使節団一行は、対馬藩主宗義智以下、数百人の案内・護送されて、相ノ島(福岡藩)・下関(小倉藩)、そこから瀬戸内海に入り上関(毛利藩)・蒲刈(広島藩)・鞆ノ浦(福山藩)とバトンタッチ式に案内されながら大阪に着いた。

 大阪で家康の乗船(御楼船)に乗り換えて淀川をさかのぼり4月12日、京都・淀に上陸した。

 上陸した一行は、東寺のむかって進むのであるが、朝鮮通信使の大行列をひと目見ようと沿道の両側は老若男女が押しかけ、足のふみ場もないくらいの混雑ぶりであったと伝えられている。
 
 一行は、大徳寺を宿舎としてⅠヵ月滞在し、その間、京都所司代・板倉勝重の丁重なもてなしを受けたり、三十三間堂、清水寺、知恩院等見物してまわった。

  33間
     三十三間堂  京都市内
 
 5月6日、使節団は京都を発ち、大津、草津から中山道に入る。野洲で中山道をはなれ、近江八幡から彦根を経て鳥居本でふたたび中山道に 至る40キロあまり「朝鮮人街道」がある。

 参勤交代の西国大名もこの街道を通ることが許されなかったとされ、朝鮮通信使のために特別に作られたものであろうか?

    DSC_4502.jpg
    朝鮮人街道 近江八幡市内
 
 それはともかく、琵琶湖畔の松並木がつづく街道で眺望が絶景だと歴代の通信使たちは皆、感動したという。
 
 筆者は車で通ったが、近江八幡市内以外は景色のよい海岸線を走っているような感じだった。
 
 その後、大垣、名古屋を通り、熱田で東海道と合流して上り、江戸に着いたのは5月24日であった。
 使節団の宿舎は本誓寺、

  場内
    江戸城内 国書伝達式の贈り物準備

 6月6日、江戸城大広間において、朝鮮通信使による将軍・徳川秀忠に対して国書伝達・聘礼の儀式が行われた。

 朝鮮国王が秀忠に手渡された国書は、
 「交隣に道義がある・・・今貴国が古きを改めて新しく慰問の書簡を先によこし、すなわち先代の非を改めたいといって、ここに誠意を示されたが、いやしくもこの言葉のごとくなれば、どうして両国の民の福でないことがあろうか。ここに使臣を送って、もって来意にお答えいたします。わずかばかりのおみやげを別幅に取り揃えましたので、なにとぞご笑納くださるようお願いします」
 
 秀忠は,使節団遠来の労苦をねぎらい「大慶の至り」、「感悦にたえない」と語り、先に杯をとって酒をすすめに、箸をもって料理をもてなしたという。

  大広間
    国書伝達儀式 江戸城大広間

 朝鮮使節に対する秀忠の対応は、家康から「無礼を排し、誠意をもって相接し、回答の書契もすべからく温順にせよ」と命じられたこともあるが、秀忠自身の誠意を示したものであった。

 後に、正使が「今、新将軍を見ると、隣国使節の接待の態度は誠意にみちている。これは両国の人々の幸いである」と述べているように、朝鮮使節に対する日本側の応対は丁重をきわめるものであった。

 それはそのまま朝鮮との善隣友好の関係を築こうとする、徳川幕府の外交姿勢を示したものであった。 

 それから5日後、将軍秀忠の返書が宿舎 本誓寺に届けられ、正式な日朝間の国交が開かれたのであった。
 
 使節団一行は、徳川家康の意向で鶴岡八幡宮や鎌倉大仏を見学、家康が送った船で富士山を望む駿河湾を遊覧した後、駿府城において家康と会見した。使節は人参、布などを家康に贈った。

  駿河2
   朝鮮通信使たちはこの風景を見ただろうか?

 家康は大いに喜び、三使らに白銀など多くの贈り物をした。

 彼ら一行が府中を通過してして行くときは、家康は駿府城の層楼から大満悦の態で見送ったという。

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      朝鮮通信使 正使が乗る輿

 使節たちは、徳川家康が朝鮮を侵略する意思がないことを確信し、家康・秀忠父子への信頼を一層深めたのであった。
 
 江戸幕府は、使節団一行が対馬=江戸を往還する間、拉致連行された朝鮮人の調査・送還について便宜をはかった。 

 朝鮮側は、拉致されてきた同胞全員の刷還を求めたが、日本側は、とりあえず帰国の意思のある者だけ帰すことにした。  

 畿内各地のほか、赤間関(下関)で100余名、肥前名護屋で140名、博多から100余名、壱岐、対馬集まった多く朝鮮人を加え総計1418名を朝鮮に連れ帰った。
 
 使節団のもう一つの目的である武器購入は、京都のおいて長剣500柄、大阪滞在中に堺の商人から500柄の鳥銃を購入をはたした。

 使節団一行は、7月3日、釜山に着き、同17日、漢城に帰着、実に半年の使行であった。
 
 こうして第一回の朝鮮通信使(回答兼刷還使)の往還は、日本・朝鮮両国がそれぞれの思惑を秘めながらもついに復交を成就し、善隣友好の関係へと大きな一歩踏み出したのであった。   
    つづく