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     朝鮮通信使の箱根山越え

 江戸幕府は、朝鮮通信使を国賓として迎え、江戸までの道中各地の主な藩で歓迎し、使節員一行を饗宴・接待した。また、長い道中における一行の安全のための警護を徹底し、難所とされる場所では事故が起きないよう万全な対策を講じたのである。

 朝鮮通信使一行が、清見寺を出て興津から由井に入る境界付近は、左はそそり立つ断崖、右は太平洋の荒波が打ち寄せる海岸で、波にさらわれないようわずかな道を波が引く時に一気に渡らなければない難所だった。そのため危険な「親知らず子知らず(親不知)」の場所と云われた。(大井川・箱根とともに東海道3大難所とされた)

   安藤広重
      由井「親不知」海岸 安藤広重画
 
 江戸幕府は、大行列で通過する通信使一行の不慮の事故を避けるために新しい道(迂回コース)を切り開いた。
 1607年、第1次通信使の往来の際に開通した新しい道の頂上は富士山がよく見える薩埵(さった)峠である。今日では、江戸時代の日朝の友好を伝える碑が建てられている。

  薩たる峠
      薩タ峠から富士山眺望

 薩埵峠を越えた通信使一行は、富士川の船橋を渡り千本松原という景勝地を進み三島で宿泊。翌日早朝に出発、いよいよ東海道最後の難所である箱根山越えである。

  千本松原
      千本松原の風景 三島市

 箱根山は標高約1400㎡の急坂がつづく険しい山、普通の登山者でも難儀であるのに重い荷物を持つ人、輿を担ぐ人たちにとっては大変な苦労であったと思われる。

  DSC_5037.jpg
       使節員の輿を担ぐ人たち

 第9次(1719年)朝鮮通信使の製述官申維翰(シンユハン)は、輿を担ぐ人たちの様子について、
 「険にして峻、輿を担ぐ者は力を極めて登り、たびたび人を変えては休息する。それでもなお、呼吸が喘急である」と書き、険しい山道で輿を担ぐ人たちの苦労を思いやっている。 

 江戸幕府は、通信使一行が箱根の山を登る前に道路状況を確かめ、雪の日や雨の日に対処し、使節員が滑ったり、転んだりしないように竹を切って坂道を絨毯のように敷き詰めて舗装・道路整備を行ったのである。

 第3次(1624年)通信使の副使姜弘重(キムホンジュン)は、
 「麓から頂上まで四里(1・6㎞)を下らなかった。昨夜から雪が降り、嶺の道がひどくぬかるみ、竹を切って雪をおおったので、乾いた地を踏むようであった。一夜の間にこれをととのえたが、たとえ命令が神速であるとはいえ、また物力の豊富な事がわかる。その道に敷いた細竹は、皆矢を作るものであり、嶺の上には人家が数十戸あった」(『海搓録』)と書き、突貫工事で道路舗装が行われたことを伝えている。

 第5次(1643年)通信使の従事官申竹堂(シンチュクダン)は、
 「嶺の道は険しくて長く、時に長雨の季節なので泥土のぬかるみが脛までも沈めた。数里の間を行く道には、皆竹を編んでしいてあったが、その尽力を多く浪費したことを見る事が出来る」(『海搓録』)と書き、大勢の人が動員され、大変な経費負担であったことを感じとっていたのである。

 記録によれば、竹道の敷き替えに投じられた人員は約3000人。工費は約130両。これを負担したのは、箱根からほど遠い西伊豆~南伊豆(今の宇久須・松崎・南伊豆・下田・河津)の85の村々であった。幕府の命令により、箱根から離れた伊豆の人々が、東海道の整備に駆り出されていたのである。

 通信使一行が箱根峠の頂に着くと、眼前には神秘的な芦の湖と富士山が広がっていた。
 やがて、箱根の関所である。江戸時代の箱根関所は、通行人の取り調べが厳しかったことで有名である。この関所は江戸を守る関門として「入鉄砲に出女」と云われるほど身分や男女問わず厳しい通行検査が行われた。

  関所跡
           箱根関所跡

 朝鮮通信使一行の大行列は、誰も検査されることなくそのまま通過した。いわゆるフリーパスである。
 
 江戸幕府は、正式な外交関係の唯一の国家である朝鮮と善隣友好関係を構築するため、朝鮮通信使に対して最大級の接待、待遇をしていたのである。

 徳川幕府による朝鮮通信使の日本招聘は、諸大名や民衆に幕府の威厳を示すものであるとともに“善隣友好・誠信外交”を象徴するものであった。

 12回の朝鮮通信使が往来した江戸時代の260年間、日本と朝鮮との間で平和が保たれ、政府間の書簡の交換と文化交流、交易が行われた。

 しかし、明治維新後、政府内に「征韓論」が起こり、日朝関係は急速に悪化した。明治政府は、徳川幕府の対朝鮮との善隣友好関係を否定し、朝鮮通信使を「朝貢使」と蔑み、日朝の平和的な交流の歴史を矮小化したのであった。

 そして長い間、とくに日本の朝鮮植民地化(朝鮮併合19の10~1945年)などのために、朝鮮通信使は日本の歴史の中に埋没し、朝鮮通信使に関する歴史研究も行われなかった。関係文書などの保存もしっかりされていない状態にあった。

 1960年代に入って、朝鮮通信使に光をあてたのは李進熙、辛基秀、姜在彦氏ら在日コリアン(朝鮮・韓国人)学者、研究者たちであった。これに触発されて、日本史の大家・上田正昭、仲尾宏氏ら学者が加わり、江戸時代の善隣友好の使節団・朝鮮通信使の歴史が燦然と輝くようになった。

 朝鮮通信使に関する書籍の出版が相次ぎ、通信使が遺した書画などの展示会、通信使ゆかりの地での朝鮮通信使の行列を真似たパレードなどのイベント開催、通信使の記録映画も製作・上映などにより朝鮮通信使の認知度は急速に高まっていった。
 つづく
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      朝鮮通信使と清見寺

 朝鮮通信使一行が江尻宿を出発して、最初に立ち寄る先は徳川家康ゆかりの清見寺(静岡県清水興津)である。

  総門扁額
        清見寺 総門の扁額

 家康は幼少の頃、駿府を支配していた今川氏の人質になり、当時の清見寺住職太原和尚の教育を受けた。

 また、将軍を秀忠にゆずり引退したのち、大御所として駿府に隠せいした際には、家康は清見寺の大輝和尚に帰依し、たびたび清見寺に来遊したという。この寺の庭園は家康の設計によるものと伝えられている。

 清見寺は、東海道筋の駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、眼前に三保の松原が連なっている。

 1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、ただちに朝鮮との講和・和平交渉を対馬藩に命じた。家康の隣国朝鮮との友好策とリーダーシップにより、朝鮮通信使が来日するようになった。(参照、朝鮮通信使2)

 1607年、第1次朝鮮通信使の来日の際、大御所として駿府に居た家康は、江戸での国書交換の任務を終え帰路、駿府に着いた通信使一行をもてなした。一行に船を提供して富士山を望む駿河湾を遊覧させた後、駿府城において歓待したのであった。朝鮮との国交回復と友好関係の樹立にかける家康の強い意志を伝える機会となった。(参照、朝鮮通信使7)

  駿河湾1
     駿河湾からの富士山眺望

 豊臣秀吉の朝鮮侵略による後遺症が残る時期、初めての日本を訪問する朝鮮通信使一行にとっては、警戒心を抱いての訪日だった。

 江戸における秀忠の歓迎と駿府における家康の歓待を受けた使節員たちは、再び日本が朝鮮を侵略する意思がないことを確信し、家康・秀忠父子への信頼を一層深めたのであった。通信使一行は、朝鮮を出発する時から抱いていた警戒心と緊張を駿府においてようやく解いたのであった。

 使節員が清見寺に遺した詩文はそれを物語っているようである。

 第4次朝鮮通信使から江尻の宿場に泊まるようになったが、江戸への往きも帰りも一行は清見寺に立ち寄り、住職や近隣の寺僧、文人らと筆談唱和、書・画・詩の文化交流を活発に行った。

    北斎絵
    清見寺 日朝文人の交流 葛飾北斎画

 第1次から11次まで(1607~1764)の(2次は京都、12次は対馬まで)の往来で、朝鮮通信使一行は清見寺に立ち寄り交流を通じて書・画・詩・扁額など多くの作品を遺したのであった。

 その殆どは文化財・寺宝として現在まで保存されている。その中でよく知られている2、3の文化財を紹介する。

 まず、清見寺の山門に掛かる扁額「東海名区」、本堂に掛かる扁額「興国 朝鮮正使翠屏」、鐘楼の横に掛かる扁額「瓊瑶世界 螺山」などの書は全て使節員の手によるものである。

   清見寺3
     清見寺本堂の扁額 チョヒヨン書

 清見寺を讃える詩文・3篇が刻板となって方丈に掛けてある。呂祐吉・慶暹・丁好寛の名があることから、1次(1607年)の使節員の作品であることが解る。

 清見寺に「金剛山、洛山寺の屏風4曲」が寺宝として保存されている。

 その寺宝の由来について次のような話が伝えられている。
 11次通信使の正使の趙厳(チョウ・オム)が「清見寺は日東(日本)の神山(仙人が住むところ)として有名」、「前に大海を臨んで限界寺宝としている、後ろに山、関屏(屏風のようにかこんで)花林を成す」とのべた。 
  この時、清見寺の僧が製述官南龍翼(ナム・リョンイク)に「本寺を朝鮮の洛山寺に似ていると言ったので、是非一行中の画人に洛山寺の画を描いてくれるよう」所望した。この願いはかなえられて「金剛山、洛山寺の屏風4曲」が描かれた。作者は画員金有声(キム・ユソン)である。

 このように清見寺は、さながら朝鮮通信使の歴史資料館といっていいほど、珍しい絵画、書、扁額を見ることができる。

  清見寺4
     朝鮮通信使の漢詩刻版 清見寺

 2017年10月、江戸時代の朝鮮通信使関係資料・日韓合計333点がユネスコの「世界の記録遺産」に登録された。(参照、朝鮮通信使1)その内、朝鮮通信使が清見寺に遺した48点が含まれている。

 因みに登録名称は「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日朝間の平和構築と文化交流の歴史」となっている。

 「世界遺産」登録をうけて、清見寺は、広島県福山市鞆浦にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定された。清見寺は再び脚光を浴びるようになった。

 朝鮮通信使の足跡を示す文化財は、日朝、日韓関係の改善と友好平和に向けての貴重な資料・教材となるだろう。

  つづく

 
    朝鮮通信使の大行列を支えた人々

 朝鮮通信使を語るとき、彼らの京都ー江戸間の陸路の旅・豪華な大行列を支えた無数の人々のことを忘れてはならないだろう。

 朝鮮通信使一行が、名古屋を出発すると岡崎、豊橋を経て浜名湖西畔の新居宿に着く。新居宿は、箱根の関所と共に東海道に設置されたもう一つの関所であった。
 この新居宿は、京都の淀から朝鮮通信使一行の行列を担ってきた人馬が交替して、新しい人馬によって一行が江戸に向かう中継地となっていた。

  人馬2
     朝鮮通信使行列 荷を担ぐ農民たち
 
 朝鮮通信使一行の江戸往来のために、おびただしい数の人馬が調達された。
 8次通信使の場合、往復とも人足300人、寄人足1万~1万2千人、馬8千~9千8百匹が調達された。これらの人馬だけでなく、物資の搬送、滞在・宿泊、船橋の架橋などにかかる費用は全て東海道筋大名の負担であった。 

 それに加えて幕府は、淀ー新井、新井ー江戸の2区間で用いられる鞍置馬(くらおきうま)320匹を、南は九州肥後の細川氏から北は盛岡の南部氏に至る東海道筋以外の大大名に提供させた。
 鞍置馬は朝鮮通信使三使や上官、そして対馬藩主、以酊庵の僧、幕府派遣の碩学僧たちが乗り、馬一匹におよそ8人の足軽が付添った。

 通信使の行列に調達された人馬の費用は莫大なもので、一種の軍役負担としてそれぞれの大名領地の農民に臨時の「村役」として課せられた。

 人馬調達の命令を皮肉る狂歌が残されている。
 ”唐人ハよどの川瀬の水車
   きょうもくるくるあすもくる
    唐人が来るとわいへど馬ばかり
     きりがなけれハ下々のめいわく”
                 (『静岡県史』)
 人馬の提供を強いられた農民の不満の声が、朝鮮通信使一行が通過する沿道の村々の片隅からひそかに聞こえてくるようである。
 朝鮮通信使の豪華な行列は、沿線農民らの重い負担のもとに行われたことを物語っている。 

 新井宿から浜松への行く手に「今切の渡し」(参照、朝鮮通信使22)があり、船で渡らなければならない。将軍家の通過や朝鮮通信使往来など特別な「大役」の場合、「寄せ船」制が発令され、三河、遠江の沿海の浦々に常置されている渡し船120艘とは別に200~300艘が調達されたという。

 通信使が往来するたびに、新井宿の商人が浦々の船調達を請け負って莫大な利益を上げたと伝えられている。

  今切の渡
     朝鮮通信使・名古屋ー静岡間行程図

 朝鮮通信使一行が「今切の渡し」を渡り、しばらく進むと天竜川、船と船を連結し設けられた臨時の川船橋を渡り掛川に到着する。

  今切現
      現在の「今切の渡」付近

 翌日は最大の難所大井川(参照、朝鮮通信使21)を渡る。
 大井川の流れがあまりにも急なため、千数百人の水切り人夫が動員され、上流と下流に並列して水の勢いを弱めて通信使一行を渡らせた。

  急流
        急流大井川の風景

 9次朝鮮通信使製述官・申維翰(シンユハン)は、大井川を渡る様子を
 「流れは急にして矢の如く、船橋を施設しえない。故に白木の台の4面に欄干を設けたるもの十余部造る。国書を入れた輿および三使の乗る籠はそれぞれ一架に乗せて、それを担ぐ者数十人、一行の鞍馬・行李を扶護して渡る者は合わせて千余人の多きにいたる」(『海遊録』)と書いている。

 船橋仮設のために動員された船頭や人足、急流を遮るために臨時に動員された農民も大変な数であったと想像される。

     大井川1
         大井川渡川絵図

 大井川を渡り終えると駿河(静岡県)最大の宿泊地、50軒の宿が軒を連ねる江尻(現清水市)に到着する。
 朝鮮通信使一行が宿泊した寺尾家には、江戸時代の宿泊者名簿が残され、通信使員の名前が各年度ごとに記録されている。

 朝鮮通信使一行が通過した名古屋から江尻までの間、彼らの足跡ともいえる書、画、詩など交流の記録などが見つからない中で、寺尾家の記録に記された宿泊名簿だけが明確な彼らの足跡として残しているのである。

 朝鮮通信使一行の大行列が、京都ー江戸間10回の往来を大きな事故なく無事に果たせたのは、それを支えた沿道の農民、漁民、町民たち民衆の労苦があったからこそであろう。
 つづく
     鈴鹿市に残る「唐人踊り」

 江戸時代、朝鮮通信使の訪日は天下公認の祭事であった。6か月から8ヵ月もかかる外交使節の行列であるとともに文化交流の使節団でもあった。陸路・海路の通信使を見物した民衆の数は大変な数にのぼったと思われる。

 音楽隊
       朝鮮通信使 音楽隊

 祭り好きな日本人にとって、朝鮮通信使・異国の音楽と衣装は模倣せずにいられない強烈な文化的刺激物であったに違いない。

 通信使が通る沿道の農民や町民たちは、通信使の行列、音楽隊に魅せられ、自らが主人公になって豊作を祝う秋祭りなどに朝鮮笛や太鼓、ラッパをつくり楽隊を編成して吹奏しながら「辻踊り」や「唐人踊り」を楽しんだ。

 朝鮮通信使が通る沿道各地で行われてた唐人行列、辻踊り、唐人踊りは、明治維新以後衰退し、ほとんどは第二次世界大戦時に廃絶した。

 現在、日本を往来した朝鮮通信使の影響をうけて始まった「唐子踊り」・「唐人踊り」が、3か所において今日まで続けられている。
 一か所目は、岡山県牛窓町の「唐子踊り」(参照、朝鮮通信使71)

  唐子1
       牛窓の「唐子踊り」

 二か所目は、三重県津市の「唐人踊り」(参照、朝鮮通信使90・91)

    津10
        津まつりの唐人踊り

 三か所目が三重県鈴鹿市東玉垣町の「唐人踊り」である。

  鈴鹿唐人
      鈴鹿市東玉垣町の唐人踊り

 津市から15㎞離れた鈴鹿市の「唐人踊り」は、東玉垣町牛頭天王社祭礼の伝統芸能として受け継がれている。

 東玉垣町の唐人踊りは、3人の仮面を被った唐人がドラ、うちわ、ラッパをもって現われ、笛、太鼓の曲にあわせて腰をかがめて左右に振り、飛び上がる激しい動作で踊りまくる。ドラとラッパは、津市分部町の唐人行列に使われる物とよく似ている。 

 東玉垣町の祭礼参加者は総勢60人、それぞれ役割をもって須賀社から東安寺まで練り歩き、夜には神輿や駕籠馬が勇壮な掛け声で町内を駆け回る。

 人気の的は、なんといってもひょうきんな振りをしながら踊る唐人姿の3人、村中を進む途中、女性を見ると走りだしてからかったり、逃げるのを追いかけたりするが、女性たちも嫌がらずむしろ開放的な所作として共に楽しんでいるという。

  だっこして
     唐人姿の踊手にだっこをねだる子供

 また、東玉垣町の唐人踊りには、田植えのしぐさがあり豊作を喜ぶ素朴な農民の歓喜と感謝を表現しているのである。

 「唐人踊りの音楽、旋律、歌詞は日本化しているが朝鮮音楽の影響で作られたもので、歌詞は朝鮮の古い農夫歌の五穀豊穣を祈る踊りとして即興的に歌って踊ったものを模倣したものであろう」と民族音楽専門家の草野妙子氏は述べている。

 鈴鹿市の唐人踊りの由来について、東玉垣町の保存会が古老たちから聞き書きをした調査によれば、伊勢商人として江戸に進出した村の先祖が江戸で踊りの道具一式を求めて生まれ故郷に送り、唐人踊りが始まったと伝えている。

 東玉垣町の唐人踊りも分部町の由来と同様、江戸に進出した伊勢商人が実際に見聞した朝鮮通信使の色鮮やかな衣装とエキゾチックな音楽に魅せられ、それを真似てつくらせ、故郷の東玉垣町の牛頭天王社に寄進、祭のなかに加えられたようである。

  鈴鹿市
      三重県鈴鹿市の位置図

 分部町の人々も、東玉垣町の人々も、徳川家康の信頼厚かった藤堂高虎が支配する伊勢津藩に属し、幕府が開かれると商人・「士魂商才」として江戸に進出し、新しい商品、良い商品を求める商い同様、異国文化であっても良いものは良いとして、新しい朝鮮文化を受け入れる国際感覚を持ち合わせていたのであろう。

  江戸入場
       朝鮮通信使行列江戸入場絵図

 また、そのような気質をもった商人、町人によって唐人踊りは地域に根づき、紆余曲折を経ながらも伝統芸能として守られてきた。

 牛窓、津市、鈴鹿市の唐人踊りいずれも個性があり、それぞれ若干の違いがあるが、いずれも朝鮮通信使の江戸往還の過程で豪華な行列や朝鮮文化の影響を受けて始まり、長い歴史を経て地域のまつりとして定着したのである。

 「唐子踊り」、「唐人踊り」それぞれの市や県の重要無形文化財と指定されているが、江戸時代の日朝両国の友好関係を物語る貴重な文化遺産であることは間違いないであろう。
 日本に残る3か所の「唐子踊り」・「唐人踊り」は、平和と共存共栄、文化交流の象徴として、いついつまでも続けられていくことを願ってやまない。
  つづく


   津市の唐人行列・唐人踊りの由来

 戦国武将・藤堂高虎(1556~1630)は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の折、朝鮮の南原城から儒学者・姜沆(カンハン)を拉致連行して、伊予大洲城(現愛媛県大洲市)に拘留した。

 拘留中の姜沆が、高い学識と教養、品格を備えていることを知った高虎は、その身柄を徳川家康が滞在する京都伏見に移し、ある程度の自由を与えた。

   藤堂高虎s-   カンハンs-
     藤堂高虎       姜沆

 姜沆は京都において藤原惺窩と会合・交流・親交を深めた。(参照、朝鮮通信使14「藤原惺窩と姜抗」)
 姜沆は、藤原惺窩、角倉了以らの援助を受けて、朝鮮に無事帰国した。
 藤原惺窩は、江戸時代初期に日本の儒学祖として名を成した。

 藤堂高虎は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で徳川家康につき、武功を上げて家康の信頼を得、伊賀、伊勢路の要衝の地に国替え、伊勢津藩の初代藩主となった。

   3層角櫓
       津城跡に残る三層の角櫓

 高虎は、家康が推し進めた朝鮮との和平交渉、その後の善隣友好の使節・朝鮮通信使の日本往還実現に協力したものと思われる。
 
 家康は臨終の際、「国に大事あらば藤堂高虎を一番手とせよ」とまで言わしめるほど、高虎に対する家康の信頼は厚かった。

 高虎は、1次朝鮮通信使(1607年)京都伏見において、2次、(1617年)3次(1624年)は江戸において迎えている。

 朝鮮から連行してきた姜坑の学識と教養を認識している高虎にとって、朝鮮通信使の江戸入場から帰国するまでの全行程を見聞して、学問、医学、書画、音楽など朝鮮文化の高い水準を確認する機会になったと思われる。

 そして、高虎は、朝鮮文化を国元の伊勢津藩に導入することを考えていたのではと想像される。

 高虎の幕府に対する献身と朝鮮文化に対する憧憬は、2代目藩主高次に受け継がれた。

 1636年、第4次朝鮮通信使が江戸往還した。この年、津八幡宮の造営が完成した。

 藤堂高次は、城下町津の繁栄を促すために町々に資金を貸し与えた。各町々では、八幡宮祭礼に練り物や仮装行列を繰りだし競い合って楽しんだ。この時から分部町の唐人行列・唐人踊りが始まったと伝えられている。

 なぜ、分部町の人々は唐人行列・唐人踊りを始めるようになったのか?

 分部町の人々は、関ヶ原の戦いで東軍に味方して、西軍に包囲された津城に入城し戦ったという。江戸に幕府が開かれると分部町の人々は、日本橋伝馬町に店舗を開き伊勢商人の基を築いた。伊勢商人の江戸進出は高虎の尽力によるものと考えられる。

 江戸繁栄の象徴であった日本橋に店舗を連ねた分部町の人々は、幕府あげての国家的盛儀であった朝鮮通信使歓待の様子を目のあたりにして、この素晴らしい異国文化を郷里の津の人々に見せたいと相談して唐人行列を計画した。当時、分部町を束ねていた四三右衛門の国際友好の精神によって、「唐人行列、歓喜踊り」が実現した。

 こうして始められた唐人行列、唐人踊りは、毎年の年中行事として行われ明治維新、日清戦争、日露戦争、朝鮮植民地化(日韓併合)などの政治的事変の空白期があったが、太平洋戦争が開戦するまで続けられた。

 1945年7月の津市大空襲によって、分部町は廃塵に帰した。「形名旗」だけが個人の家に残されたが、唐人行列の旗、衣装、楽器、仮面など全て焼失し、唐人行列、唐人踊りの復活は不可能な状態にあった。

   形名旗
      朝鮮通信使の龍を描いた形名旗

 しかし、分部町の人々は、戦後の苦難の中でも唐人行列、唐人踊り復興復元にとりかかり、清道旗、赤黄黒の朝鮮服、大将(正使役)の衣装、表情豊かな仮面、かね、太鼓、大ラッパ、横笛などを調達して、津まつり復興の原動力となった。

 1967年、復活・津まつりに分部町町印旗を先頭に、登り龍を描いた形名旗、清道旗、役唐人、楽工(ラッパ、笛、かね、太鼓)、大将(正使)、傘もち(ひょうきんな面をつけ赤い傘を大将にさしかける)、軍官(弓矢をもつ)、ささら(朝鮮帽子をかぶり悪霊ばらいの役)、拍子木役などつぎつぎ登場した。まさに津の人々が待ちに待った賑やかな唐人行列、唐人踊りの復活であった。津市民の感激の様子が目に浮かぶ。

   津17
        津まつり 唐人行列

 「他の風流が次々と姿を消していった中で、この「唐人踊り」だけが連綿として3百年以上の長い生命を保っているのは、ユーモラスで異国的なあじわいと分部町の人々の変わらない熱意によるものである」と『津市史』は誇らしげに書いている。

 津市に残る唐人行列、唐人踊り、380余年の歴史を振り返って見ると空白期と中断は全て戦争が原因である。

 平和の大切さを思い知らされる津まつりの唐人行列・唐人踊りではなかろうか。
 つづく