FC2ブログ
    下蒲刈の「御馳走一番館」
  
 広島県呉市にある下蒲刈島は、人口2300、周囲16キロの小さな島である。現在この島に朝鮮通信使資料館があり、「御馳走一番館」とも呼ばれる。

  下蒲刈島
         下蒲刈島全景

 なぜ、朝鮮通信使資料館を「御馳走一番館」と呼ぶのだろうか? 

 瀬戸内海を航行する朝鮮通信使は、赤間関(現下関)にてしばらく滞在したのち、上関に寄港する。ここまでの使節団一行の案内・護衛・接待は長州藩が担当した。

 上関を出航すると、長州藩に替わって安芸広島藩の案内で、瀬戸内海を本土よりの航路を東に進み、次の寄港地・安芸の下蒲刈島三ノ瀬(現呉市下蒲刈町)に向かう。 
 この海域は、瀬戸内海でも水路が狭く、島また島の潮流が複雑に変化する「安芸地乗り」と云う航行の難所であった。

 朝鮮通信使船6隻を中心に千隻の大船団が事故もなく無事航行できたのは、対馬藩のベテラン船頭や各藩の船手組、朝鮮の船頭たちの協力と、なによりも広島藩送迎船団の熟練船頭たちの高度な海上保安技術と導きによるものであった。

  瀬戸広島
      瀬戸内海 下蒲刈島付近地図

 広島藩は、西国の大藩を自認し、その面目にかけて朝鮮通信使の接待は他藩に負けじと対馬、壱岐、赤間関、上関に人を派遣して接待の様子を探らせた。使節員の好みはなにか、とくに正使の好き嫌い、酒の好みなどを調べて他藩以上の通信使歓迎、接待をしようと下準備を徹底したのであった。
 
 朝鮮通信使一行の下蒲刈寄港は11回、往復ともすべて寄港した。

  松渚園
     朝鮮通信使資料館のある松濤園 手前
 
 広島藩は通信使の来日が決まると、到着5か月前から準備にとりかかった。
 通信使御馳走人、酒菓子奉行、賄い青物奉行、蝋燭奉行、活畜奉行、諸道具奉行、料理人ら759人が島に渡り接待準備に専念した。

 迎賓館となる宿舎・お茶屋を通信使が来島するたびごとに新築状態に改築したという。金銀屏風、火鉢、燭台、筆墨などの調度品も整えられた。
 
 平地の少ない島に、接待関係者ら2000人がひしめき合って作業した。島民は彼らのために、住居を明け渡し山奥の仮設小屋に生活をよぎなくされた。
  
 朝鮮通信使一行は、牛肉をなによりも好物にしている情報を得て、牛2頭を食用に飼育し、長崎から豚をとりよせ、犬肉を珍重することも知り犬も飼った。使節員たちは生きた雉(キジ)が好物であるとの情報が入り、雉の捕獲に莫大な費用を投入した。雉1羽=3両で300羽を調達したという。

 朝鮮通信使一行が到着すると、使節員約500人、案内役の対馬藩と接待の広島藩関係者4000人の大勢の人が来島したので、狭い「島が沈む」とまでうわさされたという。
 
 広島藩の経済的負担は莫大であったが、藩主をはじめ関係者は、他藩との接待競争で負けないと意気込みをみせ、同時に失礼や失敗、事故のないよう神経もつかったようである。

 通信使が到着すると、400余個の提灯が点灯し、宿舎のお茶屋まで毛氈170枚が敷かれ、廊下には紫幕が張りめぐらされた。

 歓迎宴では正使、副使、従事官三使に「七・五・三の膳」の饗宴食が出され、朝鮮人参で合醸された忍冬酒(にんとうしゅ・度数高く風味芳醇)、日本伝統の醸造酒もふるまわれた。通信使一行は「安芸州之酒味日東一」(広島の酒は日本一)(任守幹『東搓録』)と称賛した。
 
 三使の朝夕は「七・五・三」、昼は「五・五・三」の膳、引替に「三汁一五采」の豪華な料理(白米、酒、肉、魚、貝、野菜、漬物、菓子その他)が出された。官位によって料理の種類に差がつけられた。

 通信使一行が江戸に着いたとき、将軍から各地の接待の様子をたずねられた際、同行の対馬藩主が「安芸蒲刈御馳走一番」と答えた。これは「食」を含めた接待全体が安芸国の下蒲刈が一番よかったということである。

  3汁15
      三汁十五菜 通信使接待料理

 朝鮮通信使に随伴し各地・各藩の接待を実際に見て体験した対馬藩主の評価は、客観的であり、そのまま幕府の評価でもあった。

 安芸下蒲刈の接待が「御馳走一番」と評価されたのは、国賓の外国使節を「おもてなし」の心で精一杯接待した広島藩の並々ならぬ努力と島民の協力、涙ぐましい支援があったからである。

    一番館
        御馳走一番・朝鮮通信使資料館


 現在、下蒲刈島は全島の庭園化計画がすすみ、松濤園内の朝鮮通信使資料館・御馳走一番館を中心にテーマパーク化されている。
 朝鮮通信使資料館の展示物のなかで「七・五・三の膳」、「三汁一五菜の膳」と朝鮮通信使船の十分の一の摸型、本陣と通信使行列の人形等は圧巻である。

 2000年,下蒲刈と本土をつなぐ吊橋・安芸灘大橋が完成し、朝鮮通信使資料館を見学する観光客が急増した。

 とくに2017年、朝鮮通信使資料がユネスコの「世界の記憶遺産」登録後は朝鮮通信使に対する関心が高まり、下蒲刈は通信使の停泊地として注目され、観光客がますます増えているという。

  行列模型
       朝鮮通信使行列人形

 毎年、呉市下蒲刈において、朝鮮通信使をテーマにした「文化と歴史の祭典」が開催されている。

 今年は17回目の祭典、10月20日11時、朝鮮通信使再現行列が
 下蒲刈市民センター前を出発、つづいてステージイベントが開催される。
  つづく

    朝鮮通信使と赤間関

  通信の船
         朝鮮通信使復元船

 江戸時代(1603~1868)、日本を往還した朝鮮通信使は12回におよぶ。
 毎回、400~500名の大使節団で、凡そ6ヵ月~1年をかけて江戸まで海路、陸路を往還した。通信使は日朝間の善隣外交にとどまらず、学問、芸術を通じた文化交流も実現させた。

  関門橋
     本州―九州結ぶ関門大橋

 朝鮮通信使一行は、釜山を出航して対馬に渡り、対馬藩の案内で壱岐ー藍島を経て、本州最初の寄港地・赤間関(現下関)に至る。
 赤間関は本州最西端に位置する海陸交通の要衝で九州への渡航口、朝鮮半島との交流の窓口として役割を担っていた。

 玄界灘を航行してきた朝鮮通信使船6隻に乗る使節員一行は、九州の北端の水際に築城された壮麗な小倉城を海上から見ながら、赤間関に入港上陸する。

  赤間神宮
      赤間神宮 元阿弥陀寺

 赤間関の民衆は、異国の文化をひと目見ようと殺到し、入港する通信使船を熱狂的に歓迎したと言う。
 
 赤間関を管轄する長州藩は、通信使来日の情報を得て小倉藩境から芸州響境までの通信使船の海上警護を行い、停泊地では使節団一行をいたりつくせりの「もてなし」接待をしたと言われている。
 
 1711年の8次通信使の来日の際には、長州藩主毛利吉元が自ら接待にあたり、「長門下之関御馳走一番」(長州藩のごちそうが一番)と評されたという。

 当時の赤間関は、小江戸と言われるくらい一大都市で大いに賑わっていた。通信使一行は、はじめて見る都市美と賑わいに感嘆したと言う。

 赤間関には由緒ある阿弥陀寺があり、通信使一行の宿館となっていた。

 阿弥陀寺は、源平の戦いで壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀る寺院であった。

 豊臣秀吉による朝鮮侵略戦争後、対馬藩の招請により朝鮮からやってきた義兵僧・松雲大師は、将軍徳川家康の招き応じて会談(1605年)のため京都伏見に向かう途次、阿弥陀寺に宿泊した。

 松雲大師が、阿弥陀寺で安徳天皇の事績詩文「敬吊安徳天皇廟霊」を詠んだことが前例となり、以後、阿弥陀寺を客館とした通信使たちは、必ずその由諸を聞き、壇ノ浦懐古詩文を詠むことが通例となった。松雲大師の詩文の韻を踏んで作詩することを常としてつづけられたという。

 こうして、最後の対馬の「易地通信」を除く、すべての朝鮮通信使の正使・副使・従事官の三使と上官らが詠じた真筆詩文17通が阿弥陀寺の寺宝として保存されていた。

 長州藩の藩士や藩校明倫館の文士らは、阿弥陀寺を訪れ使節員らと夜を徹して交流した。そして、日頃は阿弥陀寺に残された通信使の詩文を閲覧筆写して先進的な朝鮮文化を学んだという。

 しかし、明治初年の神仏分離の際に通信使が残した詩文はすべて逸散してしまったとされている。その後、阿弥陀寺は廃されて赤間神宮となった。
 
 最近になって、赤間神宮に8次通信使(1711年)の副使任守幹(イム・スガン)が詠じた詩文「安徳祠次前使臣韻」が、唯一存在することが確認された。

  漢詩
     8次朝鮮通信使副使任守幹の詩文

 明治維新後、阿弥陀寺が消えたこともあって、長い間、赤間関の民衆から最大の歓迎をうけた朝鮮通信使の史実は忘れ去られていた。
 
 最近になって、朝鮮通信使のゆかりの阿弥陀寺の碑を建立したいと云う、地元市民と在日コリアンからの要望の声がたかまった。

  記念碑
     朝鮮通信使記念碑 阿弥陀寺公園

 2001年、赤間神宮前、阿弥陀寺公園に韓国から取り寄せた石で朝鮮通信使の記念碑・「朝鮮通信使上陸掩溜(滞在)の地」が市民の手で建立された。
       富士山と夕日と雲30

    秋の夕日

  9月22日、日曜日、
  風が強く、雲が飛ぶように流れる、
  夕方、「富士山と夕日と雲」の
  神秘的な風景が広がった。
  数分間で撮った画像10枚を
  ストーリー風に編集して見ました。
  ご覧ください、
 
  

  同じ光景は2度は見られない、
  しかし、神秘的な風景はまた現れる、
  問題は、その瞬間を逃さないことである。
     朝鮮通信使の終了


 江戸時代、日本と朝鮮の交隣関係を築いた朝鮮通信使は、初代将軍徳川家康から始まり、1811年の第12次朝鮮通信使・対馬での「易地通信」が最後となった。

   通信使路
       朝鮮通信使の行程図

 その間、新将軍が誕生すると、幕府が対馬藩を通じて朝鮮国に要請し、それに応えるかたちで朝鮮通信使が派遣されてきた。
 
 対馬における「易地通信」から明治新政府が樹立されるまでの57年の間、徳川家将軍は家斉ー家慶ー家定ー家茂ー慶喜へと交替した。

 1837年、家斉が在位50年で引退し、世子家慶に将軍職を譲った。新将軍家慶には世子家定がおり、徳川家にとって3御所が同時に存在するというめでたい年になった。
 
 幕府は、これを祝う朝鮮通信使の派遣を要請するよう対馬藩に命じた。対馬藩の使者が釜山に渡り朝鮮側と交渉した結果、1846年に13次朝鮮通信使の派遣、対馬での易地通信を行うこと合意した。何としても易地通信の存続をはかりたい対馬藩の粘りづよい交渉の結果と言われている。

 ところが、大御所の家斉が1841年に没したため、通信使派遣計画は消滅した。
 家斉没後、幕閣の実権を握った水野忠邦は、「天保の改革」とともに朝鮮通信使を対馬ではなく、大阪で迎えるという「大阪聘礼」案をもちだした。 
 対馬での国書交換では、対馬までの幕府の使節派遣にかかる費用が大きく節約できないというのが理由であった。しかし水野の本当のねらいは、西国の諸大名に通信使の接待費用を負担させることで、揺らぎはじめた幕府の立て直しと権威誇示をはかろうとの目論みであった。。

 日本側の勝手な交渉に怒った朝鮮側は、10年先の1856年に通信使を派遣すると返答してきた。
 
 仲介役の対馬藩は、何んとか朝鮮を説得しょうと交渉中、「大阪聘礼」案を出した水野が罷免されたために、その計画もご破算となってしまった。

 1858年、家茂が新将軍に就任したときも、対馬での易地通信が合意されたがこれも家茂死去で消滅した。

 その後も、対馬藩と朝鮮側訳官使が互いに対馬―釜山間を往来し外交の窓口は開かれ交渉はつづいた。
 
 しかし、江戸時代の終焉まで通信使の使行が実現しなかった。その理由はさまざま上げられるが、主な要因としは日・朝ともに、華やかな通信使の行列や交流をくり広げる余力が残っていなかったためだと思われる。

 1867年、最後の将軍徳川慶喜が大政を返上(大政奉還)し、徳川幕府は消滅した。同時に善隣友好の日朝通信使外交の幕も閉ざされた。

   徳川慶喜
       徳川家最後の将軍慶喜
 
 1868年、明治新政府が誕生した。新政府は対馬藩を通じて日本が王政復古をしたことを知らせる国書(書契)を朝鮮国に通達した。
 
 書契を見た朝鮮国は、形式が先例と異なり、とくにその内容が対等な交隣関係ではなく、朝鮮を格下にみる「皇」、「勅」の字が含まれていたため、その受け取りを拒否した。

 1872年、対馬藩が外交実務を返上し、対馬藩が管理運営していた釜山の「草梁倭館」は、着任した外務省の花房義賢によって接収された。

  倭館1
     江戸時代 釜山にあった「草梁倭館」
 
 明治新政府内に、「征韓論」(武力による朝鮮侵略)が急速に高まっていた。
 つづく

  対馬1
     一衣滞水の隣国・日本と朝鮮半島

 次回から江戸時代の260年、12回の朝鮮通信使が日本各地に残した遺物・事跡・文化について記していきたいと思っています。ひきつづきよろしくお願いいたします。
    富士山と夕日と雲29



 高層アパートの自宅ベランダから撮りつづけた、
 「富士山と夕日と雲」の画像から、10枚を選び、
 いつものようにストーリー風に編集して見ました。
  ご覧ください、

 

 富士山がいつでも見られる環境が、
 ブログをつづけることを可能にしているのだろう。、