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   富士山と夕日と雲27

 8月20日、
 ようやく猛暑の日々から抜け出し、
 すこし過ごしやすくなった、
 西に傾きかけた太陽の画像20枚を
 ストーリー風に編集して見ました。



 しばらくは厳しい残暑が残ります。
 熱中症に気をつけて下さい。 
     第12回朝鮮通信使

  「天明の大飢饉」による延期

 1786年、将軍徳川家治が死亡し、養子の家斉(いえなり)が14歳で11代将軍となった。家斉就任とともに家治時代の田沼意次が老中を追われ、白河藩主の松平定信が老中首座となり、幕政の実権をにぎった。

  家斉
      11代将軍 徳川家斉

 将軍が新たに就任すれば、朝鮮側はこれを祝う通信使を2、3年以内に派遣するのが恒例であった。
 幕府は、新将軍を祝賀する使節を招聘するよう、対馬藩主宗義功(そうよしかつ)に命じた。
 対馬藩は朝鮮側と交渉を開始したが、すぐさま松平定信から「朝鮮通信使の招聘を延期せよ」との命令が伝達された。

 この時期、日本は浅間山噴火による被害と東北地方を中心に凶作がつづき「天明の大飢饉」(1782~87)が襲い深刻な状況にあった。飢民は草根木皮で延命して、各地で百姓一揆が起きた。都会では米価が暴騰し買い占めに抗議する暴動・打ちこわしが続出していた。
 1788年には京都で大火災が発生し、市街地の4分の3が焼けて京都御所・二条城が焼失したという。幕府の財政悪化は深刻であった。 

  2004年
     浅間山噴火  2004年
  
 老中松平定信は幕府の財政を立て直すための緊縮政策・「寛政の改革」を推し進めるとともに対馬藩に対して、
 「大飢饉で、下々が困窮し、宿駅も衰微して、その接待を担当する諸大名も不如意であるから、しばらく通信使の派遣を延期」(『通航一覧』)するよう朝鮮と交渉するよう命じたのであった。

 この頃、対馬藩も朝鮮貿易が衰退し財政難に陥っていた。

 対馬藩主は、通信使の派遣をしばらく待つよう朝鮮国に手紙をかいた。
 「本国は近年、凶作に見舞われ、穀物の実が熟さず、百姓は貧しさのどん底にあえいでいます。大君の新たな政治は、自愛深く、役人はそれに従い、行っていることといえば、もっぱら百姓の救済のみであります。しかしながら、残念なことに今はその甲斐なく、努力の実が結んでいないこの時期に、貴国の大使が厳かにいらっしゃれば、百姓は困難に処するので、、」(『通信使初登録』1789年)

  松平
     老中首座 松平定信

 このような延期の要請に、朝鮮側は新井白石による一方的な「聘礼改革」(参照「朝鮮通信使」37,38)のおしつけによって強いられた苦い経験から日本側の本意を疑ったのであるが、今回ばかりは隣国の事情を理解し延期を承知したのであった。
 これまで、11回の通信使派遣の交隣において、恒例と礼を主要な徳目としてきた朝鮮は、時期の決定は幕府と対馬の事情を受け入れ一度たりともおろそかにしなかった。

 ところが、朝鮮が通信使派遣の延期を受け入れた直後、松平定信は次回の通信使聘礼(国書伝達式)は江戸ではなく、対馬で行うことを決定して、対馬に朝鮮と交渉するよう命じた。
 松平定信は、凶作のため通信使のもてなしは難義であるが、みだりに延期することもできず、対馬で聘礼(易地聘礼)=「易地通信」を行うように提議したのであった。

 1791年、対馬は使者を朝鮮に送り倭館に滞在しながら交渉にあたらせた。朝鮮側は、聘礼の延期からさらに「易地聘礼」へと変えた日本側の真意を疑い反発して交渉すら応じなかった。

  海峡
      朝鮮-対馬ー日本
 
 1793年、松平定信が失脚したが、「易地聘礼」は幕府、対馬双方ともに「経費節約」・益になるというので、朝鮮との交渉を粘り強くつづけた。
 
 朝鮮朝廷の財政事情も苦しい状況にあった。そのため朝鮮側も「易地通信」は通信使派遣費用を削減できるメリットを感じていた。
 
 幕府ー対馬ー朝鮮の3者の間で、書契の交換や使者が海を往還して「易地通信」をめぐり、20年以上の長い
交渉がつづけられた。
 つづく

       夏の夕陽

    夏の夕陽


  燃えるような夕陽の画像12枚をストリート風に編集して見ました。
 ご覧ください。

 

  熱中症に気をつけてください。
     大阪庶民の人情


 竜宮城みたいな門がまえのお寺・竹林寺が大阪西区松島公園の横にある。

  竹林寺2
       竹林寺 大阪西区

 この寺は、江戸時代に朝鮮通信使が大阪で船を乗りかえ、淀川を京へのぼる中継地の宿舎として利用されていた。

  竹林寺境内の奥に朝鮮通信使の小童・金漢重(キムハンジュン)の墓がひっそりと立っている。
 どうして、朝鮮通信使小童の墓が竹林寺にあるのだろうか?

 *小童は、日本の小姓にあたる。毎回の20人程が通信使三使(正使・副使・従事官)や堂上官、製述官らに従った。未婚の男子が一般的であったが既婚者もいたようである。沿道で踊りを披露したこともあり通信使一行の中でも人気が高かった。髪を三つ編みにして長くたらしていたので、絵師が女性と間違えられるような絵を描いた。

      小
        朝鮮通信使小童の姿

  P6174851.jpg
        馬にのる小童の姿

 1764年2月、11次朝鮮通信使の小童・金漢重は、厳寒の瀬戸内海を航海中、暴風雨にあい重病となり大阪に着くやいなや床に伏した。天満の漢方医や医師の平山文微が、通信使船にかけつけ竹林寺に移し、手厚い看病を施した。
 しかし回復せず、金漢重は故郷の妻や二人の子どもを恋しがるために、彼の子どもと同じ年恰好の地元の子ども二人を金漢重の側に座らせ看病を手伝わせたという。

 二人の子供をみて微笑む金漢重の様子に、「子を思う心の内おしはかられ、いと哀れなり」(宝暦物語)と人々は深く同情したという。

 金漢重は死期の近ずいたことを悟り、辞世の句を残した。

   今春倭国客 去年韓人中
   浮世何定処 可帰古地春
         金漢重 行年22齢書
  
 医者の懸命な施しも、地元住民の祈りもむなしく金漢重は異国の地で帰らぬ人となった。故郷の妻や子供たちはいつまでも父の帰りを待ち焦がれたであろう。

 竹林寺の住職は非常に哀れに思い、彼のために念仏を百万回唱えたという。その住職が建立した墓碑に金漢重の辞世の漢詩とともに追悼の和歌が刻まれている。

    P7304864.jpg
         金漢重の墓
   
    日の本に 消えにし露の玉ぞとは
       知らで新羅の 人や待つらむ

 朝鮮通信使の小童の病死から250年以上経過したが、今も尚、金漢重の墓に献花とお世話を続ける人々がいるという。

    金漢重
     現在の金漢重の墓   

 時代が変わり、竹林寺付近も近代的な都会に大変革した。しかし、時代が変わり社会が変化しても、人を思いやる人情は変わりなく庶民の中に生きつづけるのであろう。
 つづく
      不幸な事件起る

 1764年4月7日、江戸からの帰り大阪に到着した2日目の夜、北御堂の宿舎で11次通信使の都訓導(将校)崔大宗(チェデジョン)が殺害される事件が発生した。
 
 この国際的大事件をめぐって大阪の街は上を下への大騒ぎとなった。事件は各地に伝えられ、東町奉行所は殺人事件として調査をはじめた。

  正使1
       通信使 正使の行列図
 
 崔大宗が殺害されたその夜から、対馬の通訳鈴木伝蔵が行方不明であることが判明した。大阪より諸藩へ人相書きが手配され、4月18日に逃亡先の摂津の池田で捕まった。

 幕府は、このたびの殺害事件が両国の交隣関係にあたえる影響を重視し、急きょ目付けを派遣して事件の真相究明と事件処理にあたらせた。
 
 鈴木伝蔵は、「崔大宗が紛失した鏡を鈴木が盗んだと疑い、馬の鞭で殴られたので、怒りを抑えきれず刺殺した」と陳述した。
 幕府は、犯人が殴られたというのは、崔大宗が死んだ以上、立証することができない一方的な弁解だとして一蹴した。

 通信使の書紀金仁謙(キムインギョン)は、「たかが鏡一つで殺人事件まで起こしたと思えない、人参の密取引が原因」ではないか記録している。

  宗家
      通信使随行 対馬藩主行列図

 当時、使節員と対馬との間で人参などの闇取引が横行していたようである。真相は不明のままである・

 4月29日、幕府は調査を終え、犯人に対して「切腹するのが妥当であるが、逃げた罪」で死刑を言い渡した。
 5月2日、鈴木の処刑は道頓堀西にて執行された。現場には、幕府目付け、大阪城代、対馬藩と通信使の三使ら使行員54名が立ち合ったという。

  道頓堀
        現在の大阪道頓堀

 事件の背景には、18世紀後半対馬の倭館貿易の不振と、通信使随行の財政負担が重くのしかかり、使節側の横柄な態度と言葉の不通などが重なり、相互不信が極端な結果を招いたように思われる。

 この事件の他に、通信使の小童金漢重(キムハンジュン)が病死し、船員の李光河(リクアンハ)の自殺事件があった。
 5月6日、一か月の大阪滞留をよぎなくされたが、通信使一行は大阪を出航・帰国の途についた。 

 大阪の町人は、この事件の話題がつきず、3年後、「朝鮮人殺し」が脚本化され、並木正三作「世話料理鱸包丁」(せわりょうりすずきのほうちょう)として、1767年、大阪角座の芝居で上演されたという。
 
 それから200年後の1968年、東京の国立劇場で「韓人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)・俗称「唐人殺し」が上演された。

 筆者は、「通信使殺人事件」のことも、それを題材にした「唐人殺し」の芝居が上演がされたことなど、はじめて知る話である。

   海峡
     江戸時代 日朝交流の歴史があった
 
 朝鮮通信使の歴史は、日朝両国の平和と善隣友好の絆と、お互いの文化を理解するのに大きな役割をはたした。しかし日朝の長い交流過程で、お互いの理解不足や不幸な事件があったこともまた事実である。 
 つづく