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          柳川事件

  対馬地図
       日本と朝鮮の国境の島・対馬

 柳川事件とは、対馬藩主・宗義成(よしなり)とその家老・柳川調興(しげおき)の2人が対立して起きたお家騒動であった。
 しかし、単なるお家騒動で止まらず、国書偽造、改ざんという徳川政権の威信に関わる問題が露見して、対朝鮮外交に影響を及ぼしかねない問題となり、三代将軍・徳川家光が直接決裁にのりだした大事件のことを言う。
 
 事件に至るまでの経緯をふり返ってみる。
 
 義成の父・宗義智と調興の祖父・柳川調信、父の智永、そして外交僧・玄蘇ら対馬の重臣たちは、力を合わせて秀吉の侵略戦争後の難しい朝鮮と日本の和平交渉の仲介役をはたし、日朝の友好・親善の関係を切り開いたのであった。
 
 その過程で、形式を重んじる朝鮮と一歩もゆずらない徳川幕府の間にあって、当主の義智・家老の調信・外交僧の玄蘇らは、止むを得ない処置として国書の偽造、書き換え(改ざん)を行っていた。

 そして、とにもかくにも、朝鮮通信使(回答兼刷還使)が往還して、貿易が再開されるようになり、悲惨な状態にあった対馬の経済が徐々に復活するようになったのである。
 対馬の復活は、そうした先代たちの命を賭しての苦労と協力があったからにほかならない。

  宗義成
        対馬藩主 宗義成

 ところが、このような先代の苦労を知らないまま、幼くして義成、調興は家督を継いだのだった。
 1613年に柳川智永が没し、調興が家督を継ぎ家老となり、1615年に義智が死去して、義成が藩主となった。
 義成は12才、調興11才、幼い二人は、共に手をたずさえて先代が築いた日朝関係の発展に尽力しなければならないのに、当初から互いに勢力を競いあった。

 江戸に生まれた調興は、子供の頃から家康の小姓、秀忠の近侍として気に入られ、老中、本田正純に信頼されていた。正純が失脚したあとは、次の権力者・土井利勝に信頼された。
 このようように幕閣の覚えめでたい調興は、直参の待遇も受けていた。
 
 また調興は、朝鮮朝廷からは従二位に相当する官職に任じられ、朝鮮側の信頼も厚かった。
 そればかりか、日本の使節の派遣や朝鮮通信使の来日に関する幕府の命令は、調興を通じて対馬宗氏に伝達された。
 家臣である調興が、藩主の義成に向かって命令する立場にあったのである。
 
 このような関係から調興におごりが生まれ、傲慢となり、ついには宗氏から独立して、朝鮮貿易の実権を掌握しようとしたのであろう。

 1624年、3回目の朝鮮通信使が任務を終え帰国途上の京都で、調興は最初の問題を起こした。

 柳川家は、祖父の代から朝鮮通信使の接待役を務めていた。柳川家を代表する調興は、朝鮮通信使一行が対馬から離れ帰国の途につくまで、その案内と接待を陣頭指揮する立場にあった。
 ところが、調興はそれを自分の家臣にまかせて江戸に帰ってしまった。

 これに激怒したのは朝鮮の使節たちで、その怒りの矛先は、義成に向けられた。
 なんとか使節一行をなだめて、帰国させた義成は、非礼な調興を詰問した。それに腹を立てた調興は、柳川家は徳川家康から肥前田代に千石の領地をもらっているので宗家の家臣ではないと開き直ったのであった。
 
 調興にすれば、先二代が宗氏を支え、朝鮮との国交回復を成し遂げたのは実質的に柳川家の力によるものであり、ひきつづき朝鮮との外交交渉を取り仕切っているのは自分であるとの自負があった。
 
 調興は、次第に幕府直参となり、藩主の義成にとって変わり、莫大な利益をもたらす朝鮮貿易の全権を握ろうと画策するようになった。
 
 玄方のソウル訪問によって、宗家の外交力に幕府の信頼が高まったことに、対朝鮮外交における自分の立場に不安を覚えた調興は、義成の妹の妻を一方的に離縁して、宗氏に対する敵対の意思を公然化させた。

 そしてついに、1633年、調興は、対馬藩の秘事とされる過去の国書偽造、改ざんの一件を幕府に暴露し、義成を糾弾、訴えたのであった。

「宗家に朝鮮のことをお任せになっていると、ロクなことはありません。実は、先年、来日した朝鮮使節が持ち返った御公儀の返書は、宗家が勝手に途中ですりかえたものでございます。、、また先年、ソウルに上京した玄方の一件も、よく、お調べになれば、ご承知になられていることと、たいそう違っていることがお分かりいただけるかと存じます。(『柳川実記』)

 この調興の爆弾発言に仰天したした老中の土井利勝、酒井忠勝らは、事が重大であるため、対馬の朝鮮との交易を中止させ、2年の歳月をかけて慎重に調査を進めた。

 国書改ざんは、第1回の1607年、第2回の1617年、第3回の1624年の朝鮮通信使往還のたびに行われていた。

 幕府は、義成や玄方を呼び出し個別に調べ、また、使者を対馬に派遣して国書偽造にかかわった関係者の調査を進めた。
 
 江戸城に呼び出された玄方は、ソウルへの上京のときは、何一つうしろ暗いことはしていない、と断言した。
 ソウル訪問のときは、国書偽造など何もしていなかったから、玄方も堂々と突っぱねることができた。

  大広間
     江戸城大広間における儀式の一場面
 
 1635年3月、江戸城本丸の大広間において、将軍家光を中心に、御三家、老中など幕閣、さらに1千石以上の諸大名が総登場し居並ぶ中、最後の公開審理、取り調べが行われた。

 幕府の取り調べに対し調興は、これらは全て義成が主導して行ったと主張した。
 
 義成は対朝鮮外交は柳川氏に任せており、柳川氏の独断で行われたと述べた。
 また、義成はその席で不正については関知しておらず、調興の権勢を恐れて家臣が義成に不正を報告しなかったために、一切が不明であると答えた。
 
  井伊利勝、堀田正盛、板倉重宗、林羅山ら幕閣の支持を受ける調興が、下馬評では有利であったが、結果は義成に「過誤はなかった、本領を安堵する、朝鮮のこともこれまで通り」と申し渡され、宗家勝利の裁決が下された。

 訴えた柳川調興は、国書偽造の首謀者とみなされ、家財没収、奥州津軽藩へ流罪となった。
 
 家光は、朝鮮外交の難しさを理解したうえで、複雑で地道な裏方的な仕事は、対馬に根をおろした宗氏でなければ務まらないと判断したものと思われる。

 しかし、義成の忠臣・玄方は外交僧としての責任を問われ、みちのくの南部藩(盛岡)に流罪となった。

 こうして、裁決された柳川事件を柳川一件とも呼ばれている。

  万松院
      万松院 宗家菩提寺 義成建立
 
 宗義成は、お家騒動で勝利し、当主の権限を回復させたものの、調興や玄方ら熟練の担当者がいなくなり、対馬藩の対朝鮮外交は一時停滞したのであった。

 幕府は、対馬藩を支援するため京都五山の僧の中から優秀な者を対馬の以酊庵(対朝鮮外交事務所)に輪番制で派遣し、外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを扱わせた。

 その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれるようになった。

  キャプチャ
     万松院まつり 毎年10月開催

 柳川事件を教訓にして、幕府もまた、朝鮮外交の方針を大きく転換することになった。
 つづく
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