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   第3回、朝鮮通信使往還
     
    使節が見た日本の光景

 1623年、徳川秀忠は、将軍の位を子の家光にゆずった。
 自らは大御所となり、江戸城西の丸で政治権力を行使することになった。
 幕府は対馬藩を通して、家光将軍襲職の祝賀使節を派遣してほしいと朝鮮国に要請した。
  
  徳川家光
         徳川家光

 将軍の正式な国書はなかったが、朝鮮国は徳川幕府の要請を受け入れ、3回目の通信使・「回答兼刷還使」を派遣することになった。

 朝鮮王朝が通信使派遣を決定したのは、北方の女真族が国境を脅かしている切迫した事情によるもので、北辺の憂いに備えるために、南辺の安全を図る必要に迫られたからである。

 3回目の通信使も主目的は連行された朝鮮人の刷還事業であった。また一方で徳川政権・日本国内の状況を探索することであった。

 1624年10月初旬、正使、副使、従事官の3使をはじめ、朝鮮使節団一行460人が釜山を出発した。

 船は6隻、騎船3隻に正使、副使、従事官が乗り、卜船3隻にはその他一行と将軍・幕閣・各地大名への贈り物を乗せてたいた。

 副使の姜弘重(カン・ホンジュン)は、日本往還の見聞録・『東搓録』(とうさろく)を書き残した。

 『東差録』には、日本の建築技術の巧み、物資の豊かさを率直に書き記し、日本人の美風、ゆきとどいた接待、おもてなしに感動したことを描いている。
 
 釜山を出港した通信使一行は、対馬府中ー福岡相の島ー赤間関(下関)から瀬戸内海を進み11月中旬、大阪に上陸した。
 
 使節一行がまず驚いたのは、物資が豊富にあって、町の賑わいと人々の秩序正しい社会生活の営みであった。
 
 姜弘重は次ように書いている、
 「街路に貨物が山積みされ、百物が備わっていた。商家では、それぞれ扱う商品が分かりやすくぶら下げていた。
 言語と衣服は中国や朝鮮と同じでないが、飲食や売買は中国にならったものが多かった。見物する男女が左右に満ち、寂として騒ぐ者がいない。子供たちでさえ、皆ひざまついて見物し、あえて年長者の前をふさぐ者はいなかった。」
 
 姜弘重は、通信使一行が対馬府中に滞在中、津島藩主邸で歓迎宴が催されたとき、
 「わが一行の下人たちは、庭の中で列をつくって座っており、騒がしい声は、いくら禁止してもやめないので、かの倭人(日本人)くらべても、恥ずかしいことであった」と嘆いていた。
 
 姜弘重は、注意しても騒ぎをやめない下人たちの態度にくらべて、日本人の子どもまでもが、公共に場における秩序正しいマナーに驚嘆したのであった。

このような光景は、京都でも見られた。

 大阪から京都の淀までは、日本の川御座船、両岸から千人以上の人足がこれを曵引した。

  キャプチャ
        徳川家 御座船

 京都に着いた使臣一行の宿舎は大徳寺であった。使節が行く長い道に水がまかれ埃がたたないようにしてあった。

 姜広重は京の繁栄を次のように書いた。
 「東寺から大徳寺にいたる20里(約8KM)は商街の中を通過した。人家が立ち並び、物資は豊富、男女の混雑が大阪の10倍ほどであった。街路は方正で井の字の如し。見物する人は、道端に列をつくって左右に満ち、嘆息の声がかまびすしい。手を合せておがむのは、これを貴ぶからである。」

 通信使一行は、京においても大勢の人々で混雑したが、礼儀正しい歓迎ぶりに感激したようである。

 11月下旬、使臣一行は京都を発ち、朝鮮人街道を通り、彦根宗安寺に一泊、 

  宗安寺2
        彦根 宗安寺

 美濃路の大垣から名古屋までの間の揖悲川(いびがわ)、長良川(ながらがわ)、境川(さかい)、木曽川(きそがわ)には「船橋」が架けられていた。
 へさきを川上に向けて100艘前後の船を並べてつなぎ,川底に杭を打って固定し、船の上に3千枚ほどの板を敷いたものである。
 使臣一行は、その4っつの橋を渡った。
 もちろん、「船橋」は朝鮮使節だけが渡るのものであった。

  木曽川
       犬山城が見える木曽川 

 「浮橋(船橋)の制はきわめて精緻であり、船はすべて新造で、大小が同じであった。見物する男女が道端を埋めつくし、乗船して望見する者も、河の上下をおおい尽くしていた。実に壮観であった。」
 使臣一行は感激しながら4っつの船橋を渡った様子がうかがえる。

 12月上旬、岡崎につくと、将軍(家光)と大御所(秀忠)の使者の出迎えをうけた。
 静岡を過ぎるときれいな富士山が見えた。

  駿河湾
       駿河湾から見る富士山

 「山は大平原のまん中にあり、三州の境界にまたがっている。
 截然と屹立し、半空に突き出ていて、白雲が常に中腹の下に起こり、空に浮かんで天をおおっている。
 頂上は四季を通じて雪がつもって白く、6月の炎暑にも解けない。実に天下の壮観である」

 12月中旬、江戸に着いた、国書伝令式が行われる江戸城について、姜弘重は次のように書いた。
 「築城の石は、みな大石をもってし、それを積みあげ、面を削っているのが神業のように巧妙であった。内に高楼傑閣(こうろうけっかく)が起ち、将軍はその中にいる。別に五層の飛ぶような楼閣が中央に起ち、見張りをして守備するところで、天守閣といった」
 使節一行は、江戸城の築造技術の素晴らしさに驚嘆した。

  江戸城
       明治時代初期の江戸城

 朝鮮に比して日本の豊かさを、姜弘重は次のように書いている。
 「自然が美しく、土地が肥えている。市場には物資が山のように積まれており、村里の間には穀物が広げられており、その百姓の富裕なことと、物資の豊富なこととは、わが国と比較にならなかった」

  第3回朝鮮通信使は、秀吉の侵略戦争から30年が経過してからの往還であった。朝鮮国内の実情は、人口減少と国土の荒廃・疲弊による後遺症が、まだまだ色濃く残していた。

 通信使一行は、日本の経済的発展・豊かさ比べると、朝鮮国内の戦後復興が、はるかにおくれていることを痛感したのであった。

 この通信使の目的であった朝鮮人の刷還事業は、146人の帰還にとどまった。戦後30年の時間の経過は、如何ともしがたく以後の刷還事業は打ち切りとなった。
 
また、日本の国内事情の探索について、通信使の「日本が再侵する徴候はない」との報告を受け、朝廷は日本に対する警戒を解き、南辺兵力を北の国境地帯へ進駐させ、北方の防備のみに専念することになった。
 
 しかし、この頃の東アジア情勢は、風雲急を告げていた。

 朝鮮を支援した明が急速な衰えをみせ、明から独立した女真族のヌルハチが後金を建国して中国東北部の要所を次々制圧していた。その勢いは朝鮮の北辺国境に迫っていた。
 
 朝鮮にとって、北辺の脅威に対処するためにも、国内の経済復興はかるためにも、日本との対等な平和関係の維持は必要不可欠であった。
 
 それはまた、東アジアの平和と安定を守るための重要な課題でもあった。
  
 つづく
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