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2018.07.05 朝鮮通信使15
         降倭(こうわ)

   キャプチャ
         朝鮮王朝実録

  降倭とは何か?
 その歴史を具体的に知る人は少ないように思われる。

 沈寿官・李参平・姜抗らが日本の歴史に名を残したように、同時期、降倭が朝鮮の歴史に登場するのである。

 降倭とは、秀吉の2度にわたる朝鮮侵略(1592~1598}のさい、日本の陣営から朝鮮側に投降した日本人をいう。彼らを「投降倭」とも呼ばれた。

 拉致連行された朝鮮人が、日本の地に定着同化したように、降倭・日本人が、朝鮮の地に定着同化したのである、 
 
 ただ、朝鮮人は強制的に連行され定着をよぎなくされたが、降倭は、自らが進んで朝鮮に定着したという違いがある。
 
 しかし、侵略戦争がなけなければ、降倭があり得なかったことを考えると本質的には、戦争によって引き起こされた悲劇的な事件といえよう。
 
 降倭についての記録は、日本には残されていないが、『朝鮮王朝実録』の中に50か所余りと、朝鮮水軍の将・李舜臣(リ・スンシン)が記した『乱中日記』など、幾多の記録が残されている。
 
 降倭が発生したしたのは、朝鮮・明軍の反撃で、秀吉軍が朝鮮半島南部海岸に後退した1593年頃からで、戦争が長期化するにしたがって降倭が続出するようになった。その数、5千~1万名と推定されている。
 
 そのため、朝鮮王朝は、降倭の対策・処置を講ずるようになった。

 降倭の中で、悪賢く、内情を探知しょうする不審者は処刑したが、それ以外の降倭は利用する方針をとった。
 
 降倭が、それぞれ習得している軍事技術を朝鮮側に伝授させたのである。
 言語・習俗に通じた降倭は通訳や外交折衝にあたらせ、
 武術に優れた者は、朝鮮兵の剣術や鉄砲の指南をさせ、
 造兵技術をもつ者は、鉄砲や火薬の製造に従事させた。
 また、統率力をもつ優れ者は、部隊(投順軍)を編成して、北辺国境警備などに赴かせた。
 功績を上げた者に対しては、物資や銀をあたえたり、官職を授け、姓名を賜って優遇した。
 特技のない多数の降倭は、朝鮮水軍に配置、あるいは北方の防衛軍として動員した。
 降倭は集結させず、各地の軍営に分散管理した。

 降倭の中で、沙也加(サヤカ)=金忠善(キム・チュンソン)が比較的によく知られいる。
 沙也加の日本名は、後世に沙也加の子孫が書き残した「慕夏堂文集」によれば、加藤清正が肥後(熊本)に入城したとき、その家臣団に加えられた「岡本越後守」と推測されている。
 
 1592年、朝鮮侵略の際、加藤清正の先鋒将として従軍した沙也加は、朝鮮の礼儀正しい風習を見、文化盛んなるを慕い、「秀吉の朝鮮出兵に大義なし」との思いから、配下の兵3千を率いて朝鮮側に投降したとされている。 

  熊本白
      沙也加が仕えた現在の熊本城 
 
  その後、日本軍と戦いで功労を立てので、朝鮮国王から官職を受け、金海金氏の姓を賜り、金忠善と名乗った。
 戦争終結後も、朝鮮に仕え、金忠善は「慕夏堂」の号を受けた。
 その後沙也加は、志願して女真の侵攻の警備にあたり、正憲大夫(正二品)に昇進し、国王より表彰された。さらに清軍が侵入した「丙子の乱」にも功労をたてた。1643年に没したとされている。

   忠善2
     沙也加の子孫が住む慶尚北道友鹿洞
 
 その後、金忠善の子孫は慶尚北道友鹿洞の地域で繁栄した。 
 現在でも金忠善は、朝鮮半島では英雄視されているという。韓国の大邱市郊外の達城郡嘉昌面友鹿里には、沙也可の後孫の1族が暮らしている。

  金忠善
      沙也加顕彰碑 1992年建立

 1992年には韓国で沙也加記念碑が建立された。
 
 『朝鮮王朝実録』には沙也加の他に、金尚義の名が記されている。
 金尚義(日本名不詳)もまた、配下の兵を率いて朝鮮側に投降した武将であった。
 朝鮮の義兵将・趙慶男が記録した『乱中雑記』によると、金尚義は長期の戦陣や労役に嫌気がさしたため、多数の兵を率いて、慶尚右兵師・金応瑞(キムウンソ)に投降した。
 朝鮮側に付いた金尚義らは戦功をあげ通政大夫(正3品)の官位を受けた。その後彼らは、蜜陽に集落をつくり、農耕に励み、子孫を繁栄させた。その里は「降倭陣」と名付けられている。

 金忠善と金尚義は、多くの兵を率いて集団的に降倭したが、その他は少人数の個別的な投降であった。

 李舜臣の『乱中日記』に、多くの降倭が朝鮮水軍の拠点・閑山島に集められたことが記されている。

   閑山島
     降倭が集められた閑山島付近図

 李舜臣は、従順な降倭・乱如文(南右衛門)、也如文(弥右衛門)等を側近として使い、他の降倭を統治させた。
 李舜臣は、降倭に対して武術訓練をさせ、土木工事にも動員した。 

 閑山島に配置された降倭の様子を1595年10月の『乱中日記』に、
 「早朝、楼に上がって普請を監督した。そして楼上の外の柱に壁土を塗り、降倭にその壁土をはこばせた」
 「早朝、新楼に上がり、大庁の壁土塗り。降倭に担当させ完了」、
 「その降倭らに慰労として酒をふるまった」、
 「黄昏どき、降倭らがいろいろな遊戯(芝居・狂言)を催した。将たるものとして放ってではないのだが、帰順した降倭が庭戯を強く望んでいるので、禁じなかった」等々、記されている。

  李舜臣3
     朝鮮水軍の名将 李舜臣像 釜山市
 
 李舜臣は、従順な降倭にたいして、ねぎらいや娯楽も認めてやりながら、彼らに心のゆとりを持たせるよう配慮したことが解る。
 いずれにしても、降倭は、秀吉の無謀な侵略戦争によって生み出された負の遺産であった。

 ところが、明治維新以後、日本の支配者は、一貫して「降倭」の歴史的事実を隠したのであった。
 とくに、朝鮮植民地時代(1910~1945)、日本帝国主義者とその御用学者たちは、朝鮮に「降倭」の記録が多数あることを把握していながら、秀吉の朝鮮侵略を「美化」すると共に、「降倭」は、朝鮮側の「作り話」であると否定し、その事実をひたすら隠ぺいした。

 彼らからすれば、優秀な日本民族が、隷属している朝鮮に「日本兵が投降・服属するはずがない」との論理から、「降倭」の事実の抹殺を計ったのであった。

 こうして学校教育や歴史書物を通じて、秀吉の侵略戦争を「朝鮮征伐」と呼び、侵略戦争を「正当化」するとともに、戦争による民衆の犠牲や悲惨、降倭の事実を国民に知らせなかったのであった。
 
 秀吉の朝鮮侵略から400年が経ち、21世紀近くに至って、降倭の歴史が少しずつ明らかになり、徐々にではあるが日本の国民に知られるようになった。

 戦争による後遺症は長く残るものである。
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