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     有田焼と李参平
 
   天狗谷窯跡
    李参平が始めた有田焼高麗谷窯跡 
 
 世界一の陶磁器生産量を誇り、数々の名器を生んだ有田焼、
 有田焼は、佐賀県有田町周辺の地域で焼かれる陶磁器の総称である。
 1,5キロ離れた伊万里港から国内外に出荷されたことから「伊万里焼」とも呼ばれる。
 有田焼は、透き通るような白い磁肌と華やかな精緻な絵付けを特徴とする。

 有田焼(伊万里焼)の生みの親・陶祖は李参平(り さんぺい)である。

 李 参平は、豊臣秀吉軍の朝鮮侵略戦争(1592~1598)の際、佐賀藩主・鍋島直茂に拉致連行されてきた多くの朝鮮人陶工の一人であった。

 言語や習慣の異なる朝鮮人陶工の処遇に頭を悩ませた鍋島は、重臣多久安順に預けた。
 
 多久によって李参平は、金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)と名を付けられたらしい。
 
 金ヶ江家に伝わる古文書に李氏と記載があったことなどから、明治になって地元の蘭学者谷口藍田が「李参平」と名づけたと言う。

 朝鮮忠清道金江(現・韓国忠清南道公州市反浦面)出身であること、
 1655年に死亡したことが確認されているが、生年月日や姓名は不詳である。

 李参平が、城下はずれの「高麗谷」で焼いた陶器を見た多久は、そのみごとさに感嘆し、李参平らにある程度の自由を与え,
より良い陶磁器を造るよう命じた。
 
 李参平は、良土をもとめて領内を歩きまわり、各地に散在していた同胞から情報を得ながら、ついに有田の泉山で良質な大量の磁器原料(陶石)を発見したのであった。

 1616年、李参平は高麗谷にいた同胞121人を連れて、泉山近くの天狗谷に窯をつくり、祖国で焼いたのとまったく同じ染付の磁器を焼きあげた。

 泉山
    有田泉山 天狗谷陶石採掘場

 日本では、初めての白磁で焼き上げた陶磁器の誕生・有田焼の起こりである。
 
 純白透明な器に美しく焼きついた青色絵の磁器は、それまで不透明な陶器しか知らなかった日本人の間に、たいへんな反響があったと思われる。

 天狗谷の窯跡から、鉢、壺,瓶、椀、皿などの小形のものが多く発見されている。絵模様は松竹、柳やぶどう、つる草、唐模様などで、碗や皿には野草や蝶、トンボなどが描いたもの、どれも朝鮮(李朝)の味合いそのものである。

  有田焼2
           有田焼
 
 佐賀藩鍋島はこれに目をつけ、各地に散在する朝鮮人陶工を有田に集め、独占的な大量生産体制を整えた。

 天狗谷でつくられた有田焼は佐賀藩に莫大な利潤をもたらした。

  17後半国立
           有田焼
 
 佐賀藩は、磁器生産技法が他藩にもれることをおそれ、販売市場を有田から離れた伊万里に限定した。

 そして、朝鮮人陶工たちが泉山・「高麗部落」から出入りすることを禁止して、軟禁状態で陶磁器生産に専念させた。

 また、他藩からの日本人に対しては、有田への出入りをかたく禁じた。見つかればただちに打ち首にしたという。
 
 鍋島は藩吏をおくり監視を強化したが、従事する日本人陶工が増えると、他藩からおくり込まれた陶工侵入者を防ぐことが出来なかった。

 江戸後期には、李参平の始めた磁器製法は、次第に瀬戸磁器をはじめ九谷磁器、会津磁器、京都清水焼などに伝わり、各地で有田焼によく似た陶磁器がつくられるようになった。

 陶磁器が大量に生産されると、貴族や武士上層階級だけでなく、一般庶民にまでゆきわたるようになった。

 木器や漆器の食器にかわり衛生的な陶器が使用は、日本人の生活様式に大きな変革をもたらした。

 磁器鳥居
    李参平を祀る陶山神社 磁器の鳥居

 李参平をはじめ朝鮮陶工たちが起こした磁器生産・有田焼は、海外にも知れわたり、日本の陶磁器産業繁栄の土台となった。
 
 ところで、日朝間の国交回復により朝鮮通信使・刷還使が往来して、使節らが幕府を通して、連行されたきた朝鮮人にたいする帰還・帰国の呼びかけは、有田の陶工たちに届いたのだろうか?
 
  第3次朝鮮通信使の通訳官が、はじめて佐賀藩内の「高麗部落」を訪れて、焼き物に従事する朝鮮人陶工に、帰国を呼びかけたことが記録されている。

 「1636年、第三回朝鮮通信使・刷還使の通訳官・康遇聖(カンウソン)は、帰国の途中、佐賀の唐津に行き、諭示文(帰国を呼びかける文)をもって同胞に帰国を呼びかけたが、申し出る者はなく、唐津の高麗村で焼き物に励んでいるのをみて空しくひきあげた」(『朝鮮通信使往来』辛基秀)
  
 そして、、「すでに侵略戦争から40年近くも経て、生活の基盤もできあがり、やむを得ないことであった」と説明されている。

 これは、陶工たちが「帰国に応じなかった」という結果からの説明であり、支配者側の理屈にすぎない。

 なぜなら、軟禁状態にあった朝鮮人陶工たちの「故郷に帰りたい」という、彼らの胸の内の声を見逃しているからである。
  
  一般的に考えると、人々の故郷に対する思い、望郷の念は、幾十年経過しようが変わるものではない。

 まして、突然、侵略者に拉致され、家族や縁者、同郷の人たちと引き裂かれて、異国の山中に隔離されている人たちである。歳をとるにしたがって「望郷の念」は募るばかりであったと思われる。

 考古学者の李進熙はかつて、有馬焼を開いた古窯跡、朝鮮人陶工が居住した唐人町の「高麗部落」、「朝鮮墳」、「高麗神祠」など、有田、伊万里一帯をくまなく見て回り、中山清次郎、中里敬市ら朝鮮人古老から、1930年代前半(昭和初期)頃まで、毎年旧暦の3月15日と10月15日に朝鮮式の祭りを行い、シルトク(朝鮮餅)を食べ、ヒウララク(風楽舞・豊年願う舞)を楽しんだことを聞きとっている。
 そして、代をついで長い間、朝鮮の生活様式・風習・伝統が守られ、受け継がれていたことを取材している。(『朝鮮文化と日本』1966年)

 それではなぜ、呼びかけに応じなかったのだろうか?

 通信使の通訳官一人が現れて、朝鮮人陶工たちに呼びかけたわけではない。
 
 同伴している対馬藩士、現場に道案内して来た佐賀藩士が見守っている。

 軟禁状態に置かれて、外からの情報が一切遮断されていた状況下、

 突然に現れた通信使が、「帰国」を呼びかけたのあるから、陶工たちはその真意を疑ったと思われる。

 そればかりではない、佐賀藩士・監視役が四方から目を光らせている状況のもとで、「帰りたい」と申し出ることは、殆ど不可能なことであったと思われる。

 佐賀藩としては、幕府からの「帰国を希望する者は帰還させよ」の通達があり、その通達にしたがって対馬藩士と通信使がやってきたため、やむなく朝鮮人陶工が働く現場に案内したもと思われる。

 通訳官の呼びかけに、朝鮮人陶工たちは、ただ黙々と働くことで答えた。

 そこには、「帰りたい」と申し出るに出られない苦悶の心情が隠されれていたのではなかろうか?

   李参平碑
     陶祖 李参平碑 1917年建立

 時間をかけて説得するとか、1人1人個別的に意思を確認するような状況、時代ではなかった。

 通信使訳官・康遇聖が持参した諭示文が、唐津の高徳寺と佐賀県立博物館に保存されているという。
 
 有田焼・伊万里焼の陶祖・李参平は長らく忘れ去られていたが、1959年に天狗谷窯付近で戒名を刻んだ墓石が上半分を欠いた形で発見された。

 現在は墓石は白川墓地に移され、「李参平の墓」として有田町「指定史跡」になっている。

 有田の龍泉寺の過去帳には、明暦元年8月11日(1655年9月10日)没、戒名・月窓浄心居士と記されている。

 有田の総鎮守とされる陶山神社は、応神天皇・「藩祖」鍋島直茂とともに「陶祖」李参平を祭神としている。

 1917年には、有田焼創業300年を記念し、陶山神社に「陶祖李参平碑」が建立された。

 昨年・2017年、有田焼創業400年祭が盛大に開かれた。
 
 毎年、5月4日に李参平の偉業を称える「陶祖祭」が行われている。

  有田周辺
       有田周辺観光マップ

 その前後の連休中、恒例の「陶器市」が開かれ、全国から100万人以上の観光客が訪れるという。
           つづく
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