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       薩摩焼と沈寿官

    中丸花瓶
      中丸花瓶 日置市〈ふるさと納税〉

 薩摩藩(現鹿児島県)内で生産される焼き物・陶磁器の全てを総称して薩摩焼と言う。
 
 江戸時代、薩摩には堅野系釜場、苗代川系釜場、龍門司系釜場、元立院系釜場、平佐系釜場など40か所近い陶窯があった。藩直営の窯もあった。
 
 全ての窯は、薩摩藩主・島津義弘が朝鮮から連行してきた陶工によって開窯されたものである。
 
  薩摩焼は、その特徴から古薩摩、黒薩摩、白薩摩に分けられ、壺や甕、花瓶、土瓶、徳利、茶器、茶碗、皿など多種多様な焼き物がつくられた、

     白薩摩湯呑
        白薩摩 湯呑

 初期の薩摩焼は、藩内の流通に限られたが、幕府に献上されたことから、次第にその名が全国的に広がっていった。

 薩摩焼が、江戸初期から今日まで、継続的に発展したのは、優れた陶芸技術を体得した朝鮮人陶工のたえまぬ努力によるもである。
  
 そしてまた、彼らを保護奨励した藩の政策が薩摩焼発展の要因になったと思われる。
 
 藩主の島津家は、朝鮮人技術者たちを手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらす事を許すとともに、その姓を日本名にすることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮の民族性を維持する様に統治した。

  陶苑
     苗代川民陶館 鹿児島県日置市 

 薩摩焼を世界的なブランド名を高めた沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、朝鮮朝(李朝)四代世宗王時代から朝廷に仕えた名門であった。

 1598年(慶長3年)、島津義弘が撤退のとき南原城付近で多数の朝鮮人を拉致連行してきた。その中に、沈家初代・沈当吉がいた。

 沈寿官の名を一躍有名にしたのは、幕末期に成長した天才 ・12代沈寿官であった。

 彼は、幕末期の藩営焼物工場の工長となり、薩摩藩財政改革の中で薩摩焼の振興に多大なる貢献を果たした。

 薩摩藩が、明治維新を成し遂げる主勢力と成り得たのは、薩摩焼収入による豊かな財政力にあったと言われている。

 1873年(明治6年)、沈寿官は日本を代表してオーストリアのウィーン万博に六フィート(約180cm)の大花瓶一対を含む幾多の作品群を発表し、絶賛を浴びた。以来、「SATHUMA」は日本陶器の代名詞になり、欧米で芸術品として高い評価をうけた。
 
 彼の透し彫り(すかしぼり)、浮き彫りの技術で農商務卿 西郷従道より功労賞を受けた。また、産業発展の功労者として緑綬褒賞を賜った。

 1893年、アメリカ合衆国シカゴ・コロンブス万博において、銅賞を獲得した。
 その後、パリ万博にて銅賞。ハノイ東洋諸国博覧会において金賞、セントルイス万博にても銀賞を受賞し、国際的に陶芸家・沈寿官の名を轟かせた。
 
 薩摩焼の総帥としての沈寿官は、海外の嗜好に決して迎合せず、日本人の美意識を貫き、最後まで自らを『平民』と称し続けた硬骨の人であった。

  12代  13代
   12代沈寿官は   13代沈寿官
 

 1906年(明治39年)、12代が世を去り、長男の正彦が父の名を襲名し13代沈寿官を名乗った。

 1910年、朝鮮が日本帝国主義の植民地になると、朝鮮人陶工を始祖にもつ薩摩焼陶工たちにとって最も厳しい時代となった。
 
 激しい偏見と差別の中で生き抜くために、祖先から受け継いだ姓を捨て、日本名に変える者、日本人と結婚して同化する者も現われた。朝鮮語は使わなくなり、風習も次第に忘れ去られていった。

 13代沈寿官は、厳しい状況下でも朝鮮民族の誇りを守りつづけ、1922年(大正11年)から1962年(昭和37年)まで、苗代川陶器組合長として薩摩陶業の発展に尽くした。
 
 初代・沈当官が連行されて来てから、330年後の1930年頃、13代沈寿官が、韓国を訪問し里帰りをはたした。
 郷里の青松では、沈氏の縁者が多数集まり歓迎したという。

 苗代川の窯元を訪れた李進熙(リ・ジンヒ)は、13代沈寿官を取材して次のように書いている。

 「70をこえた老人であった。沈老人は不自由な体を無理におこし”家宝”をとり出して自分の体内に朝鮮民族の血が流れていることを誇らしげに語ってくれた。沈寿官氏は慶尚北道青松の沈氏の後衛であるが、30年ほど前、おとずれ、かって故国へかえるのぞみを果たせず、異国の地で死んだ沈当官の願いを三百数十年ぶりにかなえてあげたことが何よりの心のなぐさめであるといっていた」(『朝鮮文化と日本』1966年)

 歴史ドラマを見ているような話であるが事実である。

 1963年(昭和38年)、13代沈寿官は産業発展の功により県民表彰を受賞した。
 
 13代もまた、朝鮮民族の誇り高く、そして誠実に父祖の業と伝来の作品群を守り抜いた。
 
 1964年、13代沈寿官が亡くなり、長男 恵吉が14代沈寿官を襲名した。

 襲名間もない頃、14代沈寿官を訪ねた金達寿は、初対面であったが意気投合したことを、小説『苗代川』に描いている。

 ”帰るといった客を引きとめたことがないという沈寿官さんは、暗くなってきた外を気にしている私たちを何度も引きとめて酒をすすめた・・・
 夜が深まるのも忘れて酒を酌み交わし、会話も尽きない、朝鮮の歌をうたい、宿を心配する金達寿に、泊まったらいい。せっかくきたんだ、この家に泊まって行ってくれ!」と”

 植民地時代に渡日した金達寿は在日30数年、一方の沈寿官は強制的に連行されて来てから、360年の歴史をもつ沈家の後裔、

 作家と陶芸家、同じ朝鮮民族の二人、共感、共鳴するするものがあったのだろう、別れがたい二人の姿が目に浮かぶようである。

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     14代沈寿官        金達寿

 1970年、14代沈寿官は、大阪で開かれた万国博覧会に白薩摩浮彫大花瓶を出品し、好評を博した。

 1989年(平成元年)には明仁天皇より、日本人初の大韓民国名誉総領事就任を承認された。

 また、1998年に行われた国際的イベント『薩摩焼400年祭』の成功により、金大中大統領より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受章した。

     記念切手
       ”薩摩焼400年祭”  記念切手

 14代沈寿官もまた、薩摩焼の名を再び全国へ認知させた功績は実に多大なものがあった。

 1999年(平成11年)、14代沈寿官存命中に、長男一輝が15代沈寿官を襲名した。
 
 襲名から10年後、15代沈寿官の記者会見があった。

  ――第15代を襲名してから10年、何を見出しましたか。
 襲名したときは、これで逃げられないなと思った(笑)。最初の数年はイケイケドンドンとでもいうか、恐さを知らなかったが、その後は壁を感じ、内面をみがく時期だったと思う。
 文明の利器など何もなかった時代の先人達の優れた手仕事に出会い、そこから熟慮と哲学を学んだ。先人達の残した遺品、作品を見直す中で、400年も前に玄界灘の波濤を越え、見知らぬ国で陶芸の技を糧に第2の人生に挑んだ初代達の悲しみを偲んだ。言われの無い偏見の中で耐えながら、真っ直ぐに父祖の業を守ってきた人々の重みを感じた。

 ――沈家の歴史の重みを感じたことで、仕事に変化が生じましたか。
 未知なる「未来」に挑む事は、通り過ぎた未知なる「過去」に挑むのと同じであることに気づいた。先代達の作品は過去の作品であっても、自分には新しい未知な作品だ。その作品づくりを理解するだけでも、一生を費やす作業といえる。過去にあったが今は失われた技術や原料もある。それらに対する考察も必要だ。
 沈家の伝統は、私を縛るものではなく、いまや、私にとってかけがえのない宝となっている。
 
――今後の活動について教えてください。
 具体的には、歴代沈寿官の作品や遺品を展示した美術館の拡張、秋に出す新しいブランドの準備、原料調達ルートの開拓などがある。沈家を継ぐということは、地域の歴史を継ぐことでもあるから、町おこしにも貢献しないといけない。様々なアイデアを出しチャレンジしていきたいと考えている。今の「私の仕事」は、私の仕事であると同時に、父を含めた歴代の工人達、そして工房の仲間、すなわち「私達の仕事」であることを忘れずに、現代(いま)の時代に挑んでいきたい。

    15代沈
          15代沈寿官

 15代沈寿官は、現在活躍中である。
 
 次の機会に改めて記事にしたい。
                     つづく
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