第2回 朝鮮通信往還
  

  1615年、徳川軍の攻撃よって大阪城が落城し、豊臣秀頼と母・淀君が自害して豊臣家は滅亡した。

 徳川家は名実ともに天下統一を果たした。

 この年、日朝間の国交回復・朝鮮通信使往還・貿易再開に生涯をかけて尽力した対馬藩主・宗義智が死亡し、息子・義成が12歳で藩主となった。同時に、家老であった柳川調信の孫・調興(しげおき)が13歳で義成の重臣となった。

  宗義成
    宗家菩提寺 万松院  宗義成建立

 翌年、徳川家康が亡くなったが、幕府は天下統一を祝賀する使節の派遣を対馬藩を通して朝鮮王朝に要請した。
 
 幕府の国書は、「日本国源秀忠」であったが、このときもまた,
対馬藩は偽造した国書・「日本国王源秀忠」を朝鮮側にわたした。
 
 この年、女真族のヌルハチが明から独立し「後金国」を建て、その脅威が朝鮮北部に迫っていた。

 朝鮮側は、「日本国王」の要請に応える形式をとりつつ、徳川家が豊臣家を滅ぼし朝鮮国の仇を討ってくれたことに感謝すると共に、日本に連行された多くのを同胞を帰国(刷還)させるために、2回目の朝鮮通信使・「回答兼刷還使」派遣を決定した。

  2回目の朝鮮通信使の従事官・李景稷(リ・キョンジク)は、日本往還記録・『扶桑録』に書き残した。
 
 1617年7月、正使、副使、従事官の三使はじめ、総数428名の使節団一行は釜山を発ち、対馬の府中に着いた。

  翌日、使節団は、会談に現われた藩主の宗義成と重臣の柳川調興の姿を見て驚いた。
 
 従事官・李景稷は、
 「義成は年が14、調興は年が15、ともに口ばしの黄色い小児であった。調興は言語と動作が怜悧で、狡くて、敏捷、義成は愚かで、ぼんやりしていた。島の人たちも、調興がすぐれており、かって江戸で秀忠の寵愛を受けたという。島内のすべての事、および使節一行の接待のことを主管していた」
と、あまりにも若い藩主と重臣の登場に驚いたのであった。
 
 柳川調興は江戸で生まれ、小さいときから家康、秀忠に気に入られ、小姓をつとめていたことがあった。後に、この二人は対立し、お家騒動・「柳川事件」として幕府の裁きを受けることになる。(詳細は後述する)

  記念財団蔵
     徳川秀忠 徳川家記念館所蔵

  8月、京都に着いた使節団は大徳寺に宿泊し、伏見城で來聘行事・国書伝令式が行われた。
 
 新将軍・徳川秀忠は、大阪冬・夏の陣で陣頭指揮をとり、京都伏見城に留まっていた。
 
 2回目の朝鮮通信使の国書伝令式が京都で行われたのは、全国の大名を呼びよせ、朝廷の目の前で徳川幕府の威信と権力を天下に見せつけるためであった。

  伏見城
      伏見城 京都市伏見区

 李景稷は、
 「六十六州の諸将が皆、兵を率いて来会した。使臣の一行がたまたまその時に当たり、威勢を誇る一助になったと秀忠は喜んだ」と記した。

 朝鮮通信使の訪日を利用して、家康亡き後も新将軍のもとに、徳川幕府は盤石であることを国内外に誇示するものであった。

 伏見城は、徳川家康と松雲大師の会談が開かれ、日朝間の国交回復の端緒を開いたゆかりの場所であった。(参照・朝鮮通信使2)

 一方、使節団の主目的である、さらわれてきた朝鮮人(被虜人)の送還(刷還)事業はますます難しくなっていた。

 使節団は、対馬に着いたときから、日本にさらわれてきた同胞の送還を強く求めた。
 
 対馬藩としては、心をつくして努力するが、「年月が経っているので、なかなか難しい」と実情を説明したが、

 使節団は、
 「人の情というものは、故国を懐かしがるものである。以前、刷還したり、あるいは逃げ帰って人は皆、妻を娶った男、嫁入りした女であった。わが国の民が帰国を喜ばない道理があろうか」と述べ、多くの人々が送還されるものと楽観していた。

  大徳寺
    京都大徳寺 朝鮮通信使の宿泊所

 しかし、幕府、対馬藩のはたらきかけや、努力にかかわず被虜人・朝鮮人は集まらず、送還作業ははかどらなかった、
 
 その最大の理由は、朝鮮人をさらってきた支配者たちが、彼らを帰らせない、名乗らせないことにあった。
 
 その他に、
 やっと食えるようになり定住をきめた者、
 日本人と結婚して家族をもち安定した者、
 朝鮮語が使えず日本の習俗に同化した者、
 帰りたいが育ててくれた主人に対する恩義を裏切れない者、
 帰国後の処罰を恐れる者、
 帰るか、留まるか・迷っている者、等々
 送還に応じない理由は様々であった。
 
 20数年の歳月の経過による現実であった。

 李景稷は、
 「捕虜になった全開金〈チョン・ケグム〉がやってきて、身の上話を語ったが、十二,三歳で捕虜になり、朝鮮語は一語も通じず、もはや一人の日本人であった。
 故郷に帰るように、と言いきかせると、
 日本の主人が江戸から帰るのを待って話をしてからでなくては帰れません。と言うので、
 お前の父母とどちらの恩が重いのか、と聞いたが、
 生活が安定している者は、帰国の意思がまったくなかった。
 帰国を望む者は、雇われて苦労している者に限られていた」と述べている。

 幕府は、送還問題については、帰国の意思のある者は妨げないように各大名に通達したが、連絡や船の配備、食糧など一切の実務を対馬藩に任せたのであった。
 
 対馬藩としては極力、力をつくしたが、諸大名は城下に伝達しないか、伝達したとしても形式的に行うなど、藩の対応はおおむね消極的であった。
 
 こうして、釜山出航から三か月後の10月、第2回朝鮮通信使は、321人の同胞を連れて帰国した。(1回目1432人、3回目は146人だった)

  淀川
    朝鮮通信使が往還した現在の淀川

 長い年月の経過は、家族の待つ故郷への距離は遠くなり、望郷の念は薄れ、諦めへと変わっていったのだろう。

 それにしても、秀吉軍の諸大名たちは、一体どれくらいの朝鮮人を拉致連行(捕虜)して来たのだろうか?
 
 なぜ、朝鮮人をさらってくる必要があったか?
 
 どのような人々が連れて来られたのか?等々、 

 次の機会に記してみたい。
                 つづく
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