2018.03.10 朝鮮通信使5
      豊臣秀吉と宗義智

 豊臣秀吉は、戦国時代を勝ち抜き天下人となり、日本の最高権力者として君臨した人物である。

  秀吉
           豊臣秀吉

 一方の宗義智は、秀吉の臣下・対馬藩主として、小さな島 の生き残りに奔走した人物にすぎない。

 あえて、二人を並べた理由は、秀吉が明〈中国〉征服の野望を実現するため朝鮮侵略戦争を強行したのに対し、
 宗義智は朝鮮との信頼関係を維持し、戦争を回避するるために交渉したことである。
 
 明征服の野望に燃える秀吉に対し、抵抗はもちろん誰ひとり 反対の声を上げられなかった当時の状況下で、偽りの国王使を仕立て何とか朝鮮との友好関係を維持しょうと奔走した宗義智についてスポットを当てて見た。

  宗義智
          宗義智

  1587年、九州最大の島津を降伏させたことにより、ほぼ全国統一を果した秀吉は、 対馬藩主宗義調(よししげ)・義智(よしとし)父子に対して、対馬一国を安堵(所領保障)する一方、朝鮮王朝に対して自らのもとに服属・入朝(上洛拝礼 )するよう交渉を命じた。
 
 秀吉は、朝鮮が異民族の国であるという認識がなく、朝鮮国王を国内の戦国大名と同列に見ていたようである。これが秀吉の誤算・野望破綻の始まりであった。
 
 秀吉の命令を受けた宗父子は仰天・狼狽した。命令をそのまま朝鮮に伝えることはできなかった。
 
 朝鮮から200石を得て、貿易を盛んに行い 密接な関係を保ちながら 生きのびてきた宗氏にとって、 朝鮮国王を秀吉に服属・入朝させる使いを出すことは自殺行為につながる。

 しかし、秀吉の命令は絶対的なもであり、背くことは直ちに打ち首、対馬滅亡につながる。
 
 対応に困り果てたあげく、家臣の橘康広を「日本国王使」に仕立てて派遣し、「秀吉が日本の新しい国王になったので、親善の通信使を派遣してほしい」と朝鮮国王に要請しのであった。
 
宗父子は、室町時代から前例がある「通信使」の来日を求めることで秀吉の要求を乗り越えようとしたのであった。

 朝鮮側は、秀吉が王位を簒奪(さんだつ)したものと疑いをもち使節派遣を断った。

 こうしたなかで、宗義調が世を去り、義智(20)があとを継ぎ、小西行長の娘・マリアを妻に迎えた。

 1589年、 朝鮮国王の「入朝」の遅延に腹をたてた秀吉は、宗義智自ら朝鮮に渡って「入朝」を促すよう命じた。また小西行長には、宗氏の朝鮮との交渉を監督するよう命じた。
 
 堺豪商出身のキリシタン大名 ・小西行長は、国際的な事情を良く知るため明・朝鮮侵略は無謀な企てであることを認識していた。
 
 宗義智は、博多の聖福寺の僧・景轍玄蘇を「日本国王使」に仕立て、自分は副使として朝鮮に渡り、「新しい政権に対する 通信使」派遣をねばり強く交渉した。交渉が難行すると、小西行長は博多の豪商・鳥井宗室をおくり、宗義智らを助けた。
 
 朝鮮側は、宗義智の執拗な要請に応え、日本の事情探索も必要とみなし、正使・黄允吉(ファンユンギル)、副使・金誠一(キムソンイル)らを通信使として派遣したのであった。
 
 1590年、秀吉は、京都聚楽第で通信使を引見した。
 朝鮮通信使が持参した国書は、「秀吉の天下統一を祝い、応仁の乱以来途絶えがちだった交隣関係を正したい」という儀礼的な内容であった。

 しかし、秀吉は、これを朝鮮国王が服属し自分の臣下になったものと思いこみ、朝鮮王朝に明征服の先導役を命じたのであった。

 秀吉のとんでもない要求に驚いた宗義智は、通信使の帰国に際し、重臣の柳川調信を同行させて、秀吉の要求は「入明のために道を借りるものだ(仮途入明)」と戦争を避けるための弁明をしたが、朝鮮側は納得しなかった。
 
 1592年、秀吉軍による朝鮮侵略戦争は開始された。
 先鋒を命じられた小西行長は、婿の宗義智に密命を授け水面下で朝鮮側と 和平交渉を行ったと言われているが明らかではない。
 
 日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥落させるが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、苦戦を強いられ進退きわまる中、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされた。

 この戦争によって、朝鮮に数十万人の犠牲者と数百万の人びとに癒しがたい苦痛と惨禍を残した。
 秀吉軍の残虐行為は、長らく朝鮮民衆に深い恨みの感情を抱かせた。

 一方、日本の各地から狩りだされ侵略軍30万の兵士とその家族に癒しがたい犠牲・苦痛を強いたのであった。
 
 中でも、対馬藩は一次、2次合わせて7千人の兵〈15~53歳、島内の男子〉を出し、先陣をきって参戦したため犠牲者が多く、戦後の対馬の人口減少、消耗と疲弊は目を覆うばかりであったと記録されている。
 
 朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となった。
 
 関ヶ原の戦いにおいて、宗義智は義父の小西行長に付いて西軍(石田三成方)に味方して敗れた。捕えられた小西行長は処刑され、一家は離散した。
 
 その災いが自らに及ぶのを避けるため、宗義智は妻マリアと離縁し長崎に逃した。マリアは30歳で亡くなり、対馬厳原八幡宮に祀られている。 

  厳原八幡
       厳原八幡宮 マリアを祀る

  マリア若
      八幡宮前のマリア説明看板

 義智は、家康によってお咎め無しと許され、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられたのであった。
 
 対馬藩の生き残りの道は、朝鮮との和睦・信頼回復すこと以外の選択はなかった。
 
 宗義智は、頑強な対日不信感を抱く朝鮮と忍耐強い交渉をかさねた。
 そして、ついに朝鮮王朝からの使者を迎え、徳川家康と松雲大師 の会談が開かれた。〈朝鮮通信使2・参照)

  アリラン
   厳原港まつり対馬アリラン祭 毎年8月開催
  
 義智は、朝鮮と交隣関係を築き、誠心外交・「朝鮮通信使」の往還を実現させた第一の功労者と言うべきだろう。

 秀吉の朝鮮侵略戦争に狩り出され、数千の島民の犠牲、義父の処刑、妻との離縁、戦後の和平交渉など、波乱に満ちた人生を送った宗義智は、1615年、48歳の生涯を終えた。

 江戸時代の200年間、日朝間に平和外交の礎を築いた宗義智の功を素直に評価したい。
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