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2018.02.11 朝鮮通信使4
        朝鮮半島と対馬2
 
  展望所
      韓国展望所  対馬北端

 15,6世紀の東アジアは比較的に安定していた.
 日本と朝鮮の間に、交隣友好な関係が築かれつつあった。
 15世紀初頭、日・明貿易を開始した足利幕府・足利義満(1358~1408)は、1402年、新しく成立した朝鮮王朝に,はじめて日本国王使を派遣し国交の交渉を行った。

  義満2
        足利義満

  1404年、朝鮮から「回礼使」が派遣されて、倭寇の取締りを要求した。これが契機となり日朝間に国交が結ばれた。
 1428年、朝鮮朝第四代世宗王(1418~1450)は、日本との関係を改善し、善隣友好の関係を築くために、これまでの「回礼使」を改め、「通信使」(誼〈よしみ〉を通わす)を派遣した。これが「朝鮮通信使」の始まりであった。
 朝鮮通信使は、足利義持の死去に対する弔問と足利義教の新将軍襲名を祝賀する名分で派遣された。
 世宗王は、正使・朴瑞生(パクソセン)、副使・李芸(3度目)、書状官・申淑舟 らを派遣するにあたって、日本の社会・文化・技術についての見聞・探索を命じていた。

 *世宗王は、ハングル文字を創製したことで有名である。朝鮮王朝における最高の聖君と評価され、韓国では子供から老人まで幅広い層に尊敬されている国民的英雄である。後年「海東の堯舜」と称され、世宗大王(세종대왕セジョンデワン)と呼ばれている。

  大王像
   ソウル中心街にある 世宗大王像

 申淑舟は帰国してから日本見聞録『海東諸国記』を著わした。この書は、中世の日本と日朝関係史の基本資料の一つとなっている。
 申淑舟は世宗王の信任厚い高官・知識人であった。彼は最後に王に、「願わくは国家日本と和を失うことなかれ」(『増正交隣志』)と遺言を残したという。
 その後、朝鮮通信使が3回派遣され、日本と朝鮮の交流が次第に盛んとなり交隣関係が深まっていた。

 日朝間の交流には、常に対馬宗氏が関与し重要な役割を果たした。。
 この時期、対馬からは多くの使節や交易人が朝鮮に渡り、三浦(サムポ) に停泊するようになった。三浦は現在の慶尚道釜山浦・塩浦・乃而浦を指し、交易のための滞在所であった。その後、そこに長期にわたり滞在する恒居倭(こうきょわ)現れるようになった。
 関周一氏は恒居倭について 、
 「恒居倭の主目的は交易であった。日本からの使節や交易倭船が入港すると、群がって客引きをし、また他の港からも酒を売りにくる者がいた。女は行商をなりわいとし、遊女もいた。男は漁業に従事し、三浦周辺や慶尚道沿岸を漁場にした。朝鮮人とのあいだに頻繁に密貿易を行っていた」(『日朝関係史』 )と述べている。
 富を蓄積する「恒居倭」が現れ、倭人の数が増えつづけた。1494年には、三浦の倭人は合計3105人、525戸に達したと記されている。
 宗貞盛は、三浦の各浦に「倭酋」を配し、三浦代官を派遣して「恒居倭」全体を統括した。対馬は、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点として栄えた。

  しかし、「恒居倭」が増えつづけると三浦内に留まらず、制限領域を超え半島南岸に進出するようになった。ついには海賊行為をする倭人が現れ、朝鮮の船とのトラブルも続出した、
 朝鮮朝は厳格に対処するようになり、「恒居倭」の特権の一部をはく奪し貿易を制限した。不満を募らせた「恒居倭」は結集して、代官と組んで蜂起(三浦の乱)した。
 朝鮮軍によって反乱軍は鎮圧され、全ての「恒居倭」は対馬に送還された、貿易は一時途絶した。
 1512年、対馬島主宗盛順の努力により、朝鮮朝と条約が結ばれ通行が再開された。しかし、歳遺船は25隻に、歳賜米は100石に半減、「恒居倭」は廃止された。開港は釜山だけに制限され宗氏の権益は大幅に削減縮小された。 
 対馬島民は、長期滞在する留館倭人として、かろうじて釜山の倭館に 留まることが許された。

 日本国内は、応仁の乱(1467~77)後、約一世紀の間 群雄割拠の戦国時代を経て、織田信長・豊臣秀吉による全国統一、安土桃山時代(1568~98)へと移行した。
 この間、日本各地には一揆(武士、農民が結集して、年貢や賦役の減免など求め蜂起)が頻繁に起り、山陰、九州沿岸から出た倭寇(後期倭寇)が、朝鮮半島沿岸に出没するようになった。
 宗氏は、朝鮮との関係を維持し交易を拡大するために、倭寇取締りに積極的に取りくんだ。
 まず、横行する倭寇・海賊船の情報を朝鮮側に通報した。
 そしてまた、倭寇に拉致された朝鮮人・漂着した朝鮮人を無事送還して誠意を示した。
 宗氏は、朝鮮王朝の歓心を引くため日本国王使に仕立てられた「偽史」を派遣、朝鮮宛ての文章(朝鮮では書契)までも偽造、改ざんしたものを使者にもたせたのであった。
 
 こうした宗氏の「努力」は、朝鮮との交易の拡大、通行権益を増加させたのであった。
 『朝鮮王朝実録』に足利政権は60余回の日本国王使をソウル(漢城)に派遣したことが記録されている。その中にかなりの「偽使」が含まれていたと考えられる。
 正式な日本国王使であれ「偽使」であれ、全て対馬がその仲介役をはたしたのであった。
  朝鮮に渡航する者は、対馬に立ち寄り、宗氏から文引(印・渡航証明書)を入手しなければならなかった。もちろん宗氏は手数料を取り自らの財源とした。
 
 *宗家旧蔵資料「九州国立博物館所蔵」の中には、朝鮮王朝から銅製の図書(印)が24個あり、他に偽造された「朝鮮国王印」、「足利将軍印」などの木印が残されている。

    DSC_4340.jpg
        九州国立博物館所蔵
 
 「偽使」の多くの場合、将軍周辺の実力者や有力守護大名、はては京都五山などの寺僧が堺商人、博多商人等の資金や援護のもとに渡海していた。
 なぜ、大名や僧侶が商人と組んで「日本国王使」として渡海するようになったのか?
 仲尾宏氏は
 「それは『国王使』に対する朝鮮朝廷厚遇と回賜品を期待してのことである。たとえば、1489年に恵仁という僧侶が遣わされた時は、将軍側近の相国寺当主も知らないうちに、『堺の者』と伏見の般船三昧院が仕立てた使者が『国王使』となって漢城(ソウル)へ行き、大蔵経と布貨を求めていた」(『朝鮮通信使』)と述べている。
 
 朝鮮側では倭寇対策の一環として、渡航船に対して対馬島主の「分引」の携帯を義務ずけた。貿易に従事する対馬人のみに、釜山の他に2ヶ所の居留地・倭館設置を許可した。
 また、朝鮮王朝は対馬島主や家臣に官位を与え、対馬領主、領民に蔵賜米を支給した。
 対馬宗氏は、一年一回、朝鮮国王に服属する儀礼を釜山の東莱府で行い忠誠心を表明していた。
 対馬島主は、日本(室町幕府)と朝鮮両国に服属し、両国の臣下として振舞っていたのである。現代社会では考えられない「処世術」であろう。
 対馬としては、領主・領民が朝鮮との交易に頼り、生き抜くためのやむを得ない術策であっだ。
 
 朝鮮側としても 、倭寇対策や日本との交隣関係を維持のために、対馬を特別に優遇し、彼らを手なずけ従がわせる「羈縻(きび)政策」を採らざるを得なかったのである 。

  展望台
     釜山の夜景 対馬北端展望台

 こうして、お互いの利害関係を調整しながら、朝鮮ー対馬ー日本間の交流・交易が営々と築かれていた。
 16世紀末、このような平和的な交隣関係・善隣の絆も、一朝にして破壊してしまったのが豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争であった。
          つづく
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