2018.02.04 朝鮮通信使3
       朝鮮半島と対島1

  対馬地図
     日朝間の交通路の要衝 対馬

  善隣友好の使節・朝鮮通信使は、全て対馬を通して行われた。
 朝鮮と対馬は,歴史的に密接な関係にあったことを順を追って記してみる。
 対馬は、朝鮮半島南端と北九州の中間に横たわる国境の島である。
 対馬は、南北2つの島と100近い属島からなり、南北82キロ、東西18キロからなる日本の北西端に位置している。
 釜山から約50キロの距離にあり、南北に長く、車で3時間もあれば縦断できるという。
 島全体が切り立った山々が連なり森林に覆われている。
  司馬遼太郎は『街道をゆく』で、
「まことに対馬は海国であるということが概念にすぎないのではなかとおもわれてくるほどに山また山である。まれに道路の右側に海が隠顕したりすると、ほっとする。まことに『魏志』倭人伝に、
  ”山険しく、深林多く、道路は
  禽鹿(きんろく)の径(こみち)のごとし”
と書かれている三世紀の姿は、こんにちこの南北縦貫道路をのぞいてはすこしもかわらない。山は、樹々を肥らせようもない岩山で、どの木も痩せている」と述べている。
 また、室町時代、朝鮮王朝(李朝)の使節として来日した申淑舟(シン・スクチュウ)は『海東諸国記』の中で、
 「対馬の四面はみな石山ばかりで、土は痩せて民は貧しく、島民は、製塩、漁業、交易を生業としている」と述べている。

  キャプチャ
    対馬のど真ん中 浅芽湾
 
 耕地面積が少ない対馬では製塩、漁業の他に交易を拡大をしななければ生きのびることが難しい島であった。したがって、対馬の 交易は島の浮沈・島民の死活にかかわる問題であった。

 古より対馬は、朝鮮半島と日本列島をを結ぶ航路の要衝となっていた。
 朝鮮半島と対馬の交流は縄文時代から始まっていたことが、遺跡から明らかになっている。
 古代、対馬は大陸、朝鮮と日本を結ぶ海上交通の要衝として文物・人の往来に重要な役割をはたした。
 朝鮮からの渡来人は、対馬を経由して大和に先進文化を運んだ。島のあちこちに渡来文化の足跡・遺跡が残されていることは、それを物語っている。

  対馬図1
  「日本国対馬嶋図」 辛淑舟 1471年
 
 しかし、対馬の地理的条件は、平穏な交易・交流の要衝だけではなかった。
 大陸・朝鮮半島からの日本への襲来・侵略に対しては、最初の攻撃対象となり、日本列島内では考えられない多大な被害を被った、
 一方、日本からの大陸・朝鮮への侵略戦争では、対馬は常に前線基地となり、重い負担と、計り知れない犠牲を強いられた。
 そのため、紛争や戦争が起こるたびに、対馬は初期段階から大きな被害を被った。
 記録に残された紛争、戦争を二つとり上げて見る。
 
 その一つは、1019年、沿海州の伊刀(女真族といわれる)が対馬・壱岐を襲来して略奪行為をはたらき、多くの島民を拉致した。このとき、高麗王朝は引き上げ途中の伊刀を撃退し、日本人2百余人を救出し送り返したという。
 2つ目は、1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)の2度の蒙古の襲来(元寇)である。蒙古軍は、渋る高麗を引き入れ博多沿岸に攻め込んできた。この時は、季節風・神風によって蒙古と高麗の船がことごとく沈み、日本は救われた。しかし、対馬はその前に、蒙古軍の攻撃に晒され甚大な被害を被っていた。

 また、対馬の生産力の低い状態は、島民をしばしば飢餓に追いやった。飢餓は倭寇(海賊行為をする倭人)を生んだ。
 14世紀後半、朝鮮半島南西沿岸、中国大陸沿岸で倭寇が猛威をふるい、陸地奥深く侵入して食糧・財貨の略奪・放火・拉致を繰り返した。
 『高麗史』に「倭寇は、慶尚道・全裸道の港を頻繁に襲撃し、租税を運ぶ漕船や営という役所を襲った」と記している。
 1389年、倭寇の海賊行為に手をやいた高麗王朝は、朴威(パギ)が指揮する高麗軍を出動させて対馬、壱岐を攻撃し、倭寇の巣窟を壊滅させたという。
 対馬側では、この時の戦闘では対馬の軍民が高麗軍を撃退したという。
 壊滅にしろ、撃退にしろ高麗・対馬双方に多くの犠牲者を出し、戦場となった対馬の被害は甚大であったことだけは事実であろう。
 1392年、倭寇が遠因となり弱体化した高麗王朝(918~1392) は、高麗軍の将・李成桂(ㇼ・ソンゲ)によって滅亡した。
 新しく朝鮮半島に朝鮮王朝(1392~1910)が成立した。
 偶然にも同じ1392年 、日本では南北朝が統合し、足利政権が名実ともに将軍家として王権を確立したのであった。
 この時期、中国大陸でもモンゴル族が支配していた元王朝が滅び、漢民族による明王朝(1368)が成立していた。
 14世紀後半、東アジアは大きく勢力が交代・変動した時期であった。

 この時期、対馬を支配していたのは宗氏であった、宗氏の始祖・惟宗重尚(これむねしげひさ)は朝鮮系渡来人・秦氏の子孫である。
 平安時代に朝廷から、秦公直本ら19名が「惟宗」という姓を賜った.その一人が惟宗重尚とされている。
 それまで対馬は大宰府に属し、在庁官人・阿比留国時(あひるくにとき)が支配していた。その阿比留国時が太宰府にそむいて威勢をふるったので、太宰府の命を受けた惟宗重尚がこれをを討ちはたした。
 その功績のより、重尚は室町幕府から対馬国守護に任じられた。そして姓名「惟」の一字を除き宗(そう)と改名した。朝鮮や中国との交易を便利にするためと考えられる。
 
  対馬五代島主宗経茂(つねしげ)は、高麗滅亡後、朝鮮との関係を修復するため倭寇の取締を強化した。
 新しく成立した李成桂の朝鮮にとって、宗氏の倭寇取締りは好都合であった。対馬の宗氏は頻繁に使節を派遣して朝鮮朝と信頼関係を築いた。  
 朝鮮は倭寇を取り締まる見返りとして、宗氏とその家臣らに官職を与え、毎年、歳賜米として米豆200石を贈ることにしたのであった。

  釜山
   海の玄関口・プサン(釜山)市の風景

 1443年、宗氏九代貞盛(さだもり)は、朝鮮と条約を結び、歳遺船50隻の派遣を許可された。
 宗氏は歳遺船の権利を家臣や島民にも与えて運用させ、島内支配の基盤を着々と固めた。
 また、宗氏は西国の各地沿岸に漂着した朝鮮人を、大名、武士らを説得して朝鮮に送還した。朝鮮国王からお礼として莫大な回賜品(おみやげ)を得たのであった。

  厳原
    対馬の中心港 現在の厳原

 宗氏は、朝鮮と西国の領主、商人との交易交渉の仲介役をはたし、西国大名の中でも中核的な位置を占めるようになった。
          つづく
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