2018.01.15 朝鮮通信使2
  徳川家康と松雲大師の会談

 16世紀、戦国時代を勝ち抜き天下人となった豊臣秀吉は、自身の妄想ともいえる野望を実現するため、30万の兵を動員して朝鮮侵略戦争(壬辰倭乱=文禄・慶長の役1592~98年)を開始した。
 不意打ち的に攻撃した当初は、朝鮮全域を侵略し得たが、明の援軍と朝鮮の官民挙げて抗戦によって朝鮮半島南端にまで撃退された。
 講和交渉の休戦を挟んで再び継続された侵略戦争は、秀吉が死去(1598年)したことで講和がないまま終結した。
 
 1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、ただちに対馬藩に対し、朝鮮との講和・和平交渉を開始するよう命じた。

  家康
      徳川家康

 朝鮮では豊臣秀吉軍の侵略・残虐行為により、恨みつらつが全土に深く根をおろし、対日不信感はきびしいままであった。
 一方的に壊された信頼関係を修復するのは容易なことではなかった。日本と朝鮮の間には、厚い氷が張りつめたような冷たい関係がつづいていた。
  このような状況を打開するために、対馬藩主宗義智(そうよしとし)は、藩の命運をかけて朝鮮との交渉にあたった。くり返し、くり返し使者を送り、粘りつよい和平交渉をつづけた。
 この頃、朝鮮の北方では、女真族ヌルハチの勢力が急速に拡張し南下の兆しを見せていた。そのため、朝鮮朝廷は、半島南方の安定化をはかるため、講和を望む日本と新しい関係を築く必要に迫られていた。

 やむを得ず重い腰をあげた朝鮮朝は、まず日本の国情を探る「探賊使」(敵情視察のための使者)を「書簡」を添えたて派遣したのであった。
 派遣されて来たのは民間人の僧松雲大師維政(ソンウンテサユジョン)と随員孫文彧(ソンムンイク)、通訳の朴大根ら一行であった。

    松雲大師
       松雲大師維政

  松雲大師(1544~1610)は、13才で名僧西山大使の直弟子となり、18才で科挙僧科に合格。妙香山で修行をつづけた。
 彼は、秀吉侵略軍によって領土の奥深くまで侵され、滅亡に危機に瀕した祖国を救うため西山大師と共に起ち上がった。彼は義僧兵を指揮して平壌(ピョンヤン)・漢陽(ソウル)奪還戦において戦功をあげ、名を馳せた人物であった。
 彼は、休戦中、釜山の東方にあった倭城に籠城中の加藤清正陣営を訪れ、朝鮮の頭越しにの行われていた明と日本側の講和交渉を批判し、秀吉軍の撤兵を要求する談判を繰り広げ、敵情の探索もやり遂げた。3回の訪問を通じて加藤恭正は松雲大師に「貴国では貴方だけが偽りがなく、他の人は信用できない」 と言わしめたという。
 朝鮮朝廷が民間人の松雲大師を派遣した理由は、日本の正式な謝罪がない段階での公式使節の派遣はできなかった。そして日本と何らかの行き違いが生じた場合を考慮した民間人起用あった。
 松雲大師は、日本軍の武将(倭将)の間で知名度があった。彼は漢詩文にも堪能で、日本の外交僧らと交渉しうる適任者として選ばれたのだろう。
 対馬に着いた松雲大師ら一行は、宗義智の案内で京都に向かった。
 
 1605年(慶長10年)2月20日
 徳川家康と朝鮮国(李朝)の使者・松雲大師と会談が伏見城で行われた。
 家康の接伴役の執政本田正信、僧西笑承兌(セイショウヨウタイ)の2人が陪席した。
 朝鮮側は松雲大師一人であったとされている。

 伏見城
       京都 伏見城

 会談では、豊臣秀吉が起こした朝鮮侵略戦争(壬辰倭乱=文禄・慶長の役)の戦後処理の問題、とくに、拉致(捕虜)されてきた朝鮮人の帰国問題、不信の解消と再侵略の疑念を払拭する等の問題が話しあわれた。
 家康は、「私は壬辰(1592年、秀吉の侵略戦争)のとき、関東にあり、したがって兵事に関係していない。朝鮮と私の間には讐怨(あだやうらみ)はない」(松浦允仁『朝鮮通行大紀』)と話した。
 家康はまた、自分はただ誠心をもって両国の友誼を望むものであると力説した。
 朝鮮では、豊臣氏を平氏側で、秀吉一族を平賊と呼び敵視していたこともあって、日本の権力者となった源氏側の家康の動向が気になっていた。
 松雲大師は、侵略戦争の折、家康自身は江戸に居て、わが軍は一兵たりとも参加していないという説明と、修好を早く実現したいとの家康の誠意ある姿勢に深く感じ入ったものと思われる。
 
 「探賊使」の使命は、日本の事情を知ること、とくに再侵略の意図を探ることであった。
 松雲大師は、日本の支配者である家康から再侵略の意思がないことを直接確認し、最も懸念された問題が解決したことに安堵したのであった。
 会談は和やかに進み、幾つもの懸案が円満に処理された。
 
 この日の会談は、日朝双方にとって満足するものであったと記録されている。
 徳川家康にとって会談は、関ヶ原戦の勝利・征夷大将軍叙任に継ぐ、三つ目の外交上の大成果であった。
 会談を通して徳川家康は、自らの権威を高め、徳川政権はゆるぎない盤石であることを内外に示すことが出来たのである。
 
 徳川家康と松雲大師の会談は、日本と朝鮮の信頼関係回復するきっかけとなった。その後、日朝間の善隣友好の誠心外交・「朝鮮通信使」開始され、12回の通信使の往還が行われ、江戸時代の260年間戦争のない平和がつづいた。
 また、その間、東アジアの平和が保たれたことを考え合わせると、「家康ー大師会談」は、歴史的な会談であり、国際的にも意義ある会談であったと言えよう。

 松雲大師一行は、家康の迅速な処置により、 拉致されていた朝鮮人1390人を連れて帰国した。
 家康は、外交交渉の功績により対馬藩に800石の加増を与え、参勤交代の江戸参府3年に1度とする軽減を許した。
            つづく
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