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                玉川上水の由来
   命の水、
  玉川上水は多摩川の水を江戸住民に飲料水として
  給水するために掘られた人工の川・上水道である。
  まさに、江戸庶民の命の水であった。

  玉川上水は、昨今使われている重機械も、トラックのような運搬手段もなかった時代、
  羽村から四谷大木戸までの43KM、マラソンとほぼ同じ距離を、
  稚拙な道具で開削工事・露天掘りで掘り進み、給水まで約1年2か月間で造られた。
       
       
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              玉川上水の流れ 駅付近 

  なぜ、誰によって玉川上水が掘られたか?
  
  なぜ、多摩川でなく玉川上水の名が付いたのか?
 
 徳川幕府が開かれると、江戸城を中心に町は拡大し、
 江戸市中は地方各藩の武士をはじめ、全国から大工、土木職人、商人、浪人等の
 あらゆる階層の人々で膨れ上がった。
      
 人口の爆発的な増加は江戸市中に深刻な水問題・飲料水不足をもたらした。
 下町では水をめぐるトラブルが頻繁に起き、汚水を飲み病気となる町民が多発していた。
水にまつわる悲劇もあとをを絶たなかった。
     
 幕府は水不足を解消するために多摩川から上水を引く計画を立て、資金として6000両を投入
 老中で川越藩主の松平信綱を工事総奉行に、伊奈忠治を水道奉行に任命し、
 庄右衛門・清右衛門兄弟に工事を請け負わせ施工を開始した。
 (庄右衛門・清右衛門の兄弟は多摩川沿いの農家出身であるらしいが、生年や、
  土木工事の経験や工法・技術力について、農民出身の兄弟がどうして
  大事業を請け負うことになったか等不明なことが多い)

 1653年4月から開削工事を開始したが、工事は困難を極め、
 2度の失敗があった。(1回目は日野取水口、2回目は福生取水口)
 また、工事費がかさみ高井戸まで掘ったところで、幕府からの資金も底をつき、
 工事は進退窮まる状態に陥った。
 庄右衛門・清右衛門兄弟は家を売って費用に充て工事を続行した。
 こうして、半年後の11月、多摩川の水が羽村の取入口から下流の四谷大木戸まで
 標高差100M、全長43KMの上水道が開通した。

 上水道が開通すると、翌年4月から江戸市中の広範囲な地域に命の水・飲料水が供給された。
 命の水・飲料水の給水に江戸庶民はどんなに喜んだだろう。
 まさに、上水道の開通は歴史的事業・水道工事の大成功であった
 その後、上水は途中、野火止用水をはじめ多くの分水路を開削して農地の開発に利用された。
 武蔵野の広範囲の台地が潤い、農産物の生産高も上がった
 庄右衛門・清右衛門兄弟はこの功績により玉川姓を許され、また上水の管理責任を任され世襲した。
 こうして上水に玉川兄弟の姓が冠せられ、玉川上水の名が生まれた。
     
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              玉川兄弟の像  羽村堰

 兄弟の墓所は台東区の聖徳寺にあり、羽村の取水口に玉川兄弟の銅像が建てられている。
 参考 杉本苑子著、小説『玉川兄弟上・下』(講談社)がある。 


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