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   徳川綱吉と通信使

  
5代将軍徳川綱吉は、「生類憐みの令」という極端な動物愛護のお触れを出し、人間より犬を大事にして人々を困らせたことから「犬公方」と呼ばれ、歴代 将軍 の中でとくに評判がよくない。

 しかし、彼が好学の君子であったことについては、あまり知られていないよう思われる。

 綱吉は、戦国時代からつづく殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。

  綱吉
         徳川綱吉     

 彼は学問を奨励し、 学問の中心として儒学の殿堂・湯島聖堂 (後の昌平坂学問所) を建立した。林信篤 (林羅山の孫、参照・朝鮮通信使25) を聖堂の大学頭に命じた。大学頭は儒教大学の学長である。

  こうして、湯島 聖堂は名実ともに幕府公認の教育機関としての地位を確立し、 江戸時代の 儒学は、制度的に仏教から自立した 。

 また綱吉は、林信篤、人見友元ら儒者を招き経書の講釈や討論をさせ、自らも『論語』、『孟子』を家臣に講議するほどの学問好きであった。

 この時期の綱吉の治世を「天和の治」と云い、厳正な政治を行ったとして、日本史学者の肯定的な評価をうけているが、後半の「犬公方」の悪評だけが歴史に深く刻まれたようである。

  歴代将軍が 朝鮮通信使の往来に対し、政治、貿易等の善隣友好の 外交関係を重視したのに対し、 綱吉は 通信使との学問・儒学や文化の交流に重きを置いた。

 綱吉は、 7次 朝鮮通信使が江戸に到着する直前に、新たに加賀藩の侍講であった木下順庵をはじめ門下の柳順剛らと、 大老堀田正俊に仕えていた新井白石を招聘した。彼らは当時の日本を代表する多士済々の賢人たちであった。
 
 その人材登用は、おそらく通信使らと筆談唱和に参加する日本側の儒者として、林や人見の力量不足を補うための処置であったと思われる。

 幕府は、儒者や文士に「使節に対して詩作と贈答を請うに際し、古来の諸説や疑問点を尋ねたり、風雅を詩に表現することはよいが、自分の学説をひけらかすために異国を詰問したり、相手方をあざける筆談は体面を損ないかねないので、控えてほしい」との旨を伝えていた。
 幕府は、通信使に敬意をはらい、使節員らとの交流に支障がないよう気配りしたのであった。

 1682年8月、朝鮮通信使が江戸に到着し、本誓寺に19日間逗留した。

   キャプチャ
      朝鮮通信使 江戸到着

 木下順庵をはじめ、儒学者、文人、僧侶ら諸賢人が、入れ替わり立ち替わり宿舎を訪れ使節員と筆談唱和した。

 訳官の金指南は、「わが国の文献の名は、もとより日東人(日本人)の耳目に知られ、詩を求め、書を要請してくるので行く先々で耐えられなかった。官舎に到ると、その国の執政(老中)から馬の世話をする召使いの日東人、また儒者や僧侶の好事家 に至るまで、紙、硯、墨を持ってきて、ねんごろに求めた」(『東槎録』)と書いている。
 
 使節員が相手した多くは、木下順庵の門人であった。 順庵の名声は朝鮮に伝えられた。

  木下順庵は、姜抗(カン・ハン)との交流で日本儒学の祖となった藤原惺窩(参照・朝鮮通信使14)の弟子松永尺五に儒学を学んだ。

   木下順庵
         木下順庵
 
 新井白石は、使節の製述官(漢学訳官)・成腕(ソン・ワン)、書記の洪世泰(ホン・セテ)を訪ね筆談唱和し、彼の処女作『陶情詩集』に、序文と跋文を書いてもらった。

  白石は、これがきっかけになって順庵門下生となり、その後幕政を司る地位まで出世し、8次朝鮮通信使を迎えることになる。(白石について詳細は次の機会にしたい)

 副将軍水戸光圀、筑前の書僧貝原益軒、俳句・和歌の大家北村季吟等、当時の有名人が 使節員を訪ね筆談唱和したことが記録されている。
 
 7次朝鮮通信使は、日本文士との交流を担当する製述官(通訳)を増員し、漢方医の良医、書芸の写字官などを一行に加え、文化交流に比重をおいた編成であった。
 
 綱吉の学問奨励や文化政策は、 通信使を迎えて、閉鎖された江戸時代の人々に異文化に対する興味と歓心を呼び起こしたのであった。
 
 朝鮮通信使一行は、立ち寄る各地で地元の人々と詩や儒学の筆談唱和し、書、画、音楽、舞踊等を披露した。その時の書や画が今も各地に残されている。
 
  DSC_5038.jpg
      朝鮮通信使 行列の一部
 
 綱吉時代の朝鮮通信使の江戸往還時、日朝間の学問と文化交流がより盛んに行われるようになった。

  綱吉に対し、 「犬公方」の悪評だけでなく、「学問の君」くらいの名を付けて、再評価したい思いである。
       つづく
   富士山と夕日と雲15

 2018年も残りわずかになった。
 歳月の流れが早いことを
 ”走馬灯”に 例えることがあるが、
 最近は”走馬灯”を見かけないので、
 この表現には実感がわかない。
 そこで、思い出したのが、
 ”光陰矢のごとし、学成り難し”である。
 ブログの更新記事を書きながら、
 いつも実感する言葉である。
 「富士山と夕日と雲」シリーズも
 早や15回目となった。
 最近撮った画像10枚を使って、
 ストーリー風に編集して見ました。
 ご覧ください。



 継続は力だと言われる、
 いつまでつづけられるか、
 ”命ある限り”と思っているのだが?
     第7次朝鮮通信使往還
      対馬における馬上才

 朝鮮通信使は、日朝間の親善友好のための外交・文化交流の使節団である。
 使節団の江戸往還は、日本と朝鮮双方の信頼を築き、両国民がお互いの文化を認識し、学問、芸術の交流の輪を広げる絶好の機会となった。
 
 朝鮮通信使の江戸往還は、その 招聘交渉から 無事に帰国の途につくまで、すべて対馬藩の責任のもとに行われた。対馬藩の負担と苦労は大変なものであったと思われる。

 1680年、徳川家将軍家綱が39歳で亡くなり、弟の綱吉が34歳で5代将軍に就任した。
 対馬藩の招聘に応じて朝鮮国は、将軍綱吉就任を祝賀する第7次朝鮮通信使の派遣を 決定した。

 1682年6月、三使をはじめ473人の使節団一行は、釜山を出港し対馬府中(厳原)に到着した。
 
 通信使を出迎えた対馬の対応は従来と異なっていた。
 
 それまでは、 使節員の上陸を真心を尽くして尊敬する対応であったが、今回は上陸するや、島主・宗義真から使節員の「礼儀と規律を守り身だしなみ正すよう」の要請があった。

 それを聞いた使節団は、対馬が高圧的な態度に変わったと受けとめ「対馬は傲慢で無礼だ」と怒りを露わにして騒動となった。

 対馬藩としては、過去6回の 使節団の案内役を務めた経験と、また経済的繁栄により藩の格式が向上したことで、通信使に対しても堂々と「言うべきことを言う」自らの主張をはっきりさせたにすぎなかった。

 前回までの使節員の中には、上国人たる態度を見せるため対馬人を無視するさまざまな目にあまる無礼な行いをする者がいた。そのため島人と使節員のトラブや・いざこざが絶えなかった。

 訳官の 洪寓載は自分たちに責任があるとし、「わが一行の中で、下の輩がお触れを守らず、倭人といざこざを起こすことがあった、その責任はわが方にあるので、至極残念である」(『東搓録』)と書いている。
  正使はじめ上官らは、使節員の無礼やトラブルを起こしたことの是非を冷静に判断していたようである。

 対馬では、 対朝鮮貿易は島の死活に関わることで、 通信使一行を賓客として礼遇していたため、多少の無礼があっても言わなかったのである。

 こうした、ぎくしゃくした関係の中で、馬上才(参照・朝鮮通信使19)の公演が行われた。
 
 前回までは、 馬上才は 、将軍に見せるものであり、島主に先に見せることは出来ないと拒んだが、今回は対馬の要望にこたえたのである。
 馬上才は、立乗り、乗り下り、鐙乗り、逆乗りなどの妙技がつぎつぎにくり広げられた。
 
  馬上1
   画像『大系朝鮮通信』辛基秀、仲尾宏編より引用

 島主はじめ重臣やその家族,藩士、商人、庶民ら大観衆が観覧した。馬上で広がられた曲芸に驚きと感嘆、拍手喝采する人々の姿が思い浮かぶ。

 馬上才の公演を通して対馬と通信使一行は、お互いの立場を理解し、友好関係を深めたようである。
 
 その後も江戸往還の長い道中、案内・警護・他藩との 接待交渉等の過程で、対馬藩士と使節員の間で、大小さまざまなトラブルや論争があったことが想像される。

 通信使の任務を無事果たすことに利害が一致する対馬と使節員一行、それらのトラブルを克服しながら、対馬藩が先導する朝鮮通信使の大行列の旅がつづけられたのであろう。
      つづく

 
   東大和南公園の銀杏   

 東大和南公園の入り口付近に一本の
 銀杏(いちょう)の木が立っている。
 広い公園内で、銀杏の木はこの一本のみである。
 昨年は、この銀杏が色づきはじめてから、
 黄金色に輝き、散る頃まで、
 8枚をパラパラ画像で紹介した。
  今回は、年初からこの銀杏にこだわり、
 撮りつづけた画像の中から、
 12枚をストーリー風に編集してみた。
 ご覧ください、

   

根気強くやれば、
何かが生まれるかと頑張って編集しているが、
なかなか思うようにはいかないものである。