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         朝鮮燕行使

   景福宮2
           景福宮 ソウル

 江戸時代、朝鮮は日本に通信使を送っていたが、一方で清国の北京(燕京)には燕行使(ヨネンサ)を派遣することになった。
 
 燕行使とは、朝鮮国の漢城(ソウル)と清国の都・燕京(北京)を往来する朝貢使節団のことである。

 1636年、女真族の後金=清の太宗は、10万の騎馬軍団率いて「崇明排清」(明を慕い清を嫌う)態度をとりつづける朝鮮に侵攻した。
 朝鮮国王・仁祖は、臣僚たち1万2千と漢江南の南漢山城に籠城(50日)して戦ったが、力尽き太宗の軍門に降だり、屈辱の城下の盟・臣従を誓わされ、王子二人は瀋陽に連行された。(丙子胡乱)
 
 第4次朝鮮通信使一行は、帰国直前の対馬おいて、釜山からの急報でその消息を知らされた。使節団全員、一晩中泣き明かしたという。

 1644年、清軍が北京に入城して、凡そ300年続いた明が滅び、中国王朝が交替した。

 1592年、豊臣秀吉軍の朝鮮侵略戦争以来、明・清の王朝交代に至る半世紀余りの間、東アジアは激動期であった。

 朝鮮は、この激動の試練をのり越えて、日本と交隣外交、清と事大外交を確立したのであった。

 朝鮮王が、清皇帝に臣礼をとる燕行使(ヨンヘンサ)の正使は、日本への通信使より位の高い者が当てられた。
 
 毎年、4回の燕行使と臨時送使派遣の儀礼に、清からの「回賜」の形式による定期的な一種の民間貿易が行われた。

 頻繁な燕行使のソウル=北京の陸路往来は、次第に朝鮮・清両国間の人的および物的交流の太いパイプとなっていった。

  鴨緑江
    鴨緑江 朝鮮ー中国の国境を流れる

  ソウルを出発した燕行使は、義州で鴨緑江を超え鳳凰城柵門で入国手続きをした。

  山海関
       万里の長城 山海関付近

 そこからさらに北上し盛京(瀋陽)に至り、万里の長城の東端にある山海関の方向に南下して、広寧、山海関、蘇州、通州を経て北京に着いた。往復にほぼ半年の行程である。

  天安門
        天安門  北京
 
 燕行使の往来には、民間人の湾商(マンサン・義州商人)、柳商(ユサン・平壌商人)、松商(ソンサン・開城商人)などが同行して、鳳凰城柵門では両国商人の国境貿易が開かれた。
 国境貿易は鳳凰城のほかに、豆満江沿岸で行われた会寧(ヘリョン)開市、慶源(キョンウオン)開市などがあった。

 北京には朝鮮のほか、西域、東南アジアからの珍しい朝貢品が集散し、朝鮮にとって世界に開かれた窓口となっていた。

 朝鮮が漢訳西洋書や世界地図を入手したのも、北京に往来した燕行使によるものであったと言われる。

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    朝鮮燕行使 ソウルー北京間ルート 

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       朝鮮通信使 ソウルー江戸間ルート

 ソウルから清国の北京に通じる燕行使の道と日本の江戸に通じる通信使の道は、相互間の人的および物的交流の道となり、朝鮮半島を挟んで清国と日本両国の関係を安定化させる道程となっていた。

 朝鮮の清国との事大外交、日本との交隣外交は、近代に至るまで東アジア三国の平和維持に寄与したと言えるのではなかろうか。
   つづく 

    猛暑から秋へ

 9月も下旬となり、
 朝夕、涼しくなり長袖が必要になった、
 猛暑がつづいたことが、ウソだったかのように
 スッカリ秋の季節に変わった。
 その間、撮った画像をストーリー風にまとめてみた、
 ご覧ください。



 春夏秋冬・季節が変わるごとに、、
 高齢者には体力の衰退を実感する。
        今切川事件

  浜名湖
          浜名湖の風景

 この事件は、第4次朝鮮通信使の帰国の途上で起きた。
 
使節らが、浜名湖付近の湖口・今切川(金絶河)川の浅瀬に銀子(お金)を投げ捨てるという事件を起こしたのである。

  浜松市
       浜名湖付近の地図
 
 なぜ、お金を投げ捨てたのか?

 朝鮮通信使・使節団が、江戸における任務を終えたとき、宿泊所の本誓寺には幕府から振る舞われた、米530俵をはじめ酒、餅、醤油等の食糧・食材が大量に余った。
 それを雑用してくれた人々に、全て分け与えて江戸を出発したのであるが、使節団一行が三島に着いたころ、江戸から銀子千両(推定約1億円)が送られて来た。
 接待役責任者であった安藤重長から「使臣たちが置いていった米のことを関白(将軍家光)に申し上げたところ、関白は銀子に換えて追送するように指示があった」ことを伝えてきた。

 儒教国の両班(官僚貴族)出身の使節たちにとって、金や財・物欲がないという体面が大事なことであるため、銀子をそのまま受け取って帰るわけにはいかなかった。
 また、朝鮮通信使は、聘礼外交を前提としたので、使節員がもらうお礼の品とお土産も形式にとどめたいた。
 
 ところが、日本側の礼は、財・金品でもって表す慣習があり、使節らはその都度断っていたのであった。

 しかし、この時はわざわざ金品に換えて贈ってくれた幕府の善意を考えると、その銀子を送り返すわけにもゆかず、また随行員に配れば銀子を受けとったことになるし、対馬藩主・宗義成に受け取るように勧めたが、義成は幕府のとがめを恐れ受け取らなかった。

  img083.jpg
      
  行列1
       朝鮮通信使行列図

 使節たちは、この銀子をどうすべきか悩み協議をかさねた結果、浜名湖の湖口付近の今切川に捨てることにしたのであった。
 
 使節たちは、川の浅瀬に銀子を捨てるとき、対馬人が見ていることを感じていた。
 対馬藩士たちは、川の中に投げた銀子をそのままにして素通りすることが出来ず、銀子を拾い上げ対馬まで運んだ。

 使節たちは、このようにすれば幕府の面目もたち、自分たちの体面も損なわず、通信使往還で苦労した対馬人の利益にもなる。3者が満足のいく解決法だと考えたのであろう。
  
 この時代の一種の外交的パフォーマンスであったと思われる。
 
 そして、対馬に到着したとき、銀子千両をめぐって、使節団と対馬側の間で、受けとれ、受けとれないの押し問答を繰り返し、結局、折半することになった。

 使節団がソウルに帰り、復命の報告を受けた朝廷では、使節団の行為に賛否両論があったが、16代朝鮮王・仁祖が、「その金を北方の防衛費に使うように」と王命を下し、事件は一件落着したのであった。 

   仁祖王
       韓国ドラマに登場した仁祖王

 その後、この事件は朝鮮通信使の良い前例となり、使節が今切川を渡るごとに、この事件を伝説のごとく「今切川」・「金絶河」と名ずけて自慢したという。
 「今切」も「金絶」も朝鮮語で「クムジョル」と読み、お金と縁を切るという意味。

 朝鮮通信使の使節たちにとって、この事件は朝鮮側の礼と自尊心を日本にて宣揚した好例であったので、後世の使節たちに伝説のように伝えられたと思われる。

 現代からみれば、お金を捨てるという、実に稚拙で滑稽な行為と思われる。

 しかし、汚職事件や詐欺事件など不正が横行している今日の社会状況を考えてみると、筆者には、江戸時代の使節たちが起こした稚拙な事件が、大義名分を貫き、清廉潔白を証明するための潔い行為として見えるのが不思議である。 

   つづく
    通信使・寒中の大井川を渡る

   川越地点
         大井川 静岡県島田市

 第4次朝鮮通信使が、日光遊覧から江戸にもどり残留組と合流して帰国の途についたのは年末暮れの12月30日であった。

 1637年(寛永14年)の正月を神奈川で迎え、5日に三島に宿泊、大井川の川辺にたどり着いたのは厳寒の1月8日であった。

 寒さがこたえたのか従事官の黄杲(ファンボ)は高熱にうなされていたという。
 
 江戸時代、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれ、大井川は東海道で最も難所として知られていた。

 幕府は、軍事戦略上の拠点として、大井川に橋を掛けることも、渡し船も許さなかったからである。自ら川の中に入り渡る者以外は、専ら人足による肩ぐるまか、蓮台(4人以上の人足が担ぐ)に乗せてもらい渡る他手段はなかった。

  川越2
        川越し料金表(米1升=40文)

 他の河川では、朝鮮通信使のために船橋をつくり、使節団一行を感激させたのであったが、大井川の川越しだけは、幕府も特別に船橋を造らせることが出来なかった。
 大井川の川越しに、島田ー金谷両側に人足約1000人余りが従事していたとされている。

 両宿で川越しの人足とそれを束ねる組織と制度が整備され、彼らが独占的に川越し業務を行うことを幕府が認め保護したことにより、それが既得権益化してしまっていた。

  大井川7
     大井川駿岸 五十三次名所図会
       
  通信使一行の3百数十名,案内先導役の対馬藩士、警護武士ら一千名近い人と百頭以上の馬を渡らせるために、全ての川越し人足が動員されたと思われる。

 いずれにしても、乗る者、かつぐ者共に寒さに震える難行であった。
 
 正使任統は次のように書いている。
 「正月8日、大風が吹く中を大井川を渡った駕籠かきたちは、凍った手に息を吹きかけたりしたが、足の震えが止まらなかった。先般休んだ金谷の茶店で昼食をとり、駕籠かきたちに酒をふるまうと皆感謝してお辞儀をした」(『丙子日本日記』)
 
 通信使一行にとって、大井川の川越しは自国ではめったに体験することがない、それだけに人足たちのご苦労に報いる酒のふるまいであった。
 酒をふるまわれた人足たちは、異国人である通信使一行の暖かい人情に触れ癒されたであろう。そんな様子が想像される。

   大井川2
    大井川川越し風景 ネットより

 朝鮮通信使一行の日本往還道中、大小様々な行事やイベントが繰り広げられた中で、大井川の川越しは小さな出来事にすぎない。

 しかし、民族、文化、風習の違いを超えて、世話をした人、世話になった人の人情話の一つと取り上げてみました。

  蓬莱橋
     蓬莱橋 世界最長木橋  

  追記、大井川に橋が架けられのは、1879年(明治12年)、蓬莱橋といい、何回か流されて架け替えられた、現在の橋脚はコンクリートで作られている。全長897メートル、世界一長い木橋として世界ギネスブックに登録されて、静岡県島田市の観光名所の一つとなっている。
    つづく