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   対馬藩外交僧・玄方のソウル訪問

 景福宮2
      朝鮮朝王宮 景福宮興禮門 ソウル
 
  1626年、中国東北部全域を制圧した女真族ヌルハチの後金は、ついに朝鮮に侵略を開始した。朝鮮側は抗しきれず、平壌まで占領された。
 
 滅亡を憂いた16代王・仁祖は、後金が要求する「兄弟の盟約」(後金が兄・朝鮮が弟)と王子を人質として後金に送るという条件を受け入れ、屈辱的な講和を結んだのであった。(丁卯͡故乱=ていぼうこらん)

 この出来事は、ただちに釜山の倭館から対馬藩に伝えられ、徳川幕府に急報された。
 
 翌1628年、幕府は対馬藩主・宗義成を呼び、使者をソウル(漢城) に派遣して、正確な北方情勢をつかんで来るように命じた。そして「朝鮮国が望むなら、徳川幕府は援軍を送る用意がある」と言い添えた。

 宗義成は、外交僧・玄方を正使、家老の杉村采女を副使とする、日本国王使を名乗らせて派遣した。
 
 玄方(1588~1661年)は、対馬藩の対朝鮮外交を担い、日朝関係改善に活躍した玄蘇の後継者。臨済宗の僧侶。無方規伯、方長老とも呼ばれた。

 1629年、玄方使節団一行25人が釜山に渡った。この時は、将軍の国書も、偽造国書も持って行かなかった。

 そして、玄方は、ソウルへの上京を認めてほしいと朝鮮側に訴えた。

 景福宮5
      朝鮮王宮 景福宮全景 ソウル

 朝鮮王朝は、豊臣秀吉による朝鮮侵略以来、日本人のソウルへの上京を許可していなかった。もちろん、玄方らの上京も絶対認めない方針であった。

 それでも玄方は、釜山の倭館に滞在しながら、執拗にソウルへ上京したい旨を訴え、粘り強く交渉をくりかえした。
 
 すると、朝廷の中から「北方の難のおり、南方の対日関係だけは円満にしておくことが無難ではないか、今回に限って例外的に認めたらどうか」と意見が出された。

 しばらくして、倭館の玄方に上京を許す知らせが届いた。
 
 朝鮮側は、北方国境は緊迫した状況下、南辺の日本との友好関係・安定を保つために、やむを得ず玄方一行のソウル上京を例外的に認めたのであった。

 江戸時代の260年間で日本人のソウル訪問は、後にも先にもこの一回限りであった。

     経路
     釜山からソウルへの上京経路

 玄方は、従者8人をつれてソウルに上京し、慶福宮(王宮)において国王・仁祖に謁見した。
 
 玄方は、朝鮮側に軍事援助をふくめて支援したいとの徳川幕府の意思を伝えた。

 その他に、玄方は、木綿600同を支給してほしいと、対馬藩独自の要求をしたのであった。

 その頃の木綿は、日本では貴重品であった。
 
 三年前に朝鮮朝廷は、貿易特権を持つ対馬藩家老・柳川調興に木綿600同を与えたことがあった。
 
 対馬藩では、数年前から宗義成と柳川調興の2派に分かれて、確執が激化していた。
 
 朝鮮朝廷としては、ここで宗氏側に認めると、また柳川氏側からも要求してくるだろうから、玄方の要求を断ることにした。
 
 それを伝え聞いた玄方は、怒りを露わにして藩主宛の書契も受けとらず、ひき止めるのもきかず、雨の中をソウルを後にした。

 玄方のはげしい怒りと強引な行動に両班(官僚貴族)たちは仰天した。日本の使節を怒らせ、使節がソウルを発ってしまったことで動揺した朝廷は、方針を変え、宗氏にも木綿を与えることにしたのであった。
 
 潔い行動力を吉とする日本の武士階級と、礼儀節度や形式にこだわる朝鮮の両班階級との交渉術の違いを見せつけた場面ではなかろうか!?
 玄方の芝居じみた演出に朝鮮側は一本取られた格好になったと思われる。

 
 釜山の倭館において送別の宴席が設けられた。この席で礼曹(外務省)から対馬藩主にあてた書契が玄方に手渡された。
 
 書契には、「日本の軍事支援はお断りする。また、今回の上京許可は特別なこととし、以後、前例としないように」と書いてあった。

 そして玄方に木綿が支給された。

  景福宮3
      景福宮 光化門  ソウル
 
 玄方使節団一行は、ソウルを訪問して、朝鮮朝廷から直接に北方情勢を得るという目的をはたし、任務を終え無事帰国した。
 
 1630年、対馬藩主・宗義成は、玄方を伴って帰朝報告のため江戸に参府した。
 幕府は、対馬藩の外交能力を高く評価し、宗氏に対する信頼を深めた。
 
 玄方の朝鮮訪問の成功と幕府の信頼を得たことで、宗義成は柳川調興に対して、自信と優越感をもつようになった。

 玄方のソウル訪問をきっかけに、藩主・宗義成と家老・柳川調興の対立は一層深まり、ついには対馬藩の命運をかけるお家騒動・大事件(柳川事件)が起こることになった。
  つづく

     猛暑の日々

 連日、猛暑がつづいている、 
 日ごとに、最高気温が更新されているいう。
 この猛暑、いつまでつづくのであろうか?
 こんな時、台風でも来てくれたらと思う、
 筆者にとって、猛暑日でいいこと一つある、
 それは、夕焼けが格別に美しいことである。
 撮りつづけてきた猛暑日の夕焼け画像を
 まとめて、「猛暑の日々」を作成した。
 ご覧ください。





 記事作成中は、暑いことを忘れていられた。
   夕焼け小焼け

 夕陽が沈む頃、
 玉川上水駅前の高層アパートから、
 奥多摩方面の空をながめていると、
 ときどき、あっと驚くような
 夕焼け小焼けに出会うことがある。
 筆者が感動しながら撮った画像をあつめて、
 フォトストーリーを作って見た。
 ご覧ください。



夕焼け小焼けで日が暮れて、、、
   第3回、朝鮮通信使往還
     
    使節が見た日本の光景

 1623年、徳川秀忠は、将軍の位を子の家光にゆずった。
 自らは大御所となり、江戸城西の丸で政治権力を行使することになった。
 幕府は対馬藩を通して、家光将軍襲職の祝賀使節を派遣してほしいと朝鮮国に要請した。
  
  徳川家光
         徳川家光

 将軍の正式な国書はなかったが、朝鮮国は徳川幕府の要請を受け入れ、3回目の通信使・「回答兼刷還使」を派遣することになった。

 朝鮮王朝が通信使派遣を決定したのは、北方の女真族が国境を脅かしている切迫した事情によるもので、北辺の憂いに備えるために、南辺の安全を図る必要に迫られたからである。

 3回目の通信使も主目的は連行された朝鮮人の刷還事業であった。また一方で徳川政権・日本国内の状況を探索することであった。

 1624年10月初旬、正使、副使、従事官の3使をはじめ、朝鮮使節団一行460人が釜山を出発した。

 船は6隻、騎船3隻に正使、副使、従事官が乗り、卜船3隻にはその他一行と将軍・幕閣・各地大名への贈り物を乗せてたいた。

 副使の姜弘重(カン・ホンジュン)は、日本往還の見聞録・『東搓録』(とうさろく)を書き残した。

 『東差録』には、日本の建築技術の巧み、物資の豊かさを率直に書き記し、日本人の美風、ゆきとどいた接待、おもてなしに感動したことを描いている。
 
 釜山を出港した通信使一行は、対馬府中ー福岡相の島ー赤間関(下関)から瀬戸内海を進み11月中旬、大阪に上陸した。
 
 使節一行がまず驚いたのは、物資が豊富にあって、町の賑わいと人々の秩序正しい社会生活の営みであった。
 
 姜弘重は次ように書いている、
 「街路に貨物が山積みされ、百物が備わっていた。商家では、それぞれ扱う商品が分かりやすくぶら下げていた。
 言語と衣服は中国や朝鮮と同じでないが、飲食や売買は中国にならったものが多かった。見物する男女が左右に満ち、寂として騒ぐ者がいない。子供たちでさえ、皆ひざまついて見物し、あえて年長者の前をふさぐ者はいなかった。」
 
 姜弘重は、通信使一行が対馬府中に滞在中、津島藩主邸で歓迎宴が催されたとき、
 「わが一行の下人たちは、庭の中で列をつくって座っており、騒がしい声は、いくら禁止してもやめないので、かの倭人(日本人)くらべても、恥ずかしいことであった」と嘆いていた。
 
 姜弘重は、注意しても騒ぎをやめない下人たちの態度にくらべて、日本人の子どもまでもが、公共に場における秩序正しいマナーに驚嘆したのであった。

このような光景は、京都でも見られた。

 大阪から京都の淀までは、日本の川御座船、両岸から千人以上の人足がこれを曵引した。

  キャプチャ
        徳川家 御座船

 京都に着いた使臣一行の宿舎は大徳寺であった。使節が行く長い道に水がまかれ埃がたたないようにしてあった。

 姜広重は京の繁栄を次のように書いた。
 「東寺から大徳寺にいたる20里(約8KM)は商街の中を通過した。人家が立ち並び、物資は豊富、男女の混雑が大阪の10倍ほどであった。街路は方正で井の字の如し。見物する人は、道端に列をつくって左右に満ち、嘆息の声がかまびすしい。手を合せておがむのは、これを貴ぶからである。」

 通信使一行は、京においても大勢の人々で混雑したが、礼儀正しい歓迎ぶりに感激したようである。

 11月下旬、使臣一行は京都を発ち、朝鮮人街道を通り、彦根宗安寺に一泊、 

  宗安寺2
        彦根 宗安寺

 美濃路の大垣から名古屋までの間の揖悲川(いびがわ)、長良川(ながらがわ)、境川(さかい)、木曽川(きそがわ)には「船橋」が架けられていた。
 へさきを川上に向けて100艘前後の船を並べてつなぎ,川底に杭を打って固定し、船の上に3千枚ほどの板を敷いたものである。
 使臣一行は、その4っつの橋を渡った。
 もちろん、「船橋」は朝鮮使節だけが渡るのものであった。

  木曽川
       犬山城が見える木曽川 

 「浮橋(船橋)の制はきわめて精緻であり、船はすべて新造で、大小が同じであった。見物する男女が道端を埋めつくし、乗船して望見する者も、河の上下をおおい尽くしていた。実に壮観であった。」
 使臣一行は感激しながら4っつの船橋を渡った様子がうかがえる。

 12月上旬、岡崎につくと、将軍(家光)と大御所(秀忠)の使者の出迎えをうけた。
 静岡を過ぎるときれいな富士山が見えた。

  駿河湾
       駿河湾から見る富士山

 「山は大平原のまん中にあり、三州の境界にまたがっている。
 截然と屹立し、半空に突き出ていて、白雲が常に中腹の下に起こり、空に浮かんで天をおおっている。
 頂上は四季を通じて雪がつもって白く、6月の炎暑にも解けない。実に天下の壮観である」

 12月中旬、江戸に着いた、国書伝令式が行われる江戸城について、姜弘重は次のように書いた。
 「築城の石は、みな大石をもってし、それを積みあげ、面を削っているのが神業のように巧妙であった。内に高楼傑閣(こうろうけっかく)が起ち、将軍はその中にいる。別に五層の飛ぶような楼閣が中央に起ち、見張りをして守備するところで、天守閣といった」
 使節一行は、江戸城の築造技術の素晴らしさに驚嘆した。

  江戸城
       明治時代初期の江戸城

 朝鮮に比して日本の豊かさを、姜弘重は次のように書いている。
 「自然が美しく、土地が肥えている。市場には物資が山のように積まれており、村里の間には穀物が広げられており、その百姓の富裕なことと、物資の豊富なこととは、わが国と比較にならなかった」

  第3回朝鮮通信使は、秀吉の侵略戦争から30年が経過してからの往還であった。朝鮮国内の実情は、人口減少と国土の荒廃・疲弊による後遺症が、まだまだ色濃く残していた。

 通信使一行は、日本の経済的発展・豊かさ比べると、朝鮮国内の戦後復興が、はるかにおくれていることを痛感したのであった。

 この通信使の目的であった朝鮮人の刷還事業は、146人の帰還にとどまった。戦後30年の時間の経過は、如何ともしがたく以後の刷還事業は打ち切りとなった。
 
また、日本の国内事情の探索について、通信使の「日本が再侵する徴候はない」との報告を受け、朝廷は日本に対する警戒を解き、南辺兵力を北の国境地帯へ進駐させ、北方の防備のみに専念することになった。
 
 しかし、この頃の東アジア情勢は、風雲急を告げていた。

 朝鮮を支援した明が急速な衰えをみせ、明から独立した女真族のヌルハチが後金を建国して中国東北部の要所を次々制圧していた。その勢いは朝鮮の北辺国境に迫っていた。
 
 朝鮮にとって、北辺の脅威に対処するためにも、国内の経済復興はかるためにも、日本との対等な平和関係の維持は必要不可欠であった。
 
 それはまた、東アジアの平和と安定を守るための重要な課題でもあった。
  
 つづく
    七夕を楽しむ

 七夕の日を迎えて、
 筆者が撮った画像と雑誌やネットから
 引用した画像を合わせて10枚で
 フォトストーリー「七夕を楽しむ」を作って見た、
 七夕の日は、すでに過ぎましたが、
 子供の頃、青春時代を思い出しながら、
 ご覧ください。



 短冊に書いた願いごとかなえられたかな?
2018.07.05 朝鮮通信使15
         降倭(こうわ)

   キャプチャ
         朝鮮王朝実録

  降倭とは何か?
 その歴史を具体的に知る人は少ないように思われる。

 沈寿官・李参平・姜抗らが日本の歴史に名を残したように、同時期、降倭が朝鮮の歴史に登場するのである。

 降倭とは、秀吉の2度にわたる朝鮮侵略(1592~1598}のさい、日本の陣営から朝鮮側に投降した日本人をいう。彼らを「投降倭」とも呼ばれた。

 拉致連行された朝鮮人が、日本の地に定着同化したように、降倭・日本人が、朝鮮の地に定着同化したのである、 
 
 ただ、朝鮮人は強制的に連行され定着をよぎなくされたが、降倭は、自らが進んで朝鮮に定着したという違いがある。
 
 しかし、侵略戦争がなけなければ、降倭があり得なかったことを考えると本質的には、戦争によって引き起こされた悲劇的な事件といえよう。
 
 降倭についての記録は、日本には残されていないが、『朝鮮王朝実録』の中に50か所余りと、朝鮮水軍の将・李舜臣(リ・スンシン)が記した『乱中日記』など、幾多の記録が残されている。
 
 降倭が発生したしたのは、朝鮮・明軍の反撃で、秀吉軍が朝鮮半島南部海岸に後退した1593年頃からで、戦争が長期化するにしたがって降倭が続出するようになった。その数、5千~1万名と推定されている。
 
 そのため、朝鮮王朝は、降倭の対策・処置を講ずるようになった。

 降倭の中で、悪賢く、内情を探知しょうする不審者は処刑したが、それ以外の降倭は利用する方針をとった。
 
 降倭が、それぞれ習得している軍事技術を朝鮮側に伝授させたのである。
 言語・習俗に通じた降倭は通訳や外交折衝にあたらせ、
 武術に優れた者は、朝鮮兵の剣術や鉄砲の指南をさせ、
 造兵技術をもつ者は、鉄砲や火薬の製造に従事させた。
 また、統率力をもつ優れ者は、部隊(投順軍)を編成して、北辺国境警備などに赴かせた。
 功績を上げた者に対しては、物資や銀をあたえたり、官職を授け、姓名を賜って優遇した。
 特技のない多数の降倭は、朝鮮水軍に配置、あるいは北方の防衛軍として動員した。
 降倭は集結させず、各地の軍営に分散管理した。

 降倭の中で、沙也加(サヤカ)=金忠善(キム・チュンソン)が比較的によく知られいる。
 沙也加の日本名は、後世に沙也加の子孫が書き残した「慕夏堂文集」によれば、加藤清正が肥後(熊本)に入城したとき、その家臣団に加えられた「岡本越後守」と推測されている。
 
 1592年、朝鮮侵略の際、加藤清正の先鋒将として従軍した沙也加は、朝鮮の礼儀正しい風習を見、文化盛んなるを慕い、「秀吉の朝鮮出兵に大義なし」との思いから、配下の兵3千を率いて朝鮮側に投降したとされている。 

  熊本白
      沙也加が仕えた現在の熊本城 
 
  その後、日本軍と戦いで功労を立てので、朝鮮国王から官職を受け、金海金氏の姓を賜り、金忠善と名乗った。
 戦争終結後も、朝鮮に仕え、金忠善は「慕夏堂」の号を受けた。
 その後沙也加は、志願して女真の侵攻の警備にあたり、正憲大夫(正二品)に昇進し、国王より表彰された。さらに清軍が侵入した「丙子の乱」にも功労をたてた。1643年に没したとされている。

   忠善2
     沙也加の子孫が住む慶尚北道友鹿洞
 
 その後、金忠善の子孫は慶尚北道友鹿洞の地域で繁栄した。 
 現在でも金忠善は、朝鮮半島では英雄視されているという。韓国の大邱市郊外の達城郡嘉昌面友鹿里には、沙也可の後孫の1族が暮らしている。

  金忠善
      沙也加顕彰碑 1992年建立

 1992年には韓国で沙也加記念碑が建立された。
 
 『朝鮮王朝実録』には沙也加の他に、金尚義の名が記されている。
 金尚義(日本名不詳)もまた、配下の兵を率いて朝鮮側に投降した武将であった。
 朝鮮の義兵将・趙慶男が記録した『乱中雑記』によると、金尚義は長期の戦陣や労役に嫌気がさしたため、多数の兵を率いて、慶尚右兵師・金応瑞(キムウンソ)に投降した。
 朝鮮側に付いた金尚義らは戦功をあげ通政大夫(正3品)の官位を受けた。その後彼らは、蜜陽に集落をつくり、農耕に励み、子孫を繁栄させた。その里は「降倭陣」と名付けられている。

 金忠善と金尚義は、多くの兵を率いて集団的に降倭したが、その他は少人数の個別的な投降であった。

 李舜臣の『乱中日記』に、多くの降倭が朝鮮水軍の拠点・閑山島に集められたことが記されている。

   閑山島
     降倭が集められた閑山島付近図

 李舜臣は、従順な降倭・乱如文(南右衛門)、也如文(弥右衛門)等を側近として使い、他の降倭を統治させた。
 李舜臣は、降倭に対して武術訓練をさせ、土木工事にも動員した。 

 閑山島に配置された降倭の様子を1595年10月の『乱中日記』に、
 「早朝、楼に上がって普請を監督した。そして楼上の外の柱に壁土を塗り、降倭にその壁土をはこばせた」
 「早朝、新楼に上がり、大庁の壁土塗り。降倭に担当させ完了」、
 「その降倭らに慰労として酒をふるまった」、
 「黄昏どき、降倭らがいろいろな遊戯(芝居・狂言)を催した。将たるものとして放ってではないのだが、帰順した降倭が庭戯を強く望んでいるので、禁じなかった」等々、記されている。

  李舜臣3
     朝鮮水軍の名将 李舜臣像 釜山市
 
 李舜臣は、従順な降倭にたいして、ねぎらいや娯楽も認めてやりながら、彼らに心のゆとりを持たせるよう配慮したことが解る。
 いずれにしても、降倭は、秀吉の無謀な侵略戦争によって生み出された負の遺産であった。

 ところが、明治維新以後、日本の支配者は、一貫して「降倭」の歴史的事実を隠したのであった。
 とくに、朝鮮植民地時代(1910~1945)、日本帝国主義者とその御用学者たちは、朝鮮に「降倭」の記録が多数あることを把握していながら、秀吉の朝鮮侵略を「美化」すると共に、「降倭」は、朝鮮側の「作り話」であると否定し、その事実をひたすら隠ぺいした。

 彼らからすれば、優秀な日本民族が、隷属している朝鮮に「日本兵が投降・服属するはずがない」との論理から、「降倭」の事実の抹殺を計ったのであった。

 こうして学校教育や歴史書物を通じて、秀吉の侵略戦争を「朝鮮征伐」と呼び、侵略戦争を「正当化」するとともに、戦争による民衆の犠牲や悲惨、降倭の事実を国民に知らせなかったのであった。
 
 秀吉の朝鮮侵略から400年が経ち、21世紀近くに至って、降倭の歴史が少しずつ明らかになり、徐々にではあるが日本の国民に知られるようになった。

 戦争による後遺症は長く残るものである。