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2018.04.27 朝鮮通信使9
  日朝交流の起点・釜山「草梁倭館」 

     倭館2
    草梁倭館 現在の釜山市中心部竜頭山公園 

 江戸時代、朝鮮半島南端にある海の玄関・釜山港(プサンハン)は、日朝交流の唯一の窓口であった。

 朝鮮通信使12回の日本往還は、すべて釜山港が利用された。

 その釜山港の一画に、日本の在外公館(領事館)・「草梁倭館」(チョリャンウエグアン)が260年もの長い間、存在したことを知る人は少ないように思われる。

 「草梁倭館」は、日本と朝鮮が共同して外交・貿易のために設けたもので、「商館」と「在外公館」の機能を兼ね備えてた港区域である。
 
 当初、釜山の倭館は1618年、豆毛浦(トモポ・古倭館)に設けられたが、東浅で南風が強く難ぎであり、交易の発展にともない手狭になったことから対馬の要請により、1678年に草梁頃に移されたのであった。

 現在の釜山市中心部、プサンタワーのある竜頭山公園周辺、東南海岸に接する10万坪の長方形の区域である。

 東側の海辺に桟橋を設けて船溜りを造り、南側は山が突き出して南風をさえぎるため良港であった。

       倭館図
   「草梁倭館絵図」 1783年 卞僕作  

 竜頭山を挟んで東館(現東光洞)と西館(現新昌洞)に区分され、東館は貿易と経済活動の場で、館主屋(總領事)・裁判家(外交業務)・開市大庁(交易場)、通詞(通訳)等と日本人滞在者の建物が並んでいた。

 西館は外交活動の場で、対馬からの使節を応接する宴大庁(迎賓館)や朝鮮の役人、通訳官の宿舎等が連なっていた。

「草梁倭館」の造営は、朝鮮側が材料調達と費用を負担し、築造工事は対馬藩から大工、左官など技術者、総勢450人が動員された。

  東館復元
       「草梁倭館復元図」 夫学柱作成

 そのため建築様式は、日本の畳寸法で測られた武家屋敷風に建造された。
 
 広大な倭館の周囲は、高さ2メートルの石垣がめぐらされ、6か所に番所を設けて、朝鮮側の役人によって警備された。

 その規模は、オランダ・中国との貿易の窓口であった長崎唐人屋敷1万坪の10倍、出島4千坪の25倍の広さであった。

 倭館には、常時500~700人の対馬の人が居住し、交易船が入港すると滞在者が急増し、1000人もの人が日朝貿易に携わった。年間50隻余りの貿易船が出入りしたとされている。

   倭館復元
     草梁倭館外観復元図 夫学柱作成
 
 「草梁倭館」では、対馬藩から派遣された年例使 や臨時送使と朝鮮側の使節とが、朝鮮国王に対する慶弔、徳川及び宗氏の慶弔報告、通信使派遣の要請と送迎、その他、重要な外交案件の交渉が頻繁に行われた。
 
 倭館に居住が許されたのは、対馬藩派遣の館主、代官(貿易担当官)、書記官、通詞(通訳官)などの役職者やその使用人、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人たちであった。

 館主は、総領事の役割をはたし(2年交代)、就任の日から帰国まで「館主日記」を書き綴った。現在2百数十年にわたり『毎日記』として8百余冊が、現在宗氏文庫に残されている。
 
 朝市がたち、日常生活に必要な食糧は賄うことができたと言われている。

 そして、船の安全航行を祈るための弁天神社、東向寺があった。

 当時の朝鮮は東医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために日本から藩医、町医らが倭館に滞在した。
 
 また、朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していたと言われている。

 対馬藩の外交官・儒学者雨森芳洲は、1703年から3年間、この「草梁倭館」で集中して朝鮮語を学び、日本人として初めて日朝会話集『交隣須知』を著した。
 
 雨森芳洲は滞在中、朝鮮側の倭館責任者(訓導)・玄徳閏(ヒョンドギュン)とともに協力し合って、通訳の建物を「誠信堂」と名付けて、「互いに欺かず、争わず、真実をもって」外交実務を遂行したと言われている。(雨森芳洲については詳しく後述する)

 なお、1702年に完成した江戸幕府作成の「元禄日本図」には朝鮮半島の南西端に“草梁項”という地名と“和館”と書かれた建物及び対馬藩との航路が記述されている。

 このように「草梁倭館」は、日本の「領事館」のような機能をもち、江戸時代の260年間、日朝両国の外交と貿易の起点となっただけでなく、日朝官民の交流の場でもあった。

   草梁記念碑
      草梁倭館遺跡 釜山市竜頭山公園

 倭館跡の石碑は現在、釜山市立博物館に移設されている。

  つづく
       ハナミズキ
 
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 4月中旬、
 新緑の鮮やかな季節、
 散歩道のあちこちでハナミズキの花が目につく。
 玉川上水駅周辺には街路樹として植えられている、
 葉のない木に、真白と淡いピンクの花びらが
 空中に映し出し、
 道行く人々を華やいだ気分にしくれるようだ。
 とくに、
 筆者が目を奪われたのは、

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 東大和南公園のグランドの外側、
 緑の中に鮮やかに映し出された、
 白とピンクのハナミズキである、

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 おもわずスマホで、ろいろな角度から撮ってみた。
 この花は、1912年、アメリカから親善の証として、
 日本に贈られてきたと言う。

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 花言葉は、「私の愛を受けとめてくださ」、
 年寄りには、青春時代を思い出す花かも知れない。
2018.04.16 朝鮮通信使8
   日朝間の外交・貿易再開、己酉約条

  倭館1
     釜山・草梁倭館の古絵図 韓国国史編纂編
  
 第1回朝鮮通信使の往還によって、善隣友好へと一歩ふみ出した日朝関係は外交・貿易の再開へと発展していった。
 
 2年後の1609年3月、対馬藩の朝鮮外交を取り仕切る僧・玄蘇は、国交回復を祝う祝賀使として、総勢320余名を率いて訪朝した。
 
 彼は徳川将軍の使者だと主張したが、朝鮮側は都の漢城(ソウル)への上京を許さなかった。

 やむをえず,玄蘇一行は釜山において朝鮮側と交渉することになった。

その結果、貿易協定・[己酉約条](きゆうやくじょう)が結ばれた。

 条文は12か条から成り、主な内容は、

 1)朝鮮で接待される日本の使者は、国王使(将軍の使者)、対馬島主(宗氏の使者)、対馬島内受職人(朝鮮から官職を授けられた者)に限ること。

 2)対馬島の歳遣船(年間貿易船)を20隻に限ること、(以前は30隻)

 3)対馬島主への歳賜米,大豆合わせて100石とする、(以前は200石)

 4)すべての渡航船は、対馬島主の分引(渡航証明書)持参すること。

 5)日本人の往来は釜山の一港のみとし、釜山に倭館(日本人居留地)の設置を認める。

 そして、日本人の漢城(ソウル)への往来は一切認めないという処置であった。

 この条約の内容と処置は、朝鮮側に一方的に偏ったものと思われるが、なぜこのような約条が結ばれたのだろうか?

 室町時代、日本の使節は、朝鮮側が指定した三つの「倭人上京路」を利用してソウルを往還した。

 ソウルには、日本人使節のための宿泊所「東平館」があり、接待・優遇されていた。

 豊臣秀吉侵略軍が釜山上陸後、この三つの「倭人上京路」から進撃し、わずか20日間で漢城を占領した。

 その道案内をしたのが、ソウル訪問の経験がある家臣や従軍僧たちであった。

 朝鮮側にしてみれば、ソウルを占領された苦い経験から、日本国の使節であってもソウルへの上京を頑なに拒んだのであった。

 苛酷な被害を被った朝鮮の事情を知る日本側は、朝鮮側の主張に理解を示した結果、この条約の締結に至ったと思われる。

 このようにして江戸時代、釜山に設置された倭館を媒介として、日朝間の外交と貿易が行われるようになった。
 
  釜山を統括する東來府と対馬藩が政府の出先機関として、外交および貿易の実務に当たった。
 
 「己酉約定」締結後、対馬藩の貿易船が銀や銅、胡椒、染料などを満載して釜山港に入港し、帰りには米、大豆、綿布、麻布、 朝鮮人参、厚白紙、虎皮、黄蜜など満載して出航していった。

  出島1
       長崎出島の風景
 
 筆者は、これまで江戸時代は例外的に長崎において、清(中国)とオランダとの交易がおこなれたが、基本的には「鎖国」によって国際的に孤立・閉鎖された時代と認識していた。
 
 ところが、朝鮮通信使の勉強によって、江戸幕府は中国・オランダ船が来航した長崎の他に、朝鮮との通交・貿易を行っていたこと、
 
 そしてまた、琉球王国とも外交・交易関係があり、北海道ではアイヌと松前藩を通して交易を行われていたこと、

  那覇港
    現在の沖縄 那覇港 (江戸時代の琉球国)

 日本は、外国にむかって「四つの窓口」が開かれていたことを新しく認識することになった。

  2ぷさん
      現在の釜山港周辺の風景

 江戸時代の日本は、閉鎖的でなく東アジア近隣諸国と友好的平和な時代であったと言えるのではなかろうか?
  昭和記念公園のチューリップガーデン


 4月上旬、
 東大和南公園のボランティア花壇に咲いた
 チューリップを見で思い出したのが、
 昭和記念公園のチューリップガーデンである。
 昨年はチューリップガーデンの美しい光景写真を
 何枚かブログに載せたが、
 今年は、動画を撮ってきたのでご覧ください。  



 筆者が見学したのは上旬であった、
 中旬の今頃は、絶好の見ごろではと思われます。、
2018.04.07 朝鮮通信使7
     第一回 朝鮮通信使
     日朝国交回復への一歩


   景福宮
     ソウル 景福宮 朝鮮通信使出発地
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 "京都伏見城で行われた徳川家康・松雲大師会談(1605年)後、
朝鮮側から国交回復の二条件を示した国書が送られてきた。
 
二条件とは、
 1)徳川家康は、先に侵攻を謝罪する国書を朝鮮に送ること、
 2)朝鮮国王の陵墓をあばいた犯人を捕らえて引き渡すこと、
 
 この条件は、日本側にとって難題であった。とくに、犯人を特定し捕らえることは至難の業・不可能であった。 

 しかし、対朝鮮との国交の回復・貿易の再開を急ぐ対馬藩は,窮余の一策として家康の国書を偽造し、別件逮捕の若者2人を王陵をあばいた犯人に仕立て朝鮮に送ったのであった。(後の国書偽造・柳川事件)
 
 朝鮮王朝では、あまりにも早い家康の国書到着と日本国王の印が旧例の通りのものであり、犯人の年齢が若すぎて辻褄が合わないことから、対馬藩の工作であることを察知していた。

 当時の朝鮮国内は、日本に対する不信が充満し、国交回復に「反対・慎重論」が盛んであったが、麻痺した国内体制、荒廃した国土を立て直すためには、なによりも平和が必要であった。

 朝鮮王朝は日本側の対応に不信感をもちつつも、2条件が満たされていることから交渉を断る理由もなく、また、北方の女真(後金)に対処しなければならない事情もあって、日本との国交回復のための使節団派遣を決断したのであった。

 使節団の名称を、日本側は「信義を通わせる」・「通信使」を要求したが、朝鮮側はこれを受け入れず、あくまでも家康の国書に対する「回答」と、日本に拉致連行された朝鮮人を「刷還」する「回答兼刷還使」としたのであった。

 朝鮮側は、戦後処理の折り目をつけるために、そのような名称に固執したのであるが、事実上の江戸時代「朝鮮通信使」の始まりであった。 
 
 1607年、第1回朝鮮通信使・「回答兼刷還使」正使・呂祐吉、副使・慶暹、従事官・丁好寛の3使をはじめ総勢504名の外交使節団が日本に派遣された。

   一行は、3使の他、軍楽隊、学官、写字官、医員、通事(通訳)など各界の日本人との文化交流を予想したものであった。 

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     朝鮮通信使 先頭を行く清道隊
 
 使節団の目的は、国交回復のため日本の国書に対する回答と、豊臣秀吉軍の侵略によって拉致連行された朝鮮人の送還を要求することであった。 

 また、使節団には、徳川幕府と日本の国情について正確な情報を得ることと、北方女真族の騎馬隊に備えるために日本のすぐれた鳥銃(火縄銃)を購入することが課せられた。一方で、日本人との密貿易、密通は厳禁されていた。
 
 1月12日、漢陽(ソウル)を出発した使節団一行は、2月29日、4隻の船団で釜山を出航、対馬藩橘智忠らの水先案内船に誘導されて海峡を横断、3月2日、対馬の府中(厳原)に着いた。藩主宗義智邸で歓迎宴がもたれ、そしてしばらく滞在し船旅の疲れを癒した。

  ルート
      朝鮮通信使往還ルート

 徳川家康は、当初から秀忠をつうじ、朝鮮使節団一行が通過する、各藩大名に対し、身辺安全と誠意ある接待、接待時の無礼厳禁を命じていた。
 
 日朝間の国交回復にかける家康の意気込みはなみなみならぬものがあった。
 
 使節団一行は、対馬藩主宗義智以下、数百人の案内・護送されて、相ノ島(福岡藩)・下関(小倉藩)、そこから瀬戸内海に入り上関(毛利藩)・蒲刈(広島藩)・鞆ノ浦(福山藩)とバトンタッチ式に案内されながら大阪に着いた。

 大阪で家康の乗船(御楼船)に乗り換えて淀川をさかのぼり4月12日、京都・淀に上陸した。

 上陸した一行は、東寺のむかって進むのであるが、朝鮮通信使の大行列をひと目見ようと沿道の両側は老若男女が押しかけ、足のふみ場もないくらいの混雑ぶりであったと伝えられている。
 
 一行は、大徳寺を宿舎としてⅠヵ月滞在し、その間、京都所司代・板倉勝重の丁重なもてなしを受けたり、三十三間堂、清水寺、知恩院等見物してまわった。

  33間
     三十三間堂  京都市内
 
 5月6日、使節団は京都を発ち、大津、草津から中山道に入る。野洲で中山道をはなれ、近江八幡から彦根を経て鳥居本でふたたび中山道に 至る40キロあまり「朝鮮人街道」がある。

 参勤交代の西国大名もこの街道を通ることが許されなかったとされ、朝鮮通信使のために特別に作られたものであろうか?

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    朝鮮人街道 近江八幡市内
 
 それはともかく、琵琶湖畔の松並木がつづく街道で眺望が絶景だと歴代の通信使たちは皆、感動したという。
 
 筆者は車で通ったが、近江八幡市内以外は景色のよい海岸線を走っているような感じだった。
 
 その後、大垣、名古屋を通り、熱田で東海道と合流して上り、江戸に着いたのは5月24日であった。
 使節団の宿舎は本誓寺、

  場内
    江戸城内 国書伝達式の贈り物準備

 6月6日、江戸城大広間において、朝鮮通信使による将軍・徳川秀忠に対して国書伝達・聘礼の儀式が行われた。

 朝鮮国王が秀忠に手渡された国書は、
 「交隣に道義がある・・・今貴国が古きを改めて新しく慰問の書簡を先によこし、すなわち先代の非を改めたいといって、ここに誠意を示されたが、いやしくもこの言葉のごとくなれば、どうして両国の民の福でないことがあろうか。ここに使臣を送って、もって来意にお答えいたします。わずかばかりのおみやげを別幅に取り揃えましたので、なにとぞご笑納くださるようお願いします」
 
 秀忠は,使節団遠来の労苦をねぎらい「大慶の至り」、「感悦にたえない」と語り、先に杯をとって酒をすすめに、箸をもって料理をもてなしたという。

  大広間
    国書伝達儀式 江戸城大広間

 朝鮮使節に対する秀忠の対応は、家康から「無礼を排し、誠意をもって相接し、回答の書契もすべからく温順にせよ」と命じられたこともあるが、秀忠自身の誠意を示したものであった。

 後に、正使が「今、新将軍を見ると、隣国使節の接待の態度は誠意にみちている。これは両国の人々の幸いである」と述べているように、朝鮮使節に対する日本側の応対は丁重をきわめるものであった。

 それはそのまま朝鮮との善隣友好の関係を築こうとする、徳川幕府の外交姿勢を示したものであった。 

 それから5日後、将軍秀忠の返書が宿舎 本誓寺に届けられ、正式な日朝間の国交が開かれたのであった。
 
 使節団一行は、徳川家康の意向で鶴岡八幡宮や鎌倉大仏を見学、家康が送った船で富士山を望む駿河湾を遊覧した後、駿府城において家康と会見した。使節は人参、布などを家康に贈った。

  駿河2
   朝鮮通信使たちはこの風景を見ただろうか?

 家康は大いに喜び、三使らに白銀など多くの贈り物をした。

 彼ら一行が府中を通過してして行くときは、家康は駿府城の層楼から大満悦の態で見送ったという。

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      朝鮮通信使 正使が乗る輿

 使節たちは、徳川家康が朝鮮を侵略する意思がないことを確信し、家康・秀忠父子への信頼を一層深めたのであった。
 
 江戸幕府は、使節団一行が対馬=江戸を往還する間、拉致連行された朝鮮人の調査・送還について便宜をはかった。 

 朝鮮側は、拉致されてきた同胞全員の刷還を求めたが、日本側は、とりあえず帰国の意思のある者だけ帰すことにした。  

 畿内各地のほか、赤間関(下関)で100余名、肥前名護屋で140名、博多から100余名、壱岐、対馬集まった多く朝鮮人を加え総計1418名を朝鮮に連れ帰った。
 
 使節団のもう一つの目的である武器購入は、京都のおいて長剣500柄、大阪滞在中に堺の商人から500柄の鳥銃を購入をはたした。

 使節団一行は、7月3日、釜山に着き、同17日、漢城に帰着、実に半年の使行であった。
 
 こうして第一回の朝鮮通信使(回答兼刷還使)の往還は、日本・朝鮮両国がそれぞれの思惑を秘めながらもついに復交を成就し、善隣友好の関係へと大きな一歩踏み出したのであった。   
    つづく
 

 
    桜の宴たけなわ

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 3月末、
 東大和南公園の桜は満開、
 早咲きの桜は散りはじめたところもあるが、
 公園のシンボル的な震災変電所裏の
 2本の大木の桜が最高の見ごろとなった。

 DSC_4602.jpg
 
 また、遅咲きの紅さくらも見ごろを迎え、
 平和公園は宴たけなわである。

 DSC_4581.jpg

 家族、若者、会社、サークルや仲間どうし
 大小さまざまなグループが、
 輪になって宴が催されていた、

  DSC_4606.jpg

 終戦後73年、
 毎年,この時期は
 平和の尊さを実感する時期でもある。