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      玉川上水駅

 玉川上水駅は五重層の立体交差駅である。
 全国的にも珍しい駅だと思われる。
 地下二階は、立川市から東大和市へ抜ける芋窪街道、
 地下一階は、玉川上水が芋窪街道をまたぐように流れている。
 一階は、西武拝島線が玉川上水と並行して走っている。
 二階は、西部線とモノレールの乗換え、すべての出入り口につながる通路、
 三階は、モノレールの駅になっている。
 モノレールと電車と車の動きを動画でご覧ください



 静止画だけでは説明出来ないことが、
 動画では、五重層に立体交差する 駅の様子が
 よりリアルに描けているのではなかろうか。
2018.02.11 朝鮮通信使4
        朝鮮半島と対馬2
 
  展望所
      韓国展望所  対馬北端

 15,6世紀の東アジアは比較的に安定していた.
 日本と朝鮮の間に、交隣友好な関係が築かれつつあった。
 15世紀初頭、日・明貿易を開始した足利幕府・足利義満(1358~1408)は、1402年、新しく成立した朝鮮王朝に,はじめて日本国王使を派遣し国交の交渉を行った。

  義満2
        足利義満

  1404年、朝鮮から「回礼使」が派遣されて、倭寇の取締りを要求した。これが契機となり日朝間に国交が結ばれた。
 1428年、朝鮮朝第四代世宗王(1418~1450)は、日本との関係を改善し、善隣友好の関係を築くために、これまでの「回礼使」を改め、「通信使」(誼〈よしみ〉を通わす)を派遣した。これが「朝鮮通信使」の始まりであった。
 朝鮮通信使は、足利義持の死去に対する弔問と足利義教の新将軍襲名を祝賀する名分で派遣された。
 世宗王は、正使・朴瑞生(パクソセン)、副使・李芸(3度目)、書状官・申淑舟 らを派遣するにあたって、日本の社会・文化・技術についての見聞・探索を命じていた。

 *世宗王は、ハングル文字を創製したことで有名である。朝鮮王朝における最高の聖君と評価され、韓国では子供から老人まで幅広い層に尊敬されている国民的英雄である。後年「海東の堯舜」と称され、世宗大王(세종대왕セジョンデワン)と呼ばれている。

  大王像
   ソウル中心街にある 世宗大王像

 申淑舟は帰国してから日本見聞録『海東諸国記』を著わした。この書は、中世の日本と日朝関係史の基本資料の一つとなっている。
 申淑舟は世宗王の信任厚い高官・知識人であった。彼は最後に王に、「願わくは国家日本と和を失うことなかれ」(『増正交隣志』)と遺言を残したという。
 その後、朝鮮通信使が3回派遣され、日本と朝鮮の交流が次第に盛んとなり交隣関係が深まっていた。

 日朝間の交流には、常に対馬宗氏が関与し重要な役割を果たした。。
 この時期、対馬からは多くの使節や交易人が朝鮮に渡り、三浦(サムポ) に停泊するようになった。三浦は現在の慶尚道釜山浦・塩浦・乃而浦を指し、交易のための滞在所であった。その後、そこに長期にわたり滞在する恒居倭(こうきょわ)現れるようになった。
 関周一氏は恒居倭について 、
 「恒居倭の主目的は交易であった。日本からの使節や交易倭船が入港すると、群がって客引きをし、また他の港からも酒を売りにくる者がいた。女は行商をなりわいとし、遊女もいた。男は漁業に従事し、三浦周辺や慶尚道沿岸を漁場にした。朝鮮人とのあいだに頻繁に密貿易を行っていた」(『日朝関係史』 )と述べている。
 富を蓄積する「恒居倭」が現れ、倭人の数が増えつづけた。1494年には、三浦の倭人は合計3105人、525戸に達したと記されている。
 宗貞盛は、三浦の各浦に「倭酋」を配し、三浦代官を派遣して「恒居倭」全体を統括した。対馬は、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点として栄えた。

  しかし、「恒居倭」が増えつづけると三浦内に留まらず、制限領域を超え半島南岸に進出するようになった。ついには海賊行為をする倭人が現れ、朝鮮の船とのトラブルも続出した、
 朝鮮朝は厳格に対処するようになり、「恒居倭」の特権の一部をはく奪し貿易を制限した。不満を募らせた「恒居倭」は結集して、代官と組んで蜂起(三浦の乱)した。
 朝鮮軍によって反乱軍は鎮圧され、全ての「恒居倭」は対馬に送還された、貿易は一時途絶した。
 1512年、対馬島主宗盛順の努力により、朝鮮朝と条約が結ばれ通行が再開された。しかし、歳遺船は25隻に、歳賜米は100石に半減、「恒居倭」は廃止された。開港は釜山だけに制限され宗氏の権益は大幅に削減縮小された。 
 対馬島民は、長期滞在する留館倭人として、かろうじて釜山の倭館に 留まることが許された。

 日本国内は、応仁の乱(1467~77)後、約一世紀の間 群雄割拠の戦国時代を経て、織田信長・豊臣秀吉による全国統一、安土桃山時代(1568~98)へと移行した。
 この間、日本各地には一揆(武士、農民が結集して、年貢や賦役の減免など求め蜂起)が頻繁に起り、山陰、九州沿岸から出た倭寇(後期倭寇)が、朝鮮半島沿岸に出没するようになった。
 宗氏は、朝鮮との関係を維持し交易を拡大するために、倭寇取締りに積極的に取りくんだ。
 まず、横行する倭寇・海賊船の情報を朝鮮側に通報した。
 そしてまた、倭寇に拉致された朝鮮人・漂着した朝鮮人を無事送還して誠意を示した。
 宗氏は、朝鮮王朝の歓心を引くため日本国王使に仕立てられた「偽史」を派遣、朝鮮宛ての文章(朝鮮では書契)までも偽造、改ざんしたものを使者にもたせたのであった。
 
 こうした宗氏の「努力」は、朝鮮との交易の拡大、通行権益を増加させたのであった。
 『朝鮮王朝実録』に足利政権は60余回の日本国王使をソウル(漢城)に派遣したことが記録されている。その中にかなりの「偽使」が含まれていたと考えられる。
 正式な日本国王使であれ「偽使」であれ、全て対馬がその仲介役をはたしたのであった。
  朝鮮に渡航する者は、対馬に立ち寄り、宗氏から文引(印・渡航証明書)を入手しなければならなかった。もちろん宗氏は手数料を取り自らの財源とした。
 
 *宗家旧蔵資料「九州国立博物館所蔵」の中には、朝鮮王朝から銅製の図書(印)が24個あり、他に偽造された「朝鮮国王印」、「足利将軍印」などの木印が残されている。

    DSC_4340.jpg
        九州国立博物館所蔵
 
 「偽使」の多くの場合、将軍周辺の実力者や有力守護大名、はては京都五山などの寺僧が堺商人、博多商人等の資金や援護のもとに渡海していた。
 なぜ、大名や僧侶が商人と組んで「日本国王使」として渡海するようになったのか?
 仲尾宏氏は
 「それは『国王使』に対する朝鮮朝廷厚遇と回賜品を期待してのことである。たとえば、1489年に恵仁という僧侶が遣わされた時は、将軍側近の相国寺当主も知らないうちに、『堺の者』と伏見の般船三昧院が仕立てた使者が『国王使』となって漢城(ソウル)へ行き、大蔵経と布貨を求めていた」(『朝鮮通信使』)と述べている。
 
 朝鮮側では倭寇対策の一環として、渡航船に対して対馬島主の「分引」の携帯を義務ずけた。貿易に従事する対馬人のみに、釜山の他に2ヶ所の居留地・倭館設置を許可した。
 また、朝鮮王朝は対馬島主や家臣に官位を与え、対馬領主、領民に蔵賜米を支給した。
 対馬宗氏は、一年一回、朝鮮国王に服属する儀礼を釜山の東莱府で行い忠誠心を表明していた。
 対馬島主は、日本(室町幕府)と朝鮮両国に服属し、両国の臣下として振舞っていたのである。現代社会では考えられない「処世術」であろう。
 対馬としては、領主・領民が朝鮮との交易に頼り、生き抜くためのやむを得ない術策であっだ。
 
 朝鮮側としても 、倭寇対策や日本との交隣関係を維持のために、対馬を特別に優遇し、彼らを手なずけ従がわせる「羈縻(きび)政策」を採らざるを得なかったのである 。

  展望台
     釜山の夜景 対馬北端展望台

 こうして、お互いの利害関係を調整しながら、朝鮮ー対馬ー日本間の交流・交易が営々と築かれていた。
 16世紀末、このような平和的な交隣関係・善隣の絆も、一朝にして破壊してしまったのが豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争であった。
          つづく
2018.02.04 朝鮮通信使3
       朝鮮半島と対島1

  対馬地図
     日朝間の交通路の要衝 対馬

  善隣友好の使節・朝鮮通信使は、全て対馬を通して行われた。
 朝鮮と対馬は,歴史的に密接な関係にあったことを順を追って記してみる。
 対馬は、朝鮮半島南端と北九州の中間に横たわる国境の島である。
 対馬は、南北2つの島と100近い属島からなり、南北82キロ、東西18キロからなる日本の北西端に位置している。
 釜山から約50キロの距離にあり、南北に長く、車で3時間もあれば縦断できるという。
 島全体が切り立った山々が連なり森林に覆われている。
  司馬遼太郎は『街道をゆく』で、
「まことに対馬は海国であるということが概念にすぎないのではなかとおもわれてくるほどに山また山である。まれに道路の右側に海が隠顕したりすると、ほっとする。まことに『魏志』倭人伝に、
  ”山険しく、深林多く、道路は
  禽鹿(きんろく)の径(こみち)のごとし”
と書かれている三世紀の姿は、こんにちこの南北縦貫道路をのぞいてはすこしもかわらない。山は、樹々を肥らせようもない岩山で、どの木も痩せている」と述べている。
 また、室町時代、朝鮮王朝(李朝)の使節として来日した申淑舟(シン・スクチュウ)は『海東諸国記』の中で、
 「対馬の四面はみな石山ばかりで、土は痩せて民は貧しく、島民は、製塩、漁業、交易を生業としている」と述べている。

  キャプチャ
    対馬のど真ん中 浅芽湾
 
 耕地面積が少ない対馬では製塩、漁業の他に交易を拡大をしななければ生きのびることが難しい島であった。したがって、対馬の 交易は島の浮沈・島民の死活にかかわる問題であった。

 古より対馬は、朝鮮半島と日本列島をを結ぶ航路の要衝となっていた。
 朝鮮半島と対馬の交流は縄文時代から始まっていたことが、遺跡から明らかになっている。
 古代、対馬は大陸、朝鮮と日本を結ぶ海上交通の要衝として文物・人の往来に重要な役割をはたした。
 朝鮮からの渡来人は、対馬を経由して大和に先進文化を運んだ。島のあちこちに渡来文化の足跡・遺跡が残されていることは、それを物語っている。

  対馬図1
  「日本国対馬嶋図」 辛淑舟 1471年
 
 しかし、対馬の地理的条件は、平穏な交易・交流の要衝だけではなかった。
 大陸・朝鮮半島からの日本への襲来・侵略に対しては、最初の攻撃対象となり、日本列島内では考えられない多大な被害を被った、
 一方、日本からの大陸・朝鮮への侵略戦争では、対馬は常に前線基地となり、重い負担と、計り知れない犠牲を強いられた。
 そのため、紛争や戦争が起こるたびに、対馬は初期段階から大きな被害を被った。
 記録に残された紛争、戦争を二つとり上げて見る。
 
 その一つは、1019年、沿海州の伊刀(女真族といわれる)が対馬・壱岐を襲来して略奪行為をはたらき、多くの島民を拉致した。このとき、高麗王朝は引き上げ途中の伊刀を撃退し、日本人2百余人を救出し送り返したという。
 2つ目は、1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)の2度の蒙古の襲来(元寇)である。蒙古軍は、渋る高麗を引き入れ博多沿岸に攻め込んできた。この時は、季節風・神風によって蒙古と高麗の船がことごとく沈み、日本は救われた。しかし、対馬はその前に、蒙古軍の攻撃に晒され甚大な被害を被っていた。

 また、対馬の生産力の低い状態は、島民をしばしば飢餓に追いやった。飢餓は倭寇(海賊行為をする倭人)を生んだ。
 14世紀後半、朝鮮半島南西沿岸、中国大陸沿岸で倭寇が猛威をふるい、陸地奥深く侵入して食糧・財貨の略奪・放火・拉致を繰り返した。
 『高麗史』に「倭寇は、慶尚道・全裸道の港を頻繁に襲撃し、租税を運ぶ漕船や営という役所を襲った」と記している。
 1389年、倭寇の海賊行為に手をやいた高麗王朝は、朴威(パギ)が指揮する高麗軍を出動させて対馬、壱岐を攻撃し、倭寇の巣窟を壊滅させたという。
 対馬側では、この時の戦闘では対馬の軍民が高麗軍を撃退したという。
 壊滅にしろ、撃退にしろ高麗・対馬双方に多くの犠牲者を出し、戦場となった対馬の被害は甚大であったことだけは事実であろう。
 1392年、倭寇が遠因となり弱体化した高麗王朝(918~1392) は、高麗軍の将・李成桂(ㇼ・ソンゲ)によって滅亡した。
 新しく朝鮮半島に朝鮮王朝(1392~1910)が成立した。
 偶然にも同じ1392年 、日本では南北朝が統合し、足利政権が名実ともに将軍家として王権を確立したのであった。
 この時期、中国大陸でもモンゴル族が支配していた元王朝が滅び、漢民族による明王朝(1368)が成立していた。
 14世紀後半、東アジアは大きく勢力が交代・変動した時期であった。

 この時期、対馬を支配していたのは宗氏であった、宗氏の始祖・惟宗重尚(これむねしげひさ)は朝鮮系渡来人・秦氏の子孫である。
 平安時代に朝廷から、秦公直本ら19名が「惟宗」という姓を賜った.その一人が惟宗重尚とされている。
 それまで対馬は大宰府に属し、在庁官人・阿比留国時(あひるくにとき)が支配していた。その阿比留国時が太宰府にそむいて威勢をふるったので、太宰府の命を受けた惟宗重尚がこれをを討ちはたした。
 その功績のより、重尚は室町幕府から対馬国守護に任じられた。そして姓名「惟」の一字を除き宗(そう)と改名した。朝鮮や中国との交易を便利にするためと考えられる。
 
  対馬五代島主宗経茂(つねしげ)は、高麗滅亡後、朝鮮との関係を修復するため倭寇の取締を強化した。
 新しく成立した李成桂の朝鮮にとって、宗氏の倭寇取締りは好都合であった。対馬の宗氏は頻繁に使節を派遣して朝鮮朝と信頼関係を築いた。  
 朝鮮は倭寇を取り締まる見返りとして、宗氏とその家臣らに官職を与え、毎年、歳賜米として米豆200石を贈ることにしたのであった。

  釜山
   海の玄関口・プサン(釜山)市の風景

 1443年、宗氏九代貞盛(さだもり)は、朝鮮と条約を結び、歳遺船50隻の派遣を許可された。
 宗氏は歳遺船の権利を家臣や島民にも与えて運用させ、島内支配の基盤を着々と固めた。
 また、宗氏は西国の各地沿岸に漂着した朝鮮人を、大名、武士らを説得して朝鮮に送還した。朝鮮国王からお礼として莫大な回賜品(おみやげ)を得たのであった。

  厳原
    対馬の中心港 現在の厳原

 宗氏は、朝鮮と西国の領主、商人との交易交渉の仲介役をはたし、西国大名の中でも中核的な位置を占めるようになった。
          つづく