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   到彼岸寺 毘盧遮那如来坐像
 (とうひがんじ びるしゃなにょらいぞう)
 
 朝鮮では、8世紀中頃から鉄仏が作られはじめた。さらに像に銘文が刻まれるようになり、仏像の編年に貴重な資料となった。
 この到彼岸寺(江原道鉄源郡東松面)の仏像は、新羅時代の865年に造られたことが銘されている。 

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   座高 91cm 865年造成 
  
 お顔はこれまでの像とは異なり、現実的な人間の顔を持つことから考えて、当時の禅宗の高僧をモデルにしたかも知れない。
 8世紀後半から9世紀にかけて作られた毘盧遮那仏は華厳と禅の密接な関係のもとに地方豪族の支持を得て成立した。
 それまでの首都慶州中心の画一的な様式を抜け出し、江原道や全羅道など地方に多様な様式の仏像が作られた。
 この如来像の銘文によれば、「信徒千五百余名が結縁して、金石の如き堅い志をもって勤め、労苦を覚えず」造成したとある。
 これは、自営農・豪族たちの強い自立心と自信を示す如来像である。
 地方に社会的・政治的な諸階層の進出が見られ、「地方の時代」が始まったことを物語っている。
         和太鼓

 10月21日、22日の両日、
 東大和「上北台公民館まつり」があった。
 両日ともに台風の接近にともない、
 あいにくの雨で見学者は少なかった。
 それでも、舞台出演者は日頃の練習成果を
 発揮するため一生懸命であった。
 突然、舞台会場から和太鼓の音が聞こえて来た!
  東大和市民ネットクラブの展示コーナーで
 スマホによる動画撮影とそれを画面に映し出す
 実技を手伝うため、その場にいた筆者は、
 すぐさま撮影したのが次の動画である。
 ご覧ください。



 音楽と動作を同時に見られる動画は迫力がある。
 写真や文章だけでは絶対に表現できない、
 スマホで簡単に動画が撮れる、
 何と便利なことか!
      久しぶりの富士山

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   台風最後尾の雲・玉川上水駅周辺上空

 大量の雨を降らした台風21号が過ぎ去り、
 西の空からみるみるうちに青空が広がった。
 それにしても、今月は曇りと雨の日が多く、
 今日までの数日間は連日雨つづき、
 寒さも厳しかった。

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      午前中の富士山
 
 今日は、
 昨日までの悪天候が嘘だったかのような青天、
 1か月ぶりの富士山が1日中姿を現した、

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       夕方の富士山

 筆者は久しぶりの富士山拝見に興奮、
 朝・夕その姿を撮りまくった。

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     夕闇迫る頃の富士山

 富士山の初冠雪、雪を被った
 富士山の雄姿を近いうちに見られるだろう。
     石窟庵 十一面観音菩薩像
  (せっくつあん じゅういちめんかんのうぞう)

石窟庵の入口を入ると、左右にそれぞれ四躯ずつの八部衆が立っている。
 つづいて主室に入る扉道には、左右に二躯の金剛力士と、二躯ずつならぶ四天王像が主室を守っている。
 そして主室に入り、本尊を拝し見渡すと、左右に梵天と帝釈天、ついで文殊と普賢の菩薩がつづく。 
 本尊すぐ横の左右の壁には五躯ずつの十大弟子が個性的な顔で並んでいる。

  釈迦如来
  ドーム型主室 本尊を二層の諸仏像が囲む

  本尊真後ろ中央には、隠された本尊仏のように美しい十一面観音が現すのである。
 新羅人は誠を尽くしてこれら諸仏を彫り上げたのであろうが、特にこの十一面を美しく仕上げている。

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        全高 2・44㎝

  この像は6・5等身の東洋的女性の理想像、これこそ釈迦の慈悲心である。
 東向きに建てられている石窟庵は、日の出の名所としても有名です。
 主室内に朝日が入ってくると本尊の額に埋め込まれた宝石が光るように設計されており、
 その神秘的で厳かな美しさは見るものを圧倒します。
 また、石窟庵の前方は東海(日本海)を遠望できる景勝地である。

  石窟前方
       石窟庵入口の前方 

  1995年、石窟庵は仏国寺と共にユネスコの世界文化遺産に登録された
 韓国有数の観光スポットとなっている。

    石仏寺石窟庵 釈迦如来座像
(せきぶつじせっくつあん しゃかにょらいざぞう)
 
  入口2
      石仏寺石窟庵入口門
 
 新羅の王族で宰相であった金大成は、政治家であると同時に、きわめて優れた建築家でもあった。
 彼は現世の父母のために仏国寺を建立し、前世の父母のために石仏寺(石窟庵)を建立しようと工事をはじめた。
 751年に工事を始め、20年余りを費やしても完成を見ず、彼は774年に死亡するが、その後は国が完成させたという。

  入口
     石窟庵入口付近の構造

 とくに石窟庵は、他の国の石窟と異なり、人口の構造物で、緻密で高度な幾何学と力学に基ずいて設計されている。
 本尊を初めとする構内40躯の仏像の芸術性により、これは「宗教と科学と芸術を総合した至高の美の実現」として輝かしい位置をしめている。
 石窟庵の入口は唐尺(29,7センチ)で巾12尺の前室の奥に、半径12尺の円形のドームがつづき、
中央に堂々たる釈迦如来坐像が安置されている。  

  庵石窟
   座高3・45cm 新羅八世紀

 豊かに円熟し崇高な光を放つ尊顔。簡潔でありながら力強い衣紋、両眼は半ば閉じられ釈迦が悟りを開かれた瞬間の姿である。
 この像の規模は玄装法師(602~644)がインドのブッタガヤーの大覚寺の釈迦成道像を拝し、その規模を記録したた数値と一致することが近年明らかになった。
         コキア

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    見ごろを迎えたコキア

 東大和南公園のボランティア花壇
 コキアが見頃を迎えた。
 今年も、わずかに緑を残しながらも、
 浅黄色から鮮やかな朱色に変わりつつある。
 完全に紅葉していないこの時期が最も美しい、

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       夏の盛り コキア

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         初秋のコキア

 コキアは別名、 
 ホウキギ(箒木)、ホウキグサ(箒草)とも言う、
 コキアの他に、 

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      ゴールデンピラミッド
 
 真黄色のゴールデンピラミッドが鮮やかである、
 コスモスも風に揺られながら爽やかに咲いている、

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          コスモス

 また、秋のバラも盛んである、

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             バラ

 「天高く馬肥える秋」
 食欲の秋、読書の秋も良いが、
 高齢者には「草花観賞の秋」が
 ふさわしいのでは。
          真鶴岬  

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       旅館の窓から相模湾を望む
 
  10月初旬、久しぶりに大学時代の同窓会が真鶴(まなずる)であった、
 真鶴は、小田原と熱海の中間、静岡県と神奈川県の県境にある小さな半島である。
 新鮮な魚貝類の刺身が豊富に食べられると、この場所が選ばれたらしい。
 筆者は、どんなところか興味深々という気持ちで参加した。、
 宿泊はペンション、簡易施設であるが集まった20余名、
 すぐさま、学生時代にタイムスリップ、
 わいわいがやがや、しかし、そこはやはり後期高齢者に達した面々、
 話題は長寿・健康問題へ集約,健康維持・増進のために、
 各自、さまざまな健康法を試みていることが、
 笑いの中に披歴された。学ぶこと多々あった。
 翌日は観光、
 見どころは太平洋に向かって突き出した真鶴岬、

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        真鶴岬の風景

 都会に住む者のとって、岬から眺める大海原の風景はやはり壮観・爽快であった。
 岬から長い階段を降りると三ツ石海岸、名勝に指定されているところ。

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       名勝・三ツ石海岸  
 
 海岸を散策したのち、「遠藤貝類博物館」を見学、
 世界に20万種の貝類があると聞き、驚く、

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     珍しいテングガイの標本

 展示されている4500種の貝類の標本を興味深く見学した。
 見る、聞く、語る、出かけた所には必ず、
 新しい発見がある。
           月下情人
        (げっかじょうじん)

 これは愛し合う男女が、人眼をさけて深夜、合っている場面である。
 朝鮮では、長期にわたり儒教の教えを極端に拡張して、「男女7歳ニシテ席ヲ同ジクセズ」として、男女の自由な交際を禁止した。
 結婚に際しても親同士が話を決め、本人たちは結婚の日に初めて会うということも少なくなかった。
 そういう社会的環境の中で、愛し合う男女は、この絵のように交通禁止となる夜の三更(23時~1時)に家を抜け出し、約束の場所に急いだのである。

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 三日月も二人の心を知るかのように、光を落とし西に沈もうとしている。そのお陰か、男の持つ行灯に照らされて足下だけが明るく、周囲はもうろうとして土塀の上部も闇につつまれ、あばら屋だけが人目をさえぎっている。
 女性はときめく心を抑えかね、男に近ずきながら、被り物を握りしめているが、心はすでに男に傾いていることは、その靴の方向ではっきりする。行灯を持つ男も全身で愛情を現し、共に歩もうとしている。
 この画家(申潤福)が、閉鎖的な社会環境の中で、男女の愛に対して同情し、かつ肯定的なまなざしで、このような絵を好んで描いた心底には、当局の伝統的な政策に対する反抗心が積み重なっていただろう。
 当局者もこれを感じ取り、「いかがわしい絵」を描いたとして、図画省から追放したのである。その晩年についての記録はない。