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    弥勒菩薩半迦思惟像 
 (みろくぼさつはんかしいぞう)

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 像高84cm 7世紀初期 京都・広隆寺

 この半迦思惟像と、前回紹介した金銅弥勒菩薩半迦思惟像は、あまりにも共通する要素が多く、古代における日・朝間の文化交流について多くの話題を提供してきた。
 この半迦思惟像をもつ京都の広隆寺は、新羅系の豪族である秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、推古11年(603年)創建されたという。そこに創建当時から宝冠弥勒と呼ばれる木像・弥勒菩薩半迦思惟像が伝えられてきた。それは日本に例のない朝鮮半島の赤松製。
 あまりに優れた半迦思惟像であるために、これは推古31年(623年)に新羅から伝えられた仏像に当たるとされて、明治になり国宝1号となった。
 千年以上の間、何度も火災にあいながら信者に守られて来た奇跡の仏像である。
  この宝冠弥勒と、前回紹介の金銅思惟像を較べてみると、金銅思惟像は少年のような顔で丸みを帯び、体全体に生命感がみなぎっているのに対し、広隆寺像は青年の顔であり、明るい微笑みというより深い瞑想に耽る様子で、全身に崇高な寂滅の境地をただよわせている。
 思惟像の姿勢は同じであっても、広隆寺像はお顔も上半身も本来あった漆珀はなくなり木目が浮き出して、優しい表情と伸びやかな体つきながら深い瞑想の境地を表し、全面下部の裳裾も美しい模様を描きながら静かに垂れ下がっている。私たちは、この像の前では、静かに頭をたれるばかりである。
    金銅弥勒菩薩半迦思惟像
 [ こんどうみろくぼさつはんかしいぞう]

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 高さ93,5cm 6世紀末~7世紀前期
   ソウル国立中央博物館 国宝

 三国時代を通じて最高の仏像とされるこの思惟像は、長期にわたって百済仏であるか、新羅仏であるのか、論議されてきた。
 そして近年、わが国でもこの仏像とあまりにも共通点を多くもつ京都の広隆寺の木造半迦思惟像が知られるようになり、これは新羅から倭の朝廷に贈られた(624年)、そして新羅系の豪族である秦氏の氏寺・広隆寺に収められたと日本書紀にあることから、それならば私生児のようなソウルの思惟像も新羅のものであろうと考えられてきた。
  ところが歴史的には、6世紀中葉、新興の新羅が国の総力をあげて皇竜寺を建設するにあたって、百済から仏寺建立の巨匠である阿非知とその技術集団200名を招請して、はじめて建立が可能であったのである。
 また、同時代の新羅の小仏像をみても、まだ著しく稚拙なのである。
 この点を考えながら、この思惟像を拝見すると、お顔の少年らしさや身体全体にいきいきとした生命感が充満しており、全体の彫朔的構造の巧みさ、両腕の指先に至るまでの微妙な美しさ、複雑な半迦思惟像を小宇宙のように仕上げる造形力は、わが国の彫刻史ばかりでなく、世界的にも注目すべき名作といえよう。
 仏に対する百済人の純粋な信仰と高い技術が結実した幸運な名作である。 
      面白い梅雨空

 梅雨らしい雨の日は少なく、猛暑日がつづく中、
 7月19日、関東地方の梅雨明けが宣言された。
 梅雨明けと共にますます暑さが増している。
 梅雨の時期、猛暑日がつづいた頃、
 夕日が沈む西の空は面白い空模様の連続であった。
 いろいろな空の光景を目にし、
 暑さを忘れて夢中で撮った画像、
 パラパラとご覧ください。

 梅雨空7


 画像を見ながら、しばし、暑さを忘れてくれれば、、、

       アガパンサス

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 ギリシャ語で「愛の花」という意味。
 玉川上水駅前団地内の細い通路に植えられていた。
 筆者は、これまで見たことがない珍しい花、
 もちろん花名も知らなかった。
 東大和南公園内にある「戦災変電所」の
 ボランティア花壇に同じ花が植えられていた。

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 昨年も咲いていたと思われるが、
 筆者の目に止まらなかったのだろう。
 案内版に載る説明文によると、
 南アフリカの限られた地域に咲く花であるらしい。
 日本にいつ頃から輸入されたか定かではない。
 花の色、花のつき方が「君子蘭」に似ているので、
 「紫君子蘭」という和名がついたという。

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 まっすぐにのびた茎の先に20~30、
 時には100個近い紫いろの花を咲かせる。
 葉はつやのある緑色で剣のような形をしている。

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 花言葉は「恋の訪れ」、
 若い人に好かれる花かも知れれない。
        聖徳大王神鐘
 (しょうとくだいおうしんしょう)

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   後期新羅時代 771年 慶州博物館

 朝鮮を代表する名鐘の一つ、聖徳大王神鐘を紹介しておきたい。 
 現在は慶州博物館にあるが、もともと奉徳寺(慶州市)にあったので奉徳寺鐘と呼ばれている。

 数年前までは、その荘厳な鐘の音は辺りを包み、その余韻は嫋嫋(じょうじょう)と長く響いた。 
 今は1300年の歴史を持つ、この鐘の保存を考え、鐘を撞くことを止めているという。その代わり、かっての鐘の音を録音したCDが売られている。
 聖徳大王神鐘は高さ3・3m、口径2・25m,下部の最もふ膨らんだ部分の前後に蓮華文の撞座を設け、その左右に天衣をひるがえしながら花模様の雲に乗る美しい女性の 飛天像が浮彫されている。
  この梵鐘は、世界最大級で、最も美しい音色と鐘全体の鋳造の技巧において、まさに神鐘という名にふさわしい名鐘であろう。
 鐘身の側面に千字を超える銘文が鋳出されており、新羅の景徳王と恵恭王が2代にわたり先代・聖徳王(33代)の冥福を祈り大鐘を鋳造したと記されている。
       新羅の金官   
     (しらぎのきんかん)

    王冠
   高さ27,5cm 径19cm 5世紀 
    ソウル国立中央博物館

 10点程知られている新羅の金冠の中で、もっとも代表的なもの。
帯輪の上に三本の樹枝形立飾りと二本の鹿角形装飾を付けた典型的な金冠と言える。樹枝形立飾りの枝は三段で、幹は広く大きく、枝の部分はやや細くなっている。
 王は外出の時、まず冠帽を被り、その外側を飾るために、冠帽の周たりに金冠をめぐらせたのである。
 この金冠と冠帽を着け、王が太陽の光の中を歩む時、57個の勾玉(まがたま)は青く輝き、133個の瓔珞(ようらく)はさらさらと音を発しながら、太陽の光を無数に反射させ、王の権威を一段と高めたであろう。
 太陽神を身近に引き寄せるものとして、黄金製の王冠は、古代から権力者の装身具として重要なものであった。
          富士山      
 
  見る度に 気色(けしき)ぞ かはる富士の山
     はじめて向かう 心地こそすれ


 上の短歌は、戦国時代の武将・伊達政宗の作である。
 伊達政宗は初代仙台藩主としても歴史に名を成した人物である。
 戦国武将の作,瞬間的にホントかなと思ったが、
 6月末に発行された「サンデー毎日」に掲載され、解説もついているから間違いだろう。
 無骨な武将が和歌を親しんだとは驚きである、
 見るたび、新鮮に映る富士山の姿を見事にうたい上げている。
 政宗は、武士の顔だけでなく、歌人の顔もあったことに一層驚く。
 筆者は5年間、ブログ記事のため富士山を眺め撮影してきたが、
 季節や、天気具合によって富士山は千差万別に表情を変える。
 政宗の短歌は、400年の時を超えて現代にも通じる内容である。
 筆者は、正宗の短歌の内容に合わせて、今年(2017年)に入って撮った富士山を掲載する。
 富士山の画像・7枚をパラパラとご覧ください。

 2月富士
 

 政宗は、何処から富士山を眺めたか定かでないが、
 江戸時代は、高台があればどこでも見えたのだろう。
 筆者は、富士山を眺望する環境に恵まれたがために、
 政宗の短歌を知ることにつながったのだろうか?
 
     幻想的な梅雨空

 7月1日、
 雲のすき間から覗く夕日を撮影していると、
 突然に空が明るくなったかと思う間もなく、
 空全体にビックリする幻想的な光景が現れた。
 まず、動画をご覧ください。




  このような空模様を何と呼ぶのでしょうか?
 知っている人がおられたら教えてほしい。
 

      青磁象嵌 辰砂雲鶴文合子 
 (せいじぞうがん しんさうんがくもんごうし)

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   口径11cm 13世紀 奈良・大和文化館

 きれいな小物入れである。貴族の女性が装身具や指輪などを入れていたのであろう。
 また、この合子自体が、女性の居間に飾る一つの宝石の役割を果たした。
 丁寧な作り方で、本体を作って乾かし、二重の同円心を大と小との二つを彫って白い陶土を入れる。真中には一双(一対)の鶴を象嵌する。
 そして、その辺りには赤色を発色する辰砂を施す。よく見ると鶴は互いに首を縒り合わせて親愛の情を現している。 
 次の円内には3羽の鶴が舞い、その間には気の結晶である「雲文」が漂う。そこにも薄く辰砂が色ずけされている。
 その外側には、花びらを配列して象嵌し合子を完成させている。伝統的な鶴と雲文と花びらを組み合わせた繊細で、かつ安定感のある装飾と言えるだろう。
 この小さな器に、高麗の人々の優しい心情が結晶しているのを見てとれる。
 
2017.07.01 民族の美5
     青磁象嵌雲鶴丸文梅瓶
(せいじぞうがんうんがくまるもんめいびん)

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 中国の青磁が均衡のとれた典雅な美しさを誇るとすれば、高麗の特色として柚色の美しさと、細工の精妙さとともに、中国の陶磁器に見られない「象嵌青磁」の発明と完成である。
それでは象嵌青磁とは何であろうか?

 1. 胎土はいくらか鉄分を含み、灰色に焼きあがる土を使い成形する。
 2. 成形してから、まだ生乾きのうちに、鋭い刃物で文様を彫りつける(普通は陰刻)。
 3. 彫った文様の窪んだ部分に純白の土と赤土をうめこむ。そして、ほぼ乾いたところで器面を平滑にならす。
 4. こうして象嵌の文様ができたら、一度窯に入れて焼く(素焼き)。
 5. 焼きあがった器に青磁釉をかけ、乾かして再び焼くのである。

 このような手法で、始めは高麗文人の好みに合わせ、素朴な線で柳の木と、その上の白雲、そして柳の木陰の池に遊ぶ水鳥などの文様が描かれた。
 この技法が13世紀に至り、完成の域に達したのが上の作品。右肩から左下に並ぶ丸文の中の鶴は雲に乗り、右上を目指して舞い上がっている。そして、丸文の外に飛び交う鶴は右下を目指して舞い降りようとしている。
 ここでも二つの同じ要素の反復が一つの大きな総合体となって、芸術作品を作り上げている。