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2017.03.27 高麗の里96
       高麗僧・勝楽
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       聖天院勝楽寺前の風景

 高麗僧・勝楽の名を知る人は少ない。勝楽の名が知られていない理由は,詳細な記録がなく地方の一仏教僧にすぎなかったからと思われる。
 あえて筆者が、僧・勝楽をとり上げたのは、 勝楽寺村の「仏蔵院勝楽寺」と高麗王若光の菩提寺「聖天院勝楽寺」の2つの由緒ある寺院が共に,彼によって建立されたと考えられるからである。
 
 僧・勝楽の名が記録に初めて登場するのは、高麗王若光の侍念僧として菩提寺・聖天院勝楽寺の建立のときである。
 「高麗山聖天院の由来」には、
高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めた。王は没後神に祀られ(現在の高麗神社)たが、その侍念僧勝楽は王の冥福を祈るため一寺を建立して果たせず751年(天平勝宝) 示寂したので、若光の3男聖雲と孫の弘仁がともに師の意志を継ぎ寺を建て師の遺骨を納めてその冥福を祈った。その寺が高麗山聖天院勝楽寺である」と書かれている。
 また、高麗神社が発行した『高麗神社と高麗郷』には、「聖雲が師僧勝楽の冥福を祈らんが為に勝楽が高句麗より携えて来たった歓喜天(仏教を守る天神の一つ・聖天様)を安置して開基した」と記している。

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     聖天院勝楽寺 本堂への階段
 
 仏蔵院勝楽寺は、百済からの渡来人・王辰爾の開山とされているが、それを記した「仏像院勝楽寺縁起」には、
 「霊亀2年(716年)に高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・歓喜天を安置、勝楽寺聖天院と呼び、4年後に2尊を抱いて北に移り、今の高麗村、高麗人の子孫が住むところに1寺を建て、聖天院勝楽寺大彌堂と言い、今も存在する」(所沢市史寺社編)と記されているのである。
 ここにいう高麗人とは、高麗僧・勝楽のことではないのか? 
 なぜなら、「阿弥陀・観喜天を抱いて北に移り」高麗村にて「一寺・聖天院勝楽寺」建て、「歓喜天」を安置した等、これら記事の内容に符合する人物として、高麗僧・勝楽以外に考えられないのである。

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      僧侶      歓喜天

 高麗王若光の侍念僧であった勝楽は、751年に亡くなったことことがはっきりしているが、いつ、どこで生まれ、いつ渡来して来たのか、いつから若光の侍念僧になったのか、仏蔵院勝楽寺を開山したという百済人とはどのような関係にあったのか謎が多い。
 筆者が僧・勝楽について、わずかな資料と伝説をよりどころに、次のように想像力を膨らませてみた。
 668年高句麗の滅亡により、僧・勝楽は多くの高句麗人(高麗人)と共に難民となって日本に渡来、入間郡勝楽寺村に入植した。僧・勝楽を中心に高麗人たちの技術力と懸命な努力により開拓がすすめられた。そして約50年後の716年、勝楽寺の建てるまでに経済力が向上し、生活も安定したと思われる。

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    現在の仏蔵院勝楽寺 所沢市山口 

 勝楽らが入植した頃は、未開地で地名すらなかったが、寺院建立にともに僧・勝楽の名に因んで勝楽寺の寺名が付けられ、やがて、周辺集落を 勝楽寺村と呼ばれるようになったと考えられる。
 勝楽寺建立の同年、高麗郡の設置と王族の高麗王若光が郡司として赴任することを聞いた僧・勝楽は、その4年後、2尊を抱いて高麗郡の若光を訪ねた。この時から高麗王若光の侍念僧になったと考えられる。
 僧・勝楽の活躍により、勝楽寺村と高麗郡との交流も盛んになった。
 『仏蔵院勝楽寺縁起』に「上山の大彌堂を崩して寺を建つるに高麗村より人多く来り助け造れり是を勝般寺と号す」と記されている記録は、頻繁に交流が行われたことを裏付けているのではなかろうか、

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     聖天院勝楽寺山門 文化財

 僧・勝楽は高麗郡全域の仏教の普及に貢献したと思われる。高麗郡建郡1300年を記念して発行された『早わかり高麗郡入門』に、「高麗氏系図には天平勝宝3年(751年)に僧・勝楽が亡くなり、勝楽寺を創建すると記されています。発掘調査によって得られた高岡廃寺の創建年代と勝楽寺の創建年代が一致することから、高岡廃寺は高麗氏一族の仏教の師である僧・勝楽の菩提寺だった勝楽寺の可能性が高まったのです」と書いている。勝楽寺の末寺は54寺あったと記録されている。
 若光の子・聖雲や孫の弘仁が、勝楽を師として敬っていることから、高麗僧・勝楽は入間郡の勝楽寺村や高麗村はじめ、高麗郡(高麗の里)の村民から信望をあつめた名僧であったと思われてならないのである。
2017.03.23 高麗の里95
       仏像院勝楽寺3

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       王辰爾山仏蔵院勝楽寺
 
 仏蔵院勝楽寺の由来と歴史について、寺が発行した『勝楽寺大坊略縁起』に,
 「当山の草創は、零亀2年(西暦716年)武蔵国入間郡勝楽寺村に朝鮮半島から渡来した王辰爾一族の人びとが、阿弥陀如来・観喜天をまつり、勝楽寺聖天院を建立したときに始まり」としている。
 
 また、一方で同じ『勝楽寺大坊縁起』に、「霊亀2年(716年)に高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・観喜天を安置、勝楽寺聖天院と呼び、4年後に2尊を抱いて北に移り、今の高麗村で高麗人の子孫が住むところに1寺を建てた、聖天院勝楽寺大彌堂と言い、今も存在する」(所沢市史寺社編)と記されている。
 縁起の内容は、一方では百済からの渡来人・王辰爾一族が勝楽寺を建てとしながら、また一方では高麗人が来居して1寺を建て勝楽寺聖天院と呼んだと云い、 勝楽寺を建立したのは百済人か、それとも高麗人か疑問を残しているのである。この疑問について,調べて次の機会に言及することにしたい。

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      仏蔵院勝楽寺 入口階段 

 仏蔵院勝楽寺は、高麗郡建郡と同じく昨年、建立1300年を迎えた。しかし、この寺院の1300年をふり返って見ると、よくも存続したものだと思わずにいられない苦難の連続であった。
 由緒ある勝楽寺が歩んだ盛衰・1300年の歴史を『勝楽寺大坊略縁起』を基に記してみる。 
 
 勝楽寺は平安時代に最も栄えたらしい。七社神社の別当にあたり12院12坊の大伽藍をもつ武蔵野一の霊場として繁栄したと伝えられている。
 源頼朝氏の祈願所になったが、1266年、鎌倉幕府六代将軍のとき騒動が起こり寺社は、500騎の軍勢に焼かれ廃墟となった。その後、再興が計られたが戦乱の世がつづき寺院は長い間荒廃の時代が続いたと思われる。
 江戸時代の1621年、真慧上人を中興の祖と仰ぎ十一面観音を安置して再興したのであるが、1804年火災にあい、またしても坊社を焼失してしまった。
 1819年に再建された当時の伽藍は、裏山に7社神社、境内に阿弥陀堂・地蔵堂・そして大坊の池に日限地蔵・歓喜天・弁財天がまつらて往昔の名残りをとどめていた。
 明治維新後、寺社分離令により、7社神社は所沢市山口の中氷川神社に合祀された。
 そして、前回の記事で述べたよう1929年(昭和4年)、狭山湖の出現によって勝楽寺の伽藍は現在の地に移築された。
 現在は狭山33観音第2番、奥多摩新四国八十八ヶ所第七十三番札所となっている。

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     仏蔵院勝楽寺 境内  

 筆者が昨年(2016年)の秋、仏蔵院勝楽寺を訪れた。寺は幹線道路から少し奥に入った高台に建っていた。急な階段を上り境内に入ると、そこは綺麗に清掃された静寂の空間であった。境内から入口方面を眺めると狭山丘陵が連なり見晴らしの良いところであった。『湖底のふるさと』を書き残した人たちが、旧勝楽寺から眺める風景によく似ていると言っていたことを思いだした。静かな景観が好いところであった。

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    勝楽寺境内から狭山丘陵を眺める

 筆者は、寺の関係者から勝楽寺の歴史や寺の縁起、勝楽寺移転時の話など伺うつもりであったが都合により実現できなかった。再度訪れる予定をしている。
2017.03.19 高麗の里94
      仏像院勝楽寺2

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      当時の仏像院勝楽寺

     「勝楽寺の大芝居」 久保田義一
「昔は秋になると、各村々で大芝居を催しものである。近郷近在揚げて見物に集まり実に盛大なものであった。当時勝楽寺にはその貸し舞台(廻し舞台付)、及び大道具小道具師すべて揃っており、毎年秋になると主催村の人が総出で舞台借出しの手車で行列したものであった。
 ちょうどその頃、大正6年(1917)、青年団の発起にて村の長老の快諾も得て、勝楽寺で大芝居を開催した。役者は当時二本木(今の瑞穂町)に板東寿当という有名な役者がいたので、そこへ申し入れ来談したところ、当時は普通二晩で2百円位であるが、勝楽寺で催すには安い芝居は出来ない。二晩で五百円出してくれと言われ、とにかく五百円で契約した。
 青年団としても、もし赤字の場合は各自相応に負担する事を申し合わせ、悲壮な決意で出発した。それから毎日総出で準備にかかり、材木は野村九一郎さんの山から安くゆずってもらい、切り出し運搬その他材木の購入等一か月以上要して大芝居の舞台がかんせいした。
 役者は36名余り来て、その一行中の板東秀調という歌舞伎役者は当時名代の名優であり、特別出演で今にして当時を知る者の語り草になっている。

  村祭り
      村祭り   イラスト

 所沢駅まで出迎えの人力車は、入間川、豊岡方面からも動員したがわずか17台きり集まらず、あとの役者は車の後について歩いてもらった。宿舎は秀調は仏像院へ一人、その他は3人5人と相部屋で、それぞれ村の大きな家々に分宿してもらった。
 いよいよ上演当日、十月22日、23日の両日とも前日までの大雨もすっかりあがり晴れ渡った場内は立すいの余地もない大観衆で埋まり大好評の内に打ち上げ、また収支の方も各家庭及びその親戚の方々のご芳志により赤字も出ず大芝居も大成功で終了する事が出来た。」
 上の文章は『湖底のふるさと』に載せられたものをそのまま転載したものである。大芝居を開催するために、村の青年団員たちが駆けずり回る様子や、大芝居を見物して興奮する村人たち大観衆の熱気が伝わってくるようである。
 当時の勝楽寺は祭事のみならず、村民の娯楽や大きな催し・文化の中心であったことを物語るものであろう。

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    狭山湖 湖底に勝楽寺村があった

 しかし、大芝居が催されてから12年後の1929年(昭和4年)、仏像院勝楽寺は現在の所沢市山口へ移転を余儀なくされたのであった。つづく
2017.03.15 高麗の里93
      仏像院勝楽寺1  

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   狭山湖 手前所沢市山口 ネットより

 仏像院勝楽寺は1300年の歴史を誇る由緒ある寺院である。
 勝楽寺は、1200年ものながい間、武蔵国入間郡勝楽寺村の丘陵に建っていた。
 凡そ90年前、東京市民の飲み水確保のための山口貯水池(狭山湖)築造に伴い村全域が湖底に沈んだ。
 村民は移住を余儀なくされ、勝楽寺は現在の所沢市山口に解体移築された。 
 湖底に沈む前の仏像院勝楽寺は、勝楽寺村の村民にとって聖地であり、祭事はもちろん娯楽や憩いの場所であった。
 筆者が、当時の勝楽寺村や勝楽寺の様子を具体的にイメージしたのは、村民が書き残した文集・『湖底のふるさと』を読んでからである。
 この文集は、勝楽寺村に生まれ、少年期・青年期を過ごした有志が、村が湖底に消滅してから50数年後(1983年・70才前後) に集まって綴ったものである。
 勝楽寺村の様子をありありと描いていることに感銘した。

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    桜につつまれた勝楽寺
  
 『湖底のふるさと』に書かれた勝楽寺についての一文を載せる。

   「古里の想いで」 久保田義一(大正3年生)
「・・まず心の故郷として、一番心に焼付いているのは、勝楽寺の象徴、大坊の七社神社及び仏像院である。県道に面していたため誰知らぬ者がなかった。その県道も貯水池により堀口の堤防で分断されてしまったが、当時は所沢から八王子、青梅、立川方面への唯一の幹線でもあり、商業の中心所沢との交流は、皆この県道を往来した。
 
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  県道 所沢ー武蔵村山 当時の勝楽寺から

 その県道から見える高い急な石段・・登りつめると、うっ蒼たる七社神社、杉の大木、椎の巨木等生い繁り、あれだけの地形の境内は今この周辺には見当たらない。・・石坂のふもとには氷のような冷たい自然井戸。盛夏には学校の帰りみち、生徒はここに寄って涼を取り、道草を食ったものである。下には三ッの池”東池の中に歓喜天を、西池に弁財天を、北池の中に日限地蔵を安置す”と古記にある。ここを大坊の池といって特に知られていた。池の回りには桜の大木が連なり、当時は絶好の花見名所であった、広場はグランドになっており、毎年秋になると勝楽寺の運動会が催され、・・4月8日はお釈迦様の生誕日、花まつりといってその日はお寺の廊下に甘茶がよういされ・・山口小学校の生徒は全員参拝、夜はお神楽が催され、参道には出店が並び近郷近在の見物客で境内は埋め尽したれたものである。・・」
  
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   五郎松 勝楽寺周辺に立っていた
 その地に在住した人たちだけが書ける勝楽寺の姿であろう。つづく
 
       不思議な現象

 三月初旬,不思議な現象を目撃した。
 太陽が山の彼方に沈むと、
 そこから炎ような白い塊りが盛り上がった。
 小さな富士山のような形になった。
 やがて溶けていくように消えていった、
 約5分間の出来事、パラパラとご覧ください。

  不思議
 
  これまで、不思議な自然の現象を見たが、
  このような現象を見るのは初めて、
  薄い雲が関わっていると思うが、
  気象音痴の筆者には説明がつかない、

    鯉が泳ぐ憩いの場所2

 上水小橋の下に棲む鯉を撮ろうとスマホを構えていたが
 なかなか出てこないのであきらめかけたそのとき、
 親子ずれがやって来てエサを投げ入れた、
 鯉が一斉にとびしてきた。こんなに沢山いたかとビックリ、
 すぐさま動画に切り替えて撮影した。ご覧ください。




 とっさの撮影であったが、スマホがこんなに便利なものとは・・
 撮影者が驚いた。
     鯉が泳ぐ憩いの場所

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     鯉が泳ぐ様子が見られる上水小橋

 玉川上水駅南口を出て、上水下流に向かって5,6分も行くと玉川上水小平監視所がある。
 この監視所の裏側に小橋がかけられいる、上水小橋である。
 この橋が「小さな憩いの場所」になっていることは前回の記事で紹介した、
 今日は、この橋の下を棲みかにしている鯉・緋鯉紹介する。
 鯉は、かなり沢山いるらしいが日によって出てこないこともある。

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 一匹、二匹はつど見られるが、群れをなして泳いでいるのを見るためには、かなり根気が必要だ。
 次の画像は何日かかけて、いろいろな種類の鯉・緋鯉が泳いでいる様子をカメラに収めたものである。
 近隣の市町村で、鯉が泳いでいる池や川は殆ど見かけられなくなった。

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 近くに、このような憩いの場所あることすら知らない人も多いように思われるのであらためて紹介する次第

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 小さな子供に、鯉の泳ぐ様子を見せることできる絶好の場所ではないかと、
見学をお勧めします。
2017.03.01 高麗の里92
    「コマ」の地名が残る場所4

  木津川
     高麗寺跡 麓を流れる木津川
       
     高麗寺跡(こまでらあと) 
 
  山城国相楽郡南山城村
 現在の京都府木津川市山城町上狛高麗寺、

  寺跡
     高麗寺跡  入口付近

 高麗寺は、木津川を見下ろす山城町上狛台地の田園の中に建つていた、
 今から約1400年前、7世紀初頭(飛鳥時代)に創建されたと推測されている。
 高句麗からの渡来氏族・狛(高麗)氏の氏寺として建立されたと考えられている。
 相楽郡には上狛郷、下狛郷の2郷があり,一帯に高句麗・狛(高麗)人集落が数多くあったようである。
 1938年,はじめて高麗寺跡が発掘された。その後、今まで9回の発掘調査が行われたと云う。
 西に金堂・東に塔・周りを回廊に囲まれた発起式伽藍配置になっていた。
 創建時は飛鳥寺と同じ軒瓦が使われていた。その後の造営で斉明天皇の菩提寺・川原寺と同じ軒瓦をふくめ、平安時代まで39種の瓦が使われたことが分かった。

概略図 寺跡地図

 天平年間に高麗寺の僧・栄常は、寺に起居していた白衣の者(朝鮮民族を白衣民族と呼ぶ)と囲碁を打った云う説話が残っている。 『日本霊異記』(822年)
 高麗寺は、白鳳期から平安時代まで存続したが、その後,廃寺となり現在の高麗寺跡になったと推測されている。
 『日本書紀』によれば、「相楽郡に高麗国使のために迎賓館として相楽館、高楲館があった」ことが記されている。
 現在でも山城町に「上狛」という地名があり、JR奈良線に「上狛駅」がある。
 高麗寺跡は、国の史跡に指定され 京都府の最古の遺跡であるいるという。
 それにしても、「高麗寺」の寺名がそのまま残っていることは全国的にも珍しいことでもある。
 そして、奈良県と隣接する京都府木津市山城の高麗寺跡は、古代の歴史のロマンを感じる所になっているらしい。高麗寺跡を訪れる人が増えているという。

  発掘調査
     高麗寺跡  発掘調査風景

 筆者が「高麗の里」をブログ記事に載せるようになって、歴史マニアや渡来人の歴史に関心を持つ人たちから、「山城の高麗寺と高麗郡とは関連があるのか?」と質問されたことがある。
 京都山城の高麗寺は、すでに定着していた旧高句麗(高麗人)により建立されたもので、高句麗滅亡後、716年に建郡された高麗郡とは1世紀以上の時代的違いがあり、世代も代わっていることから、山城の高麗寺と武蔵国の高麗郡とは何ら関連がないと応えている。
  
  秋の風景
     高麗寺跡  初秋の風景

 現在、秋の高麗寺跡は彼岸花(曼珠沙華)が咲き乱れる観光スポットになっているらしい。
 
 「コマ」の地名が残る場所は、神奈川県大磯町の「大住郡高麗」、東京都狛江市の「多摩郡狛江郷」、埼玉県児玉郡の「駒衣」、奈良県桜井市の「狛」等々がある。つづく