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     東大和市総合福祉センター
    
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      東大和市総合福祉センター”は~とふる”  
 
 新しい東大和市総合福祉センター〈4階)が東大和南公園前に建った。
 以前、その場所には爆撃の痕が残る給水塔が立っていた。
 筆者は、そんなことはすっかり忘れていたのであったが、
 思い出させてくれる記事がネット上に掲載された。
 東大和市民ネットクラブの仲間・野火止用水さんが出している、
 『狭山丘陵の麓で』に次の画像と記事が載せられた。
 

 給水塔 (2)

       ” おもいで記録”
  「一見、どーってことない風景ですが、愕然としました。
 手前の給水塔は撤去されてビル群となり、全く見られない景観です。
 給水塔は、この地に軍需工場(東京ガス電気工業(株)→日立航空機(株))があった時のものです。
 爆撃された痕を残し、変電所跡と対になって貴重な戦争遺産でした。
 あるときは何でもなかったのに、なくなってみると、その場所を確かめるのに苦労します。
 それに、もう2度と撮れません。
 そこで、決心しました。
 今回の記録は、大きく変わるところを優先しよう」

 
 画像を見たとたんに筆者は、アツ!と驚いた!
 すっかり忘れていた給水塔ではないか、
 思い出したのである、確かに給水塔は数年間、
 見つづけてきたものであった。、
 1993年、玉川上水駅前の高層アパートに引っ越してきたころ、
 玄関前に立つ煙突のような給水塔は毎日のように見ていた、
 2000年前後に給水塔が撤去され、そのあたりはさら地となっていた。
 その後、筆者の記憶から給水塔の存在は、すっかり消え失せていた。

 昨年(2015年)の春ごろから給水塔があった場所に、
 市の総合福祉センターの建設工事がはじまった。


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      福祉センター建設工事 2015年9月

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      福祉センター建設工事 2016年1月

 上の画像は、ブログ記事になるかと工事が始まったときから撮りつづけてきたものである、
 不思議なことに、給水塔があった場所付近にクレーンが立っている、
 建設工事は順調に進み完成まじかである、
 福祉センターがオープンのときにブログに画像を掲載するつもりであったが、
 「狭山丘陵の麓で」の給水塔の画像と記事に触発されて、
 緊急にこのブログ記事の作成となった。


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     東大和市総合福祉センター 桜が丘公民館側から撮る

 この福祉センターの名称は”は~とふる”と名付けられている。
 名前の由来は<心と心が通いあう、あたたかい心のこもった施設>。
 市民の公募により名付けられたという。


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 因みに給水塔が立っていた場所、筆者の記憶では
 玄関口の反対側、建物の西端あたりの所ではと推測している。
 筆者も高齢、いつ日か、この施設に御厄介になるかもしれない。
 そのときまた、給水塔があったことを思いだすだろうか?


2016.08.26 高麗の里60
      在日作家金達寿と高麗神社

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      高麗の里 日和田山の見える巾着田の風景

 在日一世たちにとって、高麗・高麗郡・高麗村という地名は、朝鮮半島から渡来した先祖が眠る地であり、同じ民族の後裔たちが住む「里」として郷愁を覚える地名であるらしい。
 在日一世とは、植民地時代(1910~1945)に故郷を離れ、終戦後も祖国朝鮮の南北分断・対立による社会的・経済的混乱と生活上の不安などの理由で帰国せず、日本に残留した人たちである。
  その後、韓国政府の渡航制限により在日一世の祖国・故郷への訪問も不可能となった。そのため、彼らはつねに祖国の平和統一を願い、年を重ねるごとに望郷の念を募らせた。
  金達寿(キム・タルス)もまた、そのような在日一世の一人であった。 彼自身が綴った『わがアリランの歌』によると、1930年、10才のとき故郷・朝鮮慶尚南道昌原郡(現韓国昌原市 )に祖母一人を残して渡日してきた。
 5年前に渡日していた母・兄・妹(父は2年前病死)が住む東京に着いた金達寿は、言葉がわからず貧困と朝鮮人差別・蔑視の社会環境の中でも 闊達な少年であったらしい。
 彼は納豆売り、屑拾いなどして働きながら品川区大井尋常夜学校(現源氏前小学校)に入学、その後も苦学・独学をかさね日本大学専門部芸術科を卒業、神奈川新聞社に就職、『位置』や『塵』など小説を発表した。
 金達寿は、戦前に2度(1940年、43年)故郷訪問を果たしたが、戦後は行くことが出来なかった。


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       対馬から祖国・故郷を望む金達寿

 1945年,太平洋戦争が終わると、金達寿は在日朝鮮人の円滑な祖国への帰国のために奔走し、在日朝鮮人連盟(朝連)結成に尽力した。朝連神奈川県本部常任委員、雑誌『民主朝鮮』を創刊、『後裔の街』を発表して本格的な作家活動を開始した。
 新日本文学会に入会し、芥川賞候補になった『朴達の裁判』をはじめ数多くの短編と『玄界灘』、『太白山脈』などの長編小説を発表した。『金達寿小説全集』(1~7巻)としてまとめられている。

 作家・金達寿が古代史に関心をもち、朝鮮遺跡を訪ね歩く端緒となったのは飛鳥地方と高麗の里訪問であった。そこには朝鮮半島からの渡来人の足跡、朝鮮文化の痕跡を色濃く残していたからであった。

  岡寺から飛鳥
       岡寺から飛鳥を望む   

  金達寿が高麗村の噂を耳にしたのは戦中、横須賀 に住んでいたときでった。
「埼玉県のあるところに高麗村というのがあるそうだが、そこは大昔に朝鮮人が来て住んだところで、高麗神社というものがあるそうだ。それでこの村の人たちは、いまでも、朝鮮人が行くと自分たちの先祖が来たといって、とてもよろこんで迎えてくれるそうだ。”先祖が来た”というのおかしなはなしだったが、ともかくそれは私の記憶にのこることばだった」(『日本の中の朝鮮文化1』以後の引用文は同書)しかし、戦前に金達寿が高麗を訪れることはなかった。

 戦後になった1947,8年頃、金達寿は在日文学者仲間とはじめて高麗郷・高麗神社を訪れた。 そのとき、文学仲間たち一行は高揚していた。その様子を金達寿は小項目「まだ見ぬ”故郷”高麗郷 」で次のように書いている。

「東京はまだ焼け野原だった。池袋の駅前には、たくさんのバラックが立ちならんでいた。いわゆるヤミの時代で、そのヤミ市で私は一行とともに焼酎をのんで電車に乗り込んだのをおぼえている。一行は詩人の許南麒(ホ・ナムギ)、李殷直(リ・ウンジク)それにいまは無くなった朴三文(パク・サンムン)ほか朝鮮人ばかりで、はじめてその高麗村なるところへ行ってみることができるということから、私たちはひどくはしゃいでいたものだった。なにかずいぶん遠くへ、まだ見ぬ故郷へでも旅立つような思いだった」
 
 高麗駅に着いた一行は、高麗神社入り口付近の大村屋という小さな旅館に入いった。宿帳に本名・朝鮮名を記すと「宿の主人も、”ほうそうですか”といって、歓迎してくれた」、旅館での歓迎は、戦前に監視の対象、差別・蔑視の対象であった朝鮮人知識人の彼らが、ようやくそこから解放されて民族の誇りを取り戻した瞬間であったのであろう、「私たちは旅館でも打ちはしゃぎぎながら酒を飲んだ」と当時の思い出を語っている。

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      高麗神社入り口付近にあった将軍標
 
 翌日、高麗神社を参拝した一行は、当時学生であった59代宮司・高麗澄雄から神社に伝わる社宝を見せてもらった。その中に57代宮司・高麗興丸氏の「祖国朴嬢」と記された漢詩があった。漢詩は朝鮮の女性飛行士に寄せたもので、宮司・興丸氏自身が朝鮮を「祖国」と呼んでいることに深い感銘をうけた。金達寿は「千数百年まえにそこを離れて来た彼らが、今日なをその朝鮮を「祖国」とよぶ。それはいったい何なのであろうかと、私はその後もずっと、高麗神社を訪れるたびに想いつづけたもであるが、」と強烈な印象をもったことを記している。 
 
 金達寿が高麗神社に特別な関心をもつようになった、また一つの理由は、高麗神社に残る「高麗氏系図」の存在であった。
 この『高麗氏系図』は、朝鮮のいわゆる『族譜』に比するもので、金達寿は「これをみるだけでも、私たちはそこに歴史というものの重みの一つを感じないではいられない。千数百年、よくもそれが連錦とつづいて来たものとつくづく思う」と言い、高麗王若光が新設された高麗郡の中心的な存在として高麗氏族が代をついで栄えてきたことに感銘をうけている。

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      高麗王若光の墓 高麗山聖天院

 そして、金達寿は『高麗氏系図』の存在から「奈良時代から平安時代にかけて多くの人物も輩出、ことに、鎌倉時代に関東武士のなかに高麗氏から出たものが多い。まして自余の”1799人”(高麗郡設置当初の高麗人の数・『続日本記』)といわれた多数の人間の中からどういうものが出て、どういうふうになったかは想像にあまりある」と書いている。
 
 作家・金達寿の 高麗神社訪問は、古代の日朝関係に関心をもち「日本の中の朝鮮文化」シリーズをはじる端緒となったことは確かである。因みに「日本の中の朝鮮文化』第一巻は、郡司・高麗王若光が上陸したした大磯のある「相模国の遺跡」からはじまり、つづいて「武蔵野の年輪」と題して高麗郷・高麗神社について詳しく記している。

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          高麗神社前    

 在日作家金達寿の出世明神・高麗神社訪問は、出世を願っての訪問ではなかったが、「古代史研究家」して活動の場を広げる転換点となり、作家であったときよりも、はるかに有名人として飛躍したことは事実であろう。つづく
      台風一過

 8月22日(月)、台風9号が関東地方を直撃した。
 朝から暴風雨で交通機関にも影響があった。
 筆者も予定をキャンセルして一日家に閉じこもった、
 夕方、明るくなったのでベランダから奥多摩方面を眺めると、
 アッ!と驚く神秘的な光景がひろがっていた、
 パラパラとご覧ください。


  台風一過


 最近は高性能カメラは肉眼よりも鮮明に撮影できるという、、
 筆者が撮った画像は、肉眼で見た光景よりはるかに劣る、
 安いカメラの性能とカメラ技術の不足は如何ともしがたい。
      八月の富士山

 8月Ⅰ7日(水)
 台風7号の影響が残ると思われたが,早朝から快晴であった、
 ベランダから西山を眺めると富士山が浮かんでいた、
 7、8月は、めったに見られない富士山、珍しい,
 気温が上がり富士山が見えなくなるまで
 その間、約3時間撮りつづけた、
 2月の富士山を一枚挿入して見た、
 パラパラとご覧ください。


  8月の富士

 久しぶりの富士山であるが、しょせん夏の富士山、
 雪を被った冬の富士山の姿にはかなわないのでは、
       ボランティア花壇4

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         今年最後のヒマワリの盛り

  東大和南公園の平和広場に設けられたボランティア花壇、
  見ごろを向かえた花は、日々草とジニア(エレガンス)

          日々草
  
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  原産地はマダカスカル、花言葉は楽しい思い出、友情
 一つの花は3~5日で散るが、
  
 
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     左からメランボジウムー日々草ーサルビアファリナセア

  名のとうり初夏から秋までつぎつぎと咲く花である、
  アルカイド系を含む薬用植物である、
  
       
      ジニア(エレガンス)  
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  原産地メキシコ、アメリカ、花言葉は友を思う、幸福
  初夏から秋にかけて長期間花を咲かせる、
  日本だは百日草と呼ばれれるジニアの代表種である、
  暑さに強く育てやすいらしい、
  気温が下がる秋に最も鮮やかに咲くらしい
 
  
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       色とりどりのジニアが咲き誇る

 早咲きの大きなヒマワリはすでに枯れたが、
 遅咲きのヒマワリはいまが盛んである、
 お盆が過ぎると秋の花が咲き始める、
 もちろん、ボランティア花壇はいつ行っても、
 色々な花が咲いている、


  
2016.08.09 高麗の里59
      文豪たちの高麗神社参拝

  s-本殿
              高麗神社 本殿

 戦前、出世開運スポット・高麗神社に、出世を願う政治家のみならず財界人や官僚、軍人ら各界各層の著名人が参拝した。その人士らに混じって大正・昭和を代表する多くの文豪・作家たちも参拝していた。
 高麗神社の芳名帳に、「金色夜叉」の著者・尾崎紅葉、「五重塔」の幸田露伴、「二十四の瞳」の壺井栄、「瞼の母」の長谷川伸、「山椒魚」の井伏鱒二等の名を載せている。


  芳名版
        参拝者芳名版  著名人の名前が並ぶ 

 「貧乏と恋と」の著者・安成二郎は井伏が主宰する「阿佐ヶ谷将棋会」の作家仲間、「人間失格」の著者・太宰治、フランス文学者の青柳瑞穂、「人間改造」の平野零児、「薔薇盗人」の上林暁、「城外」の小田嶽夫ら、そうそうたる作家を誘って参拝している。この時の様子を上林がエッセー「高麗村」に、青柳が「武蔵野の地平線」に書き残している。
 安成二郎は著作『高麗神社』で「高麗びとを/神とし祀る/武蔵野の/高貴(うず)の宮居は/古りにけるかも」と詠んだ。・


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      歴代宮司の住まい 「高貴の宮居」  文化財として保存

 無頼派といわれた坂口安吾は、親友の檀一雄と「新日本地理」の担当編集者やカメラマンを同行させて、高麗神社の獅子舞を取材した。それを「高麗神社の祭りの笛」と題して発表した。この中で坂口は、
私は目をみはり、耳をそばだてた。私の心はすでにひきこまれていた。その笛の音に。なんという単調な、そしておよそ獅子の舞にふさわしくない物悲しい笛の音だろう。笛を吹いているのは六名のお爺さんであった」、「改めて笛の音にききいると、モウイイカイ、マアダダヨ、という子供たちのかくれんぼの声が、この笛の音律と舞いの内容に深いツナガリがあって民族のハラワタをしぼるようにして沁みでてきたのではないかと思われ、そう信じても不当ではないと言いきりたいような大きな感動に私はひきこまれていたのであった」(『安吾新日本地理』 )と書いている。
 坂口安吾は、笛の音からこの地に渡って来た高麗人・亡国の民の悲哀に想いを馳せのであった。
  

  聖天院から
      作家たちの想像力を膨らませる高麗の里 聖天院から写す

 高麗神社に象徴される高麗郡・高麗の里は他所にはない独特な「歴史空間」がある。出世に縁のない作家たちが「高麗の里」を訪れるのは、この地に想像力を膨らませ創作意欲をかきたてる魅力が宿っているからであろうか?!
     ベランダから花火を眺める

 一週間前の㋆30日(土)昭和公園の花火大会があった
 玉川上水駅前の高層アパートのベランダから、
 次々打ち上げられる花火を眺めた。カメラを持ちだし、
 何とか大きな花火、綺麗な花火をと撮りつづけた。
 ところろが画像を確認してみると、
 カメラの質、撮影技術の未熟は隠しようもなく、
 ”これは”と思われる画像は一枚もなく、
 ブログ記事にすることを躊躇したのであったが、
 画像の出来栄えより、花火大会があったこと、
 日誌のようなつもりで8枚を選び発信する。
 パラパラとご覧ください。


  花火


 画像を何枚か重ねてパラパラと見られる手法を教えてくれた
 東大和市民ネットの仲間に感謝したい。

、、
      ボランテイア花壇3

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     ボランティア花壇  秋の7草  キキョウ

まだ、真夏の最中なのに何故か、「秋の7草」の二花、桔梗(ききょう)と女郎花(おみなえし)が咲いていた、
 秋の7草は、他に萩(はぎ) 薄(すすき)葛花(くずばな)撫子(なでしこ)藤袴(ふじばかま)がある、
 東大和市南公園の「空襲変電所」の両脇に設けられたボランティア花壇、
 背の高い大輪のひまわりはどこからでも見られるが、周りの小さな花は関心を持ってみないと目に止まらない、
 ひまわりの根元に「秋の7草」すべて植えられているが、何故か、桔梗と女郎花だけがこの時期に咲いていた、
 最初に、青紫の花びらつけた桔梗が咲いたが、それが終わる頃、咲き始めた黄色い小粒の女郎花が今、最盛期である、
 どちらも目だたない、可憐で、素朴な花だ。


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      ボランティア花壇  秋の7草  オミナエシ

 秋の7草は、秋に一斉に咲くものと思っていたが、どうも、そうではないらしいことが最近わかった。
 7草は桔梗が咲き始める夏の盛りから、ススキがなびく晩秋まで3、4ヶ月にわたってつぎつぎに咲いていくのだろう、
 一昨年も、去年もきっと咲いていたのであろうが、あまり花に関心がなかった筆者は見過ごしてきたのであった。
 ボランティア花壇に関心をもつようになってからは、公園を散歩するたびに必ず花壇の掲示板を見ることにしている。
 見ごろを迎えた花の説明書が貼ってある。一つ一つの原産地や種類、特徴、花言葉などを知り、楽しみながら花の名を覚えている。
    桔梗ー原産地、日本・東アジア、
    花言葉ー変わらぬ、愛、気品、
 古名はアサガオ、漢名の桔梗(きっこう)を音読みしていたのが次第に詰まって、平安時代の頃にキキョウとなった。いつの時代も多くの人から親しまれた花だった、
   
    女郎花ー日本全土に分布
    花言葉ーはかない恋、親切
 平安時代から好かれて和歌などにさかんにうたわれ、絵画にも多く描かれたという


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    ボランティア花壇で最も盛んな カンナ  花言葉 熱い思い

 秋の7草については残りの花と共に、秋にもう一度取りあげてみたい