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          大空の舞台 


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          9月30日 快晴  久しぶりの富士山

 今月は、2日以後、30日の今日まで
 富士山の姿を見ることはなかったが
 9月最終日、クッキリとしたその姿を現した、
 秋晴れ朝、富士山を見た瞬間、久しぶりだね! と、
 挨拶を交わしたくなるような爽快な気分であった、
 「富士山と夕日と雲」のタイトルであるが、
 脇役の夕日と雲がいくら素晴らしい演技を見せても、
 主役の出ない舞台はやはり、物足りない。

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       17時35分 夕日が沈む 空の舞台劇が始まった

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       17時40分  雲だけが赤く輝き主役の登場を待つ

 夕方
         17時42分 主役  富士山登場

 富士山と夕日と雲の3者の役者が出そろって、
 はじめて大空の舞台となる。
 はたして、次はどのような舞台になるか?



        上水緑道の曼珠沙華  
 玉川上水駅南口から上水緑道を上流に向かう
 ところどころに咲く彼岸花・曼珠沙華が目に止まる
 最初の橋・千手小橋付近は少しの群生もみられるが
 その他のところは数本が咲いているにすぎない
 そのわずかな彼岸花が上水の川面に咲く様は
 可憐で、鮮やかである、彼岸花の花ことばは情熱、
 緑濃い季節、真っ赤に情熱を燃やし尽くすのか寿命が短い、
 玉川上水駅付近の彼岸花をパラパラとご覧下さい。
 
 
  新規
2015.09.25 高麗の里25
       曼珠沙華まつり1


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      曼珠沙華まつり   にじのパレード

天気の好い連休の最終日、
「高麗の里」・巾着田の「曼珠沙華まつり」見学に出かけた、
高麗駅から巾着田に通じる道は人の列がつづいた、
行列が途切れた瞬間に土手の曼珠沙華を撮る、

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高麗川を渡り巾着田の入り口にたち振り返ると
よく来てくれたと、日和田山が出迎えてくれた、、
「高麗の里」は、高麗川と日和田山の見える風景がいい

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鹿台橋の上は人の行列がつづくが、
巾着田の中に吸い込まれていった。
赤い絨毯を敷きつめたように曼珠沙華がつづく
あれだけ人がつめかけたはずだが、
真っ赤な花畑に隠れたようにまばらである。

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カメラを持った人だけが目に止まる、
筆者もあちこち撮りまくっていると、

彼岸花5

「にじのパレード」が始まった。
それぞれの8色の旗を持ち、
華やかな衣装姿の行列は圧巻であった。
とくに、女性の衣装は高句麗、飛鳥、平城京から
蘇えったかのような古代装束絵巻であった。

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     曼珠沙華まつり   にじのパレード

「虹のパレード」と「曼珠沙華の花畑」はパラパラ画像で
次回発信します、つづく





2015.09.25 高麗の里26
         曼珠沙華まつり

曼珠沙華が咲く土手を行くにじのパレードをパラパラとご覧ください

虹パレード2



つづけて曼珠沙華が咲き誇る赤い絨毯をご覧ください。
 
曼珠沙華3

「高麗の里」・巾着田の曼珠沙華は年々数を増やしている、
真っ赤な絨毯の中はまさに神秘的な空間であった、
来年もまた来ようと思いながら帰路についた。つづく
2015.09.19 高麗の里24
           巾着田の曼珠沙華
  
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          玉川上水緑道に咲く曼珠沙華

 九月も中旬に入ったある日、
 いつものように、玉川上水駅南口から上水緑道を上流に向かって散歩した。 ところどころに曼珠沙華(まあんじゅしゃげ)が咲いていた。何年か前から咲き始めたのであるが、誰が植えたのだろうか? 年々増えているようだ。有難い、曼珠沙華は秋のお彼岸の季節を教えてくれ、明るい気分にもしてくれる、
 曼珠沙華を何枚か撮影して、帰りに高麗の里・巾着田の曼珠沙華を思いだした。すっかり有名になった今年の巾着田の曼珠沙華、ネットで調べて見る。
 ちょうど見ごろを迎え、次のような案内を載せていた、

 
万寿2
          巾着田の曼珠沙華 案内チラシ 日高市

 巾着田では9月中旬から9月下旬にかけて約500万本の曼珠沙華が咲き誇ります。
 神秘的な魅力を持つ曼珠沙華の大規模群生を見ることができるのはここだけです。この曼珠沙華の開花にあわせて地元のグルメや特産品の販売、ステージイベントを行う
 「曼珠沙華まつり」を下記のとおり開催します。
今年も、飯能市のB級グルメ「飯能すいーとん」と「みそづけまんじゅう」の出店や 高麗郷古民家(旧新井家住宅)での絵画展などを開催するほか、9月22日・23日には高麗郡建郡1300年記念観光展を開催します。
 また、期間中に運行するシャトルバスでは、埼玉女子短期大学との連携により運行ルート上の見どころを紹介するガイドを行います。
さらに本年度より同じ巾着田内で「コスモスまつり」も開催します。曼珠沙華とコスモスによる華やかな共演を是非ご堪能ください。
   
   これから、来年の5月・高麗郡建郡1300年の記念に向けて様々なイベントがあるようだ、
      ① 虹のパレード
    ② 古代装束絵巻
    ③ 馬射戯競技大会
    ④ 渡来人の里フオーラム
    ⑤ 高麗郡建郡1300年歴史シンポジウ
ム その他
               詳細は日高市 TEL 042-989-2111

 彼岸花1
        高麗の里・巾着田の曼珠沙華  ネット画像引用 



 筆者のブログ「高麗の里」も来年の高麗郡建郡1300年記念の日を迎えるまで続けたい。つづく
2015.09.10 高麗の里23
          「にいくらの里」
 
 
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         古の武蔵野を偲ばせる平林寺境内の風景

 「にいくらの里」は奈良時代、新羅からの渡来人が入植して武蔵国新羅郡が開設された所である。現在の埼玉県新座市・朝霞市・志木市・和光市を包括した地域をいう。雨模様の9月初め、「にいくらの里」の一つである新座市を訪ねた。
 「にいくらの里」を訪ねた目的は、新座市に平林寺があり、その境内は武蔵野の面影を色濃く残し、古代、新羅人が入植・居住した頃の様子が何か分かるのではないか、言わばブログ記事の素材探しであった。
 もう一つの目的は、平林寺とその周辺を流れる野火止用水を見学するため、筆者の居住する玉川上水駅近くに玉川上水小平監視所があり、ここから分水して野火止用水が始まっている。野火止用水は東大和市のウオーキングコースとして市民に親しまれている。しかし、市外から下流は何処を通り、最後は何処に流れ込むのか全くしらなかった。今回、「にいくらの里」を訪ねるにあたって調べると、野火止用水が新座市の平林寺付近を流れていることが分かったからである。
 西武線の玉川上水駅から萩山駅で乗換え、国分寺方面の青梅街道駅で下車、駅前の青梅街道を東大和市駅方面に徒歩7,8分で新小平駅に着く、そこからJR武蔵野線に乗り、3つ目が新座駅であった。1時間もかからず、思ったより早く着いた。駅前に降り立つと大きな水車が出迎えてくれた。

 
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          出迎えた水車モニュメントから新座駅を撮影

 新羅郡の開設は758年、「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移す」([続日本記』)から始まった。郡開設前の687年にも、「新羅の僧尼・百姓男女22人を武蔵国に安置した」、設置後の760年にも、「帰化新羅人131人が武蔵に移住した」(続日本記)と記されていることから、新羅人が次々に武蔵国新羅郡の開設を前後してこの地に入植・居住したことがわかる。
 新羅郡は武蔵國21郡のなかで最後に設けられた「郡」で、入間郡の一部を割いて急きょ創設されたようである。なぜ、新羅郡が急いで設けられるようになったか?
 この時期、新羅は唐と連合して百済・高句麗を滅ぼしたが、次第に唐と対立するようになり、新羅と敵対関係にあった大和朝廷は新羅人を半島からより遠い、東国に居住させる必要があった。
 また、新しく新羅郡を開設して渡来人を移住させることは、高い技術・文化をもった彼らを未開地・東国地方の開発を進める大和政権の政策でもあった。すでに高麗郡を設置(716年)して、高句麗人を1800人移住させ開拓を進めた先例もあった。
 新羅郡は平安時代に新座郡(にいくら)と改称された。理由や時期ははっきりしないが、中世には新座郡が新倉郡(にいくら)とも呼ばれ、「にいくらの里」の由来になったと思われる。新座郡は志木郷と餘戸郷(あまりべ)の2郷からなり、志木郷は現在の白子・新倉付近、餘戸郷は片山・大和田付近とされている。
 新座郡が最も領域が拡大したのは江戸時代で『地名辞典』には「郡境は、東は足立郡、豊島郡、北は入間郡、西と南は多摩郡に接し、現在の和光市、朝霞市、新座市、志木市と東京都保谷市の大部分および東京都練馬区の一部にあたる。」と記している。
 1896年(明治29)町村制施行に伴い、埼玉県北足立郡に合併されたために新座郡が廃止され大和田町と片山村となり一部は東京都に編入された。
 戦後、北足立郡内の各地域はそれぞれ市・町・村に分かれたた。1955年、大和田町と片山村が合併して新座町となり、1970年代、市制施行により新座町は新座市、朝霞市、志木市、和光市の4市となって現在に至っている。 
 2000年代に入って、4市合併への動きが活発化し、その是非を問う住民投票が2003年に行われた。新座市、朝霞市、志木市3市は賛成であったが、和光市が反対多数のため4市合併は成らなかった。このとき、合併が成立していれば「にいくら市」が誕生したかも知れない。
 4市は東京都と隣接しているため人口が爆発的に増加して都会化が進み、「にいくらの里」のイメージは殆ど消失しているようである。
 武蔵野線が開通した当時の新座駅前付近は大きな建物はなく、田舎の風景がそのまま残っていたらしい。駅前から辺りを見回すと田園風景は一か所も見当たらず、高層ビルが立ち並ぶ新興都市の駅前風景と何ら変わるところがなかった。
 
 
 
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       新座駅ー野火止公園―野火止用水緑道―平林寺 観光マップ 
 
 駅から徒歩約10分、野火止用水公園に着く。ここから平林寺に沿って流れる野火止用水を上流に向かって緑道が設けられていた。ひたすら緑道を歩き周辺の風景を楽しんだ。

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        平林寺に沿って流れる野火止用水六道を歩く

 野火止用水緑道の反対側にある平林寺の入り口まで、新座駅から1時間以上経過していた。平林寺境内は鬱蒼とした雑木林で、想像したよりもはるかに広い感じであった。まさに武蔵野の面影を偲ばれ別世界であった。
 
 平林寺は、野火止用水を拓いた江戸幕府の老中・川越藩主であった松平信綱の遺言により、その子輝綱が1663年に岩槻にあった禅寺を移築建立したものである。
 野火止用水が開削される900年以上、今から1250年以上の昔、原始林が茂る武蔵野のこの地に入植し、開拓を始めた新羅人の苦労を想いながら、約1時間かけて境内を散策した。やはり古代の新羅郡につながる遺物・遺跡のようなものは見当たらなかった。
 しかし、平林寺境内で予想していなかった二つの発見があった。つは野火止用水から分水された小川が境内に引き入れられていたこと、この小川も「野火止用水」と名付けられていた。

 
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             平林寺境内に引き入れられた野火止用水

  もう一つの発見は、土を盛った小山の上に「碑」が建てられ、ズームして見ると「野火止塚」と書いてあった。「野火止塚」とは何か?野火止用水との関係は?なぜ平林寺境内に建てられているのか?帰って調べることにする。
    
 
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          平林寺境内 盛り土の小山・野火止塚と碑

  「にいくらの里」・新羅郡の痕跡は次の説話、遺跡、地名の中に残されている。
 「新羅琴の名手であった新羅郡人沙良眞熊に広岡造の姓を賜った・・・、興世朝臣書主は和琴に優れていたが、眞熊の弟子となり新羅琴の秘伝を授かった」(『続日本記』)という。移住してきた渡来人と地元の人たちとの様々な文化交流が推察される説話である。
 和光市の牛房山(ごぼうさん)付近で火熨斗(ひのし=古代朝鮮式アイロン)が発見された。これは新羅人が開拓に励みながら、故郷での生活様式そのまま営んだことを物語る遺物ではなかろうか。
 新羅郡の建郡当初、移り住んだ新羅人の半分以上が僧尼であった。彼らが仏教布教に尽力し、幾つかの寺院も建立したと考えられるが、現在までのところ有力な寺院遺跡は発見されていない。
 「にいくらの里」の証は特に地名である。志木は新羅(志羅木・志楽木・志羅城・志楽=しらく)の転訛略語であり、白子は(志羅子・新羅子)の当て字である。新座は新羅が改称であることはすでに述べた。

 
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           いつ頃の家屋・作業小屋か 平林寺境内に残る  

 『埼玉県の歴史散歩』(歴史散歩⑩)の中に、「にいくらの里」が掲載されている。「高麗の里」のような知名度は無いが、渡来新羅人が拓いた里・「にいくらの里」の名が残っているだけでも、古代武蔵野のロマンを感じさせてくれるのではなかろうか?
   つづく
2015.09.03 高麗の里22
           武蔵国分寺跡
   跡地
         武蔵国分寺跡 原風景

  武蔵国分寺跡(現医王山最勝院国分寺)は東京都の中央に位置し、JR中央線の国分寺・西国分寺の両駅中間の南方にある。猛暑がすこし弱まったある日、その寺跡と武蔵国分寺跡資料館見学に出かけた。理由は、高麗郡で生産された文字瓦・郡名瓦が出土し、それが武蔵国分寺跡資料館に展示されていると聞いていたからである。
  奈良時代、大仏がある東大寺を総本山とする全国66カ所に国分寺が建立された。国分寺は疾病・飢饉・反乱などの災いを除き、鎮護国家を祈る仏教政策のもとに諸国の国府近くに建てられたもので、寺院内は七重塔や金堂・講堂を建て、僧寺に僧20人、尼寺に尼10人を置いた。現在も陸奥、信濃、美濃、備中、讃岐、筑紫、播磨などに国分寺遺跡が残り、武蔵国分寺跡もその一つである。
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    武蔵国分寺伽藍配置模型  中門・金堂・講堂

 武蔵国分寺跡の発掘調査では、僧寺・金堂・講堂・塔等の伽藍配置と尼寺の礎石が発見さている。遺跡は東西約1,5キロ南北約1キロの広さで、現医王山最勝院国分寺は領域の北部にあたる。寺院縁起によると、1333年新田義貞と北条泰家との「分倍河原の戦い」のときに焼失し、2年後に新田義貞の寄進により、焼け跡の北側に小さなお堂を建て薬師如来座像を安置したとしている。

  国分寺
        現医王山最勝寺国分寺

 また、遺跡から大量の瓦や磚(せん・床にしきつめるレンガ状に粘土を焼いたもの)が出土した。瓦や磚を大量に生産するためには、粘土や燃料が得やすく、登り窯がつくりやすい丘陵地が適している。近年の考古学的調査によって国分寺周辺の郡や郷で瓦や磚を生産する窯跡が発見された。これまで確認されている窯跡の分布をみると南武蔵窯跡群(稲城、町田、八王子、多摩)の4カ所、北武蔵窯跡郡(埼玉県高麗、比企、入間、児玉)に18カ所あり、その内高麗郡の窯跡は4カ所である。
 5世紀中葉頃にはすでに須恵器(陶器)・窯業技術が朝鮮半島から伝わっていたことからすると、高麗人にとって瓦の製造はお手のものであったと思われる。
 出土した大量の瓦の中から郡名・郷名・人名が銘記された「郡名瓦」・「郷名瓦」・「人名瓦」が見つかった。資料館には数えきれない量の郡名、郷名、人名別に整理されて陳列されていた。
 その中にヘラ書・押型・刻印の3種の「高」の郡名瓦があった。この「高」記名の瓦は、高麗人が国分寺建立のために製造し、高麗郡から上納されたものであることを裏付けている。


  高麗の瓦
    資料館に陳列 郡名瓦 左下「高」字=押型
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 「高」へら書    押型      刻印   
 国分寺の全建造物に使われた瓦は100万枚位だとされる、その大量の瓦を賄うために国司が各郡に瓦生産を督促した。そのため高い窯業技術をもった高麗人が近隣の郡や南武蔵にも移住し瓦を生産したか、あるいは彼らの技術的指導によって国分寺建立に要した大量の瓦生産が可能になったと考えられる。
 武蔵国分寺が建立(757年)された8世紀後半には、武蔵国分寺周辺の郡・郷・南武蔵方面にも多数の高麗人が移住していたと思われる。隣接する国府(現在の府中市)は古代から馬の飼育が盛んであったと云われている。大陸の騎馬民族であった高麗人が移り住み、専門的に馬の飼育にあたっていたと思われる。
 また、国府の東南に調布・狛江があり、調布市にある古刹・深大寺は高句麗人の満功上人によって733年に創建されたと記さている。そして狛江市には多くの遺跡から高句麗人が居住していたことが明らかになっている。
 高麗人は武蔵国分寺建立にあたって、瓦と磚の生産・上納だけでなく土木、建築、彫刻、絵画、仏像制作等においても、いろいろと貢献したことが推察されるのである。
 現在の医王院最勝寺国分寺本堂と隣にある薬師堂は江戸時代に再建されたものである。武蔵国分寺跡史料館と万葉植物園が開設されている、境内に清水が湧き有名であるが、現在は保全のため立入禁止であった。

  お鷹道
         現国分寺方面への道

 国分寺を出てすぐ左に「お鷹の道」があり、蛍が生息する小川に沿って100m余り歩くと、環境庁名水百選に選ばれた「真姿(しんし)の池湧水群」(都名所)へと小道がつづき、涼しい憩いの散策路であった。季節のいい時期にもう一度訪ねようと思いながら帰路についた。 
つづく

   湧き水
        真姿の池湧水群  お鷹の道から撮影
2015.09.02 高麗の里21
           高麗人の足跡・地名
 


      聖天院
            高麗郷 新堀   高麗山聖天院勝楽寺より

 そもそも「高麗」(こま)という名称・地名は、高麗郡の設置から始まり、

 高麗王若光の郡司着任、 高麗人(高句麗系渡来人)の入植によって

 定着したものであった。その後、郡内の山・川・村が高麗山、高麗川、高麗川村、

 高麗村等の名称で呼ばれるようになった。 郡内に入植した人々は、

 高句麗から直接渡来してきた1世が多く、日常の会話は必然的に

 高句麗語(古韓語・ハングル)が使われていたと思われる。しかし、Ⅰ世が去り、

 2世、3世、4世、5世と世代が交代し、時代が変化するともに次第にハングルは

 使われなくなっていった。 郡設置初期の頃、ハングルが使われていたことを

 裏づけるものとして地名が残っている。

 二,三の例を上げてみる。

  新堀(にいぼり)は、高麗神社と聖天院勝楽寺のある付近一帯と高麗川を挟んだ

 反対側一帯領域の地名である。高麗人が最初に入植し開拓した地域である。

 そのためこの地を高麗人は「セポル」(새벌)と呼んだ。ハングルの「セ」は「新しい」と

 いう意味、 「ポル」は「邑・村」の意味、「セポル」は「新しい村」のことである。

 「セ」=「新」、「ポリ」=「堀」の仮字が当てられ「新堀」となった。

 そして「新堀」が地名となって現在に至ったと思われる。

 埼玉県の入間市坂田町とさいたま市菖蒲の2カ所に「新堀」の地名が残っている。

 高麗人が開拓した新しい村=「新堀」があちこちに出来たものと思われる。

 因みに、新羅(BC57~935)の都であった慶州(現在韓国慶尚南道慶州)を

 徐羅伐「ソラポル」と呼称した。この場合の「ポル」は田舎の小さな村ではなく、

 「邑」、「都邑」(小都市)の意味で使われている。高麗神社・聖天院勝楽寺のある

 「シンポル=新堀」は「都邑=新都」の意味で使われていたのはなかろうか?
 
 毛呂山は、入間郡の西北に位置する町名である。

 毛呂は牟礼(むれ)・牟羅(むら)の仮字として使われ、古韓語の「村」の義である。

 この町の東にある牛頭山(こずさん)は、現在、韓国の江原道春川市付近の

 牛頭山(고두산・コズサン)と全く同じ呼び名である。高句麗全盛期に

 その境域内にあった山である。入植した高麗人が故郷の山を思い浮かべ

 牛頭山呼んだのではなかろうか?

      毛呂牛頭山
                 毛呂山町  牛頭山

 越辺川は荒川水系入間川の支流で毛呂山町・越生町の北を流れる川で、

 「オッペ」川と呼ばれている。ハングルで「オッペ」(옷베)は「衣服の布」を意味する。

 このあたり一帯は養蚕業が盛んであった地域で、高麗人がこの川で

 絹織物をさらしたしたことからオッペ川(越辺川)と呼ぶようになったと思われる。

 越生神社境内に石碑「生絹の碑」が建っている。

 越辺川と白鳥
            越生川と飯盛川の合流点  白鳥の飛来地


 その他に、高麗人によって埼玉県内の飯能(はんのう)、高倉(たかくら)、

 栗坪(くりつぼ)等、新羅系渡来人によって志木(しき)、白子(しらこ)等の

 地名が付けられたとされてぃる。これらの地名から

古代高句麗人が営んだ生活や文化の足跡を垣間見えてくるようだ。
            輝く太陽


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  猛暑がつづいた8月、後半になって急速に涼しくなった、
 すると今度はぐずついた天気、うっとうしい日々がつづく、
 9月に入っても雨模様の暗い空が続き、
 いつ、スッキリした天気になるかとかと少々滅入っていた、
 2日、朝から雨であったが昼頃から急速に天気が回復した。
 輝く太陽の有難さを久しぶりに味わった、
 その日の夕、富士山も久しぶりに姿を現したのだが、

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 上空に大きな雲の重石がのっかっているようで、
 富士山の様子が何かスッキリしないようだ、

 ところが、夕日と雲が、富士山を慰めるるがごとく、
 暗闇になるまで、幻想的な風景を見せつづけていた。

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 富士山・夕日・雲は3者3様、それぞれの見せ場はあるが、
 3者が互いに絡み合い、いろいろな絵模様を創り出し、
 大空のキャンパスに美しい画面を見せてくれるのであろう。

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 これからも、「富士山と夕日と雲」が創り出す美しい作品を
 撮影・発信し続けていきたい。