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2015.03.31 高麗の里1
   正月3日、高麗神社に参詣した。
 
   高麗神社は埼玉県日高市にあり、筆者が住む東大和市玉川上水からは

   少し遠い距離にある。遠いばかりでなく、西武線で玉川上水駅から

   小川・東村山・所沢・飯能・高麗駅まで4回乗り変えて約2時間を要し、

   しかも、高麗駅から徒歩40分もかかる不便な所にある。

2高麗地図


   近所に神社、お寺はいくらでもあるのに

   なぜ、そのような不便なところまで参詣に行ったのか?

   理由は、奈良時代に滅亡した高句麗の遺民・渡来人が武蔵国高麗郡に移され、

   彼らが未開地の原野を開拓したこと、彼らの首長である高麗王若光

   墓が高麗山聖天院勝楽寺にあり、その隣にある高麗神社は若光を祀っている。

   在日コリアン2世である筆者は、学生時代に考古学の先生から渡来人の武蔵野開拓と

   高麗神社の説明を受け感銘したことを覚えている。その後、何回か訪れ

   いつの間にか、高麗山聖天院、高麗神社等 この地に郷愁を感じていた。

   もう一つの理由は、筆者のブログ「日朝文化交流史」記事にすることが出来る、、

   そんな事を考えながら出かけたのであった。

   高麗駅に降り立つと、駅前に2本の柱・「将軍標」が目にとまる。

   P1031501.jpg
   
  
   駅に向かって右に「地下女将軍」、左に「天下大将軍」と書かれている。

   この地に移り住んだ高句麗人が「災厄防除」「悪魔退治」の厄除け信仰の守護神・

   大将軍、女将軍を模して建てたものと云われている。

   駅前広場の端に案内版があった。

   案内板には、高句麗からの渡来と、関東一円の渡来人1799人が高麗郡に移動した

   ことを説明する地図と

    s-高句麗

   

    イラスト風・若光の肖像画と共に描かれている。

    P1031505.jpg

   
   その案内板から、来年の2016年は高麗郡建郡(716年)

   1300年を迎えることを知った。

   朝鮮半島から渡来人が開拓を初めて1300年、人間の一生に比べると

   なんと永い年月・時間であろうか、歴史の重みを感じながら

   高麗神社に向かって歩きだした。
                        つづく

2015.03.29 高麗の里2
        「巾着田」 「武蔵飛鳥」

   高麗駅を出発して5分も歩くと高麗川にかかる橋に出る。

   川の下流は円を描くように蛇行して、いわゆる巾着田〈きんちゃくでん)となる。

   橋の上からは見えないが、左前方の日和田山から眺めると巾着田の全体像が良く見える。

   善家巾全景


   巾着田は、日高市を流れる清流、高麗川の蛇行により長い年月をかけてつくられ、
  
   その形がきんちゃくの形に似ていることから、巾着田と呼ばれるようになった。
 
   P1031502.jpg
  

   直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、

   菜の花、コスモスなどの花々が咲き、中でも秋の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)群生地は

   辺り一面が真紅に染まり、その美しさに惹かれて毎年多くの人が訪れるらしい。

         巾着田秋2


   凡そ50年前、ここを訪れた作家の金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化』で

   「さいしょに見る高麗川の橋のたもとに茶店があって、そこにも将軍標が立っている」

   と書き、当時の写真を載せている。

        img002.jpg
   

  また、「あたり一面桑畑で、のぼったり下ったりする桑畑のあいだの小道を歩き」

  「どことなくのどかであるばかりか、地形からして大和(奈良県)の飛鳥にそっくり

  なので、私は勝手にこの辺一帯を<武蔵飛鳥>と名づけ、

  それを友人たちも吹聴している」と書いている。

  高麗川の橋を渡ると三叉路、左に折れると目ざす高麗神社は一直線である。

  ここから高麗神社参拝者の車の渋滞が始まり、車の横をすり抜けるように歩くだけで、

   周囲を見る余裕はなかった。

   そのため、金達寿氏が見た橋の付近にあった茶店や将軍標も確認できず、

   桑畑も見ることもなかった。車の渋滞もそうであるが、近年になって急速に進んだ

   都会化の波が高麗の里にも押しよせ、「武蔵飛鳥」の風景が色あせているのであろう。

   P1031510.jpg


   西武線高麗駅から約40分、5000歩、高麗山聖天院勝楽寺の全景が

   見える駐車場まえに到着。 山門が大きく見える。    つづく
2015.03.28 高麗の里3
   聖天院と高麗王若光の墓
 
 高麗山聖天院勝楽寺〈聖天院〉の山門前に立つ案内板を読んだ。

  内容は概略次のように書かれている。

    P1031509.jpg
             高麗山聖天院の由来

  「今からおよそ1300年前、高句麗滅亡により、我が国に亡命してきた民のうち、

  駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国の高麗人1799人を716年

  武蔵国に移して高麗郡を設置した。続日本紀(797年)によれば、高麗王若光は

  高麗郡の長として広野を開き、産業を興し、民生を安定し大いに治績を収めた。

  若光は没後、神に祀られた(現在の高麗神社)。侍念僧勝楽は高麗王若光の

  冥福を祈らんがため一寺を建立したが果たせず、若光の3子聖雲が師の意志をつぎ、

  勝楽が高句麗から携えてきた観喜天(聖天)を安置して、

  師の遺骨を納め冥福祈り開基したものである。その寺が高麗山聖天院勝楽寺である、

  末寺54を有する古刹がそれである


  また新しく立てられた案内板には「高麗郡が設置されて1300年を迎えることと、

  山腹に2000年に新本殿が建立された
」と書き加えられていた。

  山門を通り右に曲がると、若光の碑と多重塔の高麗王廟がある。

   P1031516.jpg
           高麗王廟に祀られる多重石塔

  その右後ろに高麗王若光の墓、饅頭型に盛り土した朝鮮様式の墓であった。

   P1031518.jpg
          饅頭型に土盛りした高麗王若光の墓


  筆者は先祖の墓参りに来たような気持ちになり、手を合わせ拝礼した。

   P1031511.jpg
           山門正面から階段上に見える中門

  山門から急な階段が見える。この階段の上に昇って見ると、あったはずの本殿はなく、

  そこに日本式の庭園が造られていた。その庭園の上を眺めると5色の幡に飾られた

  本殿が聳えていた。

   P1031512.jpg
           日本式庭園の上に聳える本殿  
  
  急な階段を5,60段上ると新しく建立された本殿がった。

    P1031514.jpg
               新しく建立された本殿   
  
  ああ、これが門前の案内板に「2000年、山の中腹に新しい本殿が建立された」と

  書いてあれかと納得した。本殿に拝礼して、前方の風景写真を何枚か撮り下山した。

  聖天院は武蔵野三十三観音の第二十六番寺院でもある。

  門前には、焼きそば・たこ焼きなどの日本食の屋台にまじって、

  キムチ・チジミ・高麗鍋の朝鮮・韓国食の屋台が並んでいた。

「新しい日朝文化交流史が高麗の里で始まっている

   ことを実感しながら高麗神社に向かった。    
                               つづく


2015.03.28 高麗の里4
     高麗郡1300年記念祭
 
   高麗神社は、聖天院からわずか5分の距離であるが、

   こちらは聖天院よりはるかに多い初詣客で混雑していた。

   参拝する本殿まで行列に20~30分並んだだろうか、

   その間、鳥居や案内板等の写真を撮ろうと試みるが、

   人が次から次へ押し寄せるため、ついに撮れなかった。

  ようやく行列の頭上から高麗神社の正面を撮ることができた。

   P1031520.jpg
         高麗神社 本殿前 初詣客の頭上から撮影  

   参詣を終えて下りて来ると、ハッと目を見張らせる集団があった、

   綺麗な衣装に着飾ったお嬢さんたちである。

   何枚か写真を撮り、“何の行事か”?とたずねてみる

   P1031522.jpg
            綺麗な衣装のお嬢さんたち集まる
  
  来年の高麗郡建郡1300周年に向けてのイベントの一環としてパレードをするとのこと、

  もらったチラシには

   高麗郡1300年祭2016年まであと1年
  
    2016年には何をするの?

    はい!演奏会や講演会・シンポジウムや展示会‣

    馬射戯~MASAHI・スポーツ・グルメ・武道
などなど

    そして、 「高麗郡1300年祭」のはな">華 
    それが  『にじのパレード!』

     日本ともゆかりの深い『にじのスカート』など、
     
    高句麗、日本の古代衣装を中心としたパレード

    「渡来から未来へ」をテーマに

   「先人への感謝と、平和への祈りを胸に歩きます」

   P1031521.jpg
      「 にじの パレード」 直前のお嬢さんたち

   あまりにも人が多いのでパレードを見ることなく、

   来年の5月16日・1300年建郡記念日にまた、

   訪れようと自分に言い聞かせて家路についた。
                                つづく
2015.03.27 高麗の里5
          高麗川


   高麗神社の初詣を終えて帰ろうと、鳥居前で案内人に最寄りの駅をたずねると、

  JRの高麗川駅が西武線の高麗駅より近く、拝島に出るにも便利であることを

  教えてもらった。はじめてのルートで不安はあったが、高麗川駅に向けて歩き出した。

   こちらの道も車の渋滞であった。 4、5分も歩くと高麗川に架かる橋があった。

   橋上から見ると川幅は広くないが清流である。

   P1031524.jpg
         高麗神社前を流れる高麗川  上流に巾着田あり 

   ふと、この川は高麗郡が設けられた当時、それより昔から変わりなく、

   今と同じような川筋で流れていたのだろうか、また、高句麗からの渡来人が

   1300年前、この地に入植した頃は原生林に覆われて橋もなかったから、

   川の流れは見えなかったであろう。しかし、開拓するためにはこの川の水は

   貴重な資源となり、大いに利用されたであろう。

   P1031504.jpg
        高麗の里 渡来人開拓者   高麗駅前案内板より

   地図も写真もなかった時代のことであるから想像するしかないが、、、

   橋上から何枚か写真を撮り駅に向かった。

   50年ほど前に、この道を取材しながら通った作家の金達寿氏は

   「神社前あたりを流れている高麗川にかかった新しい橋をわたり、、

   また、桑畑のあいだの小道を行くことになった。西にあたる右手の、

   秩父のそれとつながっているらしい多摩の山々が、みごとな夕焼け空をつくりだして、

   くろぐろと立ちそびえているそのうしろからは、これまた富士山がにょきっと、

   黒い張り絵のような頂上の部分をのぞかせていた


   (『日本の中の朝鮮文化』1965年) と書き、

   のどかな片田舎の夕焼けの風景を描いている。

   しかし、この50年の間に、この辺りの様子はすっかり変わったのであろう。

   高麗川駅に向かう小道はなく、すべての道路は舗装され、

   畑は残っているが桑畑らしいものは見当たらなかった。所々に人家が立ち

   市街化がじわりじわりと押し寄せているようだった。

   多摩の山々は見えたが、富士山は見えなかった。

   高麗神社から高麗川駅まで筆者の足で25分・3300歩であった。

   P1031525.jpg
          高麗の里の玄関口  JR高麗川駅


   高麗川駅からJR八高線(八王子~高崎間)に乗り、拝島で乗換え、

   玉川上水駅まで1時間もかからなかった。時間の短縮もさることながら、

   往くときに難儀な乗換え4回を考えると嘘のような便利さであった。

   高麗神社に初詣した筆者の記事「高麗の里」は、

   5回目の今回で終わるつもりであったが、 もう少し続けたいと思っている。

   聖天院から
        高麗の里遠景   高麗山聖天院本堂前から撮影  
  
   来年、2016年は高麗郡建郡1300年記念する行事があり、

   筆者は必ず「高麗の里」を訪れ、記事にしたいと思っている、 

   また、 高麗をなぜ「こま」と読むのかをはじめ、高麗王若光のこと、

   渡来人の遺跡のこと、 高句麗のこと等々について、

   筆者自身が新たに勉強したいことができたからである。
                                     つづく
2015.03.27 高麗の里6
         高句麗
 
  
   高麗神社・高麗山聖天院のある高麗の里(現在の埼玉県日高市)は

 
   高句麗(こうくり)からの民・渡来人が拓いた里である。
 

    高句麗は 1300年前の昔、 中国東北部と朝鮮半島にまたがって存在した

   高句麗は海を隔てたはるか遠い国であった。その遠い国の民がどうして

   日本に渡来するようになったのだろうか?

      高句麗1

   朝鮮の古代史、とくに高句麗の歴史を簡単にひも解いてみたい。

   紀元前1世紀頃から朝鮮半島から中国東北部の地域に、

   高句麗・百済・新羅の三国が成立した。その中でもっとも早く成立した

   高句麗(BC37年、朱蒙・チュモン=東明王による建国)は、

   中国東北地方の松花江流域から西の遼東半島を含め、南は朝鮮半島の北部に至る

   広大な領域を占めた。もともと狩猟騎馬民族であった彼らは、

   周囲の種族と戦闘するなかで強力となり、紀元前75年には漢が占領していた

   4郡の一つ玄菟郡を西方に駆逐するまでに国力を成長させた。

   一方、朝鮮半島の南部には農耕民族の馬韓・弁韓・辰韓の三韓があり、

   それぞれ小国にわかれていた。紀元前後頃から政治的統一の機運が高まり

  、漢江流域の馬韓の小国が統合されて伯済国・百済が建国された。

   また、慶州を中心に辰韓の小国を統合して斯盧国・新羅が建国された。

   三韓のうち弁韓の小国は統一できず、いわゆる伽耶連盟として残ったが、

   百済の浸食と大部分は新羅に吸収統合された。

   高句麗・百済・新羅の三国は覇を競いながらそれぞれ発展し、独自の文化を育んでいた。

   とくに、高句麗は3世紀に鴨緑江の湖畔に丸都城(国内城、中国吉林省集安)を

   都として本格てきな発展をとげた。

   丸都城跡
          高句麗前期の都 丸都城(国内城)の遺跡

   244年に魏の侵攻を受けるが、これを撃退し

   313年に国内に残っていた漢の侵略地である楽浪郡、帯方郡を消滅させた。

   高句麗が飛躍的に発展し領土が拡大したのは、広開土王(好太王、在位391~412)

   長寿王(413~491)の4~5世紀の時期である。

   将軍塚
            丸都城付近にある将軍塚

   高句麗がいかに大きく発展し高い文化を誇っていたか、その象徴的な遺跡・遺物として、

   広開土王陵碑と高句麗壁画古墳を次回の記事にとり上げて見たい。
                                         つづく
   
   追記

   10年程前、韓流ブームに沸いた頃、韓国でドラマ「朱蒙(チュモン)」が放映された

   内容は2000年前の高句麗建国の主人公「朱蒙」を描いた壮大な歴史フアンタジー、

   全81話の長編で視聴率48%を超える人気番組であったらしい。

   日本でも放映され人気を博した。筆者はビデオを借りて夢中で見たことを覚えている。

   老若男女、家族一緒に見られるドラマ、楽しめる。

   今年の4月からBSフジ系で再放映される。

     チュモン
              ドラマ「朱蒙」の主人公たち
2015.03.17 高麗の里7
             好太王碑
 
  

   好太王碑(広開土王陵碑)は、朝鮮と中国の国境を流れる鴨緑江中流の北岸・

   中国吉林省集安の郊外に建っている。高句麗が存立した時代(前1~7世紀)の

   鴨緑江は高句麗国内の中央部を流れる河であった。

   img005.jpg
          朝鮮・中国の国境を流れる鴨緑江

  碑石は高句麗の19代広開土王(在位391~412年)の功績を称えるために

  414年、息子の長寿王によって高句麗の王都であった丸都城・国内城に建てられた。

  碑の前方に広開土王の墓と目されている大王陵がある。

   王陵
           大王陵   好太王碑は前方に建つ

  碑石は長いあいだつる草に埋もれていたが、この地の農民が1880年に発見し届出た。

  翌年、吉林省集安の役人関月山が碑の一部を拓本にとっている。

  碑石の材質は角礫凝灰岩、高さ6・3メートル、幅1・4~1・9メートルの

  不正四角形の柱状である。4面全体に文字がびっしりと総計1802字が刻まれている。

  その内1774字が判読され、残りは磨滅と剥落により判読できない状態である。

   s-高句麗8
           好太王碑と碑文

  碑文の内容は3段からなり、第一段は高句麗開国神話・朱蒙伝承と王統、建碑の事情

 、第二段は好太王の功績をを年代順に記され、

  第三段は王陵の守墓人の構成と規定に関するものである。

  碑石の発見は、古代の文献資料が少ない中で、当時の高句麗内と

  4~5世紀の東アジア情勢、とくに高句麗と中国の南北朝、巍, 隋、唐との関係、

  朝鮮半島内の高句麗・百済・新羅三国の覇権争い、

  そして三国と倭(日本)の関係などを知るうえで重要な史料となっている。

   s-碑の位置
     4~5世紀の東アジア  「好太王碑の謎」李進凞著より
 
 
 
 「好太王碑は高句麗の最盛期を象徴する記念碑であり、

  古代東アジア諸国の複雑な国際関係を反映する一大モニュメントでもあるのであって、

  したがってこれまでも、同碑はじつに貴重な同時代の証言者とみなされてきた


  (『好太王碑と集安の壁画古墳』読売テレビ放送編)

  1884年、日本の陸軍歩兵大尉酒匂景信は日清戦争への諜報活動中に碑石を発見、

  拓本にとり陸軍参謀本部に持ち帰った。

  参謀本部では拓本の判読と解釈にとりかかり、第2段の広開土王の勲功記事に

  倭が混じっていることに関心をもち、特に注目したのは次の「辛卯年」条の1節である。

  「而倭以辛卯年来渡海破百残口口口羅以為臣民」 

  参謀本部ではこれを「辛卯年(391年)に倭(大和政権)が海を渡って来て

  百済・伽耶・新羅を破り臣民にした」と解釈した。

  碑文のこの解釈と「日本書紀」に記述されている「任那日本府」説を結びつけて

 、「好太王碑」は「大和政権が4世紀後半200年にわたって朝鮮半島南部の

  伽耶地方に任那日本府設置し支配下した」ことの確実な証拠となると結論づけた。

  このような参謀本部の結論に異論を唱える古代史研究者はなく、

  参謀本部の解釈をそのまま踏襲し、日本の歴史学会の定説となっていた。

  そして、戦後の一時期(1960年代)まで、歴史教科書に「任那日本府」説とともに

  好太王碑の写真が掲載された。

     2碑文
        教科書に掲載された好太王碑    

  戦後、日本の支配から解放された南北朝鮮の研究者が自国の歴史研究を初めた。

  そして、古代日本の朝鮮支配という「皇国史観」にもとづいた歴史認識を

  批判するとともに、定説となっていた従来の日本の好太王碑文の読み方、解釈とは

  全くことなる研究論文つぎつぎと発表した。代表的な二氏の論旨をとり上げる、

  鄭寅普氏は碑文の内容は好太王の業績を称えたものであり、

  王の業績を否定する記述はあり得ないとして、あくまでも主人公は好太王である。

  したがって、主語は倭ではなく高句麗であるべきで、「辛卯年」条の解釈は

  「倭が辛卯年に来たので(高句麗)は海を渡り、百済・伽耶・新羅を破り臣民にした。」と

  すべきである主張した。

  金錫亨氏は日本の好太王碑の解釈を批判し、大和政権の朝鮮半島支配を虚構であるとし、

  逆に、日本列島内には朝鮮半島からの移住民によって多くの分国がつくられ、

  本国である百済・新羅。伽耶の従属下にあったと主張した。

  この主張は、日本の古代史研究者に大きな衝撃を与え、

  碑文の解読、再検討の機運が急速に高まった。

  そして、碑文研究でいくつかの新知見をもたらした。

  旗田巍氏は「金錫亨説は、それまでの見方を180度転換させ、朝鮮から日本への進出を

  機軸に 日朝関係をとらえようとした点で画期的な意味をもっていた。・・・また、

  倭を大和政権と直結させる考えかたにも反省が加えられ、倭の実態や大和政権による

  日本列島の統一過程に対する再検討もすすんだ。とりわけ広開土王陵碑に対しては、

  碑文の新しい解釈が試みられただけでなく、碑文の解読・研究に

  日本の陸軍参謀本部が深く関わっていた事実があきらかにされた


  (『入門朝鮮の歴史』朝鮮史研究会編)

  李進煕氏は参謀本部による碑文の 「改ざん説」(1972年)をあらわし、

  中国吉林省考古学研究はそれを否定する見解をだした。

  日本の古代史学会では「改ざん説」に対して賛否両論の論議が沸騰した。

  こうした議論・論争の過程で日本の古代史研究が活発になり、好太王碑文全体の

  解読・解釈研究は大きく前進したことは確かである。

   img004.jpg
      好太王碑に碑閣が建てられ、周辺が整備された(2000年代)


  今後は、最新の科学技術の導入することによって碑面の原文字の確認作業と

  一層の緻密な調査研究、真相究明が求められる。

  筆者はこの好太王碑に関心をもつ東アジア三国の日・朝・中の学術交流・文化交流・ 国際交流が一層活発化・促進されることを期待している。

  レプリカ
       好太王碑(模型) 朝鮮大学校内  東京都小平市

 
2015.03.15 高麗の里8
      世界文化遺産=高句麗壁画古墳

   

   2004年、高句麗壁画古墳群が世界文化遺産に登録された。

   朝鮮民主主義共和国では初めてである。

   登録にあたって日本画家の平山郁夫氏の尽力があった。

   安岳外
       高句麗最大の壁画古墳・安岳三号墳(黄海南道安岳郡)

   高句麗は紀元前1世紀から紀元後7世紀まで約800年間存立した強国であった。

   高句麗が強い国力と輝かしい文化を創造したことは、

   発掘された多数の遺跡・壁画古墳が如実に物語っている。

   現在まで2万基におよぶ遺跡・古墳が発掘され、

   そのうち96基の古墳に壁画が描かれていた。

   世界文化遺産には、平壌・南浦市付近と黄海南道安岳群一帯の古墳群、

   そして、中国吉林集安一帯の古墳群の三つの地域から発見された

   63基の壁画古墳が登録された。

   古墳地図
          平壌市・南浦市・黄海南道附近の主な壁画古墳

   壁画が描かれた時期は、3世紀~7世紀の間、現在の中国吉林省集安に

   高句麗の都・丸都城があった前期と、平壌へ遷都(427年)してから

   高句麗滅亡(668年)までの後期に分けられる。古い時代に約400年ものあいだ、

   連綿と描きつづけられた壁画は世界的に類例がない。

   また、高句麗壁画古墳が世界的に注目されるのは、

   壁画の規模の大きさもさることながら、内容の多様性と豊かさ、高句麗民族の

   多様な文化や社会生活像を生き生きと表現し、芸術性に富んでいるからであろう。

      img016.jpg
              安岳3合墳の地下内部石室の構造   

   壁画が描かれた初期の石室は単室であったが、後期になると側室や2室もあらわれ、

   慕主の室内、邸内、野外の生活図や仏教の飛天、道教てきな怪獣

   陰陽五行説による四神図が描かれるようになった。

   世界遺産に登録された高句麗壁画古墳63基の中から、

   最大規模の黄海道安岳郡にある安岳3号墳の壁画を紹介したい。

   安岳3号古墳は、今から1500年前のもので、縦横幅30M、高さは7M、

   王
           王 主人公像 唯一の正面像 前室正面

   王妃
           王妃 主人公婦人像 前室正面右側 

   王・王妃が描かれている前室は生前の主人公の現実生活を映した部屋であり、
 
   奥にある玄室(後室)は葬られた主人公の永遠の安息、不滅の魂がやどる

   聖なる場所であった。

   厨房
          厨房・肉庫・車庫図  前室東側側室東壁

   厨房では3人の女人がそれぞれの分担の仕事に熱中している、

   隣の肉庫には豚や鹿など野生動物の肉が架けられている、

   その隣に荷車が置かれている。

   この壁画は高句麗王、貴族の生活、風俗をしるうえで貴重な史料となっている。

   安岳三号墳壁画の圧巻は次の絵巻であろう、
   
  
   行列図
          大行列図 後室(玄室)の回廊に描く
   イラスト
       大行列図イラスト 全浩天著『古代壁画が語る日朝交流』より引用

   
   現地を訪問し、実際に安岳三号墳に入り取材した全浩天氏によれば

   回廊の壁に華麗・勇壮な二五〇余名からなる大行列が描かれているが、

   鮮明に見えるのは行列の中央隊列の部分だけであるらしい、

   楽隊が先頭に立ち、王を中心に前後、左右に弓隊、槍隊、そして、

   鎧馬(かいば)騎士団が護衛して進む。

   「鎧馬騎士団とは、馬に乗る騎士だけが甲冑に身をかためるだけでなく、

   馬の顔にも鉄製の馬面を着け、馬身には鉄片を革で閉じた鎧すなわち馬甲で

   武装した騎馬武士をいう。騎馬騎士団とは高句麗が無敵を誇る鉄騎団をいう

                          (『古代壁画が語る日朝交流』全浩天著)・

   この「大行列図」は、大陸を駆け巡り領土を拡大していった

   高句麗軍の威容、国力の一端を表現しているのではなかろうか?

   高句麗壁画について、記事にすべきことがまだまだ沢山ある、

   高松塚古墳、キトラ古墳の関連についても触れる必要がある。

   筆者は美術に対する造詣を深め、勉強不足を補い

   またの機会に高句麗壁画についての記事を掲載したい。
                     つづく
   


2015.03.09 高麗の里9
         高句麗の隆盛

   
   東明王
      高句麗始祖 東明王(朱蒙)陵入口   平壌市郊外
   
  
 
   中国大陸では、黄巾の乱(184年)をきっかけに後漢が滅び(220年)、

   魏・呉・蜀の三国時代となる。一時期、魏を継承した晋によって統一されるが、

   北方の匈奴など諸民族の侵入を受けて滅び、5胡十六国・南北朝時代と、

   ほぼ370年間の分裂状態がつづいた。

   北朝の隋によって統一されたのは581年、6世紀末であった。

   このような中国内の分裂状態を利用して、高句麗は漢時代に設置された

   楽浪郡、帯方郡などを駆逐すると共に領土を着実に拡大していった。

   遼寧・遼北・𠮷林省など中国東北の大部分の地域を版図に収め、

   国境は遼河を挟んで接した。

s-碑の位置
         5~6世紀 中国・朝鮮半島勢力図

   小獣林王(在位371~384)時代には律令を頒布し、

   国家統治の基本法と行正法を定めて、国内体制を整えた。

   372年には人材を養成するための太学を設けた。

   朝鮮における最高学府・大学の始まりであった。

   この時期、秦(晋)の僧・順道によって仏教と経文が伝えられた。

   375年、朝鮮で初めての寺院・肖門寺、伊弗蘭寺が創建され仏教が盛んとなった。

   また、長寿王(在位413~491)時代には、王都を平壌に遷し(417年)

   朝鮮半島南内の新羅、百済を圧迫した。そして475年、百済の王都・

   漢城(現ソウル)を攻め落とし、漢江流域を占領した。こうして、高句麗・新羅・百済の

   三国時代の覇権争いの中で高句麗が優位に立っていた。

   狩猟図
       高句麗古墳壁画 狩猟図(4世紀) 舞踊塚

   4世紀~7世紀前半までの高句麗は、最も領土が拡大した時期で

   国力が隆盛した時代であった。この時期、北東アジアにおける最強国であった。
 
          
       
        高句麗と日本の交流
  
   高句麗と日本(倭)の関係が最初に伝えられるのは、570年、高句麗の使者が

   北陸地方に漂着し、国書・<鳥羽之表>が届けられたことで記録されているが、

   6世紀頃までの高句麗と日本の関係は主に文化交流であったようだ。

   595年高句麗の僧恵慈(えじ)が渡来して、聖徳太子の師となり儒教・仏教を教え、

   602年に僧隆、610年には曇徴が来て絵具,紙、墨、水車などを伝えた。

   その他にも高句麗僧の活躍によって寺院建築、仏像、彫刻、瓦の文様など

   広範な文化が日本に伝えられた。625年に来日した高句麗僧慧灌・道澄などは

   三論宗を伝え、教義の面でも影響を与えた。

   このような仏教文化以外にも、高松塚古墳、キトラ古墳、

   九州各地の装飾古墳壁画に見られるように、画題の内容・色彩・絵画形式など

   高句麗古墳壁画の影響を受けていた。

         高松塚玄武
             高松塚古墳  玄武

          キトラ玄武
            キトラ古墳  玄武

   DSC_0278.jpg
           高句麗古墳 江西大墓  玄武

   玄武は四神(玄武・白虎・青竜・朱雀)の一つ、北の方角をまもる。

   また、6世紀頃から朝鮮の歌舞が伝わり、7世紀には宮廷の雅楽として

   高麗(高句麗)楽が採用され、新羅、百済の楽と合奏された、

   702年以後、楽師・楽生を養成する雅楽寮に高麗楽がおかれた。

   752年、奈良大仏開眼供養の盛大な儀式で高麗楽が演奏されたと伝えられている。

   7世紀に入ると高句麗・日本の関係は文化交流だけでなく外交も活発になっていた。

   625年、大和朝廷は高句麗僧、慧灌を僧正に任命する特別な待遇を与え、

   高句麗からは僧侶と共に儒学者が派遣された。

   630年、高句麗大使・宴子抜などが来朝して、日本と正式な外交関係が開かれた。

   大和朝廷は、645年に来朝した使者を<高麗神子奉遣之使>といい、

   高句麗王を天皇と同じ神の子孫とみて待遇した。

   その後、頻繁に高句麗と日本間に使者の往来があった。

   666年、高麗王若光が高句麗の使者の一員として来日したが、

   668年に高句麗が滅亡したため帰国することが出来なくなった。 つづく
2015.03.07 高麗の里10
         高句麗の隋・唐との戦い    
   
   DSC_0277.jpg
      高句麗古墳壁画  青竜(東)  江西大墓 平壌市郊外


   中国を統一した隋は周辺諸国を圧迫し、とくに高句麗対する侵略戦争を

   執拗に 繰り返した。598年、隋文帝は30万の兵を動員し

   第一次高句麗侵略を開始したが撃退された。

   DSC_7782.jpg
       隋・唐の侵略と高句麗の戦い  『入門朝鮮史』より引用

   文帝を継いだ楊帝は、612年、第2次侵略に200万を動員し攻撃したが

   国境の遼東城で阻まれた。やむを得ず30万5千の精鋭部隊を進軍させ、

   都城・平壌攻略を急いだ。高句麗の名将・乙支文徳(ウルチブンドク)は、

   戦っては後退する誘引作戦で、隋軍を国内深く平壌城付近まで引きこんだ。

   乙支文徳がここでいったん降伏和平を提案すると、兵糧が底をつき疲労が極に達していた

   隋軍は即時、これを受け入れ撤退を開始した。これを見た乙支文徳はすかさず追撃し

  、隋軍が薩水(清川江)を渡るところで、山城に待機していた高句麗軍と共に

  、挟撃(薩水戦い)して壊滅的な打撃を与えた。

   生還した者わずか2700人にすぎなかったという。
 
   また、隋の水軍は陸からの進撃を待って平壌城を攻撃する予定であったが、

   待ちきれず単独で攻撃を仕掛けたが大敗した。

   その後も3次・4次の高句麗に対する侵略を試みたが、ことごとく撃退され

   国力を消耗した隋は618年に滅亡した。次いで登場した唐もまた、

   早くから高句麗に対する侵略を進めた。高句麗内では唐に対する妥協派を退けた

   淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)が実権を握り徹底抗戦を貫いた。

   彼は642年、クーデターで王と諸大臣を殺害して新王を立て、

   自は内政と軍事の全権を握る莫離支(マンニジ)となり軍事独裁政治をはじめた。

   彼は遼東地方から渤海湾に至る城砦を築き(647年完成)唐に対する臨戦体制を整えた。

   644年から唐軍は5次にわたって侵略してきたが、高句麗はそのつど撃退した。

           img027.jpg
       日本・朝鮮・中国の年代比較表 『日本の中の朝鮮』より引用

            百済・高句麗の滅亡  
   
   長びく戦いは高句麗の国力も次第に疲弊させた。また、唐の侵略に対する北部戦線の

   軍事的・経済的負担は、次第に南部の新羅・百済に対する防衛が手薄になっていた。

   この頃、新羅は百済の攻撃をうけ大耶城(峡川)を攻め落とされ窮地にたっていた。

   軍事的劣勢を挽回するために、新羅の金春秋(後の武列王)は積極的な外交を展開した。

   彼は敵対する高句麗に赴き同盟と百済攻撃の援軍を求めたが、淵蓋蘇文に拒絶された。

   次に彼は日本(倭)を訪れたが、百済との交流が深い大和朝廷の協力が得られなかった。

   日本の次に、金春秋は息子(のちの文武王)を連れて唐に渡り(648年)、

   太宗に百済攻撃のための出兵を要請した。

   これを受けて唐は海上から13万の兵を送りこんだ。呼応した新羅5万の陸上軍が

   百済を攻撃した。陸・海からの大軍に挟撃された百済は660年滅亡した。

   落花岩
   扶余 白馬江 <落花巌>  百済滅亡時 3千人の宮女が投身 伝承   

   663年、日本に滞在していた百済の王子・余豊璋を王にたて、

   日本からの百済復興支援軍が国内の残存勢力と共に、新羅・唐連合軍と戦ったが、

   「白村江」で大敗し百済の復興はならなかった。

   金春秋の巧みな外交・「遠交近攻」策・新羅の勝利だった。

   665年、淵蓋蘇文が死去すると内紛がおこり、高句麗内の戦時体制が動揺していた。

   高句麗内の動揺を突いて、北からの唐軍の攻撃と南からの新羅軍の挟み撃ちにあった

   高句麗はついに、668年、王都・平壌城が陥落して滅亡した。

   こうして、朱蒙(東明王)による建国から705年の間、存立しつづけた、

   東アジアの強国・高句麗は歴史の舞台から姿を消したのであった。

    朱雀
    高句麗古墳壁画  朱雀〈南〉  江西大墓  平壌市郊外   

   その後、 滅亡した百済、高句麗の遺民たちはどうなっていったのだろうか?

     つづく
2015.03.06 高麗の里11
      百済人の日本への亡命


   びわ湖
       古代近江朝の所在地  びわ湖畔  現在の大津市
 

   663年、日本から百済復興のための支援軍が、白村江で敗北すると

   百済は完全に崩壊した。王子余豊璋をはじめ一部の百済支配者は高句麗に亡命し、

   一部は唐に捕虜として連れ去られた。

   また、少なからずの貴族・官僚・遺民が日本に亡命して来た。

   天智天皇(中大兄皇子)は新羅・唐連合軍の逆襲を恐れ、

   飛鳥から近江に都を遷し国境警備を固めた。664年に対馬島、壱岐島、

   筑紫国に防人(国境警備隊)と烽(とぶひ・のろし台)を設置した。

   つしま 
      対馬 新羅・唐の襲撃に備えた金田城跡から玄界灘を望む


   665年には百済の官人・等奔春初(とうほんしゅんそ)を遣わして長門城をつくらせ、

   憶礼福留(おくらいふくる),四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に派遣して

   大野城、基肄城(きいじょう)、667年には大和に高安城、讃岐に屋島城、

   対馬に金田城をつくらせた。いずれも朝鮮式山城で現在も遺跡が残っている。

   また、近江朝は665年に百済の男女400余人を神崎郡に移住させ、669年には

   自信や鬼室集斯(きしつしゅうし)ら百済亡命者男女700人余りを蒲生郡に移した。

   そして、鬼室集斯に学識頭(現在の文部科学大臣兼大学総長)に登用したのをはじめ、

   多くの知識人・技術者に官位を与え律令体制の国づくりに起用した。

        境内 蒲生郡日野町
           鬼室神社と鬼室集斯の墓 滋賀県蒲生郡           

   『日本書紀』によると、近畿地方の摂津国に百済郡が置かれ、

   664年に「百済王善光『禅広)らを難波に居らしめた」と記されている。

   日本に亡命した百済人に安住の地を与えたのであろう。

   鬼室集斯を祀る神社と墓が滋賀県蒲生郡(がもごおり)に有り、

   百済の地名や神社・寺・遺跡が各地に残されている。    

     百済寺
        百済寺  聖徳太子の創建 滋賀建愛知郡

   「百済寺(ひゃくさいじ)は、606年、高句麗僧恵慈を開山とし、

    百済僧慧総・道欣・観勒らが住持を務めた渡来人が立てた寺院であった。」
                       (『滋賀のなかの朝鮮』 朴鐘鳴編)

      つづく

    

   
2015.03.05 高麗の里12
          高句麗人の日本への亡命

   元山2
      朝鮮元山の浜  1300年前の昔  高句麗人  海を渡り日本へ 


  668年、滅亡した高句麗の支配者たちの多くは降伏したが、

  一部の者は北方に逃れ高句麗再建に立ち上がった。

  大祚栄(てじょよん)がリーダーとなり反唐闘争を展開し、

  698年、吉林省敦化を拠点とする震国を建国した。713年には

  国号を渤海(ぱるへ)に改め、唐と和平して経済・文化の交流が盛んになった。

  渤海は唐から「海東の盛国」と呼ばれた。

    P3261839.jpg
         高句麗人の日本への渡来   高麗駅前 案内版

  また、高句麗滅亡時、貴族や僧侶らが海を渡り日本に亡命する者も少なくなかった。

  彼らは朝鮮半島の北東海岸、元山、咸興,清津等の浜から舟に乗り

  日本列島をめざした。そして、能登半島や越前海岸、敦賀湾に漂着したと思われる。

     能登半島
            能登半島北端    千里浜

     越前海岸
                越前海岸

  そして、一部の者は近畿地方に、その他の者は信州(長野県)から

  関東地方の各地に分散していったようである。

  716年、「駿河(するが)、甲斐(かひ)、上野(こうずけ)、上総(かずさ)、

  下総(しもふさ),常陸(ひたち)、下野(しもつけ)、相模(さがみ)7国の

  高句麗人1799人を武蔵国に移し、ここに高麗郡を設置した」と記されているのは、

  彼ら高句麗からの亡命者であったのは間違いないだろう。『続日本紀』(794年)
 
  高麗郡の郡司に任命されたのは高麗王若光(こまこにきしじゃっこう)であった。

  若光は、先に述べたように高句麗が滅びる2年前、高句麗から派遣された

  外交使節団の一員として来日して、日本に定住を余儀なくされていた。

  若光は大和朝廷より従5位下の位を授与され、

  703年には王(こきし)の姓を与えられ 高句麗の王族として待遇されていた。

  それでは、高麗王若光は666年来日から、716年に高麗郡の郡司に

  任命されるまでの50年間、何処に定住し何をしていたのであろうか?  つづく

   母屋
         高麗家住宅   2015年3月26日   筆者撮影
          

   追記
                
            高麗の里 菜の花まつり                    

            2015年 4月4日(土)、5日(日)

     菜の花


         
    イベント  菜の花ステージ   日高グルメ販売  巾着田里山トライ

           ミニSL菜の花号   JCアトラクション  フリーマーケット

           にじのパレード   吉本興業お笑いライブ等

    問合せ  042-989-2111  日高観光協会

             
2015.03.05 高麗の里13
           高麗山 

   高麗王若光が郡司に任命されて武蔵国高麗郡に赴任して来るまでは、

   相模国(神奈川県)の高麗山に在る高来神社付近(大磯町高麗)に

   居住していたと伝えられている。

   高麗山は平塚から大磯にまたがる標高168mのこんもり茂った山である。

    高麗山2
           高麗山  東海道 平塚=大磯の境   

    山頂から相模湾と相模一帯を見渡すことができ、

    相模湾
            高麗山  山頂から相模湾を眺望    

   地元では高麗寺山「こうらいじやま」、「こうらいじさん」と呼ばれていたが、

   今は「高麗山県民の森」としてハイキング客に親しまれている。

     高麗山ハイ
             ハイキングコース案内版

   奈良時代にこの山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し

   集落を作ったことから「高麗山」の名前がついた。(大磯町のホームページ)

   高麗山は古より神宿る山として住民から信仰され、

   山の上に神皇産霊神・高麗大神和光(高麗権現)が祀られていた。

  高麗権現は 箱根神社、伊豆山神社

  遷祀され、高麗・箱根・伊豆山の三権現様と崇められた。

   高麗王若光は、この地域一帯にすでに入植・定着していた高句麗からの

   亡命者・難民と共に居住していたと思われる。

   716年、若光は新しく設置された高麗郡の郡司とし、東国7ヵ国から集まった

   高句麗人を統率して「高麗の里」開拓に励んだ。 

   若光の死後、 高句麗王族であった彼の遺徳を偲び、

   彼を祀る高麗神社と菩提寺として高麗山聖天院勝楽寺が建てられた。

   そして各地に、彼を氏神とする白髭(しらひげ)神社が建てられ、

   大磯の高麗寺山の山頂には高麗神社、氏寺として高麗寺が建てられたのである。
                       (『日本に残る古代朝鮮』段麒麟著)

    高来神社
        高来神社  明治維新後唯一残された

   高麗山は三峰からなり、かつては中央には高麗神社・高麗権現社があり、

   右の東峰に天照山(東天照)・白山権現、左の西峰に毘沙門天(八俵山)と合わせて

   「高麗三社権現」と呼ばれていた。

   今も、山頂付近には高句麗渡来氏族の墳墓とされる多数の

   横穴古墳が見つかっている。また、高麗人の首長級の墓とも考えられる

   王城山の釜口古墳(切石積塚)が発見されている。

     釜口古墳
          釜口古墳  高句麗式墳墓

   高麗寺は、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと相模の大寺として人々に尊崇された、

   頼朝の妻・政子が神馬(しんめ)を献じて安産祈願したことでも有名である。

   江戸時代には高麗権現として徳川幕府の信奉厚く、100石の寺領が与えられ、

   寺領は高麗寺村と呼ばれていた。

   安藤広重の錦絵「東海道五十三次 大磯 虎が雨」に高麗山が描かれている。

   明治維新後、神仏分離政策により高麗寺の建物はすべて壊され廃寺となった。

   ただ高麗神社だけが、高来(たかく)神社と名称を変えて残された。

   高来神社の夏季大例祭・御船祭りで、飾り船(船形山車)の上から

   船子たちが唄う祝歌のなかに、高麗国からの貴人が船に乗って大磯の浜に

   上陸する様が唄われて、この貴人こそが若光であったと見なされている。

    祭り大磯夏
       高来神社 夏季の例祭 浜辺に集結した神輿・飾り船
  
   因みに、ハングル語にオイソ(오이소)は=来た、来なさい、来なさった、

   いらっしゃい等の意味の言葉で、突然に客がやってきたときや賓客を迎えたとき、

   感激しながらオーイソと言葉を発することがある。大磯(オオイソ)は

   このハングル語の「オイソ」・「オーイソ」から付いた地名ではないかと思われる。
 
   それでは、若光が大磯の入江から上陸したとすれば、

   いつ頃、何処から船に乗ったのであろうか? 
                               つづく  
2015.03.05 高麗の里14
         若光の足跡


    三井寺
             園城寺(三井寺)境内と大津市を望む


   高麗王若光は新羅・唐連合軍の侵攻により、危機状態にあった

   高句麗の外交使節の一員として666年に来日した。

   日本に義援軍の派遣を求めての渡来であった。

   当時の近江朝(天智天皇)は百済復興のための義援軍をおくったが白村江で大敗し、

   新羅・唐連合軍が日本に侵攻してくる恐れもあったため、それに対する防備と

   国内体制を整えることに忙しく義援軍を派遣出来るような状況ではなかった。

   若光が来日してから2年後の668年、新羅・唐連合軍に挟撃されて

   平壌城が陥落・高句麗は滅亡した。若光は故国への帰国をあきらめ、

   定住地を求めて滞在していた大津京を後にした。

   672年、壬申の乱(天智天皇の死後、皇位をめぐる大友皇子と大海人皇子の

   争い)が起こり、大友皇子側が敗れ大津京は廃墟化していることから、

   若光は内乱が起きる前に、大津京周辺から離れていたと考えられる。

   若光が大津京から大磯に現れるまでの足取りを特定することは難しい。

   筆者が調べた範囲では、若光が高麗郡の郡司に任命されるまでの足取りを記した

   資料や仮説は皆無である。そこで、筆者は若光が大津京から

   大磯に上陸するまでの足取りを次のように推定してみた。

   高句麗滅亡の知らせを受けた若光は、すぐさま、大津京を離れ飛鳥地方に

   移動したと思われる。なぜなら、飛鳥地方には「明日香古墳」や「キトラ古墳」に

   見られるように高句麗系の渡来人が少なからず定住していた。

   その中にはかなりの勢力をもつ氏族や有力者が居住し、自国の王族である

   若光を迎え入れる条件が整っていたと考えられるからである。

   都塚古墳
            明日香 「都塚古墳」 高句麗式将軍塚

   703年、飛鳥に居住していた若光は、朝廷から従5位下の位を受け

   貴族として遇されると共に,王(こきし・こにきし)の姓(かばね)与えられ

   高句麗の王族として正式に認められた。これは、国を追われた高句麗の人々・

   渡来人にとって大変な慶事で高句麗再興への希望になったと思われる。

   その直後、高麗王若光は朝廷の指示を受けて、飛鳥を出発し難波から船に乗り

   大阪湾、紀伊南端沖、伊豆半島を迂回して相模湾の大磯海岸に至ったと思われる。

   伊豆下田
                伊豆半島南端  下田の浜辺

   若光が飛鳥を出発する頃は、高句麗滅亡からすでに30数年が過ぎていたことから、

   高句麗の亡命者、難民はすでに甲斐や相模、関東一帯に入植・定住していた。

   甲斐の巨摩郡(こまぐん)の地名や相模川の上流の津久井や伊勢原町には

   高句麗人の居住地、集落の遺跡ではないかと思われる地名や風俗が

   処々に残っている。(『箱根山の開発と高麗文化』中野敬次郎著)

   高麗山のある高来郡や大磯一帯にも多数の高句麗から亡命者が住み着いた。

   この住民・高句麗人たちが、大磯の浜に現れた王族の若光を迎え、

   感激のあまり歓声をあげ、歌や踊りで歓迎する様子が高来神社の

   夏の例祭・御船祭りとなったものと考えられるのである。

   艱難辛苦を重ねて、何とか異国の地に入植、定住した高句麗人たちにとって、

   そのとき現れた高麗王若光は、まさに絶対君主・王の到来であり、

   救世主・神の出現に映ったのではなかろうか?

   そして、それから数年後の716年、高麗王若光は朝廷から郡司の任命を受け、

   相模国高来郡一帯の高句麗人を伴って武蔵国高麗郡にやってきたのであった。

   そこには、東国一帯から同じ生活様式・風習・言語をもった

   高句麗人がぞくぞくと集まってきていた。

   彼らは高徳の人・若光を郡長に戴いて、協力して原始林に覆われた

   未開地の「高麗の里」の開拓を開始したのであった。
                                    つづく
 
   日高市
         高麗建郡 1300年 現在の日高市 聖天院から撮影


2015.03.05 高麗の里15
          高麗郡の開拓
 
  
  高麗川
        高麗川  この周辺から高麗の開拓がはじまった

   高麗王若光が初代郡長として高麗郡に着任したとき、 すでに高齢で60代の

   半ばを過ぎていた。しかし、若光は高句麗王族としての誇りをもって、

   東国各地から集まって来た1800人の高句麗人をまとめ、新天地開発の

   先頭にたって東奔西走・奮闘したと思われる。

   高麗郡は現在の日高市と飯能市を中心に鶴ヶ島市、川越市、入間市、狭山市まで

   広がっていた。その殆どが未開地であった。

   もともと、優れた知識や技術を持っていた高句麗からの渡来人たちは

  、若光の指揮のもとに未開の土地を開拓し、道路の整備や山林の開墾、

   稲作や麦作、養蚕や馬の養育など生活の基盤を整え、さらに騎射術・馬射戯(まさひ)、

   宗教の伝来、文化の向上に貢献したのであった。

   高麗郡の郡家(郡役所)の所在地は飯能市(上総郷)の久下分(くげぶん)で

   あったとされているが、日高市の高萩に遺跡(女影廃寺跡)が発見されて、

   初期の郡家所在地はこの付近にあったとする説もある。

   若光の晩年は、2代目の家重に郡の運営を任せ、自らは相談役として

   郡内に起こるさまざま問題の解決に当たっていたとは思われる。

   そして、高麗王若光は730年、波乱に満ちた生涯を終えた。

   有に 80才は超えていたと思わる。

  高麗王若光の秦
          高麗王若光の墓 高麗山聖天院勝楽寺


   若光が逝去したときの様子を次のように伝えている。

   「その後、幾星霜を経て、ついに日本における新封土の高麗の地に逝った・・・

   有為の才能を有しながら,一身を犠牲にせられた首長・若光の訃を聞きつたえた

   高麗の郡民は、貴賤・老若、ことごとく来ってその卒去を悲しみ泣いて尊骨を葬り、

   また霊廟を建てて高麗明神としてあがめたことは、『高麗氏系図』につまびらかである

     (小冊『高麗神社と高麗郷』高麗神社発行)

  王廟
       高麗王廟  高麗家先祖の霊を祀る 聖天院

   高麗郡の民に慕われ、惜しまられながら逝った若光は祭神となって

   高麗神社に祀られた。1300年の時を経た今日まで高麗王若光は、

   郡民はもちろん多くの人々から尊崇されつづけてきた。

  2高麗神社
        高麗神社の鳥居  来年にむけて本殿改装中

  

   高麗神社は若光の直系子孫が代々宮司(神主)を受け継ぎ、

   現在は高麗家60代目当主・高麗文康氏が宮司を努めている。

      高麗王若光像2
             高麗王若光像  聖天院本殿横

   高麗文康氏は小説「陽光の剣 高麗王若光物語」(幹書房2013年)を著した。

   高句麗支配層の内紛や若光の思春期と使節員として渡日してから

   郡司となって高麗郡に至るまでの全生涯を描いている。 
            つづく
2015.03.05 高麗の里16
          『高麗氏系図』
  
  P3261842.jpg
         高麗の里 春の風景  巾着田付近

  高麗神社に高麗王若光を先祖とする『高麗氏系図』が残されている。

  『高麗氏系図』は高麗神社創建の経緯と初代若光から高麗家の代々嫡子によって

  受け継がれた高麗文康氏(60代)に至る、1300年の系譜・記録である。
 
  系図の巻頭には高麗神社、聖天院勝楽寺創建について次のように書かれている、
 
  「・・・これに因り来たれる貴賤相集い、屍を城外に埋め、且つ神国の例により、

  霊廟を御殿の後山に建て高麗明神と崇め、郡中に凶あれば即ちこれを祈るなり。

  長子家重が世を継ぐなり


   『高麗氏系図』に載せられた60代の社主・宮司名を1欄表にしてみる

  1  若光   13  惟正   25  天純   37  良多   49  良覚
  2  家重   14  一豊   26  宗純   38  良悟   50  良清
  3  弘仁   15  元豊   27  豊純   39  良阿   51  良厳
  4  清仁   16  元友   28  永純   40  良伝   52  良誉
  5  高照   17  元丸   29  観純   41  覚与   53  良純
  6  高徳   18  菊丸   30  行仙   42  景信   54  正純
  7  弘清   19  吉豊   31  行純   43  良順   55 米具美
  8  弘道   20  豊丸   32  行高   44  良道   56  大記
  9  道勝   21  純長   33  行阿   45  良海   57  興丸
  10 高章   22  純丸   34  永山   46  良賢   58  明津
  11 照和   23  麗純   35  大真   47  賢光   59. 澄雄
  12 真正   24  高純   37  天純   48  良仙   60  文康

  高麗神社発行の『高麗神社と高麗郷』と 現当主・高麗文康氏が

  雑誌「『武蔵野』(77巻2号)に載せた 論文「高麗神社と高麗氏の歴史」等に

  依拠して特記すべき事項を紹介する。

  『高麗氏系図』は代々継いでいく過程で消滅・途絶える危機が幾度かあった。

  最初の危機は、27代永純の1259年、大風により火災が起き、

  高句麗から持ってきた宝物一切と『高麗家系図』が焼失したことである。

  このときは、高麗一門の縁者、重臣たち高麗井(駒井)、井上、新、神田、

  丘登(岡登、岡上)、本庄、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、

  金子、中山、武藤、芝木ら各氏が集まって諸家の記録を調べて

  新しい宗家の系譜・『高麗氏系図』を再編集した。したがって

  永純までは同一筆跡であるが、それ以後は累代の書き足しの筆跡となっている。

  聖天院
        高麗の里  現在の日高市  聖天院本殿前から

  2度目の災難は高麗家が滅亡の危機に落ちいったときである。

  23代目純秀は1143年に大峯修行を行い、役行者(小角)の信者・修験者となり、

  高麗寺麗純と名乗った。以後、高麗氏は修験道を信仰するようになるが、

  時代は信仰だけに留まることは許されなくなっていた。

  1180年、源頼朝が平氏追討の挙兵をすると、関東武士団の激動を誘発し

  高麗一門からも金子氏や高麗太郎らが現れ頼朝配下で活躍するようになり、

  高麗郡加治村(現飯能市)に武勇を馳せた 「武蔵丹党」も生まれた。  

  彼らは新興勢力として、本家・高麗家の権威を徐々に浸食しはじめた。

  そのため高麗家は生き残りを賭けて源氏一族と縁戚を結び鎌倉幕府に加担した。

  高麗家30代行仙の弟、三郎行持、四朗行勝は幕府軍に加わり、

  新田義貞軍の攻撃に立ち向かい討死した。鎌倉幕府が滅亡(1338年)すると、

  32代行高は後醍醐天皇側の新田義貞につき、足利尊氏と戦い敗北した。

  その結果、高麗家は没落の危機にさらされた。

  その後、なんとか旧領に戻ることは許された行高は、深刻な教訓から

  「わが家は修験者である、以後は子孫代々何事があっても

  武士のおこないをしてはならない
」と遺言を残した。

  以後、高麗家は累代、仏門に帰依し多門房、清浄院、宮本院本明院、梅本坊、

  正覚院、多門院、正学院、大宝院といった寺号を名乗り修験者に徹した。

  15世紀後半、応仁の乱が起きた後、国内は戦国時代に突入した。

  各地で合戦が起き、様々な領主から参陣の誘いがあったが、

  高麗家は行高の遺言を守り修験者としての務めをつらぬいた。

  1591年、北条家の小田原城が落ち、徳川家康が国主となると

 、高麗家44代良道は祝賀に参上し、朱印地3石を許された。

  こうして高麗家は戦国の苦難な時代を無事乗り越えたのであった。

  3度目は『高麗氏系図』が他家に遷り、系図が断絶する怖れがあった。

  46代良道(~1656)のとき、理由ははっきりしないが親戚である入間郡勝呂郷の

  勝呂氏に『高麗氏系図』が預けられて、そのまま10代・200年が経過した。
  
  明治時代になった1875年、歌人として著名であった井上淑蔭と加藤小太郎は共に

  勝呂家を訪れ『高麗氏系図』の返却を勧めた。

  これに応えた勝呂美胤は系図を高麗家56代大記に返したのであった。

  『高麗氏系図』があるべき処に戻ることによって高麗神社の由諸来歴が詳らかになり、

  埋もれた高麗家の事歴も明らかになった。『高麗氏系図』は高麗家の歴史にとどまらず、

  「高麗の里」開拓の歴史を明かにするうえで貴重な資料として残ったのである。

  1300年の長い年月、断絶することなく1系を継承して、歴代高麗神社の宮司として

  祖神の守護に仕えていることは壮挙であり、奇跡的である。

 
  『高麗氏系図』はそのことを物語る記録ではなかろうか。

  P3261841.jpg
        高麗の里 古民家展示場 明治時代


2015.03.04 連休中の夕日
       太陽

  

   連休は好天に恵まれた、

   日中は汗ばむくらいの陽気であった、

   気温が上がると靄がかかり西の山並みが見えなくなる、

   そのため、連休中1度も富士山は顔を見せなかった

   変わって赤く燃えた夕日が映えていた、

   この間、撮った様々な夕日をパラパラっとご覧ください。


  連休の夕日

2015.03.04 夕日と雲
       神秘な光景

  

   ブログを始めて3年、

   今年3月、更新250回を越えた、

   掲載した画像は1000枚以上になる、

   その中に、筆者自身が“これは”と自慢できる

   画像が少なからずある。

   すでに、自身のブログに公開したものであるが、
   
   他では見られない神秘的な画像10枚を、
 
   パラパラ画像でもう一度ご覧ください、

神秘的光景

2015.03.04 空模様
       荒れた空模様
  
   昨日の4月15日は久しぶりに朝から晴れたが、

   関東一円でにわか雨、あられ、突風などがあり、

   予報どうり荒れた空模様であった。

   この日の天気を象徴するかのように夕日が沈むと

   富士山上空の雲が千変万化の面白い光景を見せてくれた、

   ご覧ください

 荒れ模様


   
2015.03.03 夕陽
      夕陽

   春になり、暖かくなると富士山は殆ど見られなくなる、

   変わって、真っ赤な太陽が肉眼で見えるようになる、

   次の画像は寒い日や、暑い日はなかなか見られない


  夕日

   
       上水のさくら
   玉川上水駅南口から上水に沿って遊歩道を上に 

   約30分、5000歩行くと上宿橋に至る、

   途中の見影橋から上宿橋にかけて川の両側に咲くサクラは見ごたえがある。
 
   そして、残堀川と交差する上宿橋付近は圧巻である。

   パラパラ画像でご覧ください、

    上水のさくら
    西武線の武蔵砂川駅からよく見えるところ、

    百聞は一見に如かず、
2015.03.02 桜満開
   さくらが満開、 お花見に絶好のシーズンになった。

   中でも南公園、旧変電所横のさくらは見事なものである。

   昨年撮った画像をパラパラ画像にしたのでご覧ください。

     公園のさくら     
   この1週間、7日くらいまでが最高の見頃だろう。、

         
          春到来  

   2月28日夕、日差しはあるが、風はまだ冷たい、

   しかし、極寒の寒さはなくなっているようだ、

   夕陽は富士山から離れた処に沈んだ

   夕空が美しい、春らしい夕空の風景である

   P2281741.jpg
           

   それまで全然見えなかった

   富士山がぼんやり浮かび上がっていた、

   春の到来を思わせる姿である、

   春到来


   とろが、3月に入った初日は雨、寒い1日であった

   冬に逆もどりかと思わせたが、

   2日は好天に恵まれ、朝から富士山が雄姿をみせた。

   3階2日


      いよいよ春が到来した、と宣言してようだ、
2015.03.02 美しい富士山
  これまで撮った富士山の画像を何枚か集めてパラパラと

  見ることができる方法を東大和市民ネットクラブのSさんから教わり

  試みてみます。 

   新規
     
  これまで、筆者のブログ記事に掲載したものですが、

  こうして、まとめて見るのも悪くないかー

  新しい試みに、いつも援助しくれる仲間がいる、

  励みになり、勇気づけられる.。

  


   
2015.03.01 輝く富士山
      輝く富士山


   輝く富士山の様々な光景をパラパラ画像でご覧ください。

<新富士1