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あっ!富士山が危ない!


    F505戦闘爆撃機から富士山を目がけてミサイルが撃ち込まれた、

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    これはヤバイと思った瞬間、ミサイルは富士山の山頂をかすめて

    青木が原に着弾したようだ。その付近から赤々と炎が上がった。

    ホットしている間もなく、今度はとてつもなく巨大なロケット砲が

    富士山目指して飛んできた。

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   、これに当たれば富士山は木端微塵に吹き飛び、跡形もなくなるだろう。

    そればかりか周辺の被害がどこまで広がるだろうか?

    自分の住む東京まで影響を及ぼすのでは?と怯えながら、

    あれこれ考えていると、いつの間にか、ロケット砲は消え失せた。

    夕日が沈むと奥多摩方面から大きな雲が現れた。

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    夕日に映えた大空は赤く染まり、そこにあたかも、平和のハトが

    飛んできたかのような、なんとも言えないのどかな風景に変わっていた。

    世界のいかなる地域の空も、自然の変化があっても、

    戦闘機が飛び交わない 平和な空であって欲しいと願っている。

    今年の最後の記事となりました。ご愛読有りがとうございました。

     新年も宜しくお願い申し上げます。
  富士山が綺麗だ!
 
    寒い日の富士山はとくに綺麗だ!

    最近、晴天の寒い日がつづき、

    すそ野まで雪を被った富士山が

    毎日のように朝から綺麗な姿を見せる。

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    夕陽が沈む頃になると白い雪が影になり、

    富士山が黒い姿に変化して、見映えが半減する。

    夕方、富士山周辺に雲が発生すると、

    とたんに、変化にとんだ面白い富士山が見られる。

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   PC131419.jpg

    このような風景を眺め感動を覚え、また、

    ブログ記事にして発信する喜びを感じているこの頃である。

    


2014.12.25 高麗の里20
        「高麗の里」はどこか?
  
  飯能市
                 飯能市中心街

  上の写真は天覧山(明治天皇登頂)から飯能市を撮影したもの、

  1300年の昔、この地が深い樹林に覆われた未開の原野であったことが

  想像できますか?

  716年、この未開地に高麗郡が設置され高句麗からの渡来人が入植し開拓を始めた。

  高麗郡は上総郷と高麗郷(現日高市の一部)の二郷からなり、

  上総郷が現飯能市に比定される。

  開拓当初の高麗人の苦労は大変なものであっただろう。彼らは本国で学んだ

  知識や技術力を生かして困難を克服しながら一歩一歩開拓を進めていったものと

  思われる。そして、世代をついだ長い年月たゆまない努力により

  高麗郡の開拓地は紆余曲折を得ながら発展しつづけた。

  そして、時代が進むにつれて、開発地は郡境を越えて周辺に広まっていった。

  高麗郡の発展と人口増加は高麗郡周辺に留まらず、新たな開拓地を求めて

  武蔵野全域・関東一円に移住していったものと思われる。

  また、高麗王若光を祀る高麗神社の別称である白髭神社の分社が関東一円にあり、

  若光の菩提寺である高麗山聖天院勝楽寺の末寺が武蔵野の各地に残っているは、

  高麗人が各地に移住して開拓していった地域であるからだろう。

  地名辞典を見ると「江戸時代の(高麗)郡境は北と東は入間郡、西は秩父郡、

  南は多摩郡に接し、現在の日高市。飯能市の大部分と川越市・入間市・狭山市

 ・鶴ヶ島市・坂戸市の一部にあたる」
と記している。

  1887年(明治29年)高麗郡は入間郡に併入された。

  そして、1955年(昭和30年に高麗村・高麗川村が合併して日高町となり、

  1991年(平成3年)市制の施行により日高市となった。

  したがって、1300年前に建郡時の高麗郡は、現在の日高市と飯能市である。

  この両市は東京に近いため開発・宅地化の波が押し寄せ、

  急速に昔の風情が失われていった。

  高麗地図1
       「高麗の里」はJR八高線より左側  高麗文康氏小説より引用

  それでは、「高麗の里」とはどの地域を指すのだろうか?

  現実的にはここだと指定できる「高麗の里」の地域はないのである、

  筆者がイメージした「高麗の里」は、西武線高麗駅から高麗山聖天院勝楽寺、

  高麗神社まで、日和田山から高麗川流域までの間、

  巾着田と出世橋付近まで
の狭い範囲である。

  このあたり一帯だけが、のどかな田舎の風景を残し、往時を偲ばせてくれる。

  高麗川
       高麗川   出世橋より撮影

  現在の「高麗の里」は狭い範囲にすぎないが、高麗人が開拓した領域は

  広大な武蔵野台地に広がり、そこに無数の痕跡(地名・遺跡・文化)を遺した。
つづく
   今日、12月22日は、1年の中で太陽が南に傾き、最も日照時間が短く、

   夜が一番長い冬至である。

   この日、玉川上水駅前の高層アパートから西山を眺望すると、

   夕陽が沈む位置が富士山に最も近づく。

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   冬至は太陽の力が一番弱まる日であり、この日を境に再び力が甦る日でもある。

   そこで、冬至のことを「一陽来復(いちようらいふく)」といい、

   この日を境に運も上昇するとされていた。また、悪いことが続いても、

   回復してよい方向に向かうという意味もあった。

   上の写真は一週間前に撮ったものである。冬至の日は、夕陽が富士山にかなり近寄る。

   しかし、この日以後、夕陽はUターンして富士山から北に離れて行く。したがって、

   「ダイヤモンド富士」は絶対に見られないことが解ったのは昨年の今日であった。

   その後、筆者は富士山だけでなく、夕日や雲にも関心を持つようになり、

   つねに空を見上げ、バラエティーにとんだ空模様を楽しむようになった。

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   「ダイヤモンド富士」の輝く光景も素晴らしいにことに違いないが、

   夕日と雲が織りなす風景もまた、

   人々に感動を与える神秘的な光景をしばしば見せてくれるのである。

  玉川上水駅前の高層アパートから富士山が良く見える。

  最初はブログ用の『今日の富士山』を撮るため、毎日のように西の空を眺め、

  富士山の雄大な美しい姿だけを追っていた。2年以上も撮りつづけてきたのであるが

 、富士山だけでは単純でつまらないと思うようになった。

  最近は、いろいろな、ある程度の雲が出ることを望むようになっている。

  なぜかと考えると、同じ場所に立つ富士山を、同じ場所から眺めているのであるから、

  同じ風景だけを見ることになる。当然単純でつまらなくなってきたのだろう。

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  晴天の日、富士山はいつも同じ姿である。夕陽が沈む頃、

  時間によって背景の色が微妙に変わるが大きな変化は見られない。

  しかし、富士山周辺に雲が現れると様子は一変する。

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  富士山周辺に小さな雲がところどころにかかり、不思議な富士山の姿になった。

  しかし、富士山と雲だけでは絵にならない。

  そこに夕日が関わって初めて眺める人の目を楽しませてくれるのである。

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「富士山と夕日と雲」の3位一体となって、つぎつぎと新しい「芸術作品」を創り出し、

 、観る人を楽しませ、ときには感動を与えてくれる。
 
   11月下旬の晴天の日、玉川上水駅の近くにある東大和南公園を訪れた。

   公園内のグランド周辺はすでに晩秋、色とりどりの装いを整えていた。

   紅葉した木々混じって、所々の鮮やかな赤い楓が訪れる人の目を惹く。

グランドをぶらりと一回りして、南の庭園を通りぬけなら公園内の風景を撮りつづけた。

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   最初の一枚は、高齢者のグループが陽だまりで談笑する和やかな風景。

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    次に、グランド内では保育士に連れられた園児が遊び、

   その横を高校生が走り抜けていった。反対側では周辺の風景には目もくれず、

   ゲートボールを楽しむ多くの年寄りの姿があり、園児、高校生、年寄りたち

   にぎやかなグランド内の風景だった。

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   ひときわ鮮やかな一本の楓が、人目を惹くように真っ赤に燃えていた。

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   グランドの南にある池の水面に、周辺の木々より美しい風景が映っていた。

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      筆者には、晩秋のこの風景が最も美しく見えた。
2014.12.07 王仁博士1
             はじめに

筆者は、10月中旬(2014年)、大阪府枚方市にある「王仁博士」の墓を訪れた。

墓はJR片町線長尾駅から徒歩30分はかかっただろうか?急坂の丘の上にあった。

「王仁の墓」を訪ねた理由は、王仁が百済から渡って来て、日本に漢字を伝え・

普及させるために活躍して、史上初めて博士と称えられたこと、

そして故郷に帰らず日本に定着したこと等を

自分の目で確かめブログ記事にするためであった。

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        王仁の墓の入り口 寺院ではなく管理人もいなかった

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        玄関口を入ると正面に墓らしき小さな森が見えた

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             博士王仁之墓   大阪府史蹟

 
日本語において漢字は重要な要素である。会話をするにも漢字用語が使われ、 

文章を書くには漢字がないと文章にならない。小学生の高学年以上になると

漢字を覚えないと作文も作れないし、まして、

論文や小説、公文書等は、漢字抜きにしては全く成り立たないと言えるだろう。

これほど重要な漢字はいつ頃、どのようにして日本に伝わって来たのだろうか?

古代中国・殷時代(前1600~前1027)に漢字の原型である

甲骨文字(象形文字)が創られた。

次の西周時代(前1027~前770)時代には、現在使われている漢字の

基本的な大系が確立していた。

日本最古の歴史書である「古事記」、「日本書紀」(記紀)に、

王仁(ワニ)は応仁天皇の招聘により、儒教の経典「論語」と漢字の教本「千字文」を

携えて百済から渡来して来たと記されている。

王仁の渡来以前にも、中国から直接、或いは朝鮮半島から間接的に日本(倭)に

部分的に漢字は伝わっていたようである。しかし、本格的に漢字を習い

普及するようになったのは、王仁が貴族・官僚たちに教えるようになってからである。

貴族、官僚たちが漢字を学ぶようになり学問、文化が飛躍的に発展する契機となった。

そのことは『古事記』、『日本書紀』、『続日本記』、『万葉集』等の古代の代表的な

書物はすべて漢字で書かれていることからも容易に理解できる。

飛鳥文化、白鳳・天平文化を経て、漢字が広範囲に普及すると平易な文字、

独自の日本語の必要性がたかまり平安時代の初期になって

漢字を利用したカタ仮名、ひら仮名の日本語文字が創られるようになった。

平易な仮名文字が一般的に利用されるようになると詩、歌など

日本独自の文学、芸術、文化の花が開いた。

そのため、漢字を普及させた王仁は貴族や官僚をはじめ支配階層から

「博士」、「王仁博士」と呼ばれ、次第に「学問の始祖」として尊敬されるようになった。

   王仁像   王仁博士1
            後世に描かれた王仁の肖像画


筆者は小中学生時代、日本に漢字の教本『千字文』もって朝鮮から渡ってきた

「王仁博士」について習ったことを覚えている。最近、渡来人について

勉強する機会にめぐまれ、 改めて王仁についても学ぶことになった。

この記事は、これまで「王仁博士」について筆者が学んだ

未熟な知識と拙文を省みず記したものでる。

                      つづく
2014.12.06 王仁博士2
       王仁の渡来
  
  

   1)王仁は、いつ日本に渡来してきたか

4世紀~5世紀頃、朝鮮半島は高句麗・新羅。百済の3国が競合していた。百済はこの時期

経済、軍事、文化的に全盛期を迎え、高句麗を攻撃するともに積極的な外交活動も展開した。

中国の東晋と交渉すると共に、倭(日本)とは密接な関係にあった。多数の百済人が

九州・飛鳥地方に進出し、倭の国家建設に貢献するとともに両国の親密な関係を保っていた。

このような時期に、王仁は日本に渡来してきたと思われる。

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        百済全盛期の勢力範囲     『日韓歴史共通教材』より引用

王仁の渡来を『古事記』では、近肖古王(346~375)の時期としているが、

『日本書紀』では阿莘王(392~405)の時期としている。

年代的に30~40年間の差がある。『記・紀』の内容の違いは、

王仁の時代から200年以上の後に書かれたものであるから、

執筆者の聞き違いによる差ではなかろうか?

  2)王仁をなぜ、「ワニ」と呼ぶのか?

王仁を「オウジン」、或いは「オウニン」と呼ばずに、なぜ「ワニ」と呼ぶようになったか?

理由はハングル(朝鮮語・韓国語)と日本語の発音の違いから生じたものである。 

ハングルで王仁を「ワンイン」(wangin)と読み、中間の「んい」(ngn)が

連音(リエゾン)して「ワンニン」(wangnin)となる。したがって、

王仁が百済に在住の頃は「ワンニン」と呼ばれたが、

日本語に「ン」の発音がなかったため、日本(倭)に渡ってきてから

王仁は「ワニ」と呼ばれるようになったと思われる。

日本語にも、因縁を「インエン」と読まず「インネン」と読み、

観音を「カンオン」と読まず「かんのん」と読む等の連音する言葉がある。
 
  3)王仁渡来の由来

王仁が百済から渡日するようになったのは、朝廷で活躍していた百済の学者、

阿直岐(あちき)の推薦があったからである。阿直岐は、近肖古王(百済王13代)の指示で、

雄馬と雌馬の二匹を日本王に献上して、馬の飼育を担当した。阿直岐は馬の出産、

乗馬の技術、馬具の製造技術等を教えていたが、彼が経書にも精通していることを知った

応神天皇は、彼を太子兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師とした。

阿直岐の学識と指導力に驚嘆した朝廷の人たちは彼を深く尊敬した。

とくに応神天皇の阿直岐に対する信任はあつかった。

『日本書紀』の記述によれば、阿直岐が任務を終えて祖国に帰るにあたって

応神天皇が「百済には、あなたより優秀な博士がいるのか?」の問いに

阿直岐は「百済には私よりはるかに学徳が高い人が多数います、…その人材の中でも

一番の学者は王仁です」と答えた。応神天皇は大変喜び、臣下の荒田別(あらたわけ)と

巫別(かむなきわけ)を使臣として百済に送り、王仁を丁重に日本に迎えた。

百済から渡来した王仁は、阿直岐を引きつぎ太子の師となった。また、

天皇の要請によって君臣、官僚たちに漢字や経典を教えた。それまでの永い間、

ごく一部の人のみの漢字の読み書きであったが、王仁がヤマト政権内支配層の

君臣、官僚たちに教えるようになって、漢字文字が次第に広範囲に普及していったと思われる。

そして多くの人々が漢字の読み書きができるようになると

経典などの学ぶ学問も急速に発展していったのではなかろうか。つづく

   s-王仁の故郷1     
     韓国全羅霊山郡は王仁生誕の地として「王仁記念公園」が造られた

   s-月出山
        月出山  「王仁記念公園」から眺める   国立公園













2014.12.05 王仁博士3
      王仁と千字文
   
s-桜王仁
    王仁塚のさくら   八ヶ岳を眺望   長野県 韮崎市

 1)王仁は伝説上の人物?    

「王仁は伝説上の人物で歴史上実在しなかった」という主張がある。

その理由として、『古事記』、『日本書記』に記された次の記事を挙げる。

『古事記』に「百済にもし賢人がおられたら捧げよとの命令を受けて、

百済が捧げた人の名が和邇吉師(王仁)といった。

『論語10巻』『千字文1巻』合わせて11巻を献上した。」

『日本書紀』にも同様の「論語」と「千字文」を持参した記事がある。 
 
これら『記・紀』記事の王仁が献上した『論語10巻』と『千字文』は

史実と矛盾するというのである。

『論語』は四書五経の一つで、孔子の没後、弟子たちが生前の孔子との問答や

孔子から直接聞いた言葉を集めたもので、その量は多くない。

王仁が日本に持ってきた『論語10巻』は量が多すぎる。

よって、『記・紀』の記事は史実と矛盾する。 

また、『千字文』は中国の梁時代(502~549)に周興嗣(470~521)によって

編まれたものであり、王仁が日本に渡来してきたとされる(375~405年)までは、

『千字文』は成立していなかった。したがって、作られてもいない『千字文』を

王仁が持参することは出来ない。明らかに『記‣紀』の内容は史実と矛盾する。

そして、漢字は王仁が渡来する以前から日本(倭)に伝わり普及していた。

このような理由により、王仁は歴史上「実在しなかった」、「伝説上の人物」と

見るべきだと主張するのである。

これらの主張は、『紀‣紀』に記された記事の内容を短絡的に解釈したところから

生じたものと思われる。当時の日本の社会、文化、外交関係とくに、

朝鮮半島の三国との交流や大和政権内部の状況など総合的に判断すべきではなかろうか?

   s-王仁神社神崎
      王仁神社   吉野ケ里遺跡北1キロ    佐賀県神埼市

 2)王仁は歴史上の実在人物

 
王仁が渡来した時期以降、日本に『論語』をはじめ、多くの儒教の経書が

入ってきたのは事実である。王仁のあと、百済から五経博士(易経,詩経、礼経,書経、春秋)の

段揚爾が渡来したことが記録に記されている。この他に易博士の王道良、

暦博士の王保身等が渡来したことが記録されている。

これらの事実を総合して推測すると、王仁が持ってきた『論語』10巻というのは

『論語』とその解説書、その他の経書、典籍が含まれていたと考えられる。

7世紀の前半、誰もがご存じのように大和政権の中枢部で活躍した聖徳太子は、

百済の恵慈と高句麗の恵総を師として経典や仏教を学んだのである。

『論語10巻』そのものだけ考えれば史実と矛盾するが、他の典籍も含めて『論語10巻』と

解釈すればなんの矛盾もないのである。

つぎに、この時期には成立していなかった『千字文』を、王仁が日本に持ち込んだ問題である。

本来、『千字文』は漢文を学ぶための教本(辞書・テキスト・入門書)である。

そのため古代中国に漢字が生まれた後、それを学ぶ教本は前漢時代(BC141~AD8

)には作られていたことは文献資料からも明らかになっている。

3~4世紀頃、わが国の三国(高句麗、百済、新羅)において、漢字が広く普及していた

事実から、『千字文』のように緻密ではないが漢字を学ぶための教本は

作られていたことは充分に考えられる。

周興嗣が作成した『千字文』は、確かに、王仁が日本に渡来するときには成立してなかった。

しかし、王仁が自分の国・百済に在住していた頃、自身も学び、広く普及していた

教本を持ってきたと考えられる。なぜなら、漢字を習得するためには、教えたり、

習ったりする教材がなくてはならない。この時期、朝鮮半島三国の漢字や漢文の

修得・普及が日本より進んでいたことを考慮するならば、このように考えるのが自然である。

『記・紀』が成った8世紀には、漢字を学ぶ教本として周興嗣の『千字文』が広く普及し、

一般化していたと思われる。そのため王仁が持ってきた教本を一般化している『千字文』として

『紀・紀』に記したと考えれば史実と何ら矛盾するものでない。

 周興嗣の『千字文』以後、宋時代に『続千字文』、明時代に『集千字文』が編まれた。

朝鮮朝(李朝)時代に『韓石峰千字文』が作られた。奈良東大寺の古物蔵帳に

記載されている『真草千字文』(751)もある。
 
言語学者の大島正二氏は

四世紀末ないし五世紀の初めころには、阿直妓や王仁のような百済からの学者によって、

すでに朝鮮半島に伝わっていた漢籍が日本にもたらされ、一部の上層階級の人によって、

本格的な漢字・漢文の学習が行われはじめたと推測しても大きな誤りはないであろう
。」

(『漢字伝来』 岩波新書)と述べている。

当時、百済で使われていた『千字文』を持って渡来し、日本に漢字・学問を広めた

王仁は歴史上の実在人物であり、

それを否定することは出来ないと思う。
                    つづく
    
    八坂神社大仁
        大仁八坂神社境内に王仁神社     大阪市北区大淀南
2014.12.05 王仁博士4
         上野公園の「博士王仁碑」

   s-上野の森
           上野の森      不忍の池から眺める              

東京にある上野公園は全国的によく知られた公園の一つである。

公園内にある西郷隆盛の銅像は有名であるため知らない人は少ない。

しかし、その銅像の後方、約50ⅿの所に「博士王仁碑」と「副碑」の

二つの石碑がひっそりと建っている。この石碑についての説明や由来を書いた

看板もないため、誰にも知られない放置状態にある。

  s-王仁碑4
      上野公園の「博士王仁碑」  西郷隆盛像の後方50M

上野公園の「博士王仁碑」はいつ、なぜ、建てられたのか調べてみた。

この「博士王仁碑」が建てられたのは、1940年(昭和15年)太平洋戦争直前のことである。

当時、中国侵略戦争(日中戦争)の遂行中で、植民地朝鮮を兵站基地として、

朝鮮人を戦争遂行に動員する必要があった。そのため、

日本政府は「内鮮一体」(内地「日本本土」と朝鮮を差別待遇せず一体化する政策)の

スローガンをかかげ、一切の朝鮮文化を否定し、朝鮮人を「皇民化」しょうとした。

そのため、1939年に「創氏改名」(日本風に苗字を替え、名前を改める)令がだされ、

朝鮮人の名前まで抹殺して「日本化」を強制した。

それでは、なぜ古代の人物である王仁の碑を建てる必要があったのか? それは、

古代から多くの渡来人が「帰化」し日本に貢献していたことは、

「内戦一体」政策の正当性が歴史的に証明されることになり、

王仁はその象徴的な、、模範的な「帰化人」像として顕彰する必要があった。

このような日本為政者の意図のもとに建立されたのが上野公園の「博士王仁碑」」である。

        王仁碑1
                博士王仁碑


これらの碑の建立に参加した発起人・協賛者の名が刻まれている。

林銑十郎(元首相)、 近衛文麿(元首相)、 鈴木貫太郎(後の首相)、

穂積重遠(法学者)、 宇野哲人(漢学者)、 徳富蘇峰(文学者)、

井上哲次郎(文学博士)、中山久四郎(文学博士)  ,四宮顕彰(皇明会長)、

水野錬太郎(朝鮮総督府官僚) 、田尻容基(在日朝鮮人親日団体・東洋協和会長)

首相経験者、政治家、軍人、総督府官僚、文学者、学者たち、有名人が名を連ねている。

まさに、官民一体となって推進されたことがうかがえる。

王仁が「論語」と「千字文」を持って百済から渡来して、日本に漢字を普及し、

学問、文化発展に寄与したことは歴史的事実である。

上野公園の「博士王仁碑」に刻まれている碑文の内容は、多少の不備があるが、

大筋で王仁の業績を賛え、正しく顕彰していると思われる。

戦前、政治的意図をもって建てられた碑であるが、現実に存在しているのである。

過去の教訓を踏まえて、上野公園の「博士王仁碑」が建立された由来を説明する

案内版を立て、公園を訪れる人の目に止まるようにすべきではなかろうか?

過去を隠ぺいするだけでは前に進まない。

来年(2015年)は第2次世界次戦衆終結・植民地朝鮮解放から70周年である。

政治のしがらみを離れて、民間人の日朝・日韓の文化交流は

ますます活発に行われることを願っている。

   s-上野の桜
             桜満開シーズンの上野公園
2014.12.04 王仁博士5
         御幸森天神宮境内の歌碑


   s-御幸森天神宮3
        仁徳天皇を祀る御幸森天神宮  大阪市生野区桃谷

大阪の鶴橋は朝鮮半島出身者の最大集住地であり、コリアンタウンとして広く知られている。

その鶴橋の隣にある桃谷には、仁徳天皇(5世紀)を祭神として祀る御幸森天神宮がある。

応神天皇の招きにより百済からの渡来した王仁博士は

仁徳天皇の即位を祝い、春の到来になぞらえて

「難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花」

(古今和歌集)の詩を詠んだと伝えられている。
 
2009年10月、御幸森天神宮境内にこの「難波津の歌」の石碑が建立された。

       2見幸森
         <難波津の歌>   歌碑

石碑には吏読(古代ハングル文字)で表記した原本とハングルの翻訳本、

日本語の解釈が刻み込まれている。吏読の表記で書かれた

この詩は日本伝統の詩歌、和歌の始祖と認められている。

   碑文王仁
        ハングル翻訳     日本語解釈      吏読表記

この石碑建立のために、「王仁博士歌碑建立委員会」を結成して、

「猪飼野探訪会」代表のカン・シンヨン(姜信英)会長、

大阪市文化財愛護委員の足代健二郎事務局長、

上田正昭(京都大学名誉教授)と山田昇(生野区長)の特別顧問をはじめ、

多くの在日同胞と日本人が協力して、募金活動を行い完成したものであった。

朝鮮半島出身者が集まっている大阪・鶴橋の

在日コリアンと日本人が協力して建立した意義は大きい。

古代5世紀から21世紀の今日に至るまで、

地域の日朝文化交流の歴史を象徴しているようである。、

これからの日本と韓国・朝鮮との友好・親善の輪が大きく広がることを願ってやまない。

    s-鶴橋
              大阪 鶴橋のコリアンタウン

2014.12.03 王仁博士6
      王仁博士の子孫 

応神天皇の招きで渡来した王仁は、皇子・兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)をはじめ

朝廷の支配階級に漢字・学問を教え、彼らから「博士」・「学問の祖」と尊崇された。

王仁は任務を終えた後も故郷の百済に帰らず、河内の羽曳野市古市付近に定着し、

生涯をこの地で終えた。なぜ、故国に帰らずに日本に定着したのか定かでない。

子孫である西文氏(かわちのふみうじ)は代を継いで文首(ふみのおびと)として

朝廷の文書・記録係を務めた。その後、一族は繁栄して氏寺・西琳寺を建立した。

   西琳寺2
       王仁の子孫建立   西琳寺   大阪羽曳野市古市


寺伝よれば、西文氏の文首・阿志高(あしこ)と支弥高(きみこ)の父子によって

西琳寺は559年に創建された。河内地方における最古の名刹で、別称を古市寺と呼ばれた。

発掘調査によって寺域は、東西109m、南北218mの七堂伽藍をそなえた大寺院であった。

また、五重の塔の礎石が2、6トンで、法隆寺の礎石よりはるかに大きく、

  1礎石
        西琳寺 五重塔礎石 水溜り部分に柱が建つ


西琳寺のな威容は西文氏一族の繁栄ぶりをうかがい知れる。

西琳寺は平安時代に焼けるが、鎌倉時代に再建された。

しかし、明治時代の廃仏毀釈によって取り壊され、現在の西琳寺に昔の面影はない。

また、西文氏一族から別れた高志(こし)氏は、高石市高師浜に高石神社を建てた。

    s-高石神社
             高石神社   大阪 高石市高浜

「和泉名所図会」(江戸時代)によれば、「高志氏の祖、王仁をまつる」と記されている。

この付近で繁栄した王仁の子孫が地名をもじって姓とし、当て字で高志としたものと思われる。

奈良時代の名僧・行基は高志氏の出である。奈良県生駒郡有里の竹林寺にある

行基の墓から出土した墓誌に

俗姓は高志氏。その亡父は才智にして、智法君の長子なり。本百済王子、王仁の後より出ず」

と刻銘されていることから、行基が百済から渡来した

王仁博士の子孫であることが明らかになった。(行基の詳細は筆者の記事「奈良大仏と渡来人」参照)

          行基像近鉄駅
             行基像  近鉄奈良駅前
 
 
朝鮮半島から渡来した王仁博士(5世紀末~6世紀初)から、

その子孫の行基までの約200年間、彼ら渡来人が古代日本文化に

少なからず影響を及ぼししたと言えるだろう。