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 今回はあまり知られていない、少し変わった所を紹介したい。
三つの神社がある金比羅山、と云っても四国香川県にある琴平神社、
金刀比羅宮のことではない。
 玉川上水駅南口から上水を上流に向かって行くと千手橋、宮の橋
三つ目に金比羅橋がある。駅から徒歩20分の距離、
 この橋から上流を眺めると、左岸にこんもりした森が見える、金比羅山である。
わずか15Mの高さであるが立川市内にある唯一の山らしい。

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            左岸金比羅山 右岸竹林

    登山口は一つ、住宅街から入り口の鳥居が見える。

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              金比羅山登山口

 この鳥居をくぐり行くと「金毘羅山の由来」の看板があり、その右に秋葉神社の
標識と小さな祠が建っている。

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             金比羅山の由来の看板と秋葉神社の標識

 そこから細い階段を上ると右に金比羅神社の祠、左に富士浅間神社の祠が建っている。

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             右金比羅神社と左富士浅間神社

 したがって、この金比羅山に金毘羅神社、富士浅間神社、秋葉神社の
三つの神社があるが、小さな祠が三つ建ててあるだけだ。
あまり世間に知られないのも当然であろう。
 しかし、なぜこの小さな山に三つの神社があるのか、誰しも不思議に思うので
看板に書いてある由来を読んでみる。
   
              金比羅山の由来
    立川市唯一のこの山がいつ頃築かれたのか、はっきりしていませんが
   安政年間(1854-1860)に砂川村の名主砂川家が願主となり、頂上に
   富士浅間神社、中段に金比羅神社、下段に秋葉神社を勧請したと伝えら
   れています。この金比羅山は江戸時代に流行した富士塚ではないかとい
   われています。秋葉神社は遠州(静岡県)秋葉さんにある火難・水難よけの
   神として古くから知られています。近世になって徳川家康の命によりご
   神体(三尺坊権現)が小田原に移され、その土地の富士浅間の神として
   合祀され富士信仰との融合がはかられたわけです。秋葉神社と金毘羅神社と
   が並べて祀られる例は各地に見られ富士、金比羅、秋葉の三神は互いに
   関係を持ちながらこの山に置かれたといえましょう。特に金毘羅様は玉川
   上水で舟運が行われ(近くに巴河岸跡)た頃、舟神様として祀られそれから
   この山は金比羅山と呼ばれるようになりました。
 

 玉川上水を散策して金比羅橋に差し掛かることがあれば、立ち寄って見てはと、
紹介しておきます。 百聞は一見に如かず。
                玉川上水の由来
   命の水、
  玉川上水は多摩川の水を江戸住民に飲料水として
  給水するために掘られた人工の川・上水道である。
  まさに、江戸庶民の命の水であった。

  玉川上水は、昨今使われている重機械も、トラックのような運搬手段もなかった時代、
  羽村から四谷大木戸までの43KM、マラソンとほぼ同じ距離を、
  稚拙な道具で開削工事・露天掘りで掘り進み、給水まで約1年2か月間で造られた。
       
       
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              玉川上水の流れ 駅付近 

  なぜ、誰によって玉川上水が掘られたか?
  
  なぜ、多摩川でなく玉川上水の名が付いたのか?
 
 徳川幕府が開かれると、江戸城を中心に町は拡大し、
 江戸市中は地方各藩の武士をはじめ、全国から大工、土木職人、商人、浪人等の
 あらゆる階層の人々で膨れ上がった。
      
 人口の爆発的な増加は江戸市中に深刻な水問題・飲料水不足をもたらした。
 下町では水をめぐるトラブルが頻繁に起き、汚水を飲み病気となる町民が多発していた。
水にまつわる悲劇もあとをを絶たなかった。
     
 幕府は水不足を解消するために多摩川から上水を引く計画を立て、資金として6000両を投入
 老中で川越藩主の松平信綱を工事総奉行に、伊奈忠治を水道奉行に任命し、
 庄右衛門・清右衛門兄弟に工事を請け負わせ施工を開始した。
 (庄右衛門・清右衛門の兄弟は多摩川沿いの農家出身であるらしいが、生年や、
  土木工事の経験や工法・技術力について、農民出身の兄弟がどうして
  大事業を請け負うことになったか等不明なことが多い)

 1653年4月から開削工事を開始したが、工事は困難を極め、
 2度の失敗があった。(1回目は日野取水口、2回目は福生取水口)
 また、工事費がかさみ高井戸まで掘ったところで、幕府からの資金も底をつき、
 工事は進退窮まる状態に陥った。
 庄右衛門・清右衛門兄弟は家を売って費用に充て工事を続行した。
 こうして、半年後の11月、多摩川の水が羽村の取入口から下流の四谷大木戸まで
 標高差100M、全長43KMの上水道が開通した。

 上水道が開通すると、翌年4月から江戸市中の広範囲な地域に命の水・飲料水が供給された。
 命の水・飲料水の給水に江戸庶民はどんなに喜んだだろう。
 まさに、上水道の開通は歴史的事業・水道工事の大成功であった
 その後、上水は途中、野火止用水をはじめ多くの分水路を開削して農地の開発に利用された。
 武蔵野の広範囲の台地が潤い、農産物の生産高も上がった
 庄右衛門・清右衛門兄弟はこの功績により玉川姓を許され、また上水の管理責任を任され世襲した。
 こうして上水に玉川兄弟の姓が冠せられ、玉川上水の名が生まれた。
     
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              玉川兄弟の像  羽村堰

 兄弟の墓所は台東区の聖徳寺にあり、羽村の取水口に玉川兄弟の銅像が建てられている。
 参考 杉本苑子著、小説『玉川兄弟上・下』(講談社)がある。